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『3』

『3』

この扉の向こうには、色鮮やかな花々が咲き誇る花園が広がっているのではないか。そう錯覚するほど、馥郁たる香りが漂っていた。

デルソフィアは皇宮の六階、とある一室の前にいた。豪奢と気品が同居した扉のほぼ中央に備え付けられている呼出鐘を一度だけ鳴らす。一度だけ、しかも極力小さな音となるよう力を加減した。それは、この居室を訪れた理由が余り気の進まないものであったからに他ならない。

実は、この居室の主との会話はデルソフィアが日常楽しみにしていることの一つだ。だが今日は、会話を楽しむこと以上に、居室内でデルソフィアに与えられる役目に対し、照れを多分に含んだ戸惑いを禁じ得なかった。

何の反応も無ければ、そのまま引き返そう。そう思い実行したデルソフィアの小さな企みは水泡に帰した。重厚な音と共に、目の前の扉が内側へと開かれていく。四十五度ほど開かれたところで、扉の向こうから、馥郁とした香りと共に、一人の女が姿を現した。

スカーレット・ファルク。デルソフィアの実姉であるウィジュリナの側仕だ。動き回っても邪魔にならないよう束ねた髪を、後頭部で丸くまとめている。その髪型と、くりっとした円らな黒目がちの瞳によって、十九歳という実年齢よりも若く見えた。

「これは、デルソフィア様。お待ちしておりました」

扉を全開すると、デルソフィアを迎え入れた。扉を閉めると、デルソフィアを先導していく。スカーレットの背丈は低く、デルソフィアと比しても頭半分の差があった。その矮躯も、実年齢より下に見られる要因となっていたが、側仕としての有能さはハーネスに比肩し、得意とする弓の腕前も相当高いと聞いている。現に、スカーレットの右手甲には二つの星紋が刻まれていた。

居室の居間まで行くと、その中央に置かれた物に、デルソフィアの視線は釘付けとなり、「やはり、そうなのだな」と思わず独りごちた。実姉の姿は見当たらず、代わりに、直立の支持体に固定された真っ新なカンバスが、まるで居室の主であるような存在感を放っている。デルソフィアのこの居室における役目とは、実姉の描く絵の模特児となることだった。

その依頼を初めて聞いた時、デルソフィアは当然のごとく峻拒した。しかし、そんなデルソフィアの態度など、どこ吹く風の態でウィジュリナはとんとん拍子で話を進めていった。付け入る隙を一切与えずに話を進めていく実姉の姿は初めてではなく、デルソフィアもこれまでに何度か経験していたが、普段の優雅極まりない挙措動作や言動とは対照的ともいえる振る舞いに、従前同様に面食らってしまい、結局最後はウィジュリナの依頼に首肯していたのだ。

そんな遣り取りを思い出して苦笑を滲ませていると、居間奥の扉が開き、ウィジュリナが姿を見せた。辺りがパッと明るくなるような錯覚を覚え、馥郁たる香りが鼻腔を包み込んでいく。

白磁のような肌。乱れや解れなどとは無縁の艶やかな亜麻色の髪は腰部近くまである。少し吊り上がった大きな瞳は蒼みがかり、吸い込まれそうな程に清んでいる。鼻筋は真っ直ぐに通り、張りがあり滑らかそうな唇。顔を構成する部位ひとつ一つをとっても美しいが、それらが絶妙な釣り合いで配置されていることが、この圧倒的な美を創り上げていた。世界で最も美しき者。恐らくウィジュリナを前にした誰もが、そう思うのではないだろうか。

「デル、来てくれたのですね」ウィジュリナは心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。その美しさを前に、血の繋がりがありながらも、デルソフィアはやや気圧された。それを悟られぬよう「姉者たっての願いと感じたので」と、少し戯けた表情で返した。

変わらぬ笑顔のまま、ふふっと零したウィジュリナは、スカーレットに視線を促した。スカーレットは小さく頷くと、居間の壁際に据えられていた椅子を抱えた。手伝おうという姿勢を示したデルソフィアを左腕で制すると、椅子を支持体とカンバスから少し距離を置いた真正面へと運んだ。

それを見届けたウィジュリナは、「では、デル。その椅子に座ってくれる?座り方は……、そうね、まずは貴方に任せるわ」と言い、自らはカンバスと向き合った。

ここまで来たらもう観念するしかなかった。微苦笑は表情に張り付けたものの、常の足取りで椅子へ向かった。任せると言われた座り方にも躊躇はなかった。少し広めに足を開き、手を太ももの上に置いた。胸を張り、視線は真っ直ぐカンバスの裏側へと向けた。

