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白薔薇侯爵夫人の白すぎる結婚生活

 私は真っ白な部屋の真ん中で腕を組みながらため息をついた。


「ここも白、あそこも白……これじゃまるで、白い地獄に迷い込んだみたいじゃないの」


 新婚初日。夫となった白薔薇侯爵ヴィクターの領地にやってきた私は、ただでさえ緊張していたというのに、この真っ白な館に気力を奪われそうだった。壁も、床も、家具も、何から何まで白一色。せめて一輪でも赤い花があれば、少しは心も休まるのに……。


 もっとも、この結婚自体、私が望んだものではない。昔、私たちの母親同士が仲が良くて、幼い頃に婚約が決められていたのに加え、両家の政治的な事情が絡んでいたせいで、流されるように結婚することになったのだ。ヴィクターとはずっと疎遠だったし、再会したのは結婚が決まった後。彼のことなんてほとんど知らない。

 ただ、『白薔薇侯爵』と呼ばれる冷たい人物だという噂だけは耳にしていた――そして、ヴィクターは全く、噂通りの人物だった。


 結婚式の間中、彼は微動だにせず、感情の欠片も見せなかった。しかもこの「白」への拘りよう……。そんな彼と、果たしてどうやってやっていけばいいのか……。


 そんなことを考えているうちに、扉の外から控えめにノックの音がした。


「エレノア様、朝食のご準備が整いました」


 使用人の声で、私は現実に引き戻された。結婚初日の朝食、彼との初めての共同生活が本格的に始まる。ああ、どんな顔をして食卓に座ればいいのかしら。



 * * *



 白薔薇侯爵家の食堂に初めて足を踏み入れた私は、目を丸くしてその場に立ち尽してしまった。

 壁、床、天井、テーブルクロス……どこを見ても白、白、白。例外があるとすれば、窓から差し込む淡い朝の光くらいのものだ。そして、それを完璧に仕上げているのが、純白のスーツに身を包んだ白薔薇侯爵ヴィクター、もとい私の旦那様だった。


 私はちらりと正面に座るヴィクターを見る。大理石の彫刻のように整った顔立ち、真っ直ぐに伸びた背筋、そして白い装いが際立たせる濡れた黒鳥の羽のようなつややかな黒髪と青灰色の瞳。まるで絵画から抜け出した美男子そのものだった。こんな素敵な旦那様と結婚できるなんて、これから『薔薇色の結婚生活』が始まるに違いない。……と、何も知らない頃の私ならそう思うだろう。


「エレノア様、こちらへ」


 使用人が私の椅子を引いて着席を促す。もちろん椅子も真っ白だ。そして、目の前に並んだ朝食を見て、私はは絶句した。白いパン、白いスープ、白いチーズ、オムレツまで白……。右も左も白、白、白。白すぎて全く食欲が湧かない。


「ねえ、この家って……もしかして、調味料は塩だけ?」


 私が顔を引きつらせながら訪ねると、向かいに座るヴィクターは涼しい顔で、しかしきっぱりと答えた。


「砂糖は白いから許容している」


 冗談のつもりだったのに、まさか本気で返されるとは。私は心の中で叫ぶ。やっぱりこの家、おかしい!


「……少しは、彩りを足すっていう発想はないの?」

「彩り?」


 ヴィクターは端正に整えられた眉をひそめる。


「必要性がないだろう。白は純潔と調和の象徴だ。白以外は必要ない」

「じゃあ、このパンに苺のジャムを塗るのは?」

「苺のジャムだと? 論外だ。赤は攻撃性を感じさせる。穏やかな朝に相応しくない」

「それじゃあ、オレンジマーマレードは?」

「そんなものを見たら目が痛くなる」

「じゃあ……ブルーベリーは?」

「青や紫は毒を思わせる」


 今、この場で何を言っても無駄だ。そう悟った私は私は白いスープをひとすすりし、心を落ち着けようとする。そんな私を他所にヴィクターは平然と朝食を続けている。しかし、私の食事が進んでいないのに気が付いて、首をかしげた。


