『8』
『8』
窓から見える外の景色が雨に煙っている。デルソフィアが幽閉の身となった昨夜から降り始めた雨は、朝を迎えても止む気配がなかった。普段、この窓を開けば外に出ることができる。だが今は、堅く施錠され、それも適わない。
幽閉。
そこへ帰結するという予測が立たなかったわけではない。心の天秤が、己が想いを叩きつけるという気持ちへ大きく傾き、それに準じただけのことだ。
窓際に立ち、降り続く雨を見つめるデルソフィアは、「雨……か」と呟いた。
この雨が、皇国の、皇宮の、神皇帝一族の穢れを洗い流してくれることはないのであろうか。そんな夢想が浮かんできたが、すぐに打ち消した。自分自身も神皇帝一族であり、一族の穢れを自覚するならば、自ら動かなくては何も始まらない。穢れを糺し、清浄へと導く、そのための一歩を踏み出さなくてはならない。
思いばかりが先行し何ら行動していない。これまでの自分は、そんな言葉で自らを憂い、憂いていること自体が多くの愚かな神皇帝一族との差別化であるという、無意識下で構築した檻の中に居続けていた。そんな自身を厭悪する。そんな自身に嚇怒する。無意識下にある檻を意識の下へ引き摺り出し、乾坤一擲、粉々に破砕しなければならない。
さて、どうしたものか。
形ばかりでも謝罪の意を示せば、この幽閉は解かれる可能性が高い。だが、そこだけは譲れないと、謝罪を峻拒する気持ちが厳然と存在する。となると、それこそ父の気まぐれを待つしかないのか。いや、それこそ無意味な時の極みである。いっそのこと国外追放といった厳罰の方が身の処し方も明らかであったのにとさえ思う。
堂々巡り。こうしている間にも一刻一刻と時は刻まれていく。
思わずといった態で、頭を抱えた時だった。デルソフィアは、ひんやりとした空気の流れを感じた。その刹那、それがおかしな事象であると気付く。窓も扉も全てが閉ざされた居室内に、空気の流れなど生じるわけがないのだ。
再び、ひんやりとした空気がデルソフィアの頬を撫ぜた。二度、三度と続く。まるで何かが自由自在に漂っているようだ。
いったい何だ?
正体を掴めず、視線が居室内を右往左往する。だが次第に、姿なき何かが見え始めた。いや、何かを感じ始めたという表現が正確だ。デルソフィアの視線が一点に収束していく。それは居室内のほぼ中央であった。何かも、そこにある。
空間が歪んだように、視線の先の景色が揺れたかと思うと、突然裂けた。空間が裂けるなど、俄かには信じがたい事象が眼前で起こっているが、デルソフィアは声を挙げるでもなく、それを正視していた。何かが起こる。何かが現れる。その何かを知りたい。見たい。感じたい。戦慄する気持ちを好奇心が凌駕していた。
裂け目の向こう側から、白濁した何かが溢れ出てきた。咄嗟に手で口を覆おうとしたが、煙ではないと悟る。蒸気、或いは霧のようなものであろうか。毒性も無さそうだ。ただ、瞬く間に居室内へ充満し、視覚が奪われていった。その分、研ぎ澄まされた別の感覚が何かの気配を掴む。
いるーー。
その気配は離宮で感じたものと同様であったが、今回の方がより鮮明だ。自身の近くに存在している証左であろう。白濁の世界の中、デルソフィアは微動だにせず、姿なきものを見据える。
どれくらいの刻が流れただろうか。長いようで短い、短いようで長い、明確に解を示せない面妖な世界に囚われているような感覚に陥っていた。しかし確実に、時は流れていた。それが証拠に、白濁の景色が徐々に薄れていき、常の色を伴った景色へと帰還していく。そして全てが澄んだ時、それはそこにいた。
言葉は出なかった。だが、それと対峙する自身に違和感を感じない程度には、心は落ち着いていた。尋常ではない何かを齎らしていたものの正体は明らかだった。デルソフィアの眼前に立つ人物の姿形が、褒称の間にある肖像画に描かれた人物と重なっていく。
……初代神皇帝。そう、ヌクレシア・デフィーキル、その人であった。