「あら、なかなかの男前。もうデル坊ではなく、一人前の男ですものね。ねえ、スカーレット?」

「はい」とスカーレットは即座に首肯する。そこに世辞の類は感じられなかった。

「そのまま、あまり動かないでね」ウィジュリナは筆を手に取ったが、すぐには描き始めなかった。視線が、デルソフィアとカンバスを幾度も行き来する。

ただじっとし、その姿を繰り返し見られるというのは決して居心地が良いものではなかったが、デルソフィアは卒然と、動かなければ言葉を発するのは構わないのかと思い至った。絵を描く習慣がないデルソフィアには、その辺りの塩梅がよく分からない。試しに言葉を発してみた。

「姉者、一ついいかな?」

「何ですか?」咎めることもなく、ウィジュリナは先を促した。どうやら、言葉を発するのは良いのだと得心がいった。

「何故、俺の絵など?兄者を模特児にした方が、よほど良い絵が描けるのでは?」率直な疑問をぶつけてみた。

「そんなことはありませんよ。人には、ひとり一人に個性があります。個性とは、ただそれだけて尊く、どちらが優れている、劣っているという物差しで測れるものではありません。だから私は、その人の持つ個性を、少しでも表現できる絵を描きたいのです」

「個性か……」とだけ呟いた。己の個性がどのようなものか、実姉に問うてみたい思いが芽生えたが、今はやめた。何故だか後にとっておきたい気持ちであった。

「それにね、正直に言うと兄様の絵は、ちょうど一年前の今日から描き始めて、もう完成しているのよ」

初耳だった。実の兄と姉の間で、そんな遣り取りがあったことなぞ、露とも知らなかった。そして、ちょうど一年という時を経て、兄と弟に同じことを繰り返しているウィジュリナに対し、デルソフィアの疑問はすぐに口をついた。「姉者、今日はいったい何の日なんだ?」

「あら、デル。忘れてしまったの?今日はお母様のお誕生日よ」


次回の日時を約し、ウィジュリナの居室を辞したデルソフィアは、自らの居室へ向かった。今日が母の誕生日であることをデルソフィアは完全に失念していた。

失念……。本当に失念していたのだろうか。母の誕生日に纏わる記憶は皆無だ。失念していたのではなく、知らなかったのではないだろうか。思いを巡らせてみたが、答えは出なかった。

現在、この皇宮に母の姿を認めることはできない。もう幾年月も昔、夫である現神皇帝、そして何によりもジェレンティーナ、ウィジュリナ、デルソフィアという実子三人を残し、皇宮から母は姿を消した。それはあまりに突然で、何ら兆候も無かったことから、「何者かに攫われたのではないか」、「亡霊の神隠しにあったのではないか」といった類の噂が、雨後の筍のように、あちこちで聞かれた。結論から言えば、デルソフィアらの母の失踪に関連した事柄は、現在に至ってもすべてが謎に包まれたままだった。

残された側、特にジェレンティーナとウィジュリナの悲しみは相当深かった。長い間、二人が母の話題を口にすることはなく、周囲もまたその話題を避けた。

しかし、悲しみには時の流れが最良の薬となる。そしてやはり血の繋がった母子であるという絆。いつの日か再び会える筈だという思い。これらが相まって、いつのまにか兄や姉は、母の話題を平静の中で口にするようになった。

一方、ジェレンティーナやウィジュリナに比べ、やや幼かったデルソフィアは、母の突然の失踪という事実を、しばらくの間、理解できなかった。理解できなかったため、寂寞の感は兄や姉と比して小さかった。母はいなくなったーーただそれだけが、デルソフィアの中の敢然たる事実だった。また、神皇帝一族であるが故、周りに集い世話を焼く人には事欠かないという点も、母へと繋がる思いや行動を薄れさせた一因となった。

己の居室に近づくと、居室前では、ハーネスが一人の男を伴い待っていた。オッゾントール・ユウリ。現神皇帝の相談役の一人で、皇国の兵士養成機関であるゴンコアデール院の院長を務める男だ。

神皇帝の相談役は現在、三人が名を連ねているが、三十六歳というオッゾントールの年齢は最年少で、過去を遡っても極めて若年の相談役であった。天才ーーそれがオッゾントールを評する時に最も用いられる言葉であり、豊富な知識と優れた武力を併せ持つ、皇国きっての傑物といえた。

デルソフィアは、オッゾントールが話してくれる皇国内で起こっている出来事、皇国の外の世界、歴史回顧や未来の展望に、いつも聞き入った。オッゾントールと対峙するたびに、どんな話を聞かせてくれるのだろうという昂揚を抑えられなかった。

それは今回も変わらなかった。オッゾントールの姿を認めると同時に、高鳴っていく鼓動を自覚しつつも、「オッゾントール、今日は何用だ」と、平静な口調で問うた。

「デル坊が、そろそろ俺の話を聞きたがってるんじゃないかと思ってな」

オッゾントールもクリスタナと同様に、ジェレンティーナやデルソフィアに対して、身分をわきまえた言葉は使わない。ウィジュリナが、「もう呼べない」としたデル坊という呼称さえ、平然と用いてくる。だが、それらを厭悪する気持ちはまったく湧いてこない。寧ろ近しさを感じ、好もしく思うほどだ。

