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フィルマグリル


 暗い陰と柔らかな光を同時に感じる美しい天蓋の下――

 鼻腔をくすぐる香りと戦いながら。


 オールド・アーケード街。

 美しい天蓋で覆われた歴史ある商店街だ。元々あった商店を覆うように屋根付きの建物が造られ、アーケードの形をとったという。見上げるほどの高さを持つ立派な正門はどこか異文化を思わせるような迫力と趣がある。

 一歩中へ踏み込むと、明らかに外界とは異なる雰囲気を漂わせている。豪奢な装飾、煌びやかな世界観、壮麗な店並び。

 なによりも目を惹くのはアーチ状の天井である。

 はるか頭上の天井には天窓があり、自然光が降ってくるように設計されている。その窓を彩るのは、様々な風合いの青、金、クリーム色。空が地面にまで広がっているように、天井から壁、足元まで、美しい色で装飾が施されていた。

 まるで――真昼の星空だ。


「おあー……すっ……げぇ……おあー……あおー……」


 ぽかんと口を開けながら、真上を向いて歩く青年。ブラッドリー・ルピナスは天井を見上げながら、何度も犬の遠吠えのような声をあげた。そのせいか、声に反応して振り返る者も少なくない。


「落ち着け。いちいち鳴くんじゃない」

「あおー…………えっ、俺、鳴いてた?」

「仔犬みたいにな。ほら、さっさと歩け。予約した時間に遅れるだろう」


 シャーロット・アントシアムは長い尻尾を振り振り、ブラッドリーの袖を引っ張っていく。光の差し込む道を、急ぎ、踵を鳴らしながら進んだ。三角にぴんと形作られた猫耳には、銀糸と宝石が煌めくタッセルの飾りが揺れている。

 右では優雅に紅茶を楽しむ婦人方が、左にはバーでビールを煽る紳士方で分かれている。ブラッドリーは物珍しげにきょろきょろと左右を見回していたが、シャーロットは一瞥もせず目的地に向かって急いでいた。最初は袖口を摘まんでいたシャーロットだったが、途中からはあまりにも挙動不審なブラッドリーの手首を掴み、荷物のように振り回した。


「おおん、ちょっ、シャル、いてて……!」

「警告はした。帰りはいくらでも散歩に付き合ってやる。だから今はキリキリ歩け、ブラッドリー」

「……はい」


 オールド・アーケード街は十字の形を中心に、小道がいくつも出ている複雑な形態をしている。中には屋根の下からは外れているというのに、外観を統一させている道もある。

 シャーロットは迷わず小道へ足を踏み入れた。ブラッドリーも大人しく追随する。

 小道に入ってからは、そう長くは歩かなかった。

 道の行き止まりはすぐそこにあり、歴史ある別の建物が塞いでいる。コの字型に開かれた店構えをしているというのに、石材の冷たく重厚な造りに圧倒される。

 オールド・アーケード街とは真逆の雰囲気を纏う建物には、鈍く輝く金板に店名が彫られていた。

 ――『フィルマ・グリル』と。


「ここがレストラン?」

「ああ。この辺りでは割と有名だ。名前くらい覚えておいて損はない。行くぞ」


 シャーロットはブラッドリーから手を離し、急ぎ足を緩めて歩きだす。その後ろを付いて行こうとして――止める。少し早歩きをしたブラッドリーはシャーロットの隣に並び、さりげなく腕を差しだした。

 ちらりと横目で腕を見たシャーロットは腕に手をのせ、少しだけブラッドリーに身を寄せる。先程まで散々腕を引っ張り回されていたというのに、ブラッドリーには不思議と緊張が走った。ブラッドリーの太い尻尾がアイロンにでもかけられたかのように、びびっと真っ直ぐ伸びる。

 ドアの前に立つと、自動的に内へ向かって開かれた。どうやらドアの近くに人が待機していたらしい。


「――いらっしゃいませ、シャーロット・アントシアム様。お久しぶりです、お待ちしておりました」


 頭を下げて出迎えたのは二股に枝分かれした角を持つ、老年の女性給仕だった。黒いスーツ、白いシャツ、そして胸元を彩るオレンジ色のタイ。顔を上げた彼女の黒い目は濁りもなく、しゃんと立つ姿は衰えを感じさせない。燃えるような褐色の面影を残す長い髪をきっちりと束ねていた。


「ありがとう、レイエダ・プロング。変わりなさそうで安心した」

「ええ、わたくしはいつでも変わりませんよ。そちらのお連れ様は……?」


 視線が向いて、ブラッドリーはより背筋を伸ばす。


「初めまして。ブラッドリー・ルピナスです。ええと、シャル、いや、シャーロットは俺の雇用主で……」

「雇用主?」

「……今はアントシアム家を離れ、探偵をしている。ブラッドリーは私の助手だ」

「まあ。遅ればせながら、おめでとうございます。シャーロット様、ブラッドリー様」


 えくぼを作って微笑む表情に、『変わりない』と語る彼女の言葉が本当のことのように聞こえた。


「――それではご予約のお席を確認してまいります。お呼びするまで、こちらのお席でおくつろぎください」


 会話を切り上げると、レイエダは踵を返してレストランの奥へと入っていった。こちらからは見えないが、おそらく奥には客席があるのだろう。

 ブラッドリーは息をつくと、改めて辺りを見回した。

 黒と白の格子柄の床に合わせ、大理石の石壁は黒と白で統一されていた。壁紙部分や天井は薄いモスグリーン。金と繊細なガラス細工で装飾された照明が辺りを照らしている。外観は重々しく厳つい印象があったが、内装は光り輝く白を基調にしているからか柔らかで荘厳な空間を作り上げていた。

 ドアから少し離れた広い空間に、猫足のテーブルと揃いの椅子、柔らかそうなソファが置いてある。一帯はレストランの待合室らしく、着飾った客たちが何組か、散らばって座っている。

 シャーロットもソファに座り、右手を開いては閉じ、開いては閉じ、調子を確かめはじめた。


「なあ、シャル。さっきの人のこと、知っているのか?」

「ああ。レイエダ・プロング。彼女はもうずぅっと前から、この『フィルマ・グリル』で給仕の職に就いている。私が初めてこの店を訪れたときから、ドアを開けて迎え入れてくれて――気難しいアントシアム家の当主に対しても根気よく応対してくれた。そして、末娘の私にも分け隔てなく接してくれたのをよく覚えている」


