『2』
『2』
諦めが積み重なることで、真に為すべきことへ到達できる。これは真実であると思うかーー。昨日の師の問いかけが、ロビージオ・マクマンの頭の中に居座り続けていた。
その問いかけは唐突だった。実技の稽古を終え、当番であった道場の掃除をしている時、突然背後から放たれたのだ。振り返ることはできたものの、戸惑いの態で表情を固めたままのロビージオに、師であるオッゾントール・ユウリは笑みを称えながら、「もう一度繰り返すかい?」と訊いてきた。
これには首を横に振ることで応えを示すことができた。だが、最初の問いかけには、すぐに答えを返せなかった。問いかけを頭の中で反芻するものの、回答に至る思考回路は、憧れよりも崇拝に近い者の存在を目の前にした昂揚で遮断されたまま、機能を果たせずにいる。
「あっ、うっ、あっ、え……」狼狽が言葉にならない発声を促す。
師の印象に残りたい、師の心に何かを刻みたい、常日頃の夢想を実現する好機であるというのに、それが萎んでいってしまう。こんな好機はもう二度と訪れないかもしれないぞ、と己を奮い立たせようとする想いは浮かんでくるが、遮断された思考回路は迷宮へと化していく。ロビージオは項垂れ、今にもその場にへたり込みそうだった。
すると、「顔を上げなさい」とオッゾントールが言った。何とかその言葉に従い、ロビージオは顔を上げ、師と対峙した。
「即答できる類の問いではないよなぁ」と思案顔をつくったオッゾントールは、右手の人差し指を立てると、「よし、次回までの宿題」と口にして、頬を弛緩させると同時に視線を和らげた。くるくる変わる表情や視線、相次ぐ言葉に、ロビージオは再び戸惑いの態で表情を固めたが、次第に師の言葉がまさに闇を照らす光明であることを痛感していく。
「次回だが、明日は休みだから、明後日だぞう」そう言い残して、オッゾントールは道場を去っていった。その後ろ姿を、ロビージオはただ見送ることしかできなかった。師の問いかけに何一つ言葉らしい言葉を返せなかったことに対する悔恨はもちろんあったが、それと同等、もしくはそれ以上の安堵がロビージオの身内を満たしていた。
安堵感と時間経過によって落ち着きを取り戻したロビージオの思考は、オッゾントールの問いかけの意味をおおよそ理解できた。そこから今この時まで、ほぼ一昼夜をかけ、ロビージオは師の問いかけに対する答えを必死に推敲した。
気の利いた答えは何か。どう答えれば師の印象に深く残るか。ぶつぶつと独り言を繰り返し家の中を歩き回るロビージオの姿は、傍から見れば奇異そのものだったが、幸いにもロビージオは独り暮らしであった。
思考に没頭して何も食べずに夜を越えてしまったが、朝の明かりを視界に捉えると、さすがに空腹を感じた。思考を一旦止めるよう、両の手で己の顔を何度も叩いた。
ロビージオの家は、皇宮より少し西に行ったプンシャー地区にあった。家の外に出ると、朝焼けの空の眩しさが不眠の瞳に刺さった。裏手に回り井戸から水を掬い上げると、ロビージオは顔を洗った。よく冷えた水が、程好い刺激となり心身共にさっぱりすると、さらに空腹感が増してきた。
独り暮らしのため、朝食は自ら用意しなくてはならないが、それをロビージオは苦にしない。物心がついた頃には既に父親はなく、
母ひとり子ひとりの家庭で育った。そのため、母を手伝うという形で、家事全般が自然と身に付いていった。
近所でも有名な仲良し母子であり、無償の愛を溢れるほど注いでくれた母のおかげで、父親の不在を寂しく感じることは一度もなかった。そんな母も約三年前、ロビージオが十三歳の時に感冒をこじらせ亡くなった。以来、ロビージオは母と二人で暮らした家で、そのまま生活を続けている。
生きて生活していくために不可欠なものの一つに金がある。突然だった母の死によって、十三歳で天涯孤独の身となったロビージオに、金を稼ぐ術は何も無かった。母の死に悲しみ明け暮れる時が過ぎると、この先どのように暮らし、生きていけば良いのか分からず、途方に暮れる時が訪れた。
