2.夫の恐るべき本性
公爵はきつく手を握りしめ、言葉を続けている。彼の手は、かすかに震えていた。
「アレクは、昔から女遊びが過ぎる男だった。それも、未来の公爵夫人とするにはあまりにもふしだらな、品性を欠く女ばかりを相手にして」
公爵夫人が、ついに耐え切れなくなったのかハンカチを目元に当てた。そんな彼女の肩にそっと手を置いて、公爵が疲れ果てた顔でつぶやく。
「これだけ探して見つからんということは、おそらく私たちも知らない新しい女のところに逃げ込んでいるのだろう……まったく、婚礼の日だというのに……」
「あの子の行いは、上位の貴族たちの間ではひっそりと噂になってしまっていて……そのせいで、ちっとも婚約がまとまらなかったの……今まで黙っていて、ごめんなさい」
涙まじりに、公爵夫人がそう言った。それから、そっと上目遣いに私を見てくる。
「そんな折、私たちはあなたに出会って……とっても素敵な、いいお嬢さんだと思ったの。そうして、アレクもあなたとの結婚に同意して……やっと落ち着くかと思ったのに、こんなことになるなんて……」
また耐え切れなくなったのか、公爵夫人が声を殺して泣き始めた。寄り添って慰め合う公爵夫妻の姿をうらやましく思いつつ、考えをまとめる。
ひとまず、アレク様が婚礼をすっぽかすようなとんでもない方だということは分かった。
けれど私と彼は、もう既に夫婦なのだ。アレク様があの手紙で言っていたように、もう婚姻の手続き自体は済んでいて、今日の婚礼はお披露目でしかないのだ。
婚礼が中断されてしまったのは悲しいけれど、でも、ここでめげてはいられない。
私はアレク様の妻として、彼を支えていく。いつか、ちゃんとした夫婦になれるよう。そう、ちょうど目の前の公爵夫妻のように。
意識して笑顔を作り、立ち上がる。
「状況は分かりました、その……お義父様、お義母様。私、アレク様と分かり合えるように頑張っていきます。ですからどうかこれからも、よろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げて、また上げる。
二人とも、涙のにじんだ目で私をまっすぐに見つめていた。私の言葉がとっさに理解できなかったのか、ぽかんとした顔をしている。
「婚礼をすっぽかされたというのに、そのような健気なことを言ってくれるのか……」
「ねえあなた、レベッカはあの子には過ぎた奥さんね。本当に、前向きで……心が美しくて」
「そうだな。……いずれアレクのやつも、彼女のこの魅力に気づいて行いを改めるだろう。レベッカ、それまでは苦労させてしまうが……どうか、頼む。おそらく君だけが、あの馬鹿息子を改心させられるのだと、私は思う」
「私たちも、できる限りの協力はするわ。だって私たちにとって、あなたはもう娘なのだから」
二人の温かな思いに、じんときてしまう。
うっかりつられて泣きそうになるのを一生懸命にこらえながら、もう一度頭を下げた。ありがとうございます、と言いながら。
そうして、また自室に戻ってきた。アレク様からの手紙をいったん机の引き出しにしまい、そのまま隣の寝室に向かう。本を一冊、手にして。
大きな寝台に腰かけ、本を開く。今夜はここで、ずっと起きているつもりだった。
ひとまず、アレク様と会わなくては話にならない。彼は夫婦になったからと言って、素直に一緒にいてくれるような人ではなさそうだ。
だったら、こっちから積極的に近づいてみよう。
今夜は戻らないと、手紙にはそう書かれていた。けれど、もしかしたら深夜にでもアレク様が帰ってくるかもしれない。
それに、この屋敷において彼が眠れる場所は、この寝室だけだ。……空いた客室を乗っ取りでもすれば、また話は違ってくるけれど。
不思議なくらい、空腹も疲労も眠気も感じていなかった。
ひょっとするとそれだけ、私はこれからのことに不安を感じていたのかもしれない。不安で不安で、それをどうにかしようとして必死に行動に移している。今の私は、そんな状態なのかもしれない。
でも、悩んでいたって仕方がない。今やるべきことはただ一つ。アレク様に会って、話すこと。そのために、頑張ろう。
優しい月の光が差し込む中、ぱらぱらと本のページをめくる音だけが小さく響いていた。