 右手に目を落としながらも、その横顔はどこか虚ろだ。脳裏に映る記憶を見ているのだろう――だが再生されているのは、けしていい思い出ではなさそうだった。眉間の皺が見るからに険しい渓谷を作っている。ブラッドリーはソファと対面するように置かれた椅子に座り、同じように項垂れた。


「……そういうわけだ。私の古い知り合いに惨憺たる有様を見せてくれるなよ」

「おん……でも、俺マナーとか自信ないなあ。なんか……格式高そうなところだし、ここ」


 ブラッドリーは頬をかきながら小声で呟いた。

 以前、貴族が開いた古城でのパーティーに参加したときは食事のマナー以上に憂慮すべき事柄が多かったことや、そもそも食事は立食形式だったこともあって、さほど緊張はしなかった。城内では他にも食事をする場面はあったが、やはりマナーを気にする余裕はなかった。

 だが、今回連れてこられたのは見るからに品格の漂うレストランだ。無意識にやった行為が周囲の不評を買い、知らないところでシャーロットの品格をも落としてしまう可能性がある。

 ……そもそも、何故予約をしてまでこの店に来たのだろうか。

 昼食だけならば近所のレストランでも事足りたはずだ。

 今朝起床するなり、『昼は出かけるぞ。身なりを整え、シャツにアイロンをかけろ、私のドレススーツを出せ』と一声。なにがなんだかわからないうちに部屋を飛び出し、路面電車に乗り、古くゆかしい商店街を闊歩してきた。

 シャーロットと生活を共にして一か月ほど。彼女のことは未だによくわからないが、ひどく面倒くさがりだということはブラッドリーにもわかってきた。そんな彼女が、自らの意志でレストランを予約し、戦闘衣装よろしく着飾り、人の合間を縫ってやってきたということが、どんなに『異様』なことなのか。

 なにかあるに違いない。だが、それは直接尋ねてもよいことなのか。

 ブラッドリーの表情から察するものがあったのか、シャーロットは微かに笑った。


「こういうことは実戦が一番だからな、経験を積んで覚えるといい。失敗しても一時の恥だ。この先ずっと恥をかき続けるよりいいだろう」

「うう……」


 不機嫌な低い唸り声で返事をする。

 すると、同調するような荒々しい声が響いた。


「おい! いつまで待たせる気だ!」


 ブラッドリーは耳から尾まで電流を流されたかのように、毛をびくっと立たせ、反射的に声の方を向いた。シャーロットも唐突な恫喝に驚いたのか、咄嗟にソファの上で身を縮めて尻尾を丸めた。

 声をあげたのは小柄な老人だった。素材のいい上下のスーツに、よく手入れがされた革靴、皺のないシャツと、知識の乏しいブラッドリーでも一目見てわかるほど身なりがいい。独特な形をした、長く尖った煙色の猫耳にも汚れひとつなく、斑点模様が入った尻尾には滑らかな光沢すらうかがえる。


「お客様、いかがいたしましたか?」


 慌てて、店の奥から丸みを帯びた猫耳の給仕がやってきた。給仕が足を止めるか止めないかといったところで、老人はさらに強い口調で怒鳴りつける。


「こっちは予約をしているんだぞ、どうして待たなければいけないんだ。席の用意ができていないのか! どうなんだ!」

「いえ……! も、申し訳ありません。すぐにお呼びいたしますので……!」

「お前では話にならん! アドニスを呼べ。ここの給仕のアドニス・エフェメラルだ!」

「は、はい!」


 給仕が奥へと消えると、入れ替わるようにして別の給仕がやってきた。まだ若い男で、短くも柔らかそうな頭髪からは老人と同じ形の耳がにょっきりと伸びていた。

 彼がアドニス・エフェメラルだったらしい。


「どうしたました、伯父さん。すぐに案内しますよ。まずは落ち着いて」

「すぐ? すぐだと? お前の言う『すぐ』というのは世間一般の『すぐ』とは意味がだいぶ違うようだな。『すぐ』というのは『ただちに』という意味だ。一体どれだけ待たされていると思っている!」

「それは……厨房で料理をお出しするタイミングとお客様のお食事のスピードにも左右されますので……ちなみに、どれだけお待ちになったんですか?」

「五分……いや、十分は待たされているぞ。予約まで取らせておいて待たせるとは予約の意味がない! どういうつもりだ」


 直後、近くのソファに座っていた客同士の密かな呟きが、ブラッドリーの耳を掠める。


「三分よ。私たちより後に来たんだから」


 ……ブラッドリーは聞かなかったことにして、近くのソファにも老人にも目を向けないように視線を彷徨わせた。やっとのことでシャーロットの足元と格子状の床に焦点を合わせ、息をつくと、また声があがった。


「お前が来いというから来てやったのに!」

「申し訳ありません。ここにいらっしゃるお客様全員、すぐにご案内させていただきます。まずは、伯父さんたちから……」


 アドニスの声は段々と小さくなっていく。他の客を差し置いて自分の身内びいきをしようと言うのだから、当然といえば当然だ。だが、皆、自分の順番よりもこの老人が早く立ち去ってくれることを望んでいるのか、異を唱える者も目を向ける者もいなかった。


「ふんっ! 案内できるのならさっさとしろ。お前は子供の頃からそうだった。グズグズしていて、頭の回転が遅い。だからこんな、客にへこへこ頭を下げるような仕事にしかつけんのだ――おい! お前も早く来い! まったく、大体、お前が中途半端な時間に予約を入れたせいでこうなったんだ……!」


 ふいに、足音もなく老人の元に駆け寄る者がいた。老人と同じか、それ以上に老け込んだ婦人だ。一体いつの間に移動したのか、それとも最初から老人の傍に立っていたのか――やけに影が薄かった。

 彼女は無言で老人の隣に並び、足並みを揃えて案内されていった。

 三人の姿が見えなくなった途端、待合室にはようやく空気が流れ出したような安堵感に包まれた。次の瞬間、客たちはひそひそと小声で話をはじめる。話題はもっぱら先程の老人について。黙ってはいても、鬱屈に思っていたことはたくさんあるようだ。