「食が進まないのか?」

「ええ、まあ……いえ、大丈夫よ。ただちょっと、白すぎて目がチカチカしてるだけ」

「そうか。そのうち慣れるだろう」

「そうかもね……」


 愛しの旦那様の異常なまでの白へのこだわりを目の当たりにして、私は白パンをつまんでため息をついた。


 ふと、昔のヴィクターを思い出す。あの頃はこんなに白に執着していなかったはずだ。私が花畑で摘んだ色とりどりの花を「綺麗だ」と言いながら受け取った少年時代の彼。しかし、若くして彼のお母様が亡くなり、それから彼は変わってしまった……らしい。


(どうしてこんなに色彩を嫌うようになったの?)


 白い朝食を楽しむ旦那様に心の中で問いかけるが、美術品のように美しく冷たいヴィクターの横顔は、当然のごとく答えてくれなかった。



 * * *



 結婚して数週間が過ぎても、私は「白」に囲まれた生活に馴染めなかった。もともと私の両親は芸術を愛していて、私自身も色とりどりの美術品や装飾品を見るのが大好きなのだ。

 けれど、今は寝室のベッド、食卓の皿、日々の衣服――全てが白一色。持参した色とりどりのドレスや絵画は、初日に全て「保管庫」に押し込められてしまった。


「あまりに白すぎるわ!」


 流石に我慢の限界を迎えた私は、ヴィクターの執務室に乗り込んだ。真っ白いデスクに腰かけて書類に目を通していたヴィクターは、怪訝そうな顔で私を見る。


「何か問題でも?」

「問題だらけよ! 色がない! 生活に彩りがない! もう白には飽きたの!!」


 息を切らしながら訴えても、ヴィクターはわずかに眉をひそめるだけだ。


「エレノア。色彩は混乱を生む。白は純粋で、平穏で、完璧だ。それがこの館の誇りであり、私の信念だ」


 その言葉に絶句する。彼にとって白はただの好みではなく、心に深く根付いた「呪い」のようなものなのだ。その呪いを解かない限り、きっとこの白い地獄は終わらない。


「……ヴィクター。少しだけでもいいの。この館に少しだけ彩りを加えてみない?」

「なぜだ?」

「なぜって、色がないと生活が枯れてしまうわ!」


 私は手元に持ってきた小さな白い花瓶を掲げ、赤と黄色の薔薇を挿して見せた。


「ほら見て。赤と黄色のコントラストが白い花瓶に映えて、とっても素敵じゃない?」


 だが、その花瓶を見た瞬間、ヴィクターの表情が急に険しくなる。その表情には冷たさを超えた、激しい拒絶がそこにあった。


「私の前から、それをよけろ」

「え?」

「その色は、ここに必要ない」


 ヴィクターの迫力に私は思わず後ずさる。けれど、私は気が付いてしまった。彼の声がわずかに震えていることに――。


(ヴィクター。貴方はもしかして、色彩を恐れているの?)



 * * *



 結婚してから数ヶ月が経ったけれど、私はいまだにヴィクターの心に触れることができていない。彼の領地の問題や、異様なまでの「白」へのこだわり。それらの背後に、何か深い理由があることは感じ取っている。でも、彼は決して話そうとしない。


(どこかに、彼の本心を知るヒントがあるはず)


 私はそう考え、侯爵家の広い屋敷を散策していた。何気なく入ったのは、屋敷の奥にある倉庫のような部屋だった。どうやら使用人たちも普段は立ち入らないらしく、古い家具や箱が山積みになり、埃が舞っている。


「うっ……埃っぽい……」


 軽く咳払いをしながら、無造作に積まれた箱のひとつを開けてみる。すると、中には色褪せた白いドレスが入っていた。驚くほど繊細な刺繍が施されていて、かつてはさぞ見事なドレスだったのだろうと想像できる。でも、どうしてこんなに大事そうなものが、こんな場所に放置されているのだろう?


 私は慎重にドレスを取り出してみた。そしてその下に、一冊の日記が隠れているのを見つける。


「ロザリー……」


 表紙に記されたその名前を見た瞬間、私はハッとした。ヴィクターのお母様の名前だ。私はその日記を見るかしばらく迷った。けれど、ヴィクターの過去を知りたいという気持ちに負け、ついに日記を開くことにした。


 日記の一ページ目には美しい庭園のスケッチが広がっていた。この城に、こんな色彩豊かな庭があったなんて……!


