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『17』

『17』

世界を救うーーその偉業にも、はじまりの一歩はある。あまりにも巨大な事柄を前に揺れ惑った己を恥じはしない。

向き合う覚悟はできた。

世界を救うという途方も無い使命に、その全容を掴めず四苦八苦したが、最初から全容を掴もうとすること自体が無謀な試みであった、と今は思える。手探りで歩みは遅く一歩一歩でも、そんな態で、丁寧にきちんと積み上げていくことのみにおいて初めて、完全形が見えようという類のものである。全容を掴めずに戸惑い立ち竦むより、まずは踏み出してみることが大切であり、それが全ての始まりなのだと痛感している。

今、できること。

今、しなくてはならないこと。

たとえそれが極小と感じるものであっても、何もしないでいる無と比べれば遥かに意義がある。オッゾントールの死の真相を明らかにする。それが今、デルソフィアが自身の最大限をもって尽力する事柄である。

実際に動き始める前に、デルソフィアはそれまで秘していた左手甲に出現した星紋のこと、初代神皇帝ヌクレシア・デフィーキルの魂と邂逅したことをハーネスに明らかにした。それによって、デルソフィアとハーネスの絆は、さらに強いものとなった。

ただ、話を聞いた当初のハーネスの反応は、デルソフィアにも想定範囲内のものであり、俄かには信じられない、と言葉にはせずとも、表情が雄弁にそう語っていたのだが、そんなハーネスの反応に、デルソフィアは何ら不快感を催さなかった。当然のことである。

左手甲に出現した星紋は、そのもの自体をハーネスにも見せたため、百聞は一見にしかずの字義通り、その瞬間から理解を一気に深めたようだった。

一方、ヌクレシアの魂との邂逅は、その事実を示す証が何一つ無く、己の言葉のみで信じてもらうしかなかったわけだが、真実であるとハーネスが受け入れることへの疑義はデルソフィアの中に皆無だった。そんな自信も決して過信ではないと証明するように、デルソフィアが詳細な話を進めるうちに、ハーネスの顔付きは変化した。

衝撃を受けたかのような表情、不安定であった眼差しは、話の一つひとつをきちんと咀嚼しているかのような表情、語尾や声音の微かな違いすら聞き逃さないという強い意志を称えた眼差しへと変わっていった。そして、すべての話を聞き終えたハーネスが最初に発したのは感謝の言葉だった。

「ありがとうございます。デルソフィア様が御心の奥深くに留められていた秘め事を、私なぞにお話しいただけるとは感無量でございます。お話しいただきました全て、この胸にしかと留め置きます」跪き、そう言った。

「全て……か。ふむ、星紋の方はよい。だが、ヌクレシア様との話は、そう、例えば俺が創作した戯言や嘘だとは思わんのか?」デルソフィアが話を終えた後から、明鏡止水の面持ちをまったく崩さないハーネスを前にして、デルソフィアは思わずそう訊いていた。

「思いません」

「何故だ?」

「自負でございます」

「自負?」

「左様でございます。恐れながら、デルソフィア様が尊敬してやまないヌクレシア様に関するお話を、同じくヌクレシア様への尊敬、畏敬の念を禁じえない私にしてくださるにあたって、嘘や戯言が入り込む余地など存在する筈が無いという自負でございます」

これには参った。はっとさせられ、言葉が継げず、翻然と試すような問いを投げかけた自身を恥じた。

思えば、ハーネスは常にこうであった。何事にも泰然自若という域にはまだ若干足りないかもしれないが、自身の中で一旦咀嚼できたものに対しては途端に肝が座る。

「すまぬ。下らぬ問いかけをした」デルソフィアは素直に謝罪した。

実はこれも容易いことではない。世界の頂に君臨する一族の者ともなれば、頭を下げてくる者は雨後の筍のように後を絶たないが、頭を下げる相手は多くない。そんな環境にあり、それに藉口していけば、次第に過ちを認めることや謝罪するといったことを身に付けるのは非常に難しいものとなる。誰が相手でも、自身に非があれば即座にそれを認めて素直に謝罪することができるデルソフィアは、神皇帝一族にあって稀有な存在といえた。

ハーネスはデルソフィアの謝罪を、笑顔で頷き受け止めた。主人の謝罪に対して必要以上に慇懃無礼な振る舞いをしないところも、デルソフィアがハーネスを好もしく思う点であった。

笑顔の後、真顔に戻ったハーネスは訊いてきた。「世界を救う。その第一歩がオッゾントールさんの死の真相を明らかにすることなのだと、デルソフィア様はお考えなのでございますね?」