「……あの二人、夫婦なのかな」


 ブラッドリーも視線をシャーロットへと移して、話を切り出す。


「ああ。そうだろうな」

「なんか――両極端な感じだったね。あんな夫婦もいるんだ」

「……」


 シャーロットは返事をしなかった。

 やがて、順々に待合室の客たちは案内され、シャーロットとブラッドリーの番が回ってきた。

 やってきたレイエダは姿勢よく真っ直ぐ二人の前に立つと、小さく会釈をして告げた。


「ご案内いたします」


 レイエダはしなやかに体の向きを変え、白い円柱と黒い壁に遮られていたレストランの奥へと先導していく。シャーロット、そしてブラッドリーと続いた。


「お、わぁ……」


 ブラッドリーは感嘆の声を漏らす。

 レストランのメインホールへと足を踏み入れた途端、別世界へとやってきたような心地になった。外の明るさを忘れるほどの暗闇。だが、まったくの真っ暗闇ではない。

 天井のシャンデリアや、そこかしこに置かれた傘のついたランプ、いくつも枝分かれした燭台、名前もわからない間接照明の数々が温かな光を灯し、夜を演出している。テーブルやイス、ソファに沈んだ色を採用しているのは、目に映るものに余計な光を与えないように工夫をしているのだろう。そのためか、店内は静寂に満ちていた。時折、密かな人の話し声と微かな食器音を耳が拾うが、通い慣れたレストランと比べても音の大きさは明らかに異なっている。

 ブラッドリーも足音を立てないように、そっと足を運ぶ。前を歩くシャーロットは慣れているのか、構わずカツカツと踵を鳴らしていた。ただ、やはり緊張しているのか、普段はしなやかな尻尾にも力が入っている。


「こちらのお席です」


 案内されたのはアルコーヴの中に設置されたテーブル席だった。美しい金の皿に赤いナプキンが置かれ、銀製のカトラリーが並んでいる。クロスには皺ひとつ、歪みひとつない。既にテーブルセッティングは済ませてあった。

 艶のある漆黒の椅子が引かれ、まずシャーロットが席に着く。ブラッドリーは自分で席に座ろうと椅子を引いたところで、レイエダがそっと手を貸してくれた。


「わたくしめにもお手伝いさせてくださいませ」

「あ、ありがとうございます」


 腰を下ろすタイミングで、テーブルとの距離がちょうどいいところまで椅子を押してもらう。

 二人が席につくと、黒革の表紙のメニューがそれぞれの前に置かれた。


「――改めまして、『フィルマ・グリル』へようこそ。ランチはメインを選んでいただくコース形式になっております。本日の魚料理はサフィロ・ソール、肉料理はラムかグース。肉料理は量が多いので、同じものを注文して分けることをおすすめいたします」

「そうか。どちらも魅力的だが、おすすめは?」

「そうですね、サフィロ・ソールは今年初めての仕入れものですので、季節を感じられる味わいに仕上がっております。肉料理は元のレシピが大皿盛りのものなので食べ応えがあるかと。シャーロット様の好みでしたら、サフィロ・ソールの方でしょうか」

「では、それを。ブラッドリー、あんたは肉料理にしておくか? あんたなら量が多くとも一人で食べきれるだろう。鳥肉と羊肉、どちらが好みだ」

「えっ、あ……羊……」

「では、彼にはラムを」

「ラムですね。かしこまりました。お飲み物にご希望はありますか」

「飲み物は紅茶のラワーレを。ポットで頼む」


 ちらりとシャーロットがブラッドリーを一瞥する。

 知らない単語に戸惑いながらも、顔に出さないように努めていたブラッドリーは途端にはっとしたように、「お、俺も同じものを」と注文に付け加えた。


「承りました。それでは少々お待ちください」


 レイエダは一歩身を引いてお辞儀をすると、厨房へと去っていった。

 彼女の姿が見えなくなったところで、シャーロットは皿の上のナプキンを広げ、二つに折って膝にかけた。ブラッドリーも慌てて真似をする。

 食事の準備を整えたところで、そっと前のめりになり、小声でシャーロットに話しかける。


「なあ、シャル。さふぃろ、そーる? ってどんな魚なんだ」

「サフィロ・ソールというのは、近隣の海峡で獲れるヒラメの呼び名だ。ヒラメの中でも別格のいわゆる高級魚だな」

「じゃあ、ぐーす、っていうのは」

「ガチョウ。普段食べているニワトリ肉と味に大差はないが柔らかい肉質をしているな。皮は少し脂っこい」

「ほー……」


 わかったような、わからないような、なんとも言えない顔をしてブラッドリーは椅子にもたれた。正体がわかったところで食べてみなければ自分の口に合うかは判断できない。

 BGMなのか、静かなピアノの曲が流れはじめた。

 落ち着いた雰囲気の中、手持無沙汰になって尻尾をもぞもぞと動かす。尻尾の位置を正したブラッドリーは目の前のシャーロットを見やった。

 普段の気怠い雰囲気を纏ったまま――とある座席をじっと見つめている。

 どこを見ているのか気になって、体を動かして視線を辿った。厨房にほど近い、隅のテーブル席。座っていたのは先程、従業員に怒鳴りつけていたあの老人と老婦人だった。


「あの人たち、結構近いところに座ってるんだね」

「あまりじろじろ見るな」


 シャーロットはブラッドリーの頭を軽く小突き、元の位置まで押し戻す。


「……目を合わせると、難癖つけて突っかかってくる可能性がある。あまり視界に入れない方がいい」

「じゃあ、なんでシャルは見てたんだ?」


 痛いところを突かれたとばかりに、シャーロットは小さな唇をきゅうっ、と引き結んだ。愛らしいピンク色がより強調され、ブラッドリーは動揺する。


「……すまん」

「何故謝る」

「聞かれたくないことを言ったから……?」

「そんなことはない」


 シャーロットは溜息をついて続ける。


「ただ、昔はよくあの席に案内されていたなと……思っただけだ」

「それじゃあ、思い出の席なんだ」

「……ああ。そういうことになるな」


 目を伏せたシャーロットに、ブラッドリーは再び尻尾を垂らす。また、シャーロットの中にある、けして明るくはない思い出を暴いてしまったような気がしてならなかった。

 重い沈黙がテーブルにのしかかり、ブラッドリーの耳がいよいよぺちゃんこに垂れるかというところで――


「お待たせいたしました。前菜です」


 何種類かの品が少量盛り付けられた、金縁の皿が運ばれてきた。


「左からメロンピクルス、ニンジンとクルミのヂシャサラダ、テリーヌ。黒いパンと白いパンの二種類でございます」


 レイエダは小さく一礼をして立ち去ろうとした。が、ちょうど、別の給仕がスープの皿を運んでいるところで、少しその場で待っていた。給仕には見覚えがある――件の老人の知り合いらしき青年――アドニスだ。彼が通過してから、レイエダはテーブルを離れた。

