9.三人の穏やかな時間
そうして私の暮らしは、ちょっとだけ変わった。
アレク様は宣言した通り、月に一度だけ顔を出してきた。どうやらガレス公爵夫妻の説得により、しぶしぶやってきているようだった。
彼は一度に数時間だけ、同じ部屋で過ごしてはくれた。けれどその間、ずっとしかめ面のままだった。
そっぽを向いてお茶を飲みながら、時折心底不満そうに彼は言う。
『できることならもう二度とこの屋敷には帰りたくない』
『私と仲良くなろうとして一方的に迫ってくる妻など、興味がない。というより、ただの重荷だ』
『君はもうちょっとおとなしいと思っていたが、見込み違いだったな。こうもあきらめが悪いとは……』
『いっそ離縁してしまいたいが、そうすると両親がまた勝手に私の妻を見つけてきかねないからね。ああ、最悪の気分だ』
『私の愛しの女性たちは、両親の眼鏡にはかなわないらしい。見る目がないにもほどがある』
彼はそんなことを、低くぶつぶつとつぶやくばかりだった。
アレク様が私のことを受け入れていない、というよりも嫌っていることは自覚していた。けれどやはり、夫にそんな風に言われるのは悲しかった。
公爵夫妻は、しょんぼりしている私のことをとても心配してくれた。一度実家に帰ってゆっくり休んではどうかな、とそんな提案をしてくれたこともあった。
でも私は、大丈夫です、ここで頑張ります、とそう答えた。
月に一度だけでも、アレク様は会ってくれる。そのわずかな時間を重ねていけば、いつか歩み寄れるのではないかと、私はまだそんな希望を捨ててはいなかった。
それに、今の私には心の支えがあったから。
数日に一度、私はコーニーのところを訪ねるようになっていた。新しく友人となったロージーとお喋りするために、という理由をつけて。
アレク様を引き留めておけないことに引け目を感じているのか、それともいい気晴らしになると思ってくれたのか、公爵夫妻は快く私を送り出してくれた。
「義理の両親である二人に嘘をついているのが、ちょっと心苦しくて……」
そうしてコーニーの屋敷でせっせと手を動かしながら、ロージーにぼやく。
「あら、嘘ではないでしょう? こうしてわたくしとお喋りしているのですから」
かぎ針を持つ手を止めて、ロージーが答えた。
私たちは今、コーニーたちの屋敷で一緒に作業をしていた。私はコーニーが下絵を描いたドレスの生地に刺繍をし、ロージーはそばでレース編みをしていた。
ドレスに興味を持ち裁縫に精を出すコーニーを見て育ったからか、彼女もまたかなりの裁縫の腕を持っていた。
特に繊細なレース編みが得意だとかで、ドレスのえりぐりや袖口につけるレースは、彼女が担当するのだ。
少し離れた大机では、コーニーがドレスの生地を広げていた。私の刺繍が必要ないパーツを裁断して、一足先に仮縫いしているのだ。
ドレスの形だけは問題なく作れるようになったのだと、彼はそう言っていた。その言葉が嘘ではないことを、彼の手際は物語っていた。
「……話には聞いていましたけれど、本当に見事な腕前ですね、コーニー。まさか男性が、ここまで器用にドレスの生地を裁断しているなんて……」
ついつい手を止めてそうつぶやくと、コーニーもこちらを向いてにっこりと笑った。その手には、大きな裁ちばさみが握られている。
「ふふ、それを言うなら仕立て屋はどうなるのです? 男女関係なく、針を手に素晴らしい服を縫い上げていますよ?」
「あ、あの方々は……それが仕事ですから。あなたのような貴族の男性では、珍しいです。いえ、そもそも貴族の女性でも」
貴族の女性にとって裁縫はたしなみの一つだけれど、それはレース編みや刺繍などを意味する。
小ぶりな袋物やちょっとした装飾品を作ったりはするけれど、それ以上大きなものを作ることはまずない。ドレスを縫える貴族の女性が、いったいどれだけいるだろうか。
私の実家は代々裁縫上手で、そして貴族の中でも最下位の男爵家だから、ドレスをまるごと自分たちの手で仕立てるなんてことも珍しくはなかったのだけれど。
「ふふ、ねえレベッカ。もし私が家を追い出されたら、仕立て屋としてやっていけるでしょうか?」
いたずらっぽく、コーニーがそんなことを言う。その無邪気な表情につい笑みが浮かんでくる。自然に笑える嬉しさを噛みしめながら、ゆっくりとうなずいた。
「もちろんです。……きっと、大人気のお店になると思いますよ」
「ありがとうございます。あなたにそう言ってもらえて嬉しいです」
「お兄様ったら、本当に嬉しそう。けれどそれなら、レベッカも仕立て屋としてやっていけるのではないかしら?」
和やかに話す私たちに、ロージーがやはり楽しそうに口を挟んでくる。
「はい、実は私、平民に生まれていたら評判のお針子だっただろうって、みんなにそう言われていました。この腕なら、もしもの時も大丈夫だなって」