「その通りだ」全てを話さずとも伝えたいことの全容をほぼ解してくれるハーネスの存在に、改めてデルソフィアは己の心が弾むのを自覚した。

その後二人は、時に何ら頤使を強制することのない従来の主従のように、また時に長年の親友のように、まさに肝胆相照らして話を重ねた。

ハーネスによると、オッゾントールを殺害した犯人の捜索には、皇国軍の治安維持部隊と、皇国街の民が組織する自警団があたっていた。両組織の人員を合計すれば、相当数に上っていたものの、街の隅々まで把握している自警団に対し、権力や地位を振りかざしてばかりの治安維持部隊という構図では、密な連携は皆無で、捜索が遅延する最大要因となっていた。

質より量という状態の治安維持部隊や自警団だけに任せていても、捜索の進展は期待できない。少人数であっても、質の高い捜索を行えれば、必ずや真相を明らかにできる、デルソフィアもハーネスもそう信じた。

さて、まず何をすべきか。二人が導き出した解は、以心伝心したように同じだった。

現場へ行くーー。

力強く頷き合ったが、この日は既に宵闇に包まれていたため、明朝早く、皇宮を出て、オッゾントールが殺害されていた礼拝堂へ向かうことを約束した。


翌朝、一般民に変装したデルソフィアはハーネスと共に皇宮を抜け出した。デルソフィアにとってこの手の変装は、最早お手の物になりつつあり、大正門の衛兵の表情にも疑義はまったく差し込まれなかった。

夜明け直後であったが、皇国街には人の往来が幾つも見られ、礼拝堂のある十字路も例外ではなかった。

デルソフィアの脳裡に、あの日の惨劇が蘇り、オッゾントールの死に様が鮮明に浮かび上がった。胸が痛みを覚え、怯みそうになることを自覚する。

それと同時に、すぐそばに立つハーネスの存在を認める。踏み止まり、反転、奮い立つための力が滲み出てくる。

「行こう」ハーネスへ語りかけ、デルソフィアは一歩を踏み出した。

オッゾントールの殺害現場は、本当にここがそうであったのかと疑いたくなるくらい、平常を取り戻していた。礼拝堂を訪れる者は常日頃からあるわけであり、オッゾントールの殺害現場であることが、それを阻む理由になってはいけない。そう、デルソフィアは思った。そして、「民のため」という不屈の性根をデルソフィアに植え付けたオッゾントールもまたきっとそう思うだろう。

デルソフィアは礼拝堂への入口である白磁の扉の前に立った。オッゾントールの血液によって点在していた深紅の染みは、今はもう綺麗に拭われており、朝焼けの光に映える白磁は厳かな美しさであった。

その扉に一旦触れた後、デルソフィアは身体を反転させて扉を背にした。それまでと違った風景が広がる。果たしてこれは、オッゾントールが最期に目にした景色なのだろうか。

視界の中心には皇宮の威容が蟠踞し、十字路を往来する人々がいる。そんな人々を目にしているうちに、デルソフィアの中に当然ともいえる疑問が浮かんだ。

朝早くても、これだけの人の姿があるのだ。日中であれば、もっと多くの人の目があるだろう。この場で殺害されたとしても、別の場所で殺害された後、ここへ運ばれたとしても、そうした現場を目撃した者はいないのであろうか。

いや、いくら捜索が遅延しているとはいえ、目撃者の類の話は真っ先に聞き込まれる筈である。そうであるのに、目撃者に関連した話が聞こえてこないのは、目撃者が見つかっていないことを示している可能性が高い。

一方で、関わりになるのを避け、名乗り出ていない目撃者が存在しているかもしれない。まずは、目撃者を探そう。

そうハーネスに告げようと、視線を向けた時だった。

デルソフィアは、これまでに一度も見たことのないくらいの度合いで、ハーネスの表情に焦燥が滲み出ていることを認めた。思わず言葉を失った程である。

だが、待っていてもハーネスから言葉は発せられそうになかったので、きっかけを作るべく問いかけた。「ハーネス、一体どうした?」

デルソフィアの問いかけで我に返ったように、ハーネスは背筋を伸ばした。その刹那、上半身が折れてしまうのではないかと思う程の勢いで、頭を深々と下げた。

問いかけに答えるのではなく、深い謝罪の意を示している眼前のハーネスを見て、デルソフィアはさらに困惑を深めた。何らかの蹉跌をきたした時などに、とりあえず謝罪の意を示して、その場を凌ごうと考える者も多いが、ハーネスがそのような小者ではないことは、デルソフィアもよく知っている。故に、事の重大性をデルソフィアは感じた。ただ急かすことはなく、まるで凍ったように固まってしまったハーネスを溶解させるよう、常と変わらぬ声色で同じ言葉を繰り返した。「一体どうした?」