 アドニスの持つスープ皿は、真っ直ぐ隅のテーブル席へと運ばれていく。

 ブラッドリーはシャーロットに言われたことを思い出し、それ以上目で追うのをやめる。

 まずは目の前の皿を堪能しなければもったいない。


「……」


 左右に分かれて置かれたカトラリーを前にして、手を小さく上げたまま固まる。


「これは……ナイフとフォークで食べるのか」

「パンは手で千切って食べても問題ない。ナイフとフォークは外側から使え」

「た、食べる順番は?」

「好きなものから食べろ」


 シャーロットは機械のようにさっさと前菜を片付けていく。あっという間に大皿の上から品が消え、パンを千切って残ったソースを拭っていた。

 対してブラッドリーは少しずつ味を確かめるように、ゆっくり咀嚼していた。メロンの甘味に口元を緩ませていると、唐突に声があがった。

 あの老人だった。

 老人の喉から痙攣したような音がひっきりなしに響く。顔を真っ赤にして、嘔吐をする素振をみせながら椅子から転げ落ち、のたうち回る。口元からは泡に混ざって茶色いものが溢れていた。苦悶に満ちた唸り声は静かな店内中に異変を知らせ、一気に注目が集まる。

 苦しみに顔を歪めながらも自身の荷物を漁り、なにかを掴んだ。だが、なにかできたのはそこまでだった。

 体全体を使って短い呼吸を何度か繰り返し――やがて大きく身を硬直させたかと思うと――目を見開いたまま動かなくなった。

 緊張の糸を切ったのは、相対していた老婦人が震えながら発した一言だった。


「死んで、るの……?」


 遅れてアドニスが老人の傍に駆け寄る。事切れた顔を見て小さく悲鳴をあげた。


「死んでる……! 伯父さん、どうしてっ……」


 様子を覗っていた周囲の客たちはざわめいて、口々に話しだす。


「なんだ?」「人が倒れたらしい」「スープを飲んで、泡を吹いたそうだぞ」「スープを!?」


 口伝えの情報伝達は瞬く間に広がり、尾ひれがついていく。ざわめきが波のように押し寄せ、次第に大きくなっていった。


「スープに毒が入ってるぞ! みんな、食べるんじゃない!」


 そんな声が飛び出ると、一気に集団パニックは加速した。 スープをテーブルの上から皿ごと払い落とす者、メインのラム肉を怪訝そうに見つめる者、近くにいた給仕に掴みかかり、責任追及する者……。数分前の厳かな空間は取り返しがつかないほどに激しく高揚した。


「どうするつもりだ!」「うわっ、食べちゃったよ……」「早く出よう」「おえ……」「お水は大丈夫なの?」「トイレ、トイレはどこだ!」「おい、君。どう責任をとってくれるのかね」


 立ち上がり、レストランの外に出ようとする者が現れると――甲高くも貫禄のある声が場を制した。


「ご静粛に!」


 レイエダだった。

 背筋が伸び、立ち姿は年齢を感じさせないどころか、しなやかに上へと伸びる角が、どこか彼女を大きくみせている。


「わたくし、支配人のレイエダ・プロングと申します。ただいま急病人が発生いたしました。どなたか、お医者様はいらっしゃいませんか」


 場は一瞬、静まった。誰もなにも言わなかった。

 一部の客はなにかを言いたげに口を開きかけたが、レイエダが辺りを見回すように首を動かすと、言葉を飲み込んだようだった。少なくとも、医療関係者ではなかったのだろう。


「いらっしゃらないようですので、この場に警察とお医者様をお呼びいたします。それまで申し訳ありませんが、皆様にはこの場で待機していただきますので、ご了承くださいませ」


 再び、困惑と焦燥に満ちた話し声がそこかしこで沸き立つ。「毒入りスープなんか出しておいて、何様のつもりだババア」――などという誹りがブラッドリーの耳にも届いた。ブラッドリーがシャーロットへと視線を向けた瞬間、シャーロットはすくりと立ち上がり、呟いた。


「これは殺人事件だ」

「……シャル?」


 まっすぐ倒れた老人の元へ向かう。遺体をちらりと一瞥した後、茫然としている老婦人と付き添っているアドニスの前に跪いて、まずは話しかけた。


「まずはお悔やみを。そして、名前を伺いたい。あなたのお名前と――倒れた彼の名前を」

「わ、わたし……」


 わなわなと震える唇で言葉を紡ごうとしているが、上手く動かない。見かねたのかアドニスが代わりに答えた。


「彼女はマイラ・エフェメラル。亡くなったのはニコラン・エフェメラル。彼女にとっては夫で、僕にとっては伯父にあたります。ところで、あなたは……?」

「私はシャーロット・アントシアム。探偵業を営んでいる者だ。すまないが、警察が来るまで少し調べさせてもらっても構わないだろうか」


 マイラの方を向くと、怯えながらも小さく頷いてみせた。許可を得るや否や、シャーロットは勢いよく立ち上がり、金色の尻尾を大きく振った。


「ブラッドリー、来い。手伝え。手袋を忘れずにな」

「お、おん。なにをすればいい」

「彼が使っていたスプーンを探せ」

「スプーン?」


 ブラッドリーは手袋を付けながらテーブルの上を覗き込んだ。

 前菜は既に食べ終えたのか、金縁の平皿はなくなっており、代わりに同じデザインのスープ皿が置かれていた。マッシュルームと玉ねぎがメインで、いかにも濃厚そうな、どろりとしたスープ。ブラッドリーは悲しげに眉を曲げ、食べられないことを心から悔やんだ。

 マイラの使っていたスープ皿には、手を付ける直前だったのか、スプーンは定位置に置かれたままだった。一方のニコランのスープ皿には、スプーンが皿の中にきちんと置かれている。ブラッドリーはスープの中からスプーンを引き抜き、スープを落ちていたナプキンで拭おうとした。


