13.ひずみは限界を超えて
仮面舞踏会が終わり、ガレスの屋敷に戻ってきた数日後。またアレク様と会う日がやってきていた。
舞踏会の日に着たものとは比べ物にならないくらい質素なドレスをまとい、じっとアレク様がやってくるのを待つ。
きっといつも通りに会話は全くないのだろうけれど、それでもこれも妻の務めだ。
けれど、アレク様はいつまで経っても姿を現さなかった。いつもとても嫌そうな顔をしながらも、それでも毎回きちんとここに足を運んでくれていたのに。
不安を抱えながら、ただひたすらに待つ。夕方近くになって、ようやくアレク様が私の待つ居間にやってきた。
「アレク様、お待ちしていました」
「私の名を軽々しく呼ぶな、この尻軽女め」
いつも以上に冷たく、そしてひどい言葉が飛んできた。その声も、今までで一番冷え切っている。
「あの、どうしてそのような」
「……ああ、君はしらばっくれる気なのか。まったく、図々しいな」
そうして彼は語った。あの仮面舞踏会の日に、彼もまたあの場にいたのだということを。
少々風変わりで、そして素晴らしく美しいドレスをまとった私とコーニーの姿に、アレク様はすぐに気づいていたのだそうだ。仮面で顔を隠していても、声やしぐさまでは隠せないからな、と彼は得意げに言っていた。
「見たこともない風変わりなドレスをまとい、どこの誰だか分からない相手にしなを作る。君、私相手には一度も見せたことのない、甘い表情をしていたぞ? 淑女と見せかけて、とんだ悪女だったな」
それは、と反論しかけて口をつぐむ。
できることなら私だって、アレク様のそばに寄り添って、アレク様と仲睦まじく笑っていたかった。
でもそうさせなかったのは、アレク様のほうだ。私を最初から拒み続けて、近づくことすら許さなかったのだから。
けれどそんなことを主張したって、きっとアレク様が耳を傾けることはない。私はただ、アレク様の言い分を聞いていることしかできない。
アレク様はわざとらしく肩をすくめて、深々とため息をつく。
「だがこれで、ようやっと君を追い出す口実ができた。レベッカ、君を離縁する。さっさと実家に帰ってくれ。今すぐに、だ。うちの馬車で送らせよう。一時間で荷造りを済ませるんだ」
ああ、とうとう離縁を言い渡された。今までの努力が全て無駄だったのだなという悲しさと共に、奇妙な解放感のようなものが胸にわき起こっていた。
「……分かりました。今まで、ありがとうございました」
淡々とそう答えて、深々と頭を下げる。それから、いつも通りの歩調で居間を出ていった。せいせいしたなというアレク様の明るい声を、背後に聞きながら。
手早く荷造りを済ませ、ガレス公爵夫妻のもとにあいさつにいく。離縁されてしまいましたので、これでお別れです、と。
「すまない、あの子が……」
「ねえ、レベッカ。私たちもあの子を説得するから、もう少しここに留まってはもらえないかしら……」
そんな風に引き留めてくる二人に、明るく笑いかける。
「いえ、アレク様はとにかく私のことがお気に召さないようですし……あの方には、もっといいご縁があると思うのです。短い間でしたが、お二人にはお世話になりました。どうか、お元気で」
二人の返事を待つことなく、馬車に乗り込む。私が持ち出そうとしていた荷物は、驚くほど少なかった。
数着の普段着とドレス、それに装飾品が少々と身の回りの細々としたもの、そしてあの悲しい婚礼衣装。それらを積み込んだトランクと共に、私はガレスの屋敷を去った。
一度たりとも愛された記憶のない、悲しい場所から解放される。離縁の悲しみよりも、やっと自由になれたのだという、そんな思いのほうがずっと強かった。
そうして、ただ一人馬車に乗り込む。これからどうしよう。実家に戻ったら、きっと両親は泣くのだろう。そんなところは見たくないな。
それに、私はじきに、またどこかに嫁ぐことになるだろう。アレク様との短い結婚生活で打ちのめされていた私にとって、それはとても気の重いことだった。想像するのさえ嫌だった。
もちろん、次の夫がまたアレク様のような方だとは限らない。でも、それでも。
少し考えて、御者に声をかけた。
やがて、馬車はある屋敷の前で止まった。私の荷物を全て運び出すと、御者はちょっと困ったような顔で去っていった。本当にここでよかったのですか? と言いたそうだった。
目の前には、見慣れた屋敷。コーニーとロージーが滞在している、あの屋敷だった。
「あらあら、いきなりお客様がいらしたと思ったら……レベッカでしたのね。どうしましたの、その荷物は?」
「それに、こんな時間に来られるのも珍しいですね」
そんなことをいいながら、ロージーとコーニーが私のすぐ前までやってきた。二人とも、私が持ってきたトランクを見て首をかしげている。
「実は、私……離縁を言い渡されてしまったんです。実家に追い返される途中だったんですが……どうしても、戻りたくなくて」
そう言うと、二人は目を丸くした。そこに浮かんでいるのは、驚きと悲しみと、それに同情だろうか。
「それで、その……お願いがあるんです。私を、ここで雇ってもらえませんか。お針子としての腕には、ちょっと自信がありますし……」
次の瞬間、いきなり目の前が暗くなった。一呼吸おいて、自分が二人にぎゅっと抱きしめられているのだと気がついた。
「それは大変な目にあいましたのね、レベッカ。もちろん、歓迎いたしますわ!」
「ええ、私もです。どうぞ、客人として滞在してください」
「これからはずっと一緒にいられるんですのね? ふふ、たくさんお喋りしましょう。楽しみですわ」
「そうですね、ロージー。とっても素敵な日々になりそうです」
二人の温もりと、そんな優しい言葉。それを感じていたら、つい涙がこぼれてしまった。
「あ、ごめんなさい。こんなところで泣くなんて」
あわててハンカチを探し、涙を拭こうとする。しかしそれよりも先に、コーニーが手を伸ばしてくる。彼はその長い指で、私の頬を拭ってくれた。
「我慢しないでください、レベッカ。あなたはやっと苦しい日々から解放されたのですから。そうやってたくさん泣いて、辛かった過去を押し流してしまいましょう」
思いもかけない言葉に、涙が次から次へとあふれて止まらない。どうしよう、と両手で顔を覆ったら、コーニーがさらにぎゅっと抱きしめてきた。
「そうですわ。辛い時はたくさん泣いたほうがいいって言いますもの。わたくしたちがついていますから、遠慮なさらないで」
ロージーもそう言って、私の肩にそっと触れてきた。
その二人の温もりが嬉しくて、なおもぼろぼろと泣き続ける。やっと解放された。さっきのコーニーのそんな言葉を、頭の中で繰り返しながら。




