ジャッカルの変心4
「正しいかどうかは大事だろ」
「そうかもな」
俺のほうを見ていたダクトベアが、すっと顔を背けて前を向く。
「お前と同じ考えなのに、なんで俺はライオネルと喧嘩していないのか、分かるか?」
「……俺よりも仲がいいから?」
「それもあるけど、俺があいつの考えを否定しないからだよ。……多分」
少し自信なさげにつぶやいて、ダクトベアは困ったように続けた。
「よく分かんねぇけど、ライオネルはルーナが悪魔じゃないと信じたいんだ。なら好きにさせておけばいいだろ。どうせもう会うことのない相手なんだし、なんでクシャラ村にいたのかとか、本当に悪魔なのかとか、真相を確かめることはできないんだから」
「や、でもあいつ、自分で悪魔だって……」
「言っていたな。けどそれ、悪魔の概念を知らなかった奴の言葉だぜ? 『悪魔』を本当に理解していたかどうか怪しいだろ。ま、ほぼ百パー悪魔だとは思うけど」
「……」
「何おかしなこと言ってんだよって、ライオネルにそう思う気持ちは分かる。けど、突っかかることはなかったんじゃねぇのか。神父のじいさんの受け売りだけど、『正しい』ことを他人に押し付けるのは、『正しい』ことじゃないんだぜ。俺の話、分かるか?」
「分かるぜ」
「マジかよ」
信じられないような声を出し、ダクトベアはさっと首を回して俺を見た。
おい、俺のことバカにしてんだろ。事実、ダクトベアに比べたら俺はバカだけど。理解力がまったくないってわけじゃないんだぜ。
目を合わせ、俺は苦笑した。
「聞き流せってことだろ。俺がおかしいわけじゃないなら、それでいいわ」
「……マジで分かってんじゃねぇか」
ダクトベアが目を丸くした。そんなに驚くことか?
ま、俺が理解したのは『突っかかることはなかった』って部分だけなんだけど。
そもそもルーナの話は、退屈すぎたゆえに持ちかけた雑談だった。深い意味があったわけじゃない。なんでお前そんなむきになってんのって、ちょっとからかって、軽く流して終わりにすればよかった。ダクトベアの言うとおり、突っかかることはなかった。
ライオネルのおかしな言い分を、無理に正そうとした俺も悪かったんだ。
その後、俺は改めてライオネルに謝りに行った。
カッとなって言い過ぎたし、やりすぎたなって自覚はあったから。そしたら、ライオネルもむきになっていた自覚があったみたいで、本当にごめんって謝ってきた。
「殴ってごめん。痛かっただろ」
「いいよ。俺もやり返したし。親父の拳骨のほうが痛かったし」
緊張して、不安も少しあったけど、話してみたらいつものライオネルだった。
虫も殺さないような顔をした、おとなしい奴。こいつに殴られたのかって思うと、不思議な感覚になる。普段はおとなしくても、怒ると手が出るんだな。ちょっとだけ親近感。
謝り合った俺たちは、殴るのはまずかったよなって互いに反省して、親父の拳骨マジで痛かったよなって話をした。たわいのない笑い話をして、そんで元通りの関係になった。
――このとき仲直りできて、本当によかったと思う。
* * *
旅を続け、やがて俺たちはルタ町に到着した。
クシャラ村よりずっと大きな、賑やかな町。到着してすぐ、俺はあまりの人の多さに衝撃を受けた。低い建物の間を、覚えきれないほどたくさんの人々が、あっちへこっちへと行き来している。これぞ都会という雰囲気。森に囲まれたクシャラ村とは、全然ちがう。
大通りにはいろんな店が並んでいて、キラキラした目の人であふれていた。各地から毎日のように行商人がやって来て、旅芸人が訪れることもあるらしい。
楽しいことに出会えそうな予感がして、俺はちょっとわくわくした。
けど始まってみると、ルタ村での新しい生活は思っていたほど楽しくなかったし、苦労することや、戸惑うことのほうが多かった。
たとえば、知らない人と一日に何度もすれ違うってこと。
