『4』
『4』
風によって引き起こされた小さな波が、寄せては返していく湖岸に、翔ける足音が響いている。このネル湖の湖岸は無数の砂利石で埋め尽くされており、それらが響く足音を増幅させる役割を果たしていた。
ふと足音が止んだ。足音の主、ロビージオはまさに水際に立ち、ネル湖のほぼ中央に浮かぶ小島に聳立する離宮、ロザリオ宮の威容に視線を送った。
一般の民がロザリオ宮へと渡るには湖岸と小島を繋ぐ定期船を使うしかない。だが、通行証を持たぬ者は船に乗ることさえ許されなかった。従って、通行証を持たぬ一般の民は、湖岸から眼差しを向けるしかないのだ。
ただ、ロビージオは通行証を持っていた。ゴンコアデール院に属する者に与えられた特権の一つである。ロザリオ宮の地下には、皇国の兵士養成機関であるゴンコアデール院を立ち上げた創始者が祀られた墓碑がある。時間の許す限り、墓碑を参り、己の向上のほか、努力だけでは如何ともしがたい事象等の成就を願い祈ることが、ゴンコアデール院生に課された任務の一つだった。
湖岸の船着場で定期船に乗り込むと、既に六人が先んじており、そのうち三人は院生であった。いずれも顔を見知っていたが、このうち二人はアンに所属する下級生だった。もう一人、同じリーガに所属するアングォ・ペツプが柔らかな笑みを浮かべてロビージオを迎えた。片手を挙げ笑みに応えると、アングォの隣の席に腰を下ろした。
「お前も、公参りか?」とアングォ。
ゴンコアデール院を創設したプジィル・ロダンスカを、現在の院生たちは崇敬の念を込め、「公」と呼ぶ。常は、神皇帝一族に連なる者などへの尊称として用いられるのが主だが、ゴンコアデール院では創設者にも「公」を使う。
「ああ。明日が少し大切な日になりそうなんでね。公のお力添えを頂こうと思ってさ」オッゾントールから課された宿題のことは語らなかった。
ゴンコアデール院における通常の講義や実技実習等は非常に多岐に渡り、ひとつ一つの内容も濃い。これらに加え、プレミアやリーガになると、自身で考え出して研鑽を重ねていくための取組や、ロビージオのようにオッゾントールをはじめとする指導者たちから卒然と課された課題・宿題などを、皆が幾つも抱えていた。
また院訓の一つに、「己の事以上に他者のために尽くす」とあり、ここでロビージオが宿題のことをアングォに相談すれば、彼は一も二もなく、ロビージオと共にその解決や解答に向けて心血を注いでくれる。実際にそのように共に力を合わせて解決等すべき課題や宿題もあるのだが、今回の宿題はその範疇ではないと、ロビージオは思っていた。
従って、ロザリオ宮までの船内では他愛もない会話に終始した。いくら秀才ばかりが集まっているとはいえ、世間一般が好むような下世話な話題が皆無の筈はない。むしろ年齢的には、そうした話題が多くを占めていてもおかしくない。要は、抑揚をつけることが肝要であると、ほとんどの院生が理解しているのだ。
最終的に九人が乗り込んだ定期船は、四半刻あまりの時間で湖のほぼ中央に浮かぶ小島の船着場に着いた。降船するために並んだ列の最後尾にアングォ、ロビージオの順で続いた。
外に出ると、空は今朝方の晴天から曇天へと変わり始めていた。風が吹くと、ひんやりとした空気が流れる。
ロザリオ宮は、小島の大半を占める岩山を活用して造られていた。従って、船着場からは目と鼻の先の距離でロザリオ宮の敷地内となる。ロザリオ宮内部に入るにはまず岩山を削って造った階段を昇る。その段数は百一段。登り切ると木製の赤茶色の門があり、それをくぐると壁のない回廊が続く。ここでも回廊の屋根を支えるために等間隔で設置された木製の赤茶色の柱が目につく。回廊をしばらく進むと、岩山の上部に被さるように建立されたロザリオ宮の内部へと通じる扉が現れる。扉を抜けロザリオ宮内部に入ると、そこはやや広めの踊り場になっており、上階へ昇る階段と地下へ降りる階段とがある。
