『6』
『6』
意識を取り戻したデルソフィアの視界は、しばらく靄がかかったようにぼやけていたが、照準が合ってくると、曙色の空がそこにあった。視覚の正常化と共に意識も覚醒し、激しい揺れを身体中で感じる。デルソフィアは馬に引かれた荷車に横たえられていることを悟った。
「気がついたか、デル坊」頭上からの声はオッゾントールのそれであり、とすると馬を御しているのはハーネスとなる。デルソフィアは上半身を起こした。痛みなどは無かった。
荷車の淵を背凭れにして、こちらを向き二本の足を交差して投げ出しているオッゾントールと、その向こう側で背を向け二頭の馬を御しているハーネスの姿を認めた。「デルソフィア様、大事はございませぬか?」顔を向けずとも、どのような表情が張り付いているかが容易に想像できる声色だった。
「大丈夫だ。しかし……いったい何が…」
「何だと?記憶が無いのか?それも困った話しだが、まあ良い。話してやろう」オッゾントールは伸ばした足を組み替え、続けた。「離宮の船着場に立った途端、突然崩れ落ち、意識も失ったんだ。さすがに慌てたぞ。あの時刻では、医師や薬師を見つけてくるのは難しい。動かして良いのかどうかの判断も迷うところだった。だが、私よりも素早くハーネスが決断した。一刻も早く皇宮へ戻るのが最善であるとな。私は、その途上で状態が悪化した場合を懸念したのだが、そんな懸念もハーネスは一蹴したなぁ。デルソフィア様に授けられた天命がこのようなところで朽ちる筈がないと断言したのさ」
デルソフィアはハーネスの背へ眼差しを送った。振り返る素振りの全くない背中に、主従を超越した確固たる絆を感じ、卒然と深く頷いた。
それを、先を促す合図ととったオッゾントールは「さしもの私も圧倒されるほど、ハーネスが明鏡止水な面持ちだったこともあるが、私もよく知っているデル坊という人間の持つ力、いや、底力かな、それに賭けてみようと思ったんだ。そういう賭けに出ても大丈夫だと、結末はきっと光に包まれていると、不思議とそう思わせる何かがデル坊には備わっているようだな」と口にして破顔すると、寄りかかった態勢から少し前のめりになり、デルソフィアの身体を隅々まで睥睨した。「見たところ、どうやら異常は無さそうだし、ハーネスの決断は英断だったようだ。もう間もなく皇宮に着くから、念のため、医師か薬師に罹れよ。何なら、口の固いのを紹介してやるから」そう言い、右手の人差し指を口に当てた。
「まあ恐らく、何も有益な結果は出てはこないだろう。しかしこの先、もしも記憶が戻るようなことがあれば、私にも知らせろよ。尋常ではない何かが起こったのは間違いないし、身体の異常も時間の経過と共に現れてくるかもしれんからな」
オッゾントールの話を聞きながら、デルソフィアは思い出していた。あの声を。脳内に直接響いたあの重低音が、己の名を呼んでいたことを。その刹那、金縛りにあったように身体は硬直し、視界は白磁に染まった。意識を失う直前までの出来事が鮮明な記憶となり蘇っていた。
あの声は、いったい誰のものであったのだろう。全く聞き覚えのない声でありながら、何故か懐かしさ、いや、親近感を抱かせる声でもあった。そう感じている今、薄々と思い至る解がある。あの声の主こそ、バルマドリー公なのではないか。バルマドリー公の亡霊が現れるという話は真実なのではないか。
だが同時に、新たな疑問も芽生える。バルマドリー公の亡霊、そしてその声であったとして、何故、その声が響いた途端、己の意識が途切れ、気を失ってしまったのか。声を聞いただけで気を失うとは尋常ではない。オッゾントールの言うように、この後、この身体には異常が生ずるのか。もしくは、左手甲に星紋が出現したことを証左とするように、既に何らかの異常を来した身であるのか。
己の身に起きた変事に、隠しきれない動揺は確かにある。一方で、それら全ては何かの始まりを告げる鐘の音なのではないかという思いが、熾火のように心底に存在してもいた。