クシャラ村の人は全部で百人もいなくて、ぱっと名前が出てこない人はいても、みんな顔見知りだから、会ったら挨拶して少し話すのが普通。ところがルタ町では、知らない人としょっちゅうすれ違うし、互いに挨拶することも、どこの誰なのか聞くこともない。
それが、最初はすごく変な感じがして、怖かった。知らない人が自分の近くを通り過ぎていくっていうのが不気味で、外を歩くのが嫌だった。
それから、薄暗がりにどんよりとした目の人がたまっているってこと。
ルタ町で暮らし始めてすぐ、死んだ魚のような、濁った目をした人には近付かないようにと親父に言われた。それは仕事で失敗したり、悪いことをしたりして、爪弾きにされている人たちらしい。大通りのキラキラしている人たちとは対照的だ。
クシャラ村の人はみんな穏やかな目をしているのに、ルタ町の人はなんで同じ目をしていないんだろう。町って変なところだ。
早くクシャラ村に戻りたいと、何度か思った。
悪魔との戦争が終わり次第、俺たちはクシャラ村に戻ることになっている。
けど、それがいつになるかはまだ分かっていない。それまでは、ルタ町で生活しないといけない。親父はルタ町の道端で、鍛冶屋を始めた。俺は親父の仕事を手伝いながら、金物修理の方法を教えてもらった。母さんとシュリガーラは、町の織物工房で働き始めた。
ルタ町での生活に、俺たちは少しずつ慣れていった。
* * *
それからほぼ三年が経った。
戦争は終わったけど、俺たちはクシャラ村に戻れなかった。
クシャラ村が、立ち入り禁止区域に指定されてしまったせいだ。
あとで知ったことだけど、あのときルーナを迎えに来ていた、暗い緑色の髪の悪魔っぽい人。
あれは俺らが思ったとおり悪魔で、しかも上級悪魔と呼ばれる、すごく強い悪魔だったらしい。しかもしかも、白の領域に上級悪魔がいきなり現れるっていうのは、普通はあり得ないことらしい。
調査のために、クシャラ村は封鎖された。
いつ封鎖が解かれ、クシャラ村に戻れるのかは、いまだに分かっていない。
村長や親父をはじめとした、村の大人たちはその決定に激怒した。
みんなでお金を出し合って、ラーテル領の領主のもとへ抗議しに行った。
でもその決定をしたのは、ラーテル侯爵ではなく、トルシュナーの統治者、神殿のトップの人間だったらしい。得られたのは、自分には神殿の決定をくつがえすことはできない、だが神殿がある王都までの旅費を数名分出すことはできる、という回答だった。
話し合いの結果、村長と二人の村人が、王都まで抗議文書を提出しに行った。
けど今のところ、俺たちの訴えは聞き入れてもらえていない。もうルタ町で暮らすしかないのかなって感じだった。まだ諦めていない村人も多いけど。
「よっ。最近どうだ?」
「悪くはねぇよ」
見かけたダクトベアに声をかけると、素っ気ない答えが返ってくる。
教会から帰ってきたところかな。
三年経ってますます目つきが悪くなったダクトベアは、ルタ町に来てすぐの頃は俺らと同じように働いていたけど、昔からすごく頭のいい奴なんだよな。
クシャラ村でもそうだったけど、ルタ町の神父様にも気に入られたようで、そのうち教会に通うようになり、今は神官になるための勉強を本格的にしていると聞いている。
村の子供の中で、一番、これまでと変わらない生活をしている奴。
ルタ町に来てから半年が経った頃、お姉さんがおばさんと大喧嘩して、行商人と駆け落ちしたって事件が起きた時は、さすがに精神的にきつそうだったけど。
それ以降は特に大きな事件もなく、安定した道を進んでいるなって感じだ。
うらやましいぜ。俺も、もうちょい頭がよかったらなぁ。
俺は変わらず、親父と鍛冶屋を続けているけど、農具を修理したいって人がそんなに来なくて、毎日、包丁ばっかり研いでいる。ルタ町に畑仕事をやっている人がいないわけじゃないけど、みんな昔なじみの店に行くから、うちの鍛冶屋は暇なのだ。
ま、仕事があるだけまだマシだけど。
頭がよかったら、なんかいい商売のやり方、思いつけたかもしんないのになぁ。
