『22』
『22』
紅色の花吹雪が、直線と曲線を自在に組み合わせたように舞っている。花弁を舞わせている風だが、木々からその美しさを奪った罪と、辺りに幻想的な風景を作り出した功との両面を備えたまま、止む気配を一向に見せなかった。
吹き止まぬ風は突如、地に落ちた花弁を舞い上がらせるような颶風に変貌し、花吹雪の只中を歩んでいたロビージオの視界を深い紅で染めた。瞳に映るその鮮やかな紅が幕の役割を果たしていたが、颶風が去ると同時に幕も消失し、再び現れた幻想的な花吹雪の中に、ロビージオはニチェンテの姿を認めた。
待ち合わせた時間にはまだ少しあり、かつ、待ち合わせた場所の方から歩んでくるニチェンテ。その行動は、逢いたいという強い気持ちの発露であると、望みが半分、確信が半分の態で考えたロビージオは、次の瞬間、照れ笑いを浮かべていることを自覚したが、花吹雪がそれを暈してくれる筈と信じた。
こうしてニチェンテと二人きりで逢うのは、もう何度目になるだろうか。逢瀬を重ねても新鮮味が薄れることはなく、むしろ毎回、鼓動は強く弾んでいる。二人の未来図はまだ何も想像できないが、白地図を前に、これから如何様にも作図していける喜びは何物にも優る。ニチェンテも同様に感じていてくれたら、満腔の謝意を抱擁という形で表してしまいそうだ。
特に言葉で挨拶を交わすことなく、微笑を浮かべることをそれに代え、二人は自然と並んで歩き出した。目的地が決まっていなくとも、お互いに問い掛けることはしない。二人が共にいることで十分に満たされている。目的地に向かって急ぐこともなく、無限の広がりを秘めた可能性に浸り、花吹雪が舞う幻想地帯を抜けてしまっても、心は一切粟立たない。
幸福ーー。それをロビージオは実感していた。母を亡くして以降、ロビージオは独りだったが、ゴンコアデール院の中に身を置けば、オッゾントールやネマルをはじめとした指導者たちや、多くの院生が周りにあり、孤独を感じることはなかった。
だが、今、ニチェンテと共にあることで強く抱いている幸福感というものは果たしてあったのだろうか。日々の厳しい課程に必死に取り組んでいく充実感が確かにロビージオの心の多くを占有し、満たされていることによる心地良さを齎してくれていた。
一方、かつて母が与えてくれていた幸福、世の中の家族が与え合って分け合っている幸福、そうした幸福については、求める気持ちを、いつの間にか心のどこかへ仕舞い込んでいた。確かに存在しているのに敢えて目を閉じて見失わせるように、求めることも忘れていた幸福というものをニチェンテが思い出させてくれた。
何も家族でなくとも、幸福を与え合ったり分け合ったりすることはできる。家族でないからこその関係性において生じる幸福もある筈だ。そのどちらが上で、どちらが下ということもない。幸福の優劣、大小、そんなものを測る物差しなぞ、この世のどこにも存在せず、それを決め得るのは当事者達だけだ。
ニチェンテと共にあることが幸福。だから、また逢いたくなる。
逢いたいと願う人がいるという幸福。連鎖する幸福に、ロビージオは今まさに触れている。
宛てもなく歩いていたロビージオとニチェンテが、歩みを止めて腰を下ろしたのは、離宮ロザリオ宮に向かう路の途中、小川に掛かった木製の小さな橋だった。二人が座っている小さな橋は、徒歩で渡る人が使う橋で、荷馬車などが通る少し大きな橋も、並ぶように小川に掛かっている。
橋の下の小川は流れも緩やかで、水深は大人の膝あたりまでしかない。水面はきらきらと陽光を反射し、時折垣間見える澄んだ水中には種類豊富な魚たちの姿も見える。
「俺が子供の頃は、よく川に入って魚の掴み取りをしたんだ」ロビージオは両手で魚を掴む真似を繰り返した。
「掴み取りって、素手で?」
「もちろんそうだよ。これでも、掴み取りは得意だったんだ。一日に何匹も捕まえたこともある。たくさん持って帰ると、母さんも喜んでくれた」
「お母さんは一緒にやらなかったのね。じゃあ、ロビージオは誰に掴み取りを習ったのかしら?」魚を掴む真似をしたロビージオをさらに真似ながら、ニチェンテが訊いてきた。
