3.少しでも近づきたくて
夫であるアレク様に婚礼をすっぽかされ、十人を超える愛人の存在をほのめかされ、あげく私を妻として認めるつもりはないと、そう言い渡された。
私が夢見ていた結婚生活は、いきなり打ち砕かれた。粉々に。
でも、まだ完全に希望が絶たれた訳ではない。少なくとも半月に一度は、アレク様は私と会ってくれる。昼間だけ、という条件はついているけれど。
新婚の夫婦とはとても思えない、何とも寂しい状況だ。でも、そのわずかな時間を使って、アレク様と理解を深めていけば。
いつかきっと、本当の夫婦になれるかもしれない。今はそう、信じるしかない。
袖で涙をぐっと拭って、自分の部屋に帰っていった。朝のさわやかな日差しの中を。
昨晩からほとんど眠っていないというのに、少しも眠くなかった。それよりも、急いで考えをまとめたかった。
半月後、アレク様とどう過ごそう。アレク様に私のことを分かってもらえて、彼との距離を縮められるような過ごし方を見つけなくては。
けれど、考えても考えても出てこない。自分が置かれた状況が、あまりにも特殊すぎて。
私は貴族としては最下層の男爵家の出だけれど、どこにお嫁に出しても恥ずかしくないように、淑女として必要なあれこれを叩き込まれてきた。
礼儀作法もお稽古事も、他の令嬢に負けたことはない。みんな、「レベッカは素敵な奥さんになるわね」って言ってくれていた。夫との間のトラブルにも、対処できる自信があった。
けれど私が学んできたことの中には『新婚早々遊び歩いている夫をどう振り向かせるか』なんてとんでもないものは含まれていなかった。
世の中には色仕掛けとか、恋の駆け引きとかいうものが存在するらしいことは知っていたけれど、具体的なことは知らなかったし、教えてももらえなかった。
そもそも、教えてもらってもうまくこなせる気がしなかったけれど。
ため息をつきながら、自分の部屋を眺める。ここは私のために用意された部屋だ。
けれどなにぶん、私は昨日嫁いできたばかりだ。そんなこともあって、その風景は少しも私のことをくつろがせてはくれなかった。
むしろよそよそしくすら思えてしまうのは、さっきのアレク様とのやり取りのせいだろうか。
それはそうとして、アレク様とどう過ごすか、早く考えをまとめないといけない。
焦る気持ちにせきたてられるように、部屋の中をうろうろと歩き回る。
そうして、目についた机の引き出しやクローゼットを次々と開けてみた。そこには嫁入りのためにあつらえた品々に加え、これまで私が実家で使っていたものもしまわれていた。
それらを目にして、ほっと息を吐く。使い慣れた裁縫道具、お父様からいただいたお気に入りの本、お母様から譲り受けた装飾品。懐かしいそれらを目にしたら、自然と口元に笑みが浮かんでいた。
けれど、そんな明るい気分も長くは続かなかった。調子に乗って荷物を見て回っているうちに、クローゼットの一番奥に隠すようにしまい込んだ婚礼衣装が目に入ってしまったから。
昨日、この衣装を身に着けた時はとても嬉しかった。これから婚礼に臨み、人々の祝福に笑顔でこたえるのだと、そう思っていた。
アレク様との関係にちょっと不安はあったけれど、頑張れば必ず乗り越えていけると、そう信じていた。
でもそれから一日も経っていないのに、私はこうして打ちひしがれてしまっている。必死に前を向いていないと、また泣いてしまいそうになるくらいに。
「できることなら、婚礼からやり直したい……」
自然と、そんなつぶやきがこぼれ出る。その時、ふと思いついた。
「婚礼……は無理だけれど、お茶会を開いて人を集めたら、どうかしら……若い人をたくさん呼んで、肩の凝らない気軽な会にすれば……それなら、アレク様も気に入るかもしれない」
アレク様は、良妻賢母ぶった態度は嫌いだとはっきり言っていた。それに何人も愛人がいるのなら、たくさんの女性と会うのはきっと好きだろう。
これ以上彼が誰かと親しくなることに複雑な思いはあるけれど、今はとにかく、私がアレク様と親しくなるのが最優先だ。
それに人目があるところでなら、アレク様も露骨に私を避けはしないのではないか。アレク様は女癖は悪いけれど、外面はいいような気がする。
だからこそ私は、彼と顔を合わせるまで、彼のことを好青年なのだと思っていたのだし。
これなら、なんとかなる気がする。ああ、ようやっとやることが見つかった。ほっと安堵のため息をついて、それからぷるぷると頭を横に振る。
まだ油断するのは早い。ここからは、入念に準備をしなくては。アレク様に楽しんでもらえるようなお茶会にするために、頑張るんだ。
お茶会の開き方なら知っている。アレク様の妻となれば、いずれ私はガレス公爵家の夫人として、大小様々なお茶会を開かなければならない。