「ぬかしたな、オッゾントール」

デルソフィアの顔には、平静な口調とは裏腹に愉楽を隠しきれない表情が浮かぶ。

「おや?違うのか?」オッゾントールもまた、にやりと笑いながら問いかけた。

「いや、その通りだ。お前の話には常に高い関心がある」

強い興味を抱いていながらも、敢えて平静な口調を重ねる。デルソフィアの戯れであったが、そんなことを仕掛けるのはオッゾントールに対してだけであった。実兄姉との絆、側仕への信頼などとはまた異なり、憧憬と同時に朋輩であるといった気持ちにさせてくれる存在、それがオッゾントールという男なのだ。

この男を前にすると、己の左手甲に浮かぶ星紋について、相談を持ちかけたい衝動に駆られる。これまでに何度か行動に移しかかったが、その都度、思い止まった。そうすることで、今の二人の関係が崩壊する。卒然と湧き上がった思いに、デルソフィアはただ戦慄し、その点については口を噤み続けている。

居室に入り、居間へと進むと、オッゾントールは窓際に置かれた長椅子の左側に腰を下ろした。次いで、デルソフィアがその隣に座る。ハーネスは居間の入り口付近に立ったまま控えている。

オッゾントールは唐突に話を始めた。それは、皇国の離宮の話であった。皇国の西方に位置するネル湖に浮かぶ小島にある離宮は、その名をロザリオ宮といった。その存在を問われたデルソフィアは、「もちろん知っている」と答えた。

オッゾントールは続け、「そのロザリオ宮に最近、初代神皇帝ヌクレシア公のお父上であられるバルマドリー公の亡霊が現れるらしいのだ」と真顔で語った。

「亡霊だと?馬鹿馬鹿しい。霊など、あり得ん話だ」デルソフィアは鼻を鳴らし、言下に否定した。

「見たと証言する者がいるのだ。しかも複数人に及んでいる。あり得ん話としてしまうのは早計ではないか?」

デルソフィアは思わず唸った。証人や証言の数が多いほど、それは真実に近いのは確かだ。だがここで卒然と疑問が生じた。何故、離宮なのだろうか。バルマドリー公は、まさに皇国の礎そのもの。仮に亡霊が現れたのが真実であるならば、この皇宮に現れるのが本筋ではないだろうか。デルソフィアは、その疑問をオッゾントールにぶつけた。

「それはまあ……分からんよ」オッゾントールの答えは拍子抜けするものだった。しかし、続く言葉にデルソフィアの鼓動は跳ねた。「分からんことばかりだから、この瞳で確かめたいと思っている」

よく見ると、オッゾントールは乗馬服を纏い、これからまさに馬で出掛ける者のような格好をしていた。

「これから向かうのだな。よしっ、俺も共に行くぞ」デルソフィアは立ち上がり、オッゾントールの目の前に屹立した。そんなデルソフィアを見上げながら、オッゾントールは苦笑する。

「まあ待て待て。まずは私が行く。デル坊の立場で、簡単に離宮に行けるわけがなかろう。ほら見ろ。ハーネスが困った顔をしているぞ」顎をしゃくり、視線を促す。果たして、オッゾントールの言葉通りの表情がハーネスの顔に張り付いていた。

「構わぬ。ハーネスは知らなかったこととすれば良いではないか」

「私が構うの。無断で神皇帝の皇子を連れ出し、その行き先が離宮であることが明らかになってみろ。私は職を失うぞ。衣食住も不確かになり、やがては命を落とす危険性も…」

皆まで言わせなかった。「大袈裟な。其方の権謀術数をもってすれば、容易く切り抜けられるであろう。俺も連れていけ。これは命令だぞ」

命令か。オッゾントールは押し黙り、改めてデルソフィアを見上げた。

家臣の事情になど頓着せずに命令する。それは傍若無人な姿にもとれるが、家臣の顔色を伺い決断が右往左往する小者とは違い、王たる者の資質の一つである、とオッゾントールは思っている。それに眼前のデルソフィアからは、立場が上という事実だけを基に命令している者とは異なり、真摯さがひしひしと伝わってくる。命令だと口にしてはいるが、それは願いであった。若年者の真摯な願いを無下に断る程、己の器量は小さくないという自覚もある。

オッゾントールは決断した。「よしっ、共に行こう。ただし、俺の命には絶対に背くなよ」

主従が逆転した物言いであったが、もちろんデルソフィアは咎めない。好奇と喜びを満面に広げ、「分かった」と頷いた。

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