《 2 》海の住人になった
人知を超えた状況に至ると人間は思考停止するらしい。
私は人間であるかどうか怪しい部分があるので、人間らしい反応ができたかどうかはわからないが。
それでも、私がそれなりに驚き呆けたのは事実だ。
目の前には、街が広がっていた。
違う、街を真上から見下ろしていた。
その街は青かった。
どれくらい青いかというと、まるで空気そのものが青いようだった。
いや、これも違う。
これは、水中だから青いだけだ。
事実、上を見てみると光が差し込んでいるのがわかるが、同時に魚が泳いでいたり、井戸端会議が行われていたりする。
そう、ここは海中なのだ。
目が覚めて、記憶をたどる間もなくこの美しい光景を見せられたために私は少しばかり混乱していたが、記憶を改めてみると私は死んだということを思い出した。
では、ここはどこだろう。
こういう時、ふつうは天国を思い浮かべるのだろう。感情のない私にとっては天国も地獄も大して変わらない。どちらも永遠に続くという点では地獄でしかないと思う。
それはさておき、そもそも、海中ならどうして私は窒息していないのだろう。
さっき。死ぬときは息苦しかった。
きちんと溺れていた。
文字通り死ぬほど苦しかった記憶がある。
これが嫌だから私は死なないでここまで生きてきた部分もあるのだが、死ぬときは案外呆気なかったなあと少しばかり不謹慎なことも考えてしまう。
違う。
私はまだ混乱しているようだ。
現状の理解が足りていない。
そもそも、人魚がいることからして普通ではないのだ。
再び目を凝らすと眼下の美しい光景が目に入る。
水中の建築だからか、重力に逆らっているようにも見える部分がある。でこぼこした白い岩が地面(というよりは海底)にむき出しになっていて、そこを歩いている人間、いや人魚はいない。人魚は歩くための足を持っていないからか。
各建物の入り口らしいドアは一番上についている。
確かに、建物の密度が多い海底近くよりも建物の先端近くのほうが移動が楽そうだ。
人魚は、泳ぐのだから。
そして何より、照明として使われている岩が不思議な魅力を醸し出している。
青とも紫とも言えないぼんやりとした光は、寒色系でありながら暖かさを感じる矛盾。
これが建物の内外至るところに設置してあるから、それを見下ろす視点にある私の眼にはそれはもう壮観な、例えるならば夜明け前の空のような、美しい景色がみられる。
で、ここはどこだろう。
そもそも、誰かに話しかけなければ現状の理解ができないだろう。
理解する必要はないといえばないのだが、それでは食うのに困ってしまう。
飢え死には苦しいと聞いた。そうでなくても、食欲を満たしたい。その欲求だけは抗えない。
近くにいる人魚に話しかけようと思い、そこで水中で音声を発することができないことに気が付いた。しかし、井戸端会議中の女性人魚三人の声は聞こえてくる。それも、会話の内容も注意すれば聞き取れるくらいにはっきりと。
私の耳はすでに水が入って中耳炎のようになっているはずだ。水圧によって鼓膜は誤作動を起こしているはずだ。では、なぜここまでクリアに聞き取れるのか。
そこで初めて、私は自分の身体を見下ろした。
再び愕然とした。
私も人魚だった。
いや、人魚になっていたというべきか。
腰骨あたりから下が、うろこでおおわれた魚の尾びれになっていた。
両足の感覚は既になく、一本足しか感覚がないのにもかかわらずこれが中心に通っている違和感。
しかし動かさなければ気づかないくらい自然に。
私はマーメイドになっていた。
ああ、人魚になったのなら耳が聞こえるのも水中で息ができるのも納得だな、なんてことを考えて、当然持つべき次の疑問にぶち当たった。
私はなぜ人魚になっているのか。
人魚になったのならもしかしたら声を発すれば届くかもしれない。
そう思い私は現状把握のため動くことにした。
尾びれが勝手に慣れた動きをしてくれることに驚いた。私は水泳の経験があるから、バタフライのキックであるドルフィンキックを得意にしている。それでも、ここまで無意識に動かすことはできなかった。
人魚にとっての泳ぐとは、人間にとっての歩くと同等だ。そう思うと納得できたが、それでも、私は今まで人魚として生きた経験などないし、今は人魚の赤ちゃんと同じで、うまく泳げないのが普通だとも思うのだが、そこのところはどうなっているのだろう。
突然、尾びれをつかまれた。
怖い。
怖い怖い怖い。
人魚が尾びれをつかまれているという状態が、どれだけ怖いことか、私は実際にされるまで想像もすることができなかった。
