>>> 前編
侯爵令嬢ミシディアはその時一人で歩いていた。
ここは王立貴族学園の廊下。
だから王太子の婚約者である彼女が一人で歩いていても身の危険は無く、高位貴族の令嬢である彼女が一人で居られる数少ない時間でもあった。
そんなところに一人の令嬢が現れた。
ミシディアも知っている人物だったが、目の前に現れた令嬢が怒りの表情をしていたので、ミシディアは突然人が現れた驚きとその顔を見たことへの驚きで、珍しくその表情に驚きの感情を浮かべて現れた令嬢の顔を見た。
突然ミシディアの前に現れたのは男爵令嬢のルーニーだった。
家の事情で最近学園に編入してきたルーニーはミシディアにとっては『情報は知っている』程度の知り合いだった。
そんな相手が自分を睨みつけながら目の前に立っていることに訝しむミシディアが声を掛けようとする前にルーニーが口を開いた。
「あんたも転生者なんでしょ?!」
ルーニーが言った言葉にミシディアはさらに驚いた。先程よりも驚愕の表情をしてみせたミシディアにルーニーは確信する。
──やっぱり……!!──
と。そしてミシディアが何かを言う前に不満をぶつけた。全てお前の所為だと。
「おかしいと思ったのよ!!
オープニングイベントは起こったのにその後のイベントが起こらなかったり、そもそも悪役令嬢であるあんたがそもそもゲームと違うのよ! 何穏やかなフンイキ出してんの?! ミシディアはそんなキャラじゃないでしょ?! もっと普段からイライラしててギラギラしてて細かいことでも怒鳴り散らして、平民上がりの男爵令嬢である私を汚物みたいな目で見て排除してくるのがミシディアでしょ?! 何普通ににこやかに挨拶してきてんの?! 逆にキモいのよ!?」
投げ付けられた言葉のあまりの汚さにミシディアは驚いていた目を更に見開いてルーニーを見た。
ルーニーが言うようにミシディアも転生者であったが、ミシディアは転生前であってもそんな言葉を言われたことなどなかったのだ。勿論本人自身も使ったことなどない。
き、きもい……っ?? と、前世で聞いたような気がするがいまいち意味を理解していないながらもその言葉が悪い意味であると理解していたミシディアが、自分に投げられた非難の言葉に内心目を白黒させていた。
そんなミシディアからの返事を待たずにルーニーは続ける。
「あんたも転生者なら分かってんでしょ?! ここは乙女ゲーム『愛はすべてを凌駕する! 愛され乙女は誰のモノ?!』の世界だって!!
そして自分が悪役令嬢だって、あんた自身も分かってんでしょ!? だからキャラ変して断罪回避しようとしてんでしょうが、そうはいかないんだからね!!!」
人差し指でミシディアを指差して、ビシィッと効果音でも付きそうな程に“言ってやった”と言わんばかりの顔をして自分を見るルーニーに、ミシディアはただただ驚いて目をパチパチと瞬かせた。
頭の中では混乱の所為か、
──然うは問屋が卸さない……──
と前世の言葉が無意味に思い出されていた。
ルーニーはまだまだ止まらない。
「この世界のヒロインはワ・タ・シ!
私がこの世界のヒロインなの!?
前世では悪役令嬢がヒロインを逆ザマアしてヒロインの立場を奪う話がネットとかで流行ったかもしれないけど、そんなのこの世界では許さないんだから!!
あんたも良い子ちゃん装って王太子様の気持ちを横取りしようとしてるみたいだけど、分かってるの?!
それってこの世界を作った神への冒涜だよっ?!
原作改変なんて二次創作でも害悪として大炎上モノなんだから!?
あんた神にでもなった気?! ホントに止めて欲しいんだけど!?!」
神への冒涜と言われてさすがにミシディアも青褪めた。ミシディアの家は教会への多額の寄付もしている信心深い家系だった。ミシディア自身も教会で祈りは欠かさない。そんな自分が神に不敬を働いたようなことを言われれば、ミシディアにそんな自覚はなくとも心はざわついき血が下がる思いがした。
「そ、そんな……わたくしは……」
弱々しく反論しようとしたミシディアの言葉をルーニーは頭を振って遮った。
「言い訳は止めて!!
実際にそうなってるんだから今更違うなんて言葉が通る訳ないでしょ!?
