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『13』

『13』

一年を通して見た場合、天候の急変は決して稀なことではない。特に近年の夏場は、それが頻発していた。それも、晴れ渡っていた空が突如雨雲に覆われ、雷なぞも伴って豪雨となる急変である。

雨は決して悪ではない。対極ともいえる陽射しと同様、雨が齎す恵みもまた多種多彩であり、それらの恩恵は街や国、人々の生活など文字通り潤している。

一方、多くの人が抱く印象において、雨よりも陽射しの方が好印象なのも事実といえよう。従って、燦々と陽射しが注ぐ天候が雷雨、豪雨へと急変した時、それを目の当たりにした人の身内にある天秤は、負へと傾きやすい。

この日の昼にも、天候の急変が起きた。外出していたロビージオは、まさにその只中にいた。

上空に鎮座した巨大な桶でもひっくり返ったように、猛烈な勢いで降り注ぐ雨は、やはり吉兆であるとは思えなかった。ゴンコアデール院における試験、先日実施されたその試験の悉くが上出来であり、ここ近日は大いに満たされていたロビージオをもってしても、そうであった。

雨具を持参しなかったロビージオは、ひどく濡れた。雨に濡れぬ場所で、豪雨が去るまで時を費やす選択もあったが、時を惜しみ、一刻も早くゴンコアデール院へ赴くことを選んだ意地が、豪雨の只中でもロビージオを走らせた。

この日、ゴンコアデール院は休日であったが、ロビージオは自主的に長