「待て」

「え?」


 手早く手袋を付けたシャーロットはブラッドリーの手からスプーンを取り上げると、水の入ったグラスの中に突っ込んだ。ゆっくりとスプーンを揺らしてやると、スプーンの表面に付いていたスープが剥がれていき、そして……。


「うわっ! なんだこれ!? スプーンの表面が黒く汚れてる……!」

「毒に反応して変色したんだろう。古来から権力者が毒殺対策に銀食器を使用していたのはこの反応のためだ。正確には毒に反応するのではなく、毒物に含まれる硫化水素、ないしは硫黄に反応するんだがな。この黒ずむ反応のおかげで、すぐに毒の混入に気付けるというわけだ」

「じゃあ……やっぱり、スープに毒が……? 怪しいのは調理した人か運んだ人――」

「いや、それは難しいだろうな」

「……?」


 急に声を張り上げたシャーロットに、首を傾げるブラッドリー。

 シャーロットはさりげなくマイラとアドニスの方へと顎を向けた。二人は不安そうな顔でスプーンとシャーロットたちの動向を見つめている。自分の言ったことを思い返し、ばつが悪くなって、ブラッドリーは目を伏せた。


「スープは二皿運ばれていた。もし調理した人間が、ニコランに毒入りスープを飲ませようと思っていたのなら不確実だ。スープすべてに毒を入れていたのなら話は別だが、まあ、ありえないだろう」

「そうだな。もうスープを飲み終えてる人たちだっていたわけだし」

「あ、あの――」


 シャーロットとブラッドリーの会話を聞いていたらしく、ふいにマイラが割って入る。

 アドニスに支えられながら、血の気の引いた皺だらけ口元を奮わせて主張した。


「わ、私は……ちゅ、厨房に対面する形で、座っていました……アドニスは、なにもしていません……! 本当です……!」

「伯母さん、俺は大丈夫だから……」


 アドニスの方は首を横に振っていたが、マイラはそれを許さなかった。息を荒くしながらも、仇敵と相対しているような眼力でシャーロットをねめつけている。加えて小さな威嚇音も聞こえてきた。横柄な態度をとる夫の後ろで、存在を消すようにして付き従っていた彼女の姿からはかけ離れた行動だった。

 そんな彼女の威圧に屈することなく、シャーロットはあっさりと頷いてみせる。


「わかっている。スープを運ぶ際に、こっそりと毒を仕込む可能性も考えていたが……動線が短すぎる上に、この席は厨房からよく見える。厨房からよく見えるということは……」

「この席からも厨房の様子がよく見えるってことか。それなら、細工をしようとしたら見られるかもしれない。じゃあ、誰がどうやってスープに毒を入れたんだ?」

「ふむ……急性症状の嘔吐、下痢、腹痛……」


 シャーロットはニコランの遺体の前にしゃがみこんだ。ブラッドリーもそれに倣って、隣で腰を落とし、シャーロットの手元を見つめた。ニコランの手の中で硬く握り締められた薬袋を、なんとかして引っ張り出そうとしているが上手くいかない。


「ほら、シャル。貸してみろ」


 ブラッドリーが横から手を出し、ニコランの指をそっと解してやる。渾身の力で握られていた薬袋は皺だらけになっていたが、なんとか破けることなくニコランの手から引き剥がすことができた。


「この薬袋、今日の日付が入ってる。どうやらここに来る前に医者で貰ってきた薬みたいだな」

「ブラッドリー。中身の薬について、なにかわかるか」

「見てみよう――中身は……鎮痛薬、下痢止め、胃薬……辺りが中心だ。俺が知らない薬もあるから断定はできないが、大病を患っているわけではなさそうだな」


 中身を探ってみると、何種類もの薬が何日分かまとめて出されているようだった。中には今日の分として既に服用しているのか、既に空の薬包紙や開封済みの薬瓶も出てきた。


「多分、ニコランさんは腹痛をなんとかしようと思って、薬に手を伸ばしたんだろう。鎮痛薬の中には副作用で腹痛が起こる場合があるから……」

「ふざけるんじゃねぇ!」


 ブラッドリーの解説は唐突に遮られた。

 客の一人がレイエダに突っかかり、彼女に向かってスープを食器ごと放り投げたのだ。時間が経って温度は下がっているとはいえ、スープをかけられたレイエダは一瞬たじろいだ。

 客は客たちの総意とばかりに声高に叫ぶ。


「客に命令するなんてなんのつもりだ! どう考えてもお前たちの責任だろうが! あ!?」

「お静かに願えますか」

「なにが静かにだ! お前の方こそ黙ってろよ! いいか、俺たちは早く店から出せって言ってるだけで――」

「お静かに」


 後退ったのは一瞬だけ。

 レイエダは髪や肌にスープを滴らせながら、客の目をじっと見つめていた。そして、冷静になるよう言葉を繰り返し続ける。どこか狂気じみた圧を感じ取ったのか、客は動揺で言葉を詰まらせる。


「な……」

「……お静かに」

「…………」


 そして、ようやく――店内中の目が自分自身に向けられていることに気が付いたようだった。それはけして歓迎されるようなものではなく、どこまでも冷ややかで、排他的なものだ。先程までレストランの従業員たちに向けられていた視線が、残らずその客にひとりに注がれている。


「お静かに。もうすぐ、警察が到着するとのことです」

「……あ、ああ……」


 文字通り、尻尾を丸めた客は、自分が座っていた席に力なく腰を下ろした。

 事態が収拾したと判断するや否や、ブラッドリーはすぐさまレイエダに駆け寄る。


「レイエダさん、大丈夫ですか!? 火傷はしていませんか? 皮膚に違和感は? 目には入りませんでしたか?」

「ええ……」


 火傷の痕跡や毒による異常がないことを確かめたブラッドリーはほっと息をつくと、手近にあった使用前の赤いナプキンと自分のハンカチを手渡した。


「これを使ってください。すぐに助けに動けていたらよかったんですが……すみません」

「いえ。お気遣いありがとうございます、ブラッドリー様。問題ありません」


 遅れて、他の給仕たちもレイエダの周りに冷やすものや拭うものを持って集まってくる。ブラッドリーが離れようとすると、レイエダは続けて話しかけてきた。


「……ブラッドリー様は、医学の心得がおありなのですね」

「おん? ああ……父が医師だったもので、その影響で多少の知識があるだけです。心得というほどでは……だから、さっきレイエダさんに呼びかけられたときも挙手できなくて」