建国の父。英邁な指導者。偉大なる功績。存在や史実は昇華を重ね、まさに伝説上の人物と言っても過言ではない。その伝説と、いま邂逅している。吸い寄せられるように視線を向けた右手甲には、五つの星紋が刻まれている。
しかし、いったい何が起きたというのだろうか。自身が過去へ遡行したわけではなさそうだ。畢竟、ヌクレシアが過去から時を越えて現れたという解に至るが、それも正しいと断ずるには疑義がある。疑問を解くには沈黙を破るしかない。それが自身にいま与えられた役目だと感じ、デルソフィアは改めて問いかけた。「ヌクレシア…様ですか?」
「いかにも、我が名はヌクレシア・デフィーキルである」
デルソフィアは、離宮ロサリオ宮で脳内に直接響いてきた声を思い出していた。同じ声だった。だが、それが眼前にヌクレシアの姿がある明確な解とはならず、ヌクレシアが永き時を越えて目の前にいることは最早疑いようがなくとも、その理由が皆目見当もつかない。
「魂の一部が具現化した姿だ。一部だけ故に、この姿でいられるのは、ほんの束の間なのだよ」デルソフィアの心内を見通したかのように言い、ヌクレシアは微かな苦笑をその顔に刻んだ。
「魂の一部が?」
「そうだ。いま言ったように残された時はそれほど多くはない。なるべく簡潔に伝えるぞ」
鸚鵡返しで問うことしかできなかったデルソフィアに対して、ヌクレシアは言葉とは裏腹に焦燥する様子を微塵も感じさせずに続けた。「死の帳が降りてくる予感を否応無しに抱き始めていた最中、夢か現か混濁する中で私は神と邂逅した」
「神と、ですか?」
「ああ。俄かには信じ難きことであろうが、真実である。何故、我が眼前に降臨されたかは話してくれなんだが、いま思えば、皇国を建国したことへの天恵だったのかもしれんし、或いは父上によるお導きだったのかもしれん」ヌクレシアは、自身を納得させるように一度頷き、「そして私は神と約を交わした」と明らかにした。
「それは……いったいどのような約を?」
問いかけたデルソフィアを見据え、ヌクレシアは、ふっと息を吐いた。あまり急いでいるようには見えない。ひょっとするとヌクレシアは、残された時を正確に把握しているのではないか。そんな疑義がデルソフィアの心内に生じたが、改めて照会することはせず、続きを待った。
再びヌクレシアが口を開いた。「人とは強欲なものよ。目に見えるもの、形あるものの全てを手にすると、次は名誉だ、地位だと形無きものを欲す。それすら掌中にしたという自覚が、次には決して叶わぬであろう願いを芽生えさせる。例えばその最たるは、永遠の命であろうか。だが、それはあってはならぬ。永遠の命が叶わぬのは、あってはならぬからだ。だが私は皇国の未来を見たかった。永遠の命なぞ、いらぬ。それを求めたわけではない。ただ、私の、父と私の業の結晶、いや、父と私そのものとも言える皇国。その未来を、幾星霜を経た皇国の、遥か彼方にある姿を知りたかった。だから、神と約を交わした。我が寿命の一部を削り、魂の一片として未来へ向けて封印するというものだ。私の死後、一定の条件下で封印は解かれるようにな」
「条件…」
「そうだ。条件の核となるのは、崩壊の危機に瀕する世界だ」
世界の崩壊ーー。
あまりにも唐突で、かつ壮大な意味を包含する言葉に、デルソフィアは自身の思いを具体的に巡らすことも適わなかった。世界の頂。そこに近しい身でありながら、世界は広く多岐に渡っていることを辛うじて聞き齧っているだけで、各地の詳細は何も知らないのだ。無知および無力感がじわりと心内を侵食する。
「私の魂の一部は、アムシュール廟にある我が墓碑の天頂に封印されていたのだ」
「アムシュール廟……」
もちろん、その存在をデルソフィアも知っていた。アムシュール廟は皇宮の北東に位置し、歴代の神皇帝の墓がある。また、神皇帝妃をはじめ神皇帝一族の墓は、アムシュール廟に隣接するポラルトロイト廟にあった。デルソフィアも含め現神皇帝一族は年の始めに必ず両方の廟を公式に参拝する。初代の墓、その威容も容易に思い浮かべることができたが、天頂部についての記憶を探ってみても何一つ導き出せるものはなかった。
