17.招かれざる客
「追い出した後、実家に戻っていないとは聞いたが……正直、君がどこにいようと興味はなかった。だが、ちょっと事情が変わったのでな」
私のすぐ近くに立っていたのは、アレク様だった。いらだたしげに腰に手を当ててふんぞり返っている。久しぶりに見たその顔を、懐かしいとは思えなかった。
どうして、この人が。こんなところに。何をしに。
縫いかけの布をテーブルに置いて、あわてて立ち上がる。混乱して真っ白になっている頭を動かして、どうにかこうにか言葉を紡いだ。
「あの、お久しぶりです……」
「別に会いたくはなかったし、久しぶりだからどうということもない。ただ今日は君に、頼みがあってきたんだ。君をここに送り届けた御者が、道を覚えていてくれて助かった」
「え……頼み……ですか?」
アレク様がわざわざ私を探しにきた。それだけでもとんでもなく珍しいことなのに、こんな風に頼みごとをしてくるなんて。何だか、嫌な予感がする。
ひっそりと身構える私の前で、アレク様は平然と言い放った。
「ドレスを一着、仕立ててくれ。君が妙なドレスを着てあちこちさまよっていることは知っている。それと同じような、ただしずっとずっと豪華なものだ。私はそれを、贈り物にするのだからな」
アレク様が、コーニーがデザインしたドレスと似たようなものを欲しがっている。予想もしなかったそんな事態にちょっとぽかんとしつつも、一生懸命言い返してみた。
「あ、あの……ですが私には、ドレスの生地を用意する方法がありませんし……それに、相手の方の寸法とか、雰囲気とか、似合う色とか、そういったことも分かりません……」
「そこはそちらで何とかしろ。どうやら君には気前のいい知り合いがいるようだから、何とかなるだろう?」
気前のいい知り合い。それはコーニーのことだろう。彼のことをそんな風に言われて、ほんの少しいらだっている自分がいた。
アレク様は、かつて私の夫だった。でも彼の姿を見ても、少しも恋しいとは思えなかった。怒りも憎しみも、何も浮かんでこなかった。
私の胸を満たしていたのは、今すぐここから出ていってほしい、早くいなくなってほしいという思いだけだった。
この屋敷はコーニーとロージーとの、大切な思い出に満ちた場所なのだ。アレク様に無遠慮に踏み込まれたくない。
「そもそも、そんなものをどうして贈り物にしようと思われたのですか?」
ひとまず、彼が何を考えているか聞き出そうとした。それが分かれば、説得のしようもあるかもしれない。
彼とこれ以上関わりたくはないけれど、彼のためにドレスを作るのはもっと嫌だ。どうにかして、あきらめさせなくては。
私の問いに、アレク様はふんと鼻を鳴らした。
「無事に君を追い出して、私は私の愛する女性たちの誰かと結婚しようと思ったのだよ。だが、両親はやはり彼女たちを受け入れなかった」
彼の愛する女性たちについて、彼の親であるガレス公爵夫妻は苦々しく思っているようだった。私の後釜に彼女たちを、とアレク様が主張しても、たぶん二人はうなずかないだろう。
不機嫌そうに口をとがらせていたアレク様が、不意に大きく笑った。どことなく意地の悪そうな、やけに自信満々の笑みだった。
「だから、私は改めて求婚することにしたんだよ。公爵家の花嫁にふさわしい、素敵な方に。あの方なら、誰も駄目だとは言わないだろう。君に頼んでいるドレスは、その方への贈り物にするのだ」
「あの……それは、どなたなのでしょう?」
彼のためにドレスを作るつもりは、やはり毛頭なかった。でも、その人物が誰なのかについては気になってしまった。
「君に話してやる義理もないが、まあいいだろう。王妹様だ。年の頃は君と同じくらい、完璧な礼儀作法と教養を身に付けた、とびきりの美女らしい」
らしい、ということは、アレク様も王妹様と直接会ったことがないのだろう。
「そんな女性であれば、両親も嫌とは言うまい。家の格も釣り合いが取れているしな」
つまりアレク様は、王妹様にプロポーズするためにドレスが必要で、そのドレスを私に作れと言っているのだ。
かつて、アレク様に嫁いだ頃の私であれば、素直に彼の命令を聞いていただろう。でも、今は違う。
「……お断りいたします」
私はきっぱりと、そんな言葉を返していた。