移動手段を封じられた。
私は尾びれがないと動けない。
私の尾びれをつかんだものに逆らうことはできない。
人間でいうところの、両足を縛りつけられた状態というべきか。
観念して振り返った。
そこにいたのは人魚になった叶だった。
私の尾びれは、銀色のうろこを光らせて、時折虹色が見えるくらいのなんてことはないよくいる魚の色だったが、叶の尾びれは美しかった。アメジスト色とでもいうべき美しい紫色。
背景が青の街であるから、その色はよく映えた。鱗も私のものより細かく、そして繊細だった。
羨ましい。
私もそんな綺麗な尾びれが欲しかった。
ちなみに人魚たちは、上半身に男性はタンクトップのような肌着を、女性はビキニタイプの水着のようなものをつけていた。私も叶もその例外にもれずに、赤の入った銀色のビキニになっていた。
叶はいつものふわふわした金髪が濡れて広がっていて、だいぶ印象が違うななどと変にいつも通りの感想を私が抱いた後、彼女は私にこう語りかけてきた。
「どう?びっくりした?」
そりゃあ。びっくりしたよ。
だって死ぬのなんて初めてだもん。
なんて思いながら首肯すると、いたずらが成功したかのように叶は私に笑いかけてきた。
「どう?人魚になった気分は」
「驚いた」
「それだけ?」
「うん」
私は驚いた。
それだけ。
別に、それ以上の感情が出てきたりしない。
なぜなら、私は感情を失った女なのだから。
それよりも、叶は何か知っているような口ぶりである。私が目覚めるのが遅かったのか、それとも何か故意にここへ連れてこられたのか。どちらにせよ、叶が私の現状について知っているのであれば、特に私にいうことはない。
つまり、私は叶の言うことに従っていれば大丈夫だということだ。
そもそも一度失った命をどういうわけか拾われたのだから、別に死んだってかまわないのだ。
まあ、苦しいのは嫌だが。
「まだ矯正には程遠いか~。まあ、無理もないかな。」
叶は独り言ちた。
私の感情を取り戻しに行くといったことを言っていたことを思い出す。
非日常的な体験をさせることで強い感情を持たせることをしようとしているのなら、両親が失踪したときにすでにその感情を解き放っていると思う。
両親がいなくなったことになんとも思わないということは、すでに異常だということはわかる。
でも、そうなのだ。
異常なのが私であり、感情を理解できても感情を持てないのが私なのだ。
「じゃあさ、まずはあたしの友達を紹介するね~。」
叶らしい。
一番初めに来るべき説明をすっ飛ばすのが彼女だ。まあ、理解したところで私のできることはたかが知れているし、別に興味もないのだが。
叶の隣にぬっとあらわれたのは、真っ黒で長い髪に真っ黒な尾びれを持つ、真っ黒なビキニに身を包んだ、女性らしい起伏にとんだ人魚だった。
黒づくめ。
「人魚のメアリーちゃんだよ~」
「よろしく頼むわね」
「こっちが静ちゃん」
「よろしく」
名前と裏腹に、顔は和風だった。
メアリーと名乗る人魚の家にお邪魔させてもらった。
宙に浮いている(ように見える)扉から中に入るのはなかなか珍しい体験となった。
中には、イスとテーブルがあった。
たとえ水中でも重力はあるのだが、浮力もある。人間は気を抜くと浮かび上がってしまうのだが、人魚は肺が機能していないため浮袋の役目を果たす器官が存在せず、何もしないと自然と沈んでいくのだそうだ。
メアリーがそう話していた。
メアリーは人間について知っていた。
てっきり人魚しかいない、あるいは人魚と人間は交流のない異世界だと予想していたので少し驚いた。
「んじゃ、三人そろったことだし、これからの予定について説明するね~。」
「まずその前に、静さんの疑問に答えるというのはどうかしら」
「疑問なんてないでしょ?ね、静?」
「うん」
「本当なのね。叶の言っていた通りだわ。」
「それじゃ改めて。長いけどよく聞いてね。明日からは銛を使って漁をするよ。具体的には一週間くらいかな。友達の家とは言え居候させてもらうんだから、しっかり働いて貢献することだね!そのあとは、海底神殿に行くよ。この神殿は広いから、生半可な準備じゃ奥までたどり着けないからね。それで、神殿のある一室にいる、クラーケンと呼ばれる魔物と戦うよ!下手したら私たち死んじゃうから、三人で協力して倒そう!それが終わったら私たちは帰るよ。いつまでもメアリーに迷惑かけちゃうと悪いしね。」
「まあ、私はいつまでも泊ってくれてかまわないのだけれど。叶がいるとそれだけで家が明るくなる気がするのよ。」
「えへへ、うれしいこと言ってくれるねえメアリー。はい、静、質問はある?」