「……いいお父上様だったのですね」


 ブラッドリーがきょとんとしていると、レイエダは微かに笑った。


「よく見ていなければ親のやっていることを真似するなどできません。知識が身につくほど見ていたということは、見る側も見られる側も、なんら咎められることがなかったということですから。それだけ、お父上様が寛容だったのかと思いまして」 

「おお……そういうものでしょうか」


 ブラッドリーは記憶の中の父親の姿を思い返した。既に見た目の詳細は朧げで、声は遠く、覚えているといっても掻い摘んだ部分ばかりだ。しかし――言われてみれば、じっと手元を見ていても、疎まれることも理由をつけて止められたこともほとんどなかった。なにも言われなかったが、同じく忠告や助言もなかった。なにをしても構わないがどこまでも自己責任。自分の尻ぬぐいは自分でするべきだと、態度で示していた。

 どんなに幼かろうと未熟だろうと、泣こうが喚こうが、失敗に対して一度も優しい言葉をかけてくれることはなかった。ブラッドリーはともかく、幼児期の妹は毎日のように泣いていたのをよく覚えている。その度に病床の母親やブラッドリーが妹を慰めていた。

 特に比較する相手がいなかったこともあって、親というものはおおむね、そういうものだと思っていた。

 今は……。


「今は、父親が良いとか悪いとかよくわかりませんけど、でも……少なくとも、いい家族でした」

「左様ですか」


 今度は少し寂しげに相槌を打たれた気がした。

 ふと足早にやってきた見習いの調理服を着た青年が、レイエダに素早く耳打ちをした。キッチンで誰かに呼ばれたのか、レイエダは小さく頷いた。


「それでは、ブラッドリー様。失礼いたします」

「はい。具合が悪くなったら、遠慮なく言ってください」


 レイエダがキッチンへと歩き去る。

 入れ替わるように、シャーロットが手袋を外しながら近付いてきた。三角の大きな耳が前のめりになり、ほっそりとした尻尾がぴんと立っている。凛とした表情と真一文字に結ばれた唇に反して、機嫌はいいようだ。


「……ブラッドリー、犯人はわかった」

「おお!」

「問題は、どう提示するか、だな……ふむ」


 シャーロットはなにかを探すように辺りを見回し、目的のものに目を止めた。

 中身が入ったスープ皿だ。

 提供される前のものだったのか、銀盆にのったまま、手を付けられていないものがテーブルに置いてある。騒ぎに巻き込まれ、運ばれる前に給仕がひとまずその場に置いたのだろう。テーブルセッティングは済んでいたが、人が座っていた形跡はない。

 ブラッドリーがシャーロットの視線に気付いたときには、シャーロットはテーブルに歩み寄っていた。どうするのかとブラッドリーも遅れて付いていくと、席に座ったシャーロットはナプキンを膝の上に広げ――


「では、いただこう」

「え?」


 スプーンを持ち、ひとすくい。

 そのまま優雅に口へ運ばれた。


「おおん! ちょっ、おい、シャル!?」


 慌てるブラッドリーに構わず、シャーロットはスープを食べ続けた。

 小さな桜桃色の唇が薄くスープの色に染まる。舌で舐め取ろうとしたのは本能だろう。だが、すぐに思い直してナプキンを取り、口元の汚れを拭う。

 そしてまた、スープをすくった。既に残りは少ない。


「シャル、もうよせ。毒が入ってたらどうするんだ……」

「毒など入っていない」


 シャーロットはスープを食べ終えると、鋭い視線を他のテーブルへと向けた。小声で囁き合いながらこちらの様子を観察していた客たちが、一斉に目を背ける。

 シャーロットは目線を逸らすことなく、ナプキンをテーブルの右側に置いて立ち上がった。


「スープに毒は入っていない。むしろ、これほどの腕前をもつ人間を貶めることなどあってはならないことだ」


 スープを非難していた客たちに宣言をするように、シャーロットは声を張った。


「た、確かに、みんなのスープには入ってなかったのかもしれないが……でも、ニコランさんのスープに毒が入っていたのは間違いないだろう? さっき、黒く変色したスプーンについて、俺に説明してくれたじゃないか」


 ブラッドリーの言葉を聞いて、客の中では小さなざわめきが広がる。銀のカトラリーに反応する毒物の話はブラッドリーが思っていた以上に共通認識として浸透しているようだ。ブラッドリーは己の耳をぴくぴく動かしながら、シャーロットの返事を待った。


「黒く腐食したスプーンか。確かに銀食器を黒くする毒は存在する。おそらく今回使用されたのも、その毒だろう。だが……本当にスープは毒入りだったのかは定かではない」

「お、おお? つまり……?」

「腐食したスプーンがスープの中に突っ込まれていたからといって、そのスープが毒入りであるとは限らない」

「おおん、なら……どうやって、ニコランさんに毒を……」

「そこで問題になってくるのが薬袋だ」


 シャーロットはニコランが握っていた薬袋を持ち上げた。


「……どうして薬袋を握っていたんだと思う」

「それは、さっきも言ったけど、苦しさから逃れたくて、その中の薬を飲もうとして……」

「なら、どうして薬袋を握り締めたりした? 中身が欲しいなら、開けようとして破くなり、ひっくり返したりするだろう。必死なら尚更だ」

「あ……」


 ブラッドリーの目の前で、薬袋が逆さに返される。何種類もの薬包紙や薬瓶が転がり落ち、そして最後に――使用された薬包紙がはらりと舞った。


「毒はこちらにあったんだ。つまり、ニコランはダイイングメッセージとして薬袋を掴んでいたということになる」

「おん、じゃあ……犯人は……」

「ここにはいない、医師。そして――協力者はあんただな、アドニス。医師ならば診察ついでに毒を飲ませることが可能だし、給仕は症状が出るタイミングで、あらかじめ反応させておいた銀食器とすり替えることができた。前々から打ち合わせておいたんだろう? 席へ案内する前に少し待たせたのもそのためだ――飲み食いする前に毒が効力を発揮してしまっては意味がないからな。毒はカプセル式の薬の中に入れたのか? あれなら毒の効く時間を多少遅延させることができるからな……」