もう一度だ。やはりもう一度、離宮に赴かなくてはならない。熾火が心底にある決意を照らす。
声の主が誰であるかを明らかにしなくてはならない。決意が、隣で眠る希望を覚醒させる。
バルマドリー公の亡霊であるならば、訊きたいことがある。この左手甲に現れた星紋の謎を、その理由を問い質したい。きっとバルマドリー公であるならば、その解を示してくれる。
何ら根拠はない。始まりを告げる鐘の音が、照らされた決意が、覚醒した希望が、祈りにも似た思いを紡ぎ、曙色の空を見上げるデルソフィアの身内を急速に占拠していった。
オッゾントールの推察は正鵠を得ていた。
皇宮に戻ったデルソフィアは、オッゾントールの紹介ではなく、皇宮に常駐する医師に罹った。主にハーネスが主導する形で、巧みに話をすり替え、離宮を訪れた真実は包み隠し、突然意識を失った旨を伝えた。
皇宮の常駐医、それだけで優秀であると勘違いしたきらいがある医師は、疲れが出たのでしょう、と一睡もしていない目元の隈を論拠にしたのだとすれば、とんだ的外れな診断を下した。やはり解は自分自身で導き出すしかない、と改めて思った。
問題は、どうやって再び離宮を訪れるかである。オッゾントールと同行するという案は、今は現実的ではない。時が経てば、或いは可能ともなろうが、離宮を前に突然意識を失った要因がオッゾントールの中で明らかにならない限りは、実現困難と言わざるを得ない。そしてそれは、ハーネスにも当てはまる。
となると、必然的に独りで離宮へ向かうことになる。それは実現可能であろうか。正体を明かさずに、皇宮の外へ出ることは恐らく何の問題もない。今回と同様の方法を採れば良いだけだ。問題なのは、そこから先だった。馬には乗れるが、実際の乗馬経験は皇宮内に限定される。それが突然、往復で約六刻、片道だけでも約三刻という長丁場に耐えられるかどうか。
そこは耐え抜いてみせる。出来る出来ないではなく、やるかやらないかだ、と強く思いを馳せる。
しかしそこで再び新たな問題が舞い降りてくる。そもそも、馬をどうやって調達するのか。皇宮内の厩舎に行けば、馬はたくさんいるものの、いつ何時でも好き勝手に連れ出せるわけではない。厩舎には当然、馬番の任務に就く者たちが、ここそこに立哨している。
皇子という立場を利用すれば、厩舎から馬を連れ出すことは容易だが、その事実は忽ち、皇宮内に拡散していくだろう。
それが、許可なく離宮へ立ち入ったという事実に帰結した場合、咎が生じる。その咎も、自身独りならば何ら逡巡することはないが、恐らくその責め苦は側仕のハーネスにも及ぶ。それだけは断じて峻拒する。
妙案が浮かばずに行き詰まり、デルソフィアは下唇を噛んだ。長嘆の息を吐き、頭を抱え込もうとした時、居室の扉を叩く音が響いた。続いてハーネスが名を名乗る。入室を促す声をかけると、ハーネスが入ってきて、まもなく夕食の刻限である旨を伝えてきた。
神皇帝一族の食事において、基本的に一族が一堂に会して卓を囲むのは夕食だけである。朝食と昼食は、それぞれが自由な刻限に自由な形で済ませている。例えば、デルソフィアは朝食、昼食も含めて一日三食を採るが、ウィジュリナは朝食と夕食の二色しか採らない、或いは食事を採る場所も、自室であったり食の間であったりといった形だ。
朝食や昼食時の食の間には、二人掛けや四人掛け、六人掛けの卓が複数、点在している。同時刻に食の間を訪れても、同じ卓を囲む必要はない。ただ、現神皇帝は皇宮内にいる限り、必ず自室で朝食も昼食も採っており、その影響もあってか、朝食および昼食を食の間で採る神皇帝一族の人間は稀であった。
夕食時のみ神皇帝一族が一堂に会す食の間は、褒称の間と同じく皇宮の三階にあった。無駄としか思えない豪奢な扉の前に立つと、思い切り蹴りつけたい衝動に駆られた。それは、無駄としか思えない扉の装飾への憤懣もあるが、単独での離宮訪問に妙案が浮かばないことに対する焦燥の表れでもあった。時間が区切られているわけではないが、急がなければならない、時が無い、そうした思いが、あの声を思い出すたびに強まっていく。ただ名を呼ばれただけだったが、早く会いに来い、待っている、そう言われているように錯覚を起こす。自分自身がそう思っているだけ。そう言い聞かせても、逸る気持ち、募る想いを消化することはできなかった。