長々と説明した叶だが、正直言ってよくわからない。何するかはわかるんだけど、具体的な想像が何一つできない。
疑問は、ある。けれど、わからないことが多すぎてまとまらない。いつもわからないことだらけの私には慣れ切った状態である。
つまり、いつも通りだ。
「クラーケンと戦うメリットは?」
「そりゃあ、静の楽しい感情を取り戻せることに決まってるでしょ?」
決まっているのか。
私の推理能力は少し不足していたようだ。
私にとってはメリットでも何でもないのだが、叶がメリットと呼ぶということは少なくとも叶にとってはメリットになるのだろう。それならば協力するのもやぶさかではない。
できる限り痛い思いをしないで済むようにはしたいけれど。
「わかった。」
「………………………ねえ、質問はそれだけなのかしら?」
「うん」
「………驚いたわ。ここまでとはね。」
質問はない。それは、逐一質問していたらきりがないし、すべて叶が把握しているのならば私が質問すること自体は余計な苦労でしかないということだ。わからないことがないという意味ではない。
別に死ぬのは構わないし、メアリーが死んだところでなんとも思わないのだろう。叶が死んだら私は生きる意味を失うので即座に自殺する。それだけの話だ。
こういう思考が人間らしくないということは十分承知だ。
私だって、感情が理解できないわけではないのだ。
叶に勧められて泣ける小説やら映画やらを見せられたことがある。まったく泣けなかったが。
それはともかく彼・彼女らがどんな感情を抱いているのかは、説明があったりしたため理解はすることができた。
つまり、人が死ぬのは嫌なことだ。
人が死んだら悲しい。
身近であればあるほど悲しい。
そういうことだ。
そして、人が最も強い感情を吐露するのは身近な人が死んだ時だ。
少なくとも小説や映画ではそのように描かれていた。
そして、自分が死ぬことは嫌なことだ。
みんな、死にたくないのだ。
私は死に付随する不快が嫌だから死なないだけ。あるいは、叶が死ねといわないから死なないだけ。
別に、メアリーが死のうが、叶が死のうがどうでもいい。私の行動が変化するだけ。
メアリーからしたら、そんなことはあり得ないことなのだろう。
自分の死について私の意見がこうも冷めているのは、私が人間らしくない何よりの証左であろう。
そして、おそらくはメアリーは私のそんな人間らしくないところに驚いているのだろう。
人間が死ぬかもしれないような海底神殿の探索に向けて、しっかりと認識を共有することで生き残る確率を上げる。それくらいの当たり前の行動ができないのは、私が私だからである。私に感情がないからである。
そのくらいの推理は私にもできる。
だからと言って、行動を変える気はないし、変えたら腹が減る。頭が痛くなる。
人間ごっこも、最低限でいいのだ。
私は所詮、人間もどきだ。
「じゃあ、今日はもう遅いからね、晩御飯の準備しよ~!」
叶は私のメアリーに対する深い推理とは関係なしに、そんな宣言をした。
外の景色はいつの間にか少しだけ暗くなっていた。
地上の夜と昼は全く別の景色を見せるが、海中では昼でもそれ相応に暗いので、あまり景色が変わらないのだ。
それにしても、人魚のご飯というのはどういったものなのだろうか。楽しみである。私たちが普段食べているような魚や貝を目の前でとってそのまま食べたりできるのだろうか。
……結論から言うと、生食だった。火が使えないから。海水も妙に苦くてしょっぱくて好きになれない。
翌日、私たちはメアリーの家の壁に立てかけてあったいくつもの銛のうちの一つを借りて、漁に出かけた。一緒に網目の細かい網やら籠やらも同時に持っていくようだった。
先程海の上でダイビングをしていた時、私は銛がないことを嘆いた。
それを考えると、私は案外運が向いているのかもしれない。何せ、今から銛漁をすることが出来るのだから。
海水のしみ込んだ生魚を食べるのは好きではないが、もし人間に戻れたとしたら許可を得て銛漁をしたい。新鮮な魚を食べたい。自分で獲った食べ物は美味しいらしいから。まあそれはおそらく迷信の類だろうけれど。
「人魚は銛を持つことこそ誉とされているのよ。」
メアリーは移動中にそんなことを語った。
つまり、人魚は銛とともに生きている種族だということだ。人間が服を手放せないのと同じようなものだ、と思う。いや、さすがに違うか。
銛をもって初めて、人魚は人魚たりうるということだ。そう思うと、私は今まで人魚ではなかったのではないかと余計な思考が生まれてくる。