「よっ。最近どうだ?」
「まぁまぁかな」
走っていたライオネルに声をかけると、息の切れた声で返事が届く。
ライオネルは農家の手伝いをしたり、牛乳配達をしたり、煙突掃除をしたり、いろんな仕事をしているみたいだ。いま何やってんのって聞くたび、いろんな答えが返ってくる。
「これから仕事?」
「いや、薬を買いに行くところ」
「あぁ……。大変だな。がんばれよ」
「うん」
軽く手を上げ、ライオネルが走り去っていく。その後ろ姿を見送りながら、あいつのところはマジでやばそうだよな、と俺は心の中でしみじみ思った。
ルタ町に引っ越してきてからずっと、おばさんの体調がよくないらしい。
ライオネルのお母さんはもともと、炭鉱近くの町の空気が合わなくて、体を壊してクシャラ村に戻ってきた人だ。工場の多いルタ町の空気は、少しきついのだろう。
ま、おばさんが働けなくても、あいつは父親からの仕送りがあるから、どうにかなるだろうなって最初は思っていたんだけど。
いつ行ってもライオネルが家にいなくて、外でたまたま会ったとき、どうしたんだって聞いたら、ルタ町に越して以来、父親からの仕送りが届かなくなったと打ち明けられて、マジでやべぇじゃんってなった。
今はライオネルがひとりで働いて、二人分の生活費と薬代を稼いでいる。ここじゃキノコ採りにも行けなくて大変だって、そう強がって笑いながら働いている。
大変だって、そんな言葉じゃ言い表せないほど大変なんだろうなってことは、見ていて察しがついた。俺に何かできないかな、助けてやりたいなってしょっちゅう思う。
けど、俺は親父の仕事を手伝っているだけだし、うちの生活にも余裕があるわけじゃないから。いつも何もできなくて、『がんばれ』としか言えない。
ひどいよな。
ライオネルに会った帰り道は、少し気分が落ち込む。
俺は、あいつがもう充分がんばっているって知っているのに。
頭がいいわけじゃないから、他になんて言えばいいのか分からなくて。
それでいつも、『何もできなくてごめん』って思いながら、『がんばれ』って声をかけている。『そんなにがんばらなくてもいいじゃねーの』とか、『お前はがんばりすぎだよ』とか、本当はそう言いたいけど、ライオネルががんばるのをやめたら、よくない結果になるのは分かり切っているから。
言えない。俺はライオネルに、『がんばれ』としか言えない。
そんで、ライオネルと別れたあと、俺は両親がどっちも元気で、幸せなんだなってちょっと思う。親父は怖いし、鍛冶屋はあんまりうまくいっていないし、シュリガーラは色気づいてうざいけど。それでも、ライオネルよりはずっと幸せなんだなってことを実感する。で、自分のことが少し嫌になる。俺、嫌な安心の仕方をしているよな。
いつか、みんなで幸せになれたらいいのにな。
そんな、ルタ町での新しい日常が急転したのは、ある夏の日のこと。
なんの偶然かその日は、二年半前、駆け落ち同然に町を出ていったダクトベアのお姉さんが、行商人の旦那さんと赤ちゃんを連れて、突然、町に戻ってきた日だった。
おばさんに結婚を認めてもらえなくて、それで強引に町を出ていったウルシアさん。
だけど子供が生まれたから、旦那さんの仕事でルタ町に立ち寄るついでに、おばさんに孫の顔を見せに来たのだという。俺は、ダクトベアの家の事情はよく分かんないけど、おばさんとダクトベアのお姉さんの間にあったわだかまりは、久しぶりに互いの顔を見て、赤ちゃんを抱っこしたら、ほとんどなくなってしまったらしい。
赤ん坊の力はすげぇなって、ダクトベアがつぶやいていた。
その日の夜は、クシャラ村からルタ町に移り住んだみんなで集まって、赤ちゃんの誕生と二人の結婚をお祝いした。ま、ほとんど大人たちの酒盛りで、俺たち子供は買い出しに行かされたり、赤ちゃんを触らせてもらったりしていた感じだけど。
それでも楽しかった。
……あの瞬間までは、とても楽しい時間だったんだ。