デルソフィアは意識的に、常より弱くやさしく扉に手を添えると、食の間の内側へと扉を押し開いた。
食の間に入室したデルソフィアの眼前には、神皇帝を除く一族十人が既に着席している姿があった。朝食および昼食時には点在していた卓は片付けられ、室内中央には上座と右辺の末端席だけが空席である長方形の長卓が蟠踞していた。
「遅いぞ、デルソフィア」棘を多分に含んだ声音が長卓の左辺から響いた。神経質な性格を端的に表した声が癇に障る。デルソフィアはその声の主、神皇帝第一皇子で異母兄のランパウド・デフィーキルを一瞥し、ふんっと、鼻を鳴らした。常であれば、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、関わり合いが深まることを避ける方を選び、謝罪の言葉の一つでも口にするのだが、生憎と今は虫の居所が悪い。
「おっ、お前、何だ、その態度は?」案の定の反応に付随する金切り声に拍車がかかる。尊大であることが、人の上に立つ者の資質と誤解し、張り上げる金切り声が、己の存在価値を縮小させていることにも気付かない愚かの極みにある者。半分とはいえ、この異母兄と血の繋がりがあることを強く厭悪し、デルソフィアは射るような鋭い眼差しを放った。
威張る者にありがちな小心を完璧に表現したように、下に見ていた者の突然の謀反に返す言葉もなく、ランパウドは唖然の表情を顔に貼り付けている。
そんなランパウドに取って代わった声が、長卓左辺の上座に最も近い席から聞こえてきた。
「まったくもって礼儀も弁えず、品格の欠片もない。まあ確かに、そうした血が半分は流れているとはいえねぇ、仮にも神皇帝一族に名を連ねている者なら、それに違わぬ礼や品格を備えていただきたいものですわ」
この言には、思わずといった態でジェレンティーナが立ち上がった。その姿を視界の片隅に捉えたデルソフィアは、ジェレンティーナの機先を制し、「礼を失し、かつ下品なのは、貴様らだ」と言い放った。
理性の箍は外れていない。贅言であると理解しつつも、自身で止まることもない。言葉を放った相手は血の繋がりこそ無いが、本来ならば義母と敬愛すべき存在の第一皇妃のオークトーン・デフィーキルである。それさえも貴様呼ばわりの無礼であったが、満腔の怒りをぶつけるようにデルソフィアは続けた。「そもそも、貴様の言う品格とは何だ?牽強付会で、神皇帝一族のあるべき姿すら実践できていない愚か者が、品性や礼儀云々を語るな。無謬であることを疑わない、そのこと自体が既に誤謬を犯しているのだということに何故気付かない。そう、確かに人は誰もが問題を抱え、過ちを犯す。だが、それを省みて、繰り返さぬように自身を糺していくのが人だ。民は精一杯生きる日々の中で、そのように努めている。民を正道へ導くのが神皇帝一族であるが、あくまでそれは民の支えがあって初めて成り立ち得るものだ。それが、それこそが礎であると、何故分からぬのだ?」
沈黙が流れた。デルソフィアの言葉はまさに刃であった。それに相対する言葉を発すれば、それもまた刃となり、受け切れなければ深い傷を負う。そんな思いが、この居室内から言葉というものを奪い、張り詰めた空気で満たしてしまったようだった。
だが、沈黙は突然、思いも寄らぬ方から破られた。
「目上の者に対する口の利き方を知らぬようだな」デルソフィアの背後から届いた声は落ち着き払っていた。男としても低い部類に入る剛健な声音は威厳も帯びている。
いつの間に居室へ入ってきたのだろうか。入室に気付かぬほどに激していた自身を自覚すると共に、デルソフィアはゆっくりと踵を返し、実父であり現神皇帝のフガーリオ・デフィーキルと対峙した。