あんたは原作を、世界を壊そうとした!! 私がヒロインでなきゃいけない世界で、自分がヒロインに成り代わろうとした! それが事実なの!! 今更違うなんて言ったって誰も信じないわよ!!」
「そんな……っ、」
ルーニーの気迫にミシディアは太刀打ちできない。頭の隅では『誰も信じないの“誰も”って誰のことを言っているのだろう?』と思ってはいても、それをルーニーに伝えられる状態ではなかった。
まともな反論もしないミシディアにルーニーは自分の優位を確信してフフンッと鼻を鳴らした。
「ねぇ、ミシディア。
私も鬼じゃないわ。心優しきこの世界のヒロインなの。
だからアナタが同じ転生者だって分かってるのに、ゲームのストーリーのままにアナタを断罪しようとは思ってないの。そこは原作改変になっちゃうけど、それでも私は、アナタを助けてあげようって思ってるの。
覚えてるでしょ? ゲームの悪役令嬢は王太子ルートだと修道院行きの途中で事故に遭って死ぬの。それって凄く可哀想だからそうはならないようにはして上げる。ちゃんと修道院まで護衛付きで送らせるようにしてあげるから。
だから安心してアナタは悪役令嬢役をやり遂げなさいよ。ゲームが終わったらオンジョウ? でもなんでも掛けて上げるからさ。
それならきっと神様も許してくれるわ!」
名案でしょ☆! と言わんばかりに喜んで手を叩くルーニーにミシディアはやはり目を瞬かせた。
「え、……え……っと……」
どうしたら良いのかしら? とミシディアが困っていると、一瞬笑ったルーニーがまた不機嫌に顔を顰めて口をへの字に曲げた。
「えっとじゃないのよ。
悪役令嬢をちゃんとやれって言ってんの!? そしたら助けてあげるって!!
分かった?!」
責めるように大きな声で言われてミシディアは驚いた。
「え、……えぇ……」
そして勢いに押されるままにそう言ってしまった。
そんなミシディアの返事を聞いてルーニーはニンマリと笑う。可愛い顔でも醜悪になるのだなぁとミシディアは頭の隅で思った。
「なら良かった! やっとこれでちゃんとゲームが進められるわ!! 悪役令嬢がいないとこのゲームは成り立たないんだから!!
当て馬役ってのは可哀想だと私だって思うけど、それが神様の思し召しってやつなら仕方ないわよね? 文句はこの世界に転生させた神様に言ってね!
じゃっ! 悪役令嬢役は任せたから!
ちゃんとやってよね?!
やらなかったら神様に言いつけるんだから!」
そう言ってルーニーは走り去って行った。
その後ろ姿を『なんてはしたない』と思いながらも、ミシディアは嵐が去ったような空間で、一人呆然と立ち尽くした……
◇ ◇ ◇
「悪役令嬢って何かしら……」
ミシディアは自室で今日あったことを考えていた。
突然現れた自分と同じ前世の記憶を持つ令嬢。侯爵家の娘として、王太子の婚約者として、貴族の顔を見れば相手が誰であるか大体分かる。
彼女は最近男爵家に引き取られた女性。名前は確かルーニー。
そういえば最近自分や王太子殿下の周りやその側近候補たちの周りでよく見かけていたことに気付いた。
「ゲーム……イベント…………」
そこまで呟いてミシディアは1つ小さく溜め息を吐いて頬に手を当てて小首を傾げた。
「……乙女ゲームって、どんなゲームのことかしら?」
ミシディアは困ってその美しい眉間にシワを寄せた。
そう。ミシディアの前世は乙女ゲームをしないタイプの女性だったのだ。
“ゲーム”を知らないなどとは言わない。しかし彼女自身はゲームを自ら進んで手に取ったことはなかった。彼女の前世では兄が居て、その兄が遊んでいるのを横で見ていた記憶があるだけだった。
ゲームだけではない。彼女は前世でゲームを初めライトノベルや漫画やアニメなどにも興味を示さず、子供の頃から挿絵すら無いような小難しい本ばかりを好んで読むような女性だった。成長してからは英語原作で読む楽しさにハマってしまったので他に興味を示す時間などもなかったのだ。
時々兄に誘われて流行りの物も見聞きしてはいたが、それはあくまでも『兄が好きになった流行り物』であった為に『世の女性に流行った物』にはとても疎い生き方をしたのだった。
そんな前世を持つミシディアなので、本気で『乙女ゲーム』がどんなゲームなのかが分からなかった。
乙女? 乙女が出るゲーム? 乙女になれるゲーム?? 乙女のゲーム??? ミシディアはちゃんと考えようとしたがさっぱり分からなかった。
だが……
「悪役、に、なればいいのかしら……?」
ミシディアは『悪役』には想像が付いた。むしろ前世の記憶で読んだ読み物や兄が好んでいた作品には『悪役』がよく出ていた。
「彼女も……悪役令嬢をちゃんとやれって言っていたし……やらないと神様に怒られるのよね……?