その時のために、気合いを入れてしっかりと学んできたのだから。
まずは招待客を選んで、招待状を書いて。私たちと同世代の人を中心とした、和やかな雰囲気のお茶会にしよう。
誰を呼ぶかについては、公爵夫妻の意見も聞いて決めよう。私は、公爵家と付き合いのあるような上流の家の人物のことはろくに知らないから。
決めなくてはいけないことは山ほどある。日取りはアレク様と会えるその日に合わせるからいいとして、まずはお茶会の場所を決めないと。
今はバラの盛りだし、中庭を会場にしてもいいかもしれない。あちこちにテーブルを置いて、自由に移動してもらう形式にすれば、より気楽な感じになるかな。
お菓子は何にしよう。テーブルの位置は。そんなことを考えているうちに、沈んでいた気持ちもようやく上向きになっていた。
公爵夫妻に相談して、お茶会を開くことが正式に決まった。招待状を大急ぎで書き上げて、使用人に命じてそれぞれの家に届けさせる。
「招待客からの返事がきたら、それに合わせて用意するテーブルの数を決めて、料理人たちに指示を出して……」
準備は順調だ。必要なことを書き留めた覚え書きの紙を手に、ほっと胸をなでおろす。しかしその時、あることに気づいてしまった。
当日に着るドレスはどれにしよう。できる限り美しく装って、アレク様の目を引きたい。
結局彼には婚礼衣装を見せられなかったのだし、それに負けないくらいの晴れ姿を見せたい。
大あわてでクローゼットを漁って、手持ちのドレスを確認する。
嫁入りのために、両親が特別にあつらえてくれたものばかりだ。みなとても上質だし、品のある落ち着いたつくりだ。
一着取り出して、体にあてがってみる。そのまま、姿見の前に立ってみた。自分の姿を見て、つい眉間にしわを寄せてしまう。
このドレスはちょっとだけ、おとなしすぎる。あっちのドレスも、そちらのも。みんな、既婚の貴婦人がつつましく装うにはぴったりの品だ。
でも私は、頑張ってアレク様の気を引きたいのだ。もっと華やかなものがいい。アレク様は地味なものは好まれないのだと、そう公爵夫妻は教えてくれた。
でも、結婚前に着ていたものは、ちょっと質が劣る。ここにあるドレスは両親が一生懸命そろえてくれた、公爵家の妻として恥ずかしくない最高級のものばかりだ。
対して以前着ていたものは、男爵家の若い娘としてごく当たり前の、それなりの質のものだった。
「ここのドレスを着るほか、ないでしょうね……ちょうどいいドレスを借りられるあてもないし」
ずらりと並んだドレスを前に、ため息をつく。とはいえ、やっぱりこの地味なドレスでお茶会に出たくはない。アレク様を振り向かせる絶好の機会なのだから。
よし、ちょっと手を加えよう。胸元や袖に、華やかな刺繍をたっぷりと。元が落ち着いた雰囲気のドレスだから、刺繍はきっと映えるだろう。
恋の駆け引きは分からない私だけれど、刺繍の腕なら誰にも負けない自信はある。
もし私が平民として生まれていたなら、間違いなくお針子になっていただろう。家族も友人たちも、いつも口をそろえてそう言っていた。それくらい、私は裁縫が得意なのだ。
私の思いのたけを込めた、華やかで手の込んだ刺繍。
もしかすると、アレク様の目に留まるかもしれない。刺繍を褒めてくれるかもしれない。私がその刺繍を自分で縫い取ったのだと知ったら、感心してくれるかもしれない。
そんなかすかな希望に突き動かされるように、ドレスを一着手に取る。お母様が、私にとてもよく似合うと言ってくれた柔らかな薄緑色だ。
上質の絹の輝きを強調するかのように、レースやリボンは控えめだ。代わりに共布のフリルが、袖口やすそをつつましやかに彩っている。
全体をざっと眺めたら、すぐに刺繍の図案が思い浮かんだ。私の腕前なら、お茶会までに仕上げることができる。
嫁入り道具の裁縫箱を取り出して、大張り切りで作業を始めた。
それからは、ただひたすらに刺繍に明け暮れた。夫であるアレク様は宣言通り一度たりとも帰宅しなかったし、ガレス公爵夫妻は私に気を遣ってそっとしておいてくれた。
お茶会の準備を進めながら、猛烈な勢いで縫い進める。薄緑のシルクの野原に、愛らしい野の花が次々と花を咲かせていく。
そうやって手を動かしている間は、全部忘れられた。自分がみじめな新妻であるということも、未来への不安も。
「……できた、わ……」
お茶会の前日、私は刺繍を終えたドレスを前にほうと息を吐いていた。今まで私が縫い取ってきたものの中でも、一、二を争うできばえだった。
明日、うまくいくといいな。そんなことを思いながら、もう一度ドレスに目をやる。自分でも思わず見とれてしまうほど、素敵なドレスに。