『愛する息子のために、今日も庭の薔薇を整えました。ヴィクターが「白が一番好き」と言ってくれるたびに、私もこの色がますます好きになるのです』


 最初の数ページは、愛する息子ヴィクターに対する愛情が溢れる言葉で満ちていた。読んでいるだけで、どれほど深く彼を愛していたのかが伝わってくる。だけど、ページをめくるにつれて、だんだんと筆跡は乱れ、記された内容の雰囲気も変わっていった。


『最近、夫がまた外で女性と会っていると噂を耳にしました。彼の派手な趣味に付き合うのも、もう限界です。けれどヴィクターには、心配をかけたくない』


 その文章に、私は息を飲んだ。そしてさらに読み進めると、夫の愛人たちのこと、そして愛人たちから自分への嫌がらせが増えてきたことが詳細に記されていた。


『夫の愛人は私がよほど邪魔なようです。それなのに夫は、私を守ろうとしてくれない。ヴィクターにだけは危険が及ばないようにしなければ……』


 そして最後のページに書かれていたのは、震えるような筆跡の一文だった。


『もし、私がいなくなっても、この家に残る庭園が、美しい白薔薇が、ヴィクターの未来を照らしますように』


 私は日記を閉じ、息を詰めたまましばらく動けなかった。お母様は……ご自分の命が危険にさらされていることを悟っていたのだ。そして……その予感は当たってしまい、若くして命を落としたのだろう。


 日記と共にあった白いドレスは、きっとロザリー様が身に纏っていたものなのだ。ヴィクターが「白」に執着する理由が、やっと理解できた気がした。彼は、亡くなった母親が愛した「白」を守ろうとしている。けれど、それが彼自身を縛りつけている。


 その夜、私は日記を膝の上に置きながら、ずっと考えていた。ヴィクターにこのことを話すべきか。それとも、知らないふりをするべきか。彼の心をこれ以上傷つけたくない。でも、何もせずに放っておくこともできない。


「ヴィクター……あなたが背負ってきたもの、少しだけでも軽くできるといいんだけど……」


 私は日記をそっと抱きしめながら、私なりに彼に向き合おうと心に決めた。



 * * *



 倉庫で日記を見つけてから、私はヴィクターの心に触れる方法を考えた。しかしすぐにはいい案が思い浮かばなかった。ひとまず日記に記されていた庭がいまどうなっているかを確かめようと、使用人に場所を訊ねてそこへ足を運んだ。


 屋敷の片隅にひっそり取り残されていたかつての庭園は、私の想像以上に荒れ果てていた。かつて色とりどりの花々が咲き誇ったであろうこの場所には、枯れた茎と雑草が無造作に広がっているだけだった。息を飲むほどの荒廃ぶりに、私は思わず立ち尽くしてしまう。


(この庭をもう一度、色彩の満ちた場所にしたい)


 私は、この庭に彩りを取り戻すことに決めた。ヴィクターに許可を得る必要はない。彼に相談したらきっと、すぐに止められてしまうだろうから。彼の目が届かないうちに庭を復活させるて、彼に色彩の美しさを思い出して欲しい――そんな思いが、私の胸に確かに灯った。



 * * *



 それから数週間、私は庭での作業を続けた。最初は一人で、数人の使用人たち協力を申し出てくれてからはその手を借りながら。日の出前や、夜の帳が降りた頃に少しずつ、少しずつ。

 いつしか、荒れた庭園には私は赤や黄色、紫、ピンク……そして、白。様々な色の花々が咲き乱れるようになった。真っ白な屋敷の中で少しずつ広がっていく色彩が、私の心も明るくしてくれるようだった。


「ロザリー様……あなたとヴィクターが愛した庭に、ここは近づいているでしょうか?」


 庭の作業がひと段落したある日、私は庭園の中心に咲き誇る白薔薇にそっと囁きかけた。色とりどりの花々に囲まれ、風に揺れる白薔薇は、まるで私の努力を静かに受け入れてくれているようだった。