だが、途方に暮れる中で信じられないことが起きた。母が遺してくれた金があったのだ。母子ニ人の暮らしは決して裕福とはいえず、その日その日を懸命に生きてくことで精一杯だった。そんな暮らしも愛が溢れていれば、何も不満はなかったが、金の面で蓄えがあったとはロビージオも想像だにしていなかった。
しかも、母の遺した金があることをロビージオに明らかにしたのは、現在の師であるオッゾントールの部下だった。皇国において兵士、ゆくゆくは士官級、さらには将校級になる者を育成する機関の長であるオッゾントールに、母は自らの蓄えを託していたのだ。しかも母は、己に万が一があった時、息子の身元を引き受ける先をオッゾントールの率いる機関とする誓約も交わしていた。母とオッゾントール、この二人の関係は未だに分からないままだ。母はもう無く、オッゾントールに直接問い質すこともできず、周囲の人間たちの多くには事実そのものすら伝えていない。恐らくこの事実を知るのは、オッゾントールをはじめ僅かな人間だけであると思う。
いずれにしても、予想外の展開にロビージオはただ驚かされるだけだったが、愛という名の下に、母が遺してくれた奇跡のような道標に、ひたすら感謝した。以降の約三年間、ロビージオは金の面で苦心することもなく、オッゾントールの下で、優秀な皇国兵となるべく、修練を重ねてきた。
途方に暮れる中での光明は、母が遺してくれた奇跡で間違いなかったが、兵士となるべく努力を積み重ねる中、或いは日々を暮らしていく中で、ロビージオを導いてくれるのはオッゾントールという存在であり、その導きの強さや大きさ、正当性や意外性、真髄を目の当たりにするたび、その存在は憧れへ、さらには崇拝するものへと変わっていった。
オッゾントールが率いる兵士養成の機関は、ゴンコアデール院といった。皇国内の二十歳に満たない十代の男女のうち、超難関といわれる一般試験をくぐり抜けた者に、ロビージオのように推薦という形で入門する若干名を加えた約九十人が学んでいる。
ゴンコアデール院の学級は年齢で三つに区分されている。数え年で十九歳と十八歳のプレミア、十七歳と十六歳のリーガ、十五歳と十四歳のアンが、それに当る。多少の増減はあるが、一つの年齢で約十五人ほどしか入門できず、それこそ皇国中から集まった秀才たちの中でも極めて優れた人材だけが集結しているといえる機関だ。
ロビージオは現在、アンを修了し、リーガ︎に在籍している。超難関の入門試験を経ていないロビージオだったが、人一倍持ち合わせている努力を積み重ねられる才能をいかんなく発揮し、秀才あるいは奇才、鬼才といった類の同級生たちと比しても特段落ちこぼれることなく、入門四年目を迎えていた。
鶏の卵と腸詰の肉を用いて調理したものを白米の上に載せ、刻んだ葉野菜をまぶした料理で朝食を済ませたロビージオは、家の屋根へと上がり大の字に寝そべった。眼前に広がる空は青く澄み渡り、どこまでも高かった。
オッゾントールの問いかけに対する思考を再開したが、視界に広がる空の広さ、大きさを前にすると、良いことを口にして師に好印象を与えたいという己の浅薄さに対し、憐憫の情すら催した。
追従する必要などない。今思うこと、感じていることを伝えよう。何故あの時、その思いに至らなかったのか。ただただ、その一点が悔やまれるが、もう済んでしまったことだ。過去の再生を願うことばかりに費やすような時間はすべからく、未来へ繋がる現在の道標の探索に費やしたい。
ロビージオは起き上がると、屋根の突端に立った。ゆっくりと空を仰ぎ、大きく息を吸い込むと、息を止めて静止した。それも束の間、止めていた息を吐き出すと同時に屋根を渾身の力で蹴り、その場から飛んだ。左右に大きく腕を広げ、纏わりつく空気、風も翼にして飛び出す姿は、まさに巣立ちを迎えた雛鳥のようであった。