『16』
『16』
デルソフィアは再び、皇国の街を歩き続けていた。
葬儀の終わりを告げる鐘の音が鳴る前に、葬儀場を見下ろせる高台を離れた。皇宮に戻る気はなく、とすれば、行く宛てなど無い。畢竟、街中を彷徨するしかなかった。僅かな変装しか施していないが、誰もデルソフィアに気付かない。やはり皆、従前同様に神皇帝一族の皇子が供も連れず一人で街中を歩いているとは思いも寄らないのであろう。
街中を歩くデルソフィアは、視界に色が戻ったことで、その瞳に映る風景に心が反応していた。改めて、皇国では多くの民が暮らし、生きていることに気付かされる。
野菜を売っている老婆は、足を止める客の一人ひとりに対し、丁寧に話をしている。野菜の特長あるいは調理の仕方などを伝えているのだろう。優しげな笑顔はその裏に、自然を相手にする農業の厳しさを幾度も痛感させられた経験を秘しているように見える。その笑顔に至れた老婆の人生に思いを寄せれば、ただただ感服の念を禁じ得ない。
大工として家造りの一翼を担っている同年代の少年。重い石を運び、木材を削り、煉瓦を積み上げる。額に滲む汗を拭おうともせず、作業に没頭している。時に、まだまだ半人前だと叱責を受けることもあるのかもしれない。悔しくて涙に暮れた時もあり、選んだ路の正誤に戸惑うこともあっただろう。だが、己の仕事と向き合う真摯な姿は、一人前の大工へと至る確固たる路と同義である。
二頭の馬の間に立ち、交互に毛並みを整えている壮年の男は、荷馬車の御者が生業のようだ。二頭の馬へ向けられる眼差しは、愛溢れる者の眼差しである。人間だけに限らず、動物や植物など総ての生命を慈しみ、大切にする。それが生命の奇跡を解したいと願った場合の第一歩なのかもしれない。そして、注ぐ真なる愛情はきっと相手へと届く。男の愛情が確かに伝わっているであろう馬たちの表情、何と穏やかなことよ。
長椅子に腰掛けて編み物をしている女の腹は大きく膨らんでいる。新たな命を産み、次代へ生を繋げていくのもまた、人生における大切な役目の一つといえよう。己のことは常に後回しにしてでも、我が子を育てることに注力し、また逆に親として成長してもいく。親子の関係は無償。互いに描く成長曲線は無限の広がり。
きゃっきゃっと、水遊びに興じる子供達の甲高い笑い声が谺している。堀から流れ出て、民家を縫うように走る支流は子供達にとって格好の遊び場である。きらきらと水面に反射する陽光の中で、それ以上にきらきらと輝く瞳には、無限の好奇が宿り、飛沫を微かに浴びただけで何故、と大人達は思ってしまう程、無邪気な笑顔が皆にある。これからどんな風に生きていくのか。それは子供達自らが選択し、時に勢いよく駆け出したり、時に躓きやり直したり、そんなことを繰り返しながら描いていくものである。そこに周りの大人達が幾らかの標を差し出してあげれば、より良い人生画が描けるかもしれない。だが今は、己の五感から感じ取れるもの総てに好奇を抱き、周りには無駄や無為と思えるようなことにも可能性を見出し、昨日とは違う今日を過ごし、今日より成長する明日を迎えてほしい。子供達こそ皇国の、この世界の、まさに未来を担うかけがえのない宝物なのだ。
そして、俺は……。
デルソフィアの頬を涙が伝っていた。枯れ果ててなどいなかった涙が、温かみをもって流れている。流れる涙は、生きていることの証。その涙を拭おうとはしなかった。
生きることは喜びや楽しみばかりではなく、むしろ苦しみや悲しみ、怒りの方が溢れている。問題を抱えていたり、不平不満に彩られた人生を憂いてみたり、叶わぬ夢への苛立ちに侵食される心を持て余したり。
だが、今日を、今を生きていることは素晴らしい。そう断言する。
そしてそんな今日を、生きたくても生きられなかった者たちがいることに、強く想いを馳せなければならない。その無念を汲むように、その願いを繋ぐように、遺された者、生きている者には、全力で生きる義務がある。それが、志半ばで死んでいった人間への回向となる筈だ。
デルソフィアは、己の両拳を強く握りしめた。爪が手の平に食い込み、痛みが走る。痛みもまた生きていることの証。デルソフィアの瞳が、生きていく力を宿していく。
デルソフィアは踵を返し、歩き出した。足音が奏でる心模様が力強さを増していく。やがて駆け出し、それは全力疾走へと変わる。息は切れ切れとなるが、高揚感が胸苦しさを遥かに凌駕する。風景が次々と流れ去り、最も見慣れた威容が眼前に現れた。
皇宮。
わずかな刻であったが、随分と長く離れていたと錯覚した。何故だろう。
地に足が付かず、不恰好で不安定であったからだろうか。
己が定めた枠の具象化ともいえる存在であるからだろうか。
オッゾントールと共に最も多くの時間を過ごした場であるからだろうか。
理由は……今は要らない。皇宮から始めるのだ、己がいま為すべきことを。
デルソフィアは真正門へ向かった。神皇帝一族しか使用しない真正門は閉ざされていた。敢えて真正門を選んだのは、神皇帝一族の皇子として為すべきことへ向かう己への決意表明。独りであっても必ずやり遂げるという亡き友への誓い。
だが、真正門に近づくデルソフィアは、その門前に立つ一つの人影を認めた。鼓動が跳ねた後、温かみを伴い穏やかに脈打つ。
帰還することを信じて待つ者。皇宮内ではなく、皇宮の外で待つ者。いや、待っていてくれる者。一人しかいない。
デルソフィアは歩を進め、相対したその者に真っ直ぐ視線を預けた。その者も応え、真正面から受け止める。高らかでもなく、大声でもなく、ただ毅然とデルソフィアは口を開いた。
「オッゾントールの殺害に関しては、未だ犯人をはじめ何一つ明らかになっていない。その殺人者を、俺は決して許すことができない。総ての真実を、必ず白日の下に晒す」
決意を示したデルソフィアを中心に、辺りの空気に緊張感が迸る。同時に、颶風が吹き起こった。まさに天すらも刺激するような、只人ならぬデルソフィアの降臨。吹き荒れる風の中にあっても、微動だにしないデルソフィアは手を差し出し、言った。
「力を貸してくれ、ハーネス」