「そういえばそうだな。気にしたこと無かった。掴み取りをしていた記憶はあるけど、習ってる時の記憶は無いな」脳裏には、魚を持ち帰ったロビージオを満面の笑みで迎え、頭を何度も撫でる母の姿が鮮明に浮かび上がっていた。付随する他の記憶も探ろうとしたが上手くいかず、微かな頭痛を覚えた。
「きっとすぐに覚えたのね。だから、記憶に残ってないんだわ」と言い、ニチェンテは魚を掴む真似を再び繰り返した。
そう……なのだろうか。
いや、ニチェンテが言ってくれているのだから、きっとそうなのだ。魚を掴む真似を繰り返すニチェンテの姿に愛おしさが溢れ、ロビージオは微笑みを返した。
同じく微笑みが返ってくると期待したが、ニチェンテは、「そういえば、皇子の話って何か聞いてる?」と、やや唐突に話題を改めた。
「皇子って、神皇帝一族の皇子のこと?」
「うん、そう」
「いや、何も。神皇帝一族の皇子は何人かいると思うけど……一体どの皇子のことだい?」
「デルソフィア皇子の話」と、ニチェンテは即答し、風に揺れている髪を手でまとめた。
ロビージオは、「デルソフィア皇子……」と呟くと目を閉じ、瞼の裏にその姿を思い浮かべてみた。
個人的に話をしたことはもちろん無いが、祝賀や式典などにおいて、比較的近くで見たことはある。同い歳であることも知っている。神皇帝一族にあって、ジェレンティーナ皇子、ウィジュリナ皇女と共に、極めて美しい容姿をしており、確か、この三人が神皇帝第二皇姫の子だった筈だ。
「デルソフィア皇子が、どうしたんだい?」瞼の裏にある皇子の鮮明な姿に満足を覚え、目を開けながらロビージオは訊いた。
「なんかね、オッゾントールさんを殺害した犯人を探してるんだって」
「えっ?本当かい?」
「うん。神皇帝一族の皇子が、必死になって犯人を探していることに、感銘を受けている人もいるみたいだけど、どちらかといえば、何か別の意図があるんじゃないかって訝る人の方が圧倒的に多いみたい。真実を捻じ曲げるための見せかけなんじゃないかって」
「真実って?」
「さあ、それは分からないけど」
果たして、そうだろうか。
何者よりも常に優先される日々を饗応しているのが神皇帝一族で、何一つ不自由なく過ごしている。それが神皇帝一族へのロビージオの大雑把な認識だ。
そして、皇国民の上にある神皇帝一族とはそういうもので、そこに対する不平不満は皆無と言えた。恐らく、多くの皇国民も同じだと思う。
デルソフィア皇子にしても、言葉を交わしたこともなく、どのような考えを持っていて、物事に対してどのような見方、捉え方をするのかも知らない。
だが、何故だろう。今は、その名を聞くだけで、当たり前の神皇帝一族像とは異なる存在なのではないかという思いが心に差し込まれてくる。
皇国民の上にある存在ーーその事実を受け入れてはいるものの、そうした存在であるために、常に己を律し、むしろ平民でいることの方が遥かに生きやすいくらいの使命感を抱きながら、日々を歩んでいる。苦しみや悲しみが降り注ぐ時も、蹉跌を来して握り締めた拳の落とし所が見つからず悶える時も、いつだって孤独であり、だがそれらに打ち克ち続けることで、己を孤高へと昇華させた。
そんな姿を想起する。
神皇帝一族としては異端。しかしそれは、民にとっては希望であり、光なのではないか。不変の皇国、誰もがそれで良しとしている神皇帝一族の在り様、それらを発展的に進化させ得る存在なのかもしれない。
デルソフィア皇子に対する想いが次々と溢れてくる。
「どうしたの?」
湧水のような想いの創出を、ニチェンテの声が堰き止めた。たが、不快さは無い。むしろ、心は高揚している。
「いや、俺も負けていられないなと思ってさ。皇子に倣って、自分に出来ることをやらなくちゃ」
「そうね」と言い、ニチェンテは隣に座るロビージオの腕をさすった。
オッゾントールを失い、失意の底にいたロビージオを叱咤激励し、再び立ち上がらせてくれたのはニチェンテだ。デルソフィアの話に触れ、さらに力強く歩みを進めようとするロビージオの発言に違いなかったが、その言葉を聞いたニチェンテの表情に、幽かに暗い影が差し込んだことには気付けなかった。