 びくん! と傍から見ていてもわかるほど大きく、アドニスの体が跳ねた。毛が逆立っているのか尻尾も耳も先程より大きくなったようだ。緊張で張り詰めた尻尾も、まるで剣のように鋭く立ち上がっている。どこか儚げな眼は丸く大きくなっていき、どこまでも大きく見開かれていく。怯えとも焦燥ともいえない狼狽が、一瞬だけ揺らめいたがすぐに消えてしまった。

 そうやってシャーロットを見つめていたが、唐突にアドニスは駆けだした。


「あっ、ちょっと……!」


 繊細な見た目に反して、動きは俊敏だった。

 人の動きを読み、無駄なくしなやかに避けながら出口へと一直線に走っている。草原の肉食獣を思わせるスピードは次第に上がっていき、尻尾もテンションの高揚をみせていた。逃走に気付いた者が止めようと手を伸ばし、駆け出すも、まるで追いついていない。まさしく、夜のレストランを駆ける夜行性の肉食獣だ。

 ドアの取っ手に手をかける、その刹那で――


「待て!」


 アドニスの背後から手を伸ばし、追いついたブラッドリーが羽交い絞めにする。アドニスは抵抗し、威嚇と興奮の唸り声が乱れ、周囲はにわかに騒然となった。獣の本能じみた争いを、他に止めようとする者がいなかったわけではない。だが決着は思ったよりも早くついた。ブラッドリーが、うるる、ぐぅるるる……と喉を鳴らすと、硬直した様に動けなくなってしまうのだ。

 アドニスもまた、噛み付かれるのではと怯んだことで、ブラッドリーの腕の中で大人しく身を縮めてしまった。


「あ、ううう……うるる、うう……」

「ブラッドリー、お前の方こそ『待て』だ。皆、怯えている。落ち着け」


 遅れて闊歩してきたシャーロットがブラッドリーの肩を叩き、制する。我に返ったブラッドリーは途端に照れ臭そうに力を緩めた。アドニスへの拘束を解いても、彼はもう逃げる素振りは見せなかった。

 ドアの向こうでは、パトカーのサイレンが近付いてきている……。




 やってきた警察官に、シャーロットは同じ説明をした。シャーロットの推測を裏付けるためにおこなった現場検証の結果、スプーンに付着していた毒は微量、肝心のスープからは毒物が検出されなかった。シャーロットの推理は事実として認められたのだ。


「そうです。俺がやりました」


 アドニスも警察にこれらを突きつけられると、あっさりとすべてを認めた。先程の逃走劇はなんだったのかと、ブラッドリーは面食らった顔で、隣のシャーロットを見やった。

 シャーロットの表情は読めなかった。

 ただ静かに、それでいながら覚悟を決めたような、不思議なしかめ面をしている。なにを考えているのか、ブラッドリーには見当もつかない。

 客たちが、後日おこなわれる事情聴取のために連絡先を控えて帰されていく。最後の一人がレストランから出て行ったのを見計らい、シャーロットは踵を鳴らして歩きだした。警察官たちはまだ、現場検証や警察署との連絡、レストランの人間たちから話を聞くのに忙しく、シャーロットの行動に気付いてすらいない。

 シャーロットは残っていた関係者――マイラの元で立ち止まる。

 そこでシャーロットは言葉を詰まらせていた。言うべきか言わざるべきか。言うべきだとわかっていても、どのように伝えるべきなのか。すべての工程において、迷いが生じているようだった。尻尾がくねり、くねりと揺れて、項垂れる。シャーロットの心情をわかりやすく表しているのが見てとれた。

 なにもわからないブラッドリーは少し離れて、その様子を見守る他になかった。ただ、なにかあればすぐに駆け付けようと、体を前のめり気味にしてシャーロットへ向けていた。


「……あなたは、随分と優しいのね。シャーロット」

「う……」


 シャーロットのかわりに、マイラが声をかける。

 怯えて震えていた老女とは思えないほど、彼女はひどく穏やかな笑みを湛えていた。シャーロットの倍以上生きた人間の笑い皺は、まるで久方ぶりに使っているようなぎこちなさがあった。笑っているはずなのに、どこか悲哀に満ちた目をしているのは気のせいだろうか。

 相対していないブラッドリーですら、何故だか胸が締めつけられた。


「わかっているのね、なにもかも」

「…………」


 こくりと頷くシャーロット。


「そう」


 静かに呟くと、マイラはシャーロットの手をとった。優しい手。手と手を合わせただけの、繋がるというにはひどく不安定な行為。だが、気を落ち着かせるにはそれだけで十分だった。

 ……ようやっと、シャーロットも口を開く。


「ニコランに毒を飲ませたのは、あなただ。マイラ」


 マイラは表情を変えることなく、尻尾も耳も無反応なまま、シャーロットを見つめ続けた。


「ニコランは医師の処方した毒で死んだんじゃない。あなたが処方薬だと言って飲ませたんだ。おそらく――これは私の一方的な思い込みだが――他人を疎ましく思い、誰に対しても攻撃的な、あのニコランがあなたを連れ立っていたのは、あなたになにもかもを任せていたからじゃないのか。レストランの予約も、医師の手配も……薬の管理も。だがそれは信頼からではない、ただ、便利だからだ。それを自覚していたあなたは、それを遠慮なく利用した。彼は疑うこともなく、罵倒はあったかもしれないが、それでもあっさりと飲み下したことだろうな」


 マイラの手の中で、シャーロットは居心地悪げに指を動かす。右手の動きがやや鈍いのは、義肢なのをシャーロットが気にしているからだが、マイラの方はむしろ右手の方を指の腹で撫でながらシャーロットの話を聞いている。


「ニコランの身内への態度を愛ある依存と呼ぶ人間もいるだろう、信頼しているからこそ、なにもかも委ねていると。甘えているからこそ、なにを言ってもなにをしても許されたいのだと。だが、相手を自分にとって都合のいい、思考する道具としか思っていない人間がいることを知らない人間の言葉だ。 ……見方を変えれば、それは重りの付いたただの枷だというのに」

「そうね。でも、枷が着けられたことに気付けなくて……いえ、気付いていても、外し方がわからない人もいる。あるいは、枷がもう体の一部になってしまって、もう外せなくなっている人もいる。あなたなら、わかると思うけれど」

