1.幸せになるんだって、そう思ってた
私たちはもうすぐ、夫婦になる。
けれど私たちの間には恋慕の情どころか、親愛の情すらない。まともに顔を合わせたのも、ほんの数回だけだ。
けれど、これも何かの縁だ。
だから精いっぱい、妻として彼を支えていこう。そうして苦楽を共にしていくうちに、きっとお互いに愛情もわいてくる。そう思っていたのに。
婚礼の場に、夫は現れなかった。
婚礼のために集まってくれた招待客たちは、みな大いにざわついていた。戸惑い顔を見合わせて、ひそひそとささやき合っている。
「新郎が来ない……? まさか、と言いたいところだが……彼だからなあ」
「あの方が、親の命じた結婚におとなしく従うとは思わなかったけれど……ここまで堂々と逆らうなんて」
「ようやっと妻となってくれる女性を見つけたのに、逃げられても知らないぞ」
「たぶん彼は、彼女が逃げてくれたほうがいいって思ってるんじゃないかしら?」
そんな言葉が、とぎれとぎれに聞こえてくる。遠慮がちにこちらに向けられているたくさんの目は、心配と、そして露骨な好奇心を浮かべていた。
それらの言葉の意味が理解できないまま、ただ一人ぽつんと立ちつくす。身じろぎするたびに、豪華な純白のドレスがさらりと揺れるのが、妙に不安をかきたてた。
少し離れたところでは、両親がおろおろしながら周囲を見渡していた。この場ではまるきり場違いである両親は、二人身を寄せ合って縮こまっている。
それも、仕方のない話ではあった。周りにいるのは、みんな公爵家の関係者なのだから。
私たちの結婚は、恐ろしいほどの格差婚だったのだ。
貴族の中でも最下層の男爵家の娘である私を、最高位の貴族であるガレス公爵夫妻がみそめたのが半年ほど前のこと。
どうか、うちの息子の妻になってほしい。ガレス公爵夫妻は、身分違いだからとしり込みする私のところに足しげく通って、そう説得してくれたのだ。
私の家と、公爵家とのつながりができるのは悪いことではない。
それに何より、ガレス公爵夫妻はいい人たちのように思えた。この二人が義理の両親になるというのは、悪いことではないように思えた。
だから私は、ひとまず彼らの息子、将来夫となるかもしれない人と会うことにした。
彼の名前はアレク、私より三つ年上の二十一歳。甘く優しい笑顔を絶やさない好青年なのだと友人から聞いたことがあった。
ガレス公爵夫妻の息子で、しかも好青年。だったらきっと彼とも、仲良くできる。
けれど実際に会ったアレク様は、そんな噂とはちょっと違っていた。
彼は困ったような顔をしたまま、私のほうをろくに見ようともしなかったのだ。初対面の時から、昨夜の婚礼前のあいさつの時まで、ずっと。
彼が私に対して、何か不満を抱いているのは明らかだった。
私が身分の低い男爵家の娘だからか、それ以外に私自身に何か気に入らないところがあるのか、それとも親が勝手に決めた結婚が気に入らないのか。そのどれが正解なのかは分からない。
でも夫婦となれば、彼と共に過ごす時間はたくさんある。焦らずに、少しずつ仲を深めていけばいい。
ついさっきまで、本当につい三十分ほど前まで、私はそう考えていた。けれどもう、そんな楽観的な考えはすっかり吹き飛んでしまっていた。
ざわざわ、ざわざわ。周囲の人たちは、みんな噂話に花を咲かせている。それは抑えた小声ではあったけれど、それでも胸がぎゅっと苦しくなった。
あのたくさんの声は、アレク様のことを悪く言っている。私のことを憐れんでいる。それがはっきりと理解できたから。
嫌だ。あのささやきを聞いていたくない。でも、どうすればいいのか分からない。
泣きたいのをこらえてうつむいた時、深みのある朗々とした声がざわめきをさえぎった。
「うちの息子に、どうやら何かあったようだ。婚礼はいったん中断し、後日また改めて、ということにしよう」
声の主は、ガレス公爵だった。この婚礼が済めば、私の義理の父となっていた人。