それが故に当然の問いかけへ繋がった。「ヌクレシア様の墓碑の天頂には何があるのですか?」
「何も無い。空間そのものが封印地である。天頂から天空へとのびる限られた空間を、我が魂の一部は揺蕩い続けていたのだ」
「空間……」
「そして、封印が解かれれば、ほんの束の間、未来の世界を魂として漂い見ることができる。その代償というべき条件が、封印が解かれる世界は皇国建国以来、類を見ない危機へと堕ち始めている世界であるということなのだ。私の封印が解かれたということは、今この世界がまさにそうなのだ」
デルソフィアは、少なくない衝撃を受けた。現実感を伴わなかった世界の崩壊という事象が真実味を帯び、デルソフィアの心内を揺さぶり始める。昨日目の当たりにした現神皇帝、世界の危機に対してはまさに先頭に立つべき存在である者の無自覚ぶり、当事者意識の欠如がそれに拍車をかける。
ヌクレシアの語りは続き、「封印が解けた後、束の間ではあるが、世界を漂い見た。兆しは確かにある。皇国、王国、或いは世界各地に点在する街々が危機へと堕ちる穢れを包含している。それらを自浄できぬとすれば、自ずから世界は崩壊の途を辿るであろう。危機へと堕ちる穢れは何も戦や争いだけとは限らん。些少なことに起因する、ありとあらゆる負の事象が、危機へと堕ちる穢れになり得る可能性を秘めている」と明言し、一つ息を吐くと「この世界はまもなく崩壊への途を辿るという危機に直面するのだ」と断言した。
デルソフィアは言葉を失った。鸚鵡返しの問いかけすら発することができない。険しさの張り付いた表情を浮かべたまま、蝋人形のように固まった。
一方のヌクレシアも、苦渋を滲ませた顔になっていた。神との約とはいえ、自身そのものとまで言った皇国が、この世界が、崩壊してしまうかもしれないのだ。
だがヌクレシアは突如、頬を緩ませると、「故に、それ故にだ」とゆっくり噛んで含めるように言い、「神は私に対し、"子々孫々に、比す類無き災が降る時、斯の封印は解かれ、清浄なる道標と為らん"と伝えられた。束の間の復活の最期には、その危機に勇奮して相対すべき先導者のもとに姿を現し、その旨を伝えると共に、道標となるようにということだ」とし、一旦話しを区切り、改めてデルソフィアを鋭い眼差しで見据えると、「字義通り、これは神慮である」と告げた。
「えっ?」
「聞こえなかったか?」
「い、いえ。ただ、しかし、まさか……神慮にある先導者が俺……私であると?」
「いかにも」
「ま、待ってください。何故、私なのですか?」俄かには信じられず、疑問が素直に口をついた。皇国、さらにはその先にいる世界各地の民のために尽くしたいという思いは確実に心内に蟠踞している。だが、世界の危機に立ち向かう先導者が自身であるという話しは途方も無く、戸惑いが圧倒的に比重を大きくしていく。
縋るように送った視線の先で、ヌクレシアは首を振り、「すまぬ。どうやら、それを詳しく説明する時間は残されていないようだ」と口にした。その刹那、ヌクレシアがこの場に現れた時と同様、居室内のほぼ中央の空間が歪み、裂け、辺りはあっという間に白濁の世界に包まれていった。
デルソフィアは一歩も動けなかった。白濁の世界に取り込まれるように姿が見えなくなるヌクレシアを、ただ呆然と見送ることしかできない。
ことこの場に及んで、初代神皇帝と話したいこと、聞きたかったことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。特に、左手甲に出現した星紋の意味。ヌクレシアなら、きっと解を示してくれたのではないか。そんな思いも願いも、白濁の世界に奪われていく。ヌクレシアの姿が完全に見えなくなると、途轍もない無力感に襲われ、膝から崩れ落ちそうになった。
その時だった。崩れかけたデルソフィアを支え、奮い立たせる響きを持ったヌクレシアの言葉が、再び脳内に直接届いた。「デルソフィア・デフィーキルよ、世界を救い清浄へと導け。お前しかいない。お前にしかできぬのだ」