それなら……躊躇っていちゃダメよね……
わたくしは“悪役令嬢”らしいのだから……やらなきゃ……むしろダメなのよね……」
そう考えて、ミシディアは1度大きく頷いた。瞳からは悩みの色が消えた。
強く前を見据えてミシディアは心を決める。
「何故転生などしてしまったのかと思っていたけれど、この為にわたくしは転生したのね……!
分かったわ。
わたくし、立派な“悪役令嬢”になりますわ!!」
両手を強く握り締めて脇を締めたミシディアは、部屋で一人、やる気に満ちた顔でヨシッと呟いた。
◇ ◇ ◇
ルーニーは晴れ晴れしい表情で学園に来ていた。
昨日は遂に言ってやった。
役目を果たさない悪役令嬢にガツンと活を入れてやった。ミシディアは悪役令嬢らしくなくおどおどとしていてはっきり喋ることもしなかったが、それでもちゃんと返事をしたのを聞いた。悪役令嬢が悪役をちゃんとやると言ったのだ。やらなければまた言いに行けばいいが、ミシディアがちゃんと悪役令嬢をやるのなら、乙女ゲームはちゃんと進んでイベントも起こるだろう。
乙女ゲーム『愛はすべてを凌駕する! 愛され乙女は誰のモノ?!』の悪役令嬢はミシディアだけだ。どの攻略対象者のルートに行ってもミシディアは出しゃばってきて仕事をする。悪役令嬢の鑑のようなキャラだった。本来ルーニーは怯えているだけで攻略が進む簡単ゲームな筈だったのに悪役令嬢がちゃんと義務を果たさない所為で無駄な時間を使ってしまった。
時間は有限。乙女ゲームのような仕様なら尚更タイミングや日付は重要。
「頼むわよ、悪役令嬢……!」
ニヤつく口元を手で隠してほくそ笑んだルーニーは、直ぐに庇護欲を唆るヒロインの笑顔を作って校舎へと向かっていった。
◇ ◇
しかし……期待したことは何も起こらなかった……
「何なのよ! もうっ!!」
怒りながらルーニーは学園を下校する。
今日こそはイベントが起こると思ったのに、何も起こらなかった。
あの日から今か今かとの期待してきただけに苛立ちがどんどん募ってくる。
今日こそは悪役令嬢ミシディアが何かしてくるかと思ったけれど、それも何もなかった。
ルーニーがミシディアを盗み見たら、ミシディアの方もルーニーをこっそり見ていて、目があった時にミシディアは他の人にバレないようにルーニーに微笑んで見せた。
「目配せとかいらないのよっ!」
他の人の目を盗んで小さく手を振ってきたミシディアに期待したのに何も起こらなかったことにルーニーは腹を立てていた。
友達かっつーの!
悪役令嬢をやるどころか秘密の友達みたいな反応を見せたミシディアにイライラが止まらない。
学園から少し離れた寮に住んでいるルーニーは家路を一人で歩きながらブツブツと怒りを募らせながら歩いた。
本来ならば寮から学園までは専用の馬車が出ているのだが、ここ数日、ミシディアが何かしてくるだろうと思って授業が終わっても教室に残って何かが起こるの待っていたのだ。その所為で専用馬車が使える時間が過ぎてしまった。イベントも何も起こらない上に寮まで歩きとなった所為でルーニーの不満は溜まりまくっていた。
「あぁっ!! イライラするっ!!」
そうルーニーが立ち止まって地団駄を踏んだ時、通りすがりの馬車がルーニーの真横に止まり、驚くルーニーの口を馬車の中から出て来た見知らぬ男が塞ぎ、その体を抱えて馬車の中へと引きずり込んでしまった。
抵抗もまともに出来ずに馬車に連れ込まれたルーニーは何が起こったのかも分からないままに、暗い馬車の中で体を縛られて動けなくなってしまった。
そんなルーニーのことに気付く人は誰もいない。
先程まで道を歩いていたルーニーが居なくなったことに誰一人気づく者も居なかった。その手際の良さにすらも気づく人が居ないまま、ルーニーは連れ去られた。