『5』
『5』
離宮への出立は夜まで待つこととなった。夜陰と人に紛れて皇宮を抜け出す。尋常ではない存在のデルソフィアを連れ出すには、これが最善であるとオッゾントールが提案した。
デルソフィアは今すぐにでも発ちたい心境になっていたが、高い関心事を前に、数刻の待ち時間など取るに足らないものだと感じられる器量も持ち合わせていた。オッゾントールの提案に素直に同意した。
出立は後九の刻と決まった。それまでデルソフィアは常と変わらぬよう過ごすこととし、オッゾントールはデルソフィアの居室に留まることになった。下手に別の場所で待ち合わせて動線が複数になるよりも、最初から一団として動いた方が、他の者に発見される可能性を低減できる。これも、オッゾントールの考えであった。後九の刻にこの部屋からデルソフィアとオッゾントールの二人で出立する。それで話がまとまりかけた時、これまでずっと黙っていたハーネスが口を開いた。
「私も同行いたします」いつになく力がこもった、断言するような口調だった。
だが、デルソフィアも毅然と返した。「駄目だ。お前も共に行き、万が一にも露見した場合、俺やオッゾントールと比して、お前への咎は確実に重いものとなる。それは、お前も分かっているだろう?」
「分かっています。それでも私はデルソフィア様の側仕です。ここぞと言う時に側におらずして、どうして側仕と言えましょうか。それに、離宮は湖に浮かぶ小島にあります。結果、湖を渡らねばなりませんが、定期船は当然使えません。オッゾントールさんは、手漕ぎ小舟を調達する考えだと思いますが、あれは実際に櫓を漕ぐ者と、最前列で長棒を用いて進行を司る者が必要です。デルソフィア様にその役割が担えますでしょうか?」
「できる」考えるよりも先に答えていた。できるできないではなく、やるかやらないかである。
「はい。できる…とは思います。しかし今回は、皇宮とネル湖の往来も含め明朝までに事を為さなくてはなりません。滞りなく事を進めるためには、往来の馬は二頭で、デルソフィア様には私と共に馬にお乗りいただきます。失礼ながら、後部に人を乗せて馬を御するのはオッゾントールさんよりも私の方が長けているからです。また、湖を渡る際には進行司をオッゾントールさん、漕ぎ手を私が務めるのが最善です。これであるならば、無駄な時の消失を抑え、離宮での滞在にも一定の時間を確保し、かつ明朝までに皇宮へ戻って来られる筈です」
デルソフィアはハーネスの話に一驚した。オッゾントールが話を始めて以降、一貫して沈黙していたハーネスだったが、頭の中では自らも同行するという絵を描いていた。
デルソフィアはハーネスではなく、オッゾントールを見やった。どうだ、と言わんばかりの誇らしげな表情をオッゾントールは浮かべていた。デルソフィアはハーネスへ視線を移した。自分も行くーー明鏡止水の面持ちだが、強い意志を感じさせる眼差しを真正面から向けてくる。デルソフィアは無言のまま頷くことで応えに代えた。
後九の刻を過ぎ後十の刻までの約一刻は、夜間とはいえ、皇宮内外を行き来する人の数は比較的多い。皇宮に仕える者のうち夜を徹して働く仕事の者を除けば、後九の刻前後にその日の仕事を終える者が多く、そのうち明日の仕事が休みの者などが、皇宮内の居室ではなく皇宮外街にある己の自宅などに帰るためだ。
夜陰と多人数に紛れる。オッゾントールの策は功を奏し、皇宮へ仕える一般民に変装したデルソフィアは難無く皇宮外へ出ることに成功した。変装についても余り極端なものにせず、ハーネスの乗馬服を借りて纏い、あとは日除けの帽子を被っただけであった。皇国の皇子が一般民に扮し、夜間に皇宮を抜け出すとは、立哨する門兵や衛兵たちの想定の遥か外であったのだ。
二頭の馬については、既にハーネスが皇宮の敷地外へと連れ出していた。デルソフィアはハーネスの馬の背に具え付けられた後部の鞍に跨った。オッゾントールが先導し、ハーネスとデルソフィアが追従する形で皇国西部に位置するネル湖を目指した。
デルソフィアはこれまでに複数回、離宮を訪れたことがあった。いずれも皇国および神皇帝一族の公式行事で、皇宮からは馬車に揺られた。幌を被った屋形の中からは外の様子をほとんど窺えないため、夜間とはいえ今まさに目の当たりにする街並みに好奇の視線を向け続けた。