そんな風に話していた両親とは、今では離れて暮らしている。
あの頃親しくしていた友人たちも、私があまりに格上の家に嫁ぐことになったせいで、すっかり疎遠になってしまった。
「あら、そうでしたの。でしたらもしもの時は、お兄様と一緒に店を開けばいいのではないかしら? わたくしもお手伝いしたいですわ」
そんなありえない、でもうきうきするような未来について、冗談めかして三人で語り合う。
こうやって他愛のないことをお喋りするなんて、久しぶりだ。こんな風に身構えることなく緊張することもなく他人と過ごすのも、久しぶりだ。
コーニーの頼みを聞いてよかった。そんな温かい思いを抱えて、私はせっせと刺繍の針を動かし続けた。
少し前からは想像もつかないくらいに、毎日が楽しかった。コーニーのところに行かない日も、自室でせっせと刺繍を続けていた。
公爵夫妻も、私が明るくなったことにほっとしているようだった。私がガレス公爵家に嫁いできてから初めての、穏やかな日々だった。
とはいえ、それも長く続くものではなかった。
「……どうしたのですか、レベッカ。何だか浮かない顔をしているようですが」
いつものようにコーニーたちの屋敷に集まって作業を進めていると、コーニーが心配そうにそう尋ねてきた。隣のロージーも、同じように眉をぐっと下げてしまっている。
どうやら私は、つい暗い顔になってしまっていたらしい。ここで「大丈夫です」などと言っても、二人は納得しないだろう。むしろ、余計に心配させてしまうに違いない。
今まで二人と一緒に過ごしているうちに、それくらいのことは分かるようになっていた。二人は私のことを友人だと思ってくれているし、心の優しい、素敵な人たちだ。
本当のことを言おうかどうか悩んで、そろそろと口を開く。
「……明日、アレク様が戻ってこられる日なんです。ですから明日はここには来られません……」
二人は、私がアレク様の妻だということは知っている。私とアレク様がうまくいっていないことも、間違いなく感づいている。
でも二人は、それ以上何も尋ねずにそっとしてくれている。その気遣いは、とても嬉しかった。
けれど、今は聞いてほしいと思った。私とアレク様、それに公爵夫妻しか知らない、隠された事情のひとかけらを。
「……私、アレク様の機嫌を損ねてしまったみたいで、月に一度しか会ってもらえないんです」
二人がはっと息をのむ気配がする。視線をそらして、さらに話し続けた。
「どうにかしてアレク様に振り向いてほしいから、限られたその時間をしっかりと活用しなくてはならない。そう思って、頑張ってきたのですけれど……最近、自信がなくなってきてしまって」
いつか、アレク様とも分かり合える日がくる。そう信じて頑張ろうとしていた。
でもそんな日は決して来ないのではないかと、そんな弱気な考えが頭をよぎるようになってしまっていたのだ。
「辛いのなら、あきらめるのもまた一つの選択ですよ。……その方について、多少噂を聞いてはいますが……彼は、あなたがそんなに心を砕いてまで引き留めなくてはいけない相手、なのでしょうか?」
とても静かに、コーニーが尋ねてくる。なぜかそちらを見るのが少し怖くて、うつむいたまま答えた。
「はい。アレク様は、私の夫ですから」
もう少し言葉を付け加えるべきなのだろうと思いながらも、不思議なくらい何も浮かばなかった。
そんな私に、コーニーがさらに言葉を投げかけてきた。いつになく強い口調だ。
「……夫、ですか。形ばかりの夫婦など、星の数ほどいますよ。特に、貴族の間では。無理に歩み寄って傷つく必要なんてないと、私はそう思いますが」
「そう……でしょうか。そう思えたら、楽になれるのかもしれませんけれど」
私はどうしたいのだろう。アレク様に振り向いてほしいのか、それとももうこれ以上傷つきたくないのか。どちらの思いが、より大きいのか。
それ以上何も言えずに黙りこくっていたら、ロージーのたしなめるような声が割って入った。
「もう、お兄様。レベッカのことが心配なのは分かりますけれど、彼女を不安がらせてどうするんですの」
そうしてロージーは手にしたレース編みを置いて、私のところに歩み寄ってきた。すぐ近くでにっこりと笑いかけてくる。私を元気づけるように。
「大丈夫よ、レベッカ。あなたは魅力にあふれた素敵な淑女ですもの。アレク様もいずれ分かってくださるわ、きっと」
「……そうですね。あなたの夫の人となりについては思うところもありますが……あなたが頑張ってみたいというのであれば、私も応援します。やはり、あなたには笑顔のほうが似合いますから」
そうやって二人は、口々に励ましてくれた。
真剣に私に向き合ってくれる二人の言葉を聞いていたら、本当にうまくいくんじゃないかと、そう思えた。