静かな中庭、私とアレク様二人きりの中庭に、痛いほどの静寂が満ちた。
「……今、何と言った?」
アレク様は、私の言葉が信じられないようだった。目を見開いて、私をじっと見つめている。
「この私が、じきじきに頼みに来てやったんだぞ? 断るなんて、あり得ないだろう」
彼が動揺するのも、無理もなかった。私は彼のもとに嫁いでから、ただひたすらに彼の機嫌を取ろうと頑張っていたのだから。
どうすれば彼に振り向いてもらえるか、どうすれば愛される妻となれるのか。そんなことだけを、ただ考えていたのだから。
でも今の私は、絶対に首を縦に振りはしない。だって、今の私には分かっていたから。
あの頃の私は、不幸せだった。アレク様に見捨てられていたからというのもあるけれど、それ以上に、私が私を見捨てていたから。自分の価値を、自分で下げてしまっていたから。
夫に顧みられないような妻は、妻として、人間として失格だと、自分でそう決めつけていたから。
けれど今の私は、幸せだ。不幸な結婚をして、あげくに離縁されたけれど、大切な友人たちがいてくれる。
それに、かつての私にとってはちょっとした趣味でしかなかった刺繍は、今や私にとって誇れるものとなっていた。
「あのドレスの型は、ある方が心を込めて作り上げたものです。形だけなら私でも真似られるかもしれませんが、できばえは大幅に劣るものになるでしょう」
前にコーニーは言っていた。私の刺繍がなければ、ドレスの魅力は半分にも満たないと。でもそれは、コーニーについても同じことが言えると、私はそう思っていた。
彼はとても繊細に型を調整できるし、そして正確に布を裁断できる。彼抜きでは、そのドレスはどことなく体に合わない、不格好なものになってしまうだろう。
まっすぐに背筋を伸ばして喋る私を、アレク様はあぜんとしながら見つめている。そんな彼に、さらにきっぱりと言い切った。
「どうしても、とおっしゃるのなら、また後日いらしてください。あのドレスを作るには、この屋敷の主、私の友人の力が必要ですから」
コーニーの名前をアレク様に教えることすら嫌だった。本当はもう来てほしくないと思いながら、もう一言付け加える。
「そして彼が協力してくれるかどうかについて、私に決める権利はありません」
今までに作ってきたドレス。それはみな、コーニーが描き、ロージーと三人で形にしてきたものだ。コーニーの夢の結晶であるそれを勝手に真似てまがいものを作るなんて、私にはできない。
面と向かって私が歯向かったからか、アレク様は明らかに不機嫌になってしまった。
「なるほど。以前の君は従順なお人形だった。今は尻尾を振る相手が、その友人とやらに変わったということか……まったく、役に立たないな」
ぼそりとつぶやいた彼が、ふとテーブルの上に目を留める。
そこには、私がずっと刺繍していた布が置かれていた。糸で縫い取られたリスが、つぶらな目でこちらを見つめている。
「……へえ、これは中々のものだ。ちょうどいい、こちらも王妹様への贈り物にしよう。ここまできて手ぶらで帰るのもしゃくだし、もらっていくよ」
「だ、駄目です! それはあなたには差し上げられません!」
この布は、コーニーに贈るつもりなのだから。それにまだ完成していない。
アレク様には見分けがつかないのだろうけど、下草のみずみずしさもリスの毛皮のふわふわ感も、全然表せていない。あと一日か二日かけて、全体にもっと手を入れないと。
ぎりぎりのところで布をつかみ、胸元に抱え込む。絶対にこれだけは、渡せない。
「……まったく、頭が空っぽで従順なだけが取り柄だったのに……男爵家の娘なんて、はいはいと言って私に従っていればいいんだ。逆らうなんて、身の程知らずだな」
心底さげすんだような目で私を見ていたアレク様が、深々とため息をついた。それからけだるげに右手を振り上げている。
「もう一回だけ、チャンスをやる。その布を渡せば、私はすぐに帰ってやるぞ」
「渡せません」
私のかたくなな答えに、彼は糸のように目を細めた。その表情に、ああ、殴られるんだと悟る。
奥歯をぐっと噛みしめて、身をこわばらせる。目を閉じて、布をしっかりと胸に抱きしめた。
けれどいつまでたっても、それ以上何も起こらなかった。