フガーリオの背丈は成長途上のデルソフィアと同程度と、男としてはさほど大きくない。だが、恰幅のある体躯は抜群の存在感を放っている。
「デルソフィアよ、お前の言う通り、民を正道へと導くのが神皇帝である。その事実が揺らぐことは、古今東西、未来永劫あり得ぬ。従って、民の支えがあってこそ神皇帝がその役を果たせるというお前の言い分には皆目理解が及ばぬぞ。神皇帝がいるからこそ、民はその身を捧げて支えとなり得る。それに尽きるのだ。支えるものも無くして、支えを拵えて如何とする?それこそ、無駄、無益、無為の極みではないか。それに支えはあくまで支え。欠けたら補えばよいであろう。神皇帝一族でありながら、そのようなことすら分からぬか」
耳を疑った。思いも寄らない言葉が耳朶を打ち、デルソフィアの心の底に炎を騒つかせると、今度は理性の箍が外れていく。「それは父上の本心ですか?」と、辛うじて敬語を保ち、デルソフィアは問うた。
「本心?本心とは何じゃ?我が言葉は総て、真実じゃ」
決定打が放たれた。心の底の炎は、理性なぞ燃やし尽くすほどに苛烈に炎上し、デルソフィアの身内を縦横無尽に駆け巡った後、一点に集約されながら急速に冷えていった。そうすると、怜悧な刃がすぅっと心の底に出現した。
「民は、幸せや不幸せが天秤のように揺れ動く自身に右往左往し、主義や主張は希薄で、共通の目標も持ち得ないことが多い。しかし、俺はそれで良いと思う。幸せに生まれ、幸せに暮らし、幸せに死んでいく、それが何よりであり、それを望む民は至って正常だ。そして、民をそこへ導くことこそが、神皇帝の正道だ。確かに、民個々人の思いや感情が、ただそれだけでこの皇国の行き先を決することはあり得ないが、その一方で、民個々人がいなければ、皇国そのものが成り立たないということが、何事にも優る真実。それすら思い描けぬ神皇帝など、愚かな首魁以外の何者でもない」激するわけでもなく、哀しみを帯びるのでもない。ただただ明鏡止水の面持ちで、淡々と告げた神皇帝失権の烙印。
辺りは、怜悧な刃で息の根を止められてしまったかのように静まり返った。だが一人、刃を受け止め、己の刃を返してきた者がいた。他の誰でもない、フガーリオである。
「戯言はそれで終いか、この下郎め」
息子を下郎呼ばわりしたことが、フガーリオも余裕を無くしていることの証左といえたが、現神皇帝と相克の構図になる者が皇宮内に存在していることが、ほぼ前代未聞といえ、そんな前代未聞の渦中にあっても、フガーリオはまだ己を保てているといえた。一方、周囲といえば、皆が一様に黙して、語る言葉を持てていなかった。だが、それぞれの心内には、様々な思いが錯綜していた。
何という胆力だーー。不屈の性根を剥き出しにし、面従腹背ではなく真正面から神皇帝に異を唱えるという壮挙を為している。ジェレンティーナは我が弟ながら、その旗幟鮮明な姿に悉く驚きを禁じ得なかった。全世界の頂による憤怒と相対しても慄然とすることなく、凛乎として実父に対しているデルソフィアは神々しくさえ見え、また同時に端倪すべからざる存在だと感じた。
それに対して、我が実父はどうであろうか。神皇帝として全世界の頂に君臨するに相応の威厳を常日頃は感じていた。対峙した者の逆らう気持ちを萎えさせる高圧的な態度が常の実父だが、そんな態度なぞ圧倒するかのような雰囲気を纏いつつあるデルソフィアと比す現在、実父の矮小さが際立っている。己の眼前に蟠踞するこの事実は如何ともし難く思えた。
それを、フガーリオが覆し得たのは、デルソフィアと己の地位の隔絶を妄信するが故に為せる術であったといえよう。酷薄な微笑が残酷さを撒き散らし、静まり返る居室内に未だ剛健な声色を失わせずに響かせた。「謝罪しろ。床に這い蹲り、赦しを乞え。それが出来れば、今回は大目に見てやろう。出来ねば、お前の身は幽閉じゃ」
矮小なる者が放った最後通牒は、最大に近しい衝撃で居室内の空気を掻き回し、刹那の後、静寂を舞い降ろさせた。