「……レベッカ。まさかとは思うが、私を待っていたのか?」
困惑しきったそんな声に、意識が闇の底から引き戻された。
どうやらアレク様を待っている間に、うっかり眠ってしまったらしい。私は横たわっていて、すべらかな絹の寝具が頬に触れていた。
いつの間にか、辺りはすっかり明るくなっていた。外からは小鳥の声が聞こえてくるし、窓からはさわやかな朝日が降り注いでいた。
跳ね起きると、アレク様と目が合った。彼は手を伸ばしても届かないくらいの距離を置いて、立ったまま私を見下ろしている。
彼の服はよれて乱れているし、髪もくしゃくしゃだ。口元には紅のものらしい汚れが残っている。彼が紅をつけるはずもないから、あれは誰か他の人、他の女性のもので……。
昨夜の、公爵夫妻とのやり取りを思い出す。アレク様はきっと、どこか別の女性のところに転がり込んでいたのだろうという話だったけれど。
色恋沙汰にはとんと疎い私でも、彼がとっても……情熱的な一夜を過ごしたのだろうなあということだけはすぐに察することができた。
でもそのせいで、ぎゅっと胸が苦しくなる。本当なら私が、彼と共にいるはずだったのに。彼の妻は、彼のそばにいるべき女性は、私なのに。
複雑な思いを胸の奥に押し込んで、しとやかに頭を下げる。
「申し訳ありません。あなたの帰りを待っていたのですが、つい眠ってしまったようで」
「ああ、そういうのは別にいらない」
私の言葉を、アレク様は即座に払いのけた。まるで羽虫でも追い払うような気軽さで。
「両親があまりにうるさいので、仕方なく結婚することにしたが……私には既に、心から愛し合っている素敵な女性が山のようにいるんだ」
どこかが、何かがおかしい言葉を、アレク様は堂々と口にしている。何一つ悪びれていない顔だ。
「だからレベッカ、君を構っているだけの余裕は私にはない」
堂々とそんなことを言い切ってから、アレク様は顔をしかめた。
「そもそも、そういう……良妻賢母じみた態度は嫌いだ。押しつけがましく思えるし、縛られているように感じるからな。まったく、日々両親に説教されているだけでもうんざりなのに」
女遊びを止めて普通に過ごせば、おそらくその説教も止むと思います。そんな言葉を、ぐっとのみ込んだ。
「あの、態度は改めます。ですからもっと、私のためにも時間を割いてはもらえませんか……?」
アレク様は私を拒んでいる。それは明らかだったけれど、だからといってまだあきらめたくはなかった。
だから勇気を振り絞って、おそるおそるそう申し出てみる。
しかし返ってきたのは、不快感をあらわにした冷たい声だけだった。
「……押し付けられた妻なんて、興ざめだよ。そんなもの、認められるか」
「あの、ですが私たちはお互いのことをほとんど何も知りませんし、これから一緒に過ごせば、良い関係を築くこともできるのではないでしょうか」
必死に考えて、そんな言葉を絞り出した。どうにかして歩み寄りたかったから。彼は私の夫で、これからずっと一緒に生きていく相手なのだから。
「まあ、そうかもしれないね」
その言葉に、思わず身を乗り出す。良かった、分かってもらえた。
けれど次の一言で、彼は私をどん底に叩き落してしまった。
「どうしても私と一緒にいたいのなら、順番待ちをしてくれるかな。私は毎日違う女性と過ごしているし、私と一夜を共にしたい女性はたくさんいる。そうだな、今からだと……半月待ちか」
公爵夫妻は言っていた。アレク様は、女遊びが過ぎるのだと。でもこれは、そんな次元のものではない。
私の夫には、愛人がいる。それもどうやら、両手の指で数えきれないくらい。
「それでは、半月後の一日を君のために空けるとしよう。とはいえ、昼間だけだが。君と寝るつもりはない。好きでもない女を抱く気はないから」
妻に向けているとは思えないほど冷たい言葉を吐き捨てて、アレク様は肩をすくめる。
「将来、君が言うような関係を築くことができたら、その時はまた違う過ごし方もあるだろうけれどね、奥方様?」
あざけるように明るく言い放ち、彼は私に背を向けた。そのまま、寝室を出ていってしまう。
一人残された私は、ただ彼が出ていった扉をぽかんと見つめることしかできなかった。頬を流れる涙を、拭うことすら忘れて。