「……そうかもしれない」


 シャーロットは息をついて、マイラの手の上に左手を重ねた。マイラの手は指先が冷え、微かに震えている。


「ありがとう。あなたの方から言ってくれて。このままでは甥にすべての罪を負い被せるところだったから。あの子も、そうしようとしていたみたいだったから。駄目ね、私……この年齢になっても、罪の告白はいつだって怖いの」


 少女のように泣きそうな声で呟くマイラの手を、さらに優しく撫でる。

 彼女の手はしばらく震えていたが、シャーロットは無言で手を握り続けていた。長い、祈りのような時間は、警察官が事態に気付いた頃に終わりを告げた。

 他人からはけして見えない枷から解放され、かわりに本物の枷を付けられた老婦人はどこか晴れやかな顔をしていた。


「シャル」


 事件のあった席の近くに座るシャーロットに、ブラッドリーは恐々と話しかける。厨房の方を向いて思索にふけっていた彼女はやはりぼんやりと、虚ろな様子でブラッドリーの方を向いた。


「思い出の席で、事件が起こって残念だったな」

「そう思うか」

「……なにか、別に思うことがあったりするのか?」


 シャーロットは瞼を重たげに伏せた。

 テーブルの上で頬杖をつき体を傾ける。こんなレストランではマナー違反だと言われてしまいそうな大胆な体勢で、溜息を零した。


「どうして、あの夫婦がこの席に案内されたんだと思う」

「え……それは、この席だとアドニスさんが犯人じゃないって証明するのに都合がよかったから……? あ、もしかしたら甥が働く姿を見せてあげようっていう店側の配慮……だったり? まさか、偶然っていうわけじゃ……」

「相変わらずの想像力だな」


 ふふっと笑うシャーロットの後ろで、尻尾が揺れる。


「この席は厨房に近く、すぐに給仕が駆け付けられる。その上、奥まった場所にあることから客の目からも比較的遠い。総合すると、なにかあったときに客の目から離し、すぐに店の人間が対応できる席ということになる。つまりだな……店にとっての要注意人物が座る席ということだ。幼い頃が気付かなかったがな」


 シャーロットの父親であるアントシアム侯爵。

 既に故人だが、名前を出すだけで未だに影響力を持つ恐るべき貴族だ。そんな人間が伝統ある『フィルマ・グリル』においては疎まれる鼻つまみ者だった――という事実にシャーロットは口を噤み、自分の中で咀嚼して飲み込んだ。それ以上のことをブラッドリーに語って聞かせるつもりはない。


「シャーロット様」


 レイエダが席までやってきた。

 隣にはコック帽を外した調理服姿の男性が立っている。レイエダと同じくらいの老齢。だというのにがっしりとした体格で、衰えが一切見られないのはそれだけ調理場というのが過酷な環境下だということなのだろうか。


「調理主任がぜひ礼を、と」

「シャーロット・アントシアム様。この度は私の作ったスープの無実を証明していただき、ありがとうございました」


 大柄な体躯を折り曲げ、深々と一礼をする。

 頭の上の厚みあるふさふさの耳が、揺れ動くことなくその場でどっしりと構えているのが印象的だ。


「いや……過去の記憶と違わない味を守り続けている人間に敬意を払ったまでだ。こんなに素晴らしい料理を作る人間が料理を台無しにするような味付けを加えるはずがない」

「そう言っていただけるとは、料理人冥利に尽きますね。もしよろしければ、また足を運んでください。腕によりをかけて敬意にお応えします」

「ああ、また」


 シャーロットが会釈をすると、彼は満足げに頷いて厨房へ戻っていった。

 レストランにはまだ夜の静けさは戻ってこない。

 喧騒は去ったが、未だに物憂げな空気が残留している。最初に入ってきたときのような世界はもう二度と訪れないような、そんな悲しみに包まれていた。

 三人は無言でその場に佇んでいた。

 ふ、と息を吐いて、レイエダが口を開く。


「――お客様の個人的な話は、たとえ不帰の方であってもすべきではないと考えております。なので、これは独り言です」


 誰かに語りかけるような、一方的なレイエダの呟きが響く。シャーロットの耳がぴるるっと震えたのをブラッドリーは見逃さなかった。


「確かに、こちらの席はレストラン側で目を光らせておきたいお客様をお迎えしたときに、ご案内する席です。もちろん混雑時などは別ですが」


 レイエダは椅子に手をかけ、ふと遠くを見るように視線を上に向ける。


「とある方は、わざわざこの席を指定なさっておりました。この席はレストラン全体を見通せるから、家族に見せてやりたいのだと。ただ一言、それだけ申して、毎回この席に座っておられました。人によっては言い訳のように聞こえてしまうかもしれませんが、少なくとも、わたくしは……とある一家をご迷惑だと感じたことは一度もございません」


 シャーロットは無表情のまま、頷いた。

 レイエダの言葉のどの部分について頷いたのかはわからなかったが……ひとつの踏ん切りがついたように、どこか晴れやかではあった。

 独り言は終わったとばかりにシャーロットへと体を向け、改めて告げた。


「シャーロット様。本日はこのようなことになってしまい、残念に思っております。また、いらしてください。わたくしがこの店を辞める前に」

「ええっ!?」


 声をあげたのはブラッドリーだった。

 虚を突かれたように何度も瞬きを繰り返し、シャーロットとレイエダを交互に見やる。レイエダはそんなブラッドリーの挙動に驚いたようだったが、やがて、小さく笑い声を漏らした。


「シャーロット様はそのことを知っていて、『フィルマ・グリル』にいらしたのでしょう?」

「無論だ」

「知ってたなら教えてくれよ……!」

「なんのためにだ。初対面だろう」

「それはそうだが……その、お勤めご苦労様です。レイエダさん」


 ブラッドリーが丁寧に頭を下げると、またくすくすとレイエダは笑った。シャーロットは呆れたように肩をすくめ、そして落ち着いた声で言った。


「……また、予約をする」

「ええ。お待ちしております」

「では帰らせてもらおう。ブラッドリー、行くぞ」


 シャーロットが立ち上がる。

 ブラッドリーは慌ててシャーロットの隣に立ち、腕をそっと差しだした。シャーロットは躊躇うことなく腕に手を絡ませ歩きだす。エスコートというにはまだどこかぎこちない二人を、レイエダは後ろから見送った。


「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 『フィルマ・グリル』のドアを開けると、夜の世界が眩しい昼下がりの世界に一変する。二人は互いに気遣いながら眩しい日向へと歩を進めていった。


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