それでもハーネスはすぐに反応を示さなかったが、デルソフィアが黙して待っていると、深々と頭を下げた状態のまま、口を開いた。

「まっ、まことに、まことに申し訳ございません。大切なことを失念したままでありましたことを、たった今、思い出しましたっ。オッゾントールさんからデルソフィア様へのご伝言をお預かりしていたのです」ハーネスの声は震えていた。

「伝言……、伝言とは一体何だ?どんな伝言だ?」思いがけぬ言葉を聞かされ、デルソフィアの口調に詰問の色が若干滲んだ。

ハーネスは頭を下げたままで続けた。

「オッゾントールさんにデルソフィア様がお会いしたい旨を伝えられた翌日、オッゾントールさんが殺害された日の朝になるのですが、オッゾントールさんの遣いの方が私の居室を訪ねてこられました。その方はゴンコアデール院生であることを明かされ、朝の忙しい時間帯の突然の訪問を詫びられると、伝言を一つして、すぐに部屋を出ていかれました。その伝言とは、その日の後一の刻に私と共にデルソフィア様のもとを訪れることになっていた約束の場所を、デルソフィア様の居室から皇国街の礼拝堂、まさに今いるこの場に変えてほしいというものでした。すぐにデルソフィア様にお伝えすべき事柄でありますのに、朝の早い時間帯であったことを必要以上に慮り、また前刻の忙しさに呑み込まれ……、怠りました」

ハーネスは一切、己を庇蔭することなく吐露した。悽愴にすら見える姿に、デルソフィアには思わず込み上げるものがあった。

当日、ハーネスがオッゾントールの伝言を伝え損ねた要因は、苛烈なまでの忠誠心の表れと言えよう。その後、今この時まで失念していたことに関しても、「無理もないこと」と思えた。

オッゾントールが殺害されたという事実は、ハーネスにも相当な衝撃を与えたであろう。加えて、仕えるべき主は芯を抜かれて彷徨う腑抜けと化しており、側仕というハーネスの立場も不安定なものとしていた。主人が受けた衝撃の大きさを理解できるからこそ、立ち直りを願い行動を起こすべきか否か、待つのであれば一体いつまで待てば良いのか、ハーネスが自問自答を繰り返しながら焦燥を募らせていたことは容易に想像でき、自惚れではなく、ハーネスの中における自身の存在感に思いを馳せれば、今回の失念も、十二分に起こり得ることと容認できた。

デルソフィアは、頭を下げ続けているハーネスの両肩に手を置くと、「顔を上げろ、ハーネス」と呼びかけた。

ハーネスは、下げた頭を左右に何度も振りながら、デルソフィアの呼びかけを固辞した。デルソフィアは仕方なく、無理矢理の体でハーネスの上半身を起こすと、間隙もなく強く抱き寄せた。

されるがままのハーネスが己の腕の中にある。その耳許で言った。「ハーネス、考えるのだ。何故、オッゾントールが会う場を変えたがったのか。思い出すのだ。微かでも当日のオッゾントールにあった変化の兆しを。その答えの最も近くにお前はいる筈だ」

「……はいっ」と口にした後、何度も頷きを繰り返すハーネスの挙動がデルソフィアにも確かに伝わった。

デルソフィアは「もう大丈夫だ」と確信すると、「現場を見ることは大切だが、ここにいつまでも留まっていると、俺たちの姿を不信に思う者が出てきかねない。あるいは自警団や治安維持部隊の者が現れるかもしれない。しばし歩き話しながら、今後の行動を模索しようと思う」と口にした。

「かしこまりました。私は当日のオッゾントールさんについて、思い出せることがないか、自身の記憶を探ります」常のハーネスを取り戻した声色であった。

「そうか。頼む。俺も、オッゾントールが何故この礼拝堂を指定したのか、過去のやり取りから類推してみよう」

そうして二人が、礼拝堂前を離れようとした時、不意に入口である白磁の扉が開いた。

礼拝堂内に人がいることに思いが至らなかったため、デルソフィアは驚き、思わず肩を震わせた。さらにその人物の顔を認めて、デルソフィアの驚きは増幅した。

それは、常と変わらず髪を束ねて後頭部でまとめているスカーレットだった。

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