そもそも体の違う異種族だ。同じ価値観であるはずがないのだ。
私も十分に人間の価値観とはかけ離れているとは思うが、それは人間の持っている価値観から引き算を繰り返して残ったわずかな価値観のみであり、価値観が足りないが故だ。異種族の持つ価値観は人間の価値観とは完全に異なるものだ。
同じ”人間から見た異端”だったとしても、私が人魚の価値観を理解できるというものでもない。
個人の価値観の違いとは根本的に異なるものだから、異端になるし恐怖もするのだ。
メアリーの銛捌きは目を見張るものがあった。対して興味もなかったので漁師というのがどのような仕事をするのかは時折テレビで見る程度にしか知らないが、それでも、美しいと感じる何かがあったことは確かである。
銛というものは、息をひそめて、魚に気づかれないように接近して、ゴムの弾性を用いて反応される前にその身に突き刺すというものを想像していた。というか、人間のやる銛漁というのはそういうものだろう。しかし、メアリーのそれは違う。
泳いでいる途中に銛が動くのだ。
泳いで移動している。そう思っていたらいつの間にか銛が魚をとらえている。
予兆も何もない。流れるような動きで。いや、むしろ水流と一緒に流れながら。
魚が目をそちらに向けることもなく、その身が貫かれている。
岩の裏など魚の潜伏する場所には、近づいて銛をつく必要がある。それなのに、どうしてか、いつの間にかその岩の裏に銛が刺さっていると言わざるを得ないのだ。
銛は、槍に似ていると私は思う。形も、役割も。だから、私は彼女たちは地上では槍の名手になるのだろうと思った。
そんなことを考えてから初めて、私は気が付いた。
この漁は、私たち新人人魚がクラーケン相手に攻撃する練習なのだと。
尾びれが勝手に泳いでくれるように、銛もいまだ!と思うだけできれいに刺さってくれた。人魚の体とは案外万能なのかもしれない。
私たちはメアリーの半分ずつくらいの魚を獲った。大収穫である。私たちは一人当たり魚二匹いれば基本的に朝昼晩もつので、明らかに過剰だ。
驚いたことに、メアリーの獲った魚は皆頭のみを貫いていた。魚は身の大きさに対して頭はそれなりに小さいのだが、メアリーはそんなことなどものともせず、正確無比に頭蓋を貫いていた。
曰く、こちらのほうが長持ちするのだそうだ。まあ、人魚は私たちの知る人間ほど科学が発達しているわけではないらしいので、経験則や迷信の類なのだろうが。
海中で暮らすのに電気を使うわけにはいかないだろうし。
「じゃあ、今日の成果はまずまずだったね~。じゃあ、この調子で明日からもがんばろ~!」
「それはいいのだけどあなたたち、筋が良すぎないかしら?銛を使うのは初めてと聞いたけれど?」
「うん!初めてだよ!」
「初めてなのに私の半分も獲られると、そのうちこの周辺の魚がいなくなるわよ」
「あたしたちはさいきょーなんだもん!」
「最強、ね。私はまだ認めないけれど、その代わりクラーケンに勝ったら褒めてあげるわ。」
「え、今のって褒めてなかったの~?」
「………褒めてないわよ。」
そんな感じで、次の日は貝、その次は海藻を中心に獲り、またローテーションして六日が過ぎた。貝はいかに複雑な地形を素早く泳ぐか、海藻は水中での作業効率の強化が目的だったのであろう。どれもメアリーの仕事は一流で、私たちは必至でそれの真似をした。
ほぼ毎日『………褒めてないわよ。』との褒め言葉をいただいた。
一週間が経過したので、この日は神殿に出発する日である。私は銛の扱いについては自分なりに整理して、最適化した。これくらいのことは、人間みなやっているだろう。今は私は人魚だが。
今では泳ぐことに違和感を覚えなくなった。それこそ歩くように泳ぐことができるようになった。
そして、小回りもきくようになり、重力や水流に流されることなくとどまることもできるようになった。機動力が上がった。
腕の動かし方も、平泳ぎをするように前から後ろにかく動作が板についてきた。
人魚生活に慣れてきた。
そして、噂のクラーケン討伐に向けた準備が並行して進められた。
とはいっても、漁に使う銛よりも殺傷能力の高そうな禍々しい銛を用意したのと、漁で手に入れた魚、貝、海藻を袋に入れただけだ。
それに加えて今回は、ナイフ、光る岩、メモの代わりにするという石板。要は人魚流ピクニックの準備セットと同じものらしい。
クラーケンはピクニックと同じ装備で倒せるのだろうか。甚だ疑問だ。
「それじゃ、海底神殿に向けて出発だ~!」
「よろしく頼むわね」
下手すると死ぬといわれている海底神殿探索は、こうして始まった。