皇宮周辺は民家の数も多く、また道々に設置された街灯火の数もそれなりであり、夜間とはいえ真っ暗闇ではない。それら民家を縫うように堀から流れ出る支流が走っており、流れる水面が民家から漏れる灯りや街灯火の灯りを乱反射している。この支流は水運に用いられているが、それだけではなく、支流傍に敷き詰められた石畳に目を向ければ、民が日常生活に活用している痕があちこちに散見された。それはまさに民の生活の痕跡であり、他愛もない風景であっても、デルソフィアの心にしっかりと刻まれていった。
また、皇宮での仕事、あるいは外街での仕事を終えて帰路についている者、酒場や食堂などの外に設けられた席で一日の疲れを癒している者など、まだ屋外にいる者たちも比較的多く見られた。彼らの中にはデルソフィア一行に視線を向けてくる者もいたが、夜間の馬行を物珍しそうにはするものの、その中に皇国の皇子がいると気づく者は一人もいないようである。門兵や衛兵らと同様、そうした発想に至らないのであろう。
話には聞いていたものの、民が屋外で飲食している光景を、デルソフィアは初めて目の当たりにした。開放感を伴い楽しげな様子である者が多い。中には既に簡易な卓に突っ伏すようにして眠りに落ちてしまっている者もいる。民には常の光景も、デルソフィアには悉く新鮮に映っていた。
皇宮から離れるにつれて、民家は疎らになり、田や畑の数が増え、さらには牧場や草地なども現れた。支流がまとまり幅員も広い河川となり、皇国北部と南部の海の方へ、それぞれ向かっている。海の近く、特に北の海辺へ行けば、漁を生業とする者たちの集落があるのだが、いま向かっているのは西部に位置するネル湖だ。
皇宮からさらに離れると、民家の類はなくなり、簡易的な小屋が所々に建つだけとなった。こうした風景は離宮のある西部方面だけに特有のもので、ハーネスに尋ねると、休憩所や販売所などに使われている小屋だと説明してくれた。これらは既に今日の活動を終えているようで、暗く静まり返っていた。
馬のために一度休憩しただけで、約三刻という時を、ほぼぶっ通しで駆け抜けた。駿馬である事実を明白に示した二頭も、さすがに呼吸を荒げていた。
デルソフィア一行の眼前に、再び家々が現れ始めた。離宮が近い証である。皇宮周辺に比べるとその数も多くはなく、一軒一軒の敷地は広かった。その多くが、皇宮に仕える実力者や財を成した一般民の別邸だった。離宮が、神皇帝一族の避暑や余暇のために建てられており、その周辺にも、そうした意味合いの建物が多いのだ。
立ち並ぶ家々を抜けると、視界が大きく開けた。馬の足音から、足下が砂利石に変わっていることが分かる。ネル湖の湖岸に到着した。闇の中でも、船着場と、そこに接岸している定期船が辛うじて見えたが、何ら物音もせず、人がいる気配もない。陽が注ぐ日中であれば、船着場の向こうには、離宮ロザリオ宮の威容が見える筈であった。
デルソフィア一行は、湖に沿って湖岸を進んだ。ロザリオ宮のほぼ正面から左回りで、ロザリオ宮の裏正面まで向かう。やがて先導するオッゾントールが手綱を引き、馬を止めた。目を凝らすと、馬の足下には、ひっくり返された状態の手漕ぎ舟が三艘、並んでいるのが分かった。砂利石の上に木板を敷き詰め、舟置き場にしているようだ。
闇の中からオッゾントールの声が届く。「ハーネスと共に、どこか近くに馬を繋ぎ留めに行く。デル坊はここで待て。あまりうろうろするなよ」
「わかっている」と頷き、その場に一人残された格好のデルソフィアは湖岸に立ってみた。記憶にある限り、ロザリオ宮の裏側に立つのは初めてであったが、闇に溶け込み、その威容を望めないのが残念だ。
何事にも表と裏があり、表ばかりを見ていてはその本質を見極めることはできない。本質を見極める眼を養っていかなければならない。卒然と、そんな思いに至り、一人で苦笑した。
僅かな時で、オッゾントールとハーネスは戻ってきた。恐らく馬を繋いでおく場所に当てがあったのだろう。駆け足で戻ってきた二人は何の迷いもなく、舟置き場にひっくり返されている舟の前後に立ち、オッゾントールの掛け声と共に上下を改め、持ち上げた。そのままゆっくりと湖の中へ歩み、共に膝部まで浸かった辺りで舟を湖面に浮かべた。ハーネス、オッゾントールの順で舟に乗り込む。
デルソフィアも二人に倣い、湖の中へ歩みを進めた。春を告げる東風は微風だったが、五ノ月の湖水はまだ冷たかった。オッゾントールが最前列で進行を司る長棒を持ち、ハーネスは中央部で後ろ向きになって艪を漕ぐ体勢に入っている。従ってデルソフィアは最後部から舟に乗り込んだ。ハーネスと向き合う形だ。
そのハーネスの向こうからオッゾントールが、「これは、仕事などで日常的に使われている舟じゃない。おそらく離宮周辺に別邸を持つ者の遊興用の舟だろう。ちょっと拝借しても何も問題はない」と説明してきた。
ネル湖は透明度も高く、非常に美しい湖とされ、皇国民からの人気も高い。特に、ロザリオ宮の裏側に広がる湖は、水浴びや水遊び、湖岸からの釣り、或いは舟に乗っての釣りといった場を来訪者に提供している。この深夜に水遊びや釣りをしている者はいなかったが、早朝ともなれば湖に繰り出してくる者がいないとも限らない。残された時間はそれほど多くはなかった。
それが分かっているであろうハーネスは、デルソフィアが舟に乗り込むと早々に艪を漕ぎ始めた。微風だった東風はほとんど止み、追い風、向かい風の影響は皆無に等しい。艪がぎしぎしと軋む音はするものの、舟の進行は滑らかで、瞬く間に速度が上がっていく。どうやら、この役割を担うと宣したハーネスは、手漕ぎを得意としているようだ。湖岸を発ち、半刻を少し超えた程度で、三人の乗る手漕ぎ舟はロザリオ宮のある小島に最接近した。
小島の大半を占める岩山を活用して造られた離宮・ロザリオ宮の裏側は断崖絶壁だ。ましてや深夜の闇に阻まれ足下も覚束ない中では、裏側から離宮に侵入するのは不可能に近いように思えた。
いったい舟を小島のどこへ接岸するのか。デルソフィアは最後部から前にいるニ人を窺っていた。湖岸を離れてからここまで、二人が接岸について話し合うことは無かった筈だが、既に答えは出ているかのように、舟を操り進んでいく。その進行から迷いは感じられなかった。
やがて舟は離宮の正面側へと回り込んだ。正面側にある離宮の船着場には定期船が停まっている。最大で三十人ほどが乗船できる定期船ではあるが、まもなく前一の刻をむかえる深夜では、人の気配は一切無く、新たな日の役目に備えて眠りに就いているようだった。そして手漕ぎ舟は、その定期船に寄り添うように、真横へと進入し、舳先が船着場に触れる寸前で停止した。
「……大胆だな」手漕ぎ舟に乗る経験が皆無で、ただ成り行きを見守っていたデルソフィアが思わずといった態で零した言葉に対し、「ここまで来たら、隠せるところは無い。定期船の隣が最も違和感がないと思う。神皇帝一族の来宮が予定されていない中で、離宮に仕え働く者たちは必要以上に物や物事に注視しないだろう。それが習い性だ。仮に、定期船の横に手漕ぎ舟があることに違和感を感じたとしても、それを即座に特段の異変と結び付けられる者は、そうはいないさ。ましてやこの闇だ。十中八九、大丈夫だ」とオッゾントール。長棒をハーネスへ手渡し、軽やかな動作で小島の船着場へ降りた。
そのまま振り返ると、デルソフィアの方へ顔を向けた。その瞳が、早く来るように促している。どうやら次はデルソフィアの順番らしい。無言で頷くと、オッゾントールに倣い、少し飛ぶように船着場へと移った。跳躍の際に必要以上に強く踏み込んだのだろう。その影響で舟は揺れたが、残されていたハーネスは何ら動じていなかった。オッゾントールから受け取った長棒と艪を舟上に横たえると、三人のうち最も自若とした態で舟から船着場へと渡ってみせた。
そんなハーネスの挙措動作には見向きもせず、船着場に立ったのも束の間、デルソフィアは眼前の闇へ厳しい眼差しを向けていた。闇の向こうにあるため、離宮・ロザリオ宮の威容は望めない。だが、肌の粟立ちが顕著に現れる。
この粟立ちは、離宮を前にした昂揚ではないと、すぐに理解する。船着場に降りた瞬間から、ひしひしと伝わってくる存在感。それを前にした緊迫感、圧迫感のようなものを身体全体で感じ、慄然とする。
いるーー。尋常ではない、肌の粟立ちを齎らす何らかの存在を確信する。
人か……いや、人ではない。
動物か……いや違う。恐らく生物ですらない。
やはり生霊、亡霊の類か。
確かめてやるーー踏み出そうとした時だった。
「デルソフィア・デフィーキル」
己の名を呼ぶ、聞き覚えのない重低音の声が、耳の鼓膜を通してではなく、脳内に突然届けられたように響いた。その刹那、全身が己とは別の意志を持ったかのように硬直した。
同時に眼前が白磁に染まり、現実感を失っていく。そこで、デルソフィアの意識は途切れた。