上階には神皇帝一族が避暑や余暇のために過ごす居室が一階層から三階層まであり、四階層部分と五階層部分はそれぞれ広大な浴場となっている。五階層部分には壁や天井、屋根といったものがなく、いわゆる露天の浴場であった。上階を使用するのは、基本的に神皇帝一族だけであり、踊り場から上階へと昇る階段付近には複数の衛兵が常に立哨し、監視の目を光らせている。
一方、ロザリオ宮の地下はまさに岩山をくり抜いて造られた。ロザリオ宮を訪れることが可能な者は誰でも往来が自由の地下は、一階層部分が衛兵をはじめ、ロザリオ宮を維持管理する者たちの居室や食堂、浴場等に充てられ、二階層および三階層部分に渡っては、これまで顕著な功績があった皇国一般民の墓碑が祀られている。ロビージオとアングォが目指すプジィルの墓碑は地下三階にあった。
岩山をくり抜いた地下には当然窓はなく、灯りはここそこに設置された燭台で燃える蝋燭によって齎されていた。ロビージオとアングォは地下一階および二階には立ち寄らず、真っ直ぐプジィルの墓碑へ向かった。地下へ降り始めてからは誰ともすれ違わない。今現在、墓碑参りをするのは二人だけのようだ。
地下三階に着いても、やはり人の気配はなかった。辺りは静寂に包まれ、二人の足音だけが交錯する。各々の墓碑は整然と並んでおり、目印とするようなものが皆無のため、慣れないうちは迷う者が多い。だが、ゴンコアデール院のリーガともなれば、何度もここへ足を運んでいる。最早、迷うわけが無かった。
プジィルの墓碑の前にロビージオはアングォと横並びで立った。眼前の黒色石の墓碑は、比較的質素な造りだが、重厚感を抱かせる。前面に姓名、向かって左側面に没年月日が刻まれている。
ロビージオ、アングォ共に瞳を閉じた。しばらくの間、微動だにせず屹立する。ロビージオは心の裡を包み隠さず曝け出した。オッゾントールの問いかけに対して、いま思っていること、感じていることを、オッゾントールの姿を目の前に仮想しながら、ぶつけていく。本人を目の前に、あれだけ詰まった言葉が今度は出てくる。あるがままに。思いのままに。それに間違いがないことをロビージオは確信した。
仮想のオッゾントールに十二分に思いをぶつけ、瞳を開けようとした時だった。どこからかの視線のようなものを感じた。それは隣にいるアングォのものではないようで、距離を置いた場所からの視線であった。それも定点からではなく、浮遊しているかの如く動き回っているように感じる。
誰だ?何だ?
身体中に急速に戦慄が走る中、懸命に心を落ち着かせるよう努めた。浮遊していることもそうだが、視線そのものに面妖な雰囲気が滲む。この世のものとは思えない、そんな表現がぴたりと当て嵌まる。
自然に、至極自然に瞳を開けて振り返った。だが、眼前には何もいなかった。不思議と、瞳を開けた途端、視線のようなものも感じなくなった。隣を見ると、アングォはまだ瞳を閉じて墓碑と相対していた。ロビージオの視線を感じたのか、アングォはすぐに瞳を開いた。
瞳を開いたアングォに特段変わった様子は見られない。あの視線のようなものを感じなかったのだろうか。瞳を合わせた状態での短い沈黙の後、顎をしゃくるアングォに促され、ロビージオは歩き出した。
二人は無言で歩みを進めた。やはりアングォは感じなかったのだなと思いかけた時、二人は上階へ昇る階段の踊り場まで戻ってきた。その瞬間、アングォは大きく息を吐いた。乱れた息遣いが踊り場にこだまする。何度か深呼吸し、呼吸が整い出すと口を開いた。「気付いたか?」
「何を?」と訊くまでもなかった。そうか、やはりアングォも気付いていたか。何度も頷きながら、ロビージオは「ああ」とだけ発した。
「何だと思う?」とアングォ。
長い沈黙を挟み、ロビージオは「分からん。だが……人ではないように感じた」と答えた。
「俺もだ。それに何というかこう巨大な……いや…巨大故に隠しきれない存在感のようなものが零れ出ている……そんな感じだった」
言い得て妙な表現だと思った。もう一度戻って確かめたい思いに駆られたが、何故か一向に踵を返せなかった。
いったい何だ?何がいたんだ?
背筋を流れる汗の冷たさに、ロビージオは今更ながら気付いた。