「レベッカも、突然のことで疲れただろう。アレクは私たちが探すから、君は自室で休んでいるといい。こんな騒動に巻き込んで、すまなかったな」
申し訳なさそうな、泣きそうな顔で公爵は私に声をかけてくる。
いいえ、あなたは悪くないのですから、謝らないでください。そう答えたかったのに、私の舌は凍りついたように動かなかった。
ひとまず、言われた通りに自室に戻る。夫婦二人で過ごすための大きな寝室と、扉一枚でつながった部屋だ。
とはいえ、婚礼衣装を脱ぐ気にもなれなかったし、ゆっくり休む気にもなれなかった。窓際に椅子を運んでそこに座り、ぼうっとしながら外を眺める。
どうやら、公爵家の使用人たちが総出でアレク様を探し続けているらしい。
血相を変えた使用人たちがあちこち走り回っていたり、馬車がせわしなく行きかっているのが下のほうに見えていた。
そんな光景を眺めながら、ただひたすらに待つ。純白の婚礼衣装が夕日の赤に染まり、そして夜の藍色をにじませても、まだ座ったままでいた。
私を気遣ってくれているのか、それともアレク様の捜索にてこずっているのか、誰も私の部屋にはやってこなかった。でも今は、それがありがたかった。
すっかり真っ暗になった部屋で、ふうとため息をつく。さすがにそろそろ、着替えたほうがいい。今日はもう、婚礼の続きはないのだから。
メイドを呼び、重い気持ちで婚礼衣装を脱ぎ捨てる。
身軽な部屋着姿になって、ううんと伸びをした。ずっと座っていたせいか、すっかり体がこわばってしまっていた。
軽食の準備がございますが、どうされますか。そんなメイドの問いかけに、苦笑して首を横に振った。
ごめんなさい、お腹が空いていないの。もったいないから、明日の朝にでも食べるわ。
メイドは微妙な顔をして去っていった。あまり裕福ではない私の実家では、そんな風に残りものを次の日の朝食とするのはごく当たり前のことだった。
でもここは裕福な公爵家、余ったら使用人に下げ渡すか、あるいは捨てるかするのが普通なのだろう。疲れていたとはいえ、ちょっとしくじってしまったかもしれない。
恥ずかしさをごまかすように、隣の寝室に足を踏み入れてみる。
本来ならば今頃は、アレク様と二人、甘いひと時を過ごしていたのかもしれない。部屋の真ん中の大きな寝台に腰かけて、そのままばたりと倒れこんだ。
その時、かさりという音がした。絹の寝具が広がっている寝台には似つかわしくない、紙のような音だ。
身を起こして、音がした辺りを探してみる。
「あら? これ……何かしら」
枕の上に、小さな紙が置かれていた。ちょっとメモを取る時に使うような、質素そのものの紙だ。手に取って開き、驚きに目を見張る。
『レベッカ、私は今日どうしても外せない用事がある。だから、婚礼には出られない。そもそも婚礼など形式的なものでしかないのだし、中止しても別に構わないだろう? 今夜は戻らないから、好きにしていてくれ。良かったな、君も自由だぞ』
見覚えのある、ちょっと気取った雰囲気のしゃれた筆跡。それは間違いなく、アレク様から私にあてた手紙だった。
呆然としながら、ふらふらと自室を出る。しっかりと、手紙を握りしめたまま。
「あの、こんなものが、寝室に……」
そうして、ガレス公爵夫妻の部屋を訪ねた。震える手で、手紙を差し出す。
手紙を読んだ夫妻は、同時にため息をついた。苦虫をかみつぶしたような顔の公爵と、今にも泣き出しそうな公爵夫人。
「婚礼に出られないほどの用事とは、いったい何なのでしょうか……せんさくしたくはないのですが、その、妻としては……できれば知っておいたほうがいいと思うのです」
そんな二人に、そろそろとそんなことを尋ねる。二人はそのまま黙り込んでいたけれど、やがて公爵が申し訳なさそうに口を開いた。
「アレクは、どこかよその女のところに転がり込んでいるのだろうな」