 * * *



 ある夕暮れ、作業を終えて立ち上がった私の背後で、誰かの気配がした。

 振り返ると、そこにはヴィクターが立っていた。揺れる彼の瞳からは驚きと困惑、そして……怒りの感情が伺えた。


「これは……何をしている?」


 その声の硬さに、私は思わず息をのむ。けれど、意を決してこの庭に色彩を取り戻そうとした理由を伝えた。


「この庭を、もう一度美しい場所に戻したかったの。ロザリー様が愛した庭を」


 けれど、ヴィクターの表情は険しくなるばかりだった。


「母の日記を読んだのか?」

「ごめんなさい……貴方が変わった理由が知りたくて、読んでしまったわ」


 彼の目が鋭く細められる。その奥にある感情――それが怒りだけでないことに気づいた私は、話しを続けた。


「でも、それで分かったの。あなたがどうして「白」を重んじるようになったのか……」


 その一言で、ヴィクターの顔がわずかに歪んだ。まるで、長い間触れられたくなかった記憶を引きずり出されたかのように。


「……君は何も、分かっていない」


 ヴィクターの声はかすかに震えていた。普段の凛とした彼とはまるで別人のようなその姿に、彼が抱える心の傷の深さを想う。しばらく私を見つめていた彼は、途切れがちな声で静かに続けた。


「母が殺された時、私はその場にいた。父の愛人の一人が……母を襲った。白いドレスを着た母が……真っ赤に染まっていくのを見たんだ……」


 途切れ途切れに語るヴィクターの姿を見て、胸が締め付けられるように感じた。まさか、ロザリー様が亡くなる姿をその目で見ていたなんて。


「それ以来、私は……色を見るたびに、あの光景が蘇る。父の愛人たちが着ていた派手なドレスの色も、母を染めた血の赤も……全て汚らわしいものとしか感じない」


 彼の告白を聞いて、私は動揺した。思っていたよりずっと凄惨な体験をしていたヴィクター。私は、そんな彼の記憶の蓋をいたずらに開いてしまったのだろうか。

 そんな私が彼に触れていいのか迷ったけれど、苦しそうな彼をそのままに出来ず、そっとその手を取る。


「中途半端に事情を知ったつもりで、こんなことをしてしまってごめんなさい……。でも、かつてのこの庭のスケッチを見て、あなたにもう一度、色彩の美しさを思い出してほしかったの」


 ヴィクターは黙ったまま私を見つめている。私は続けた。


「白は綺麗。でも、それだけに囚われてなくてもいいんじゃないかしら。昔、私が差し出した花束を美しいと言ってくれた貴方の顔、とっても輝いていた」


 ヴィクターははっと目を開き、何も言わずにゆっくりと庭を見渡す。その横顔は相変わらず彫刻のように無表情に見えたけど……その瞳には少しだけ、穏やかな光が宿っているように見えた。

 しばらく庭を眺めた後、ヴィクターは急に庭に背を向けて言った。


「……やはり私は、白が好きだ。けれどこの庭は……君の好きにするといい。その方が白薔薇も喜ぶだろうから」

「ありがとう、ヴィクター。……もし、今よりこの庭がずっと美しくなったら。その時は一緒にこの庭を訪れてくれる?」


 ヴィクターは私に背を向けたまま小さく頷いた、ように見えた。



 * * *



 その日を境に、屋敷には少しずつ変化が生まれた。ある日、食卓に一輪の花が飾られているのを見つけた時、私は思わず目を疑った。それも、白以外の! 相変らず食事は白まみれ、屋敷は白尽くしだけど……。

 それに、ヴィクターは意外にもこの庭によく顔を出してくれる。ついこの間も、オレンジ色のデイジーが咲いたと報告したら、珍しく笑顔を見せてくれた。


 この庭で過ごすひと時間が、いつか薔薇色の結婚生活を運んでくれるかも?


 そんなことを思いながら、私は今日も色彩に満ちたこの庭で、ヴィクターとかけがえない時間を過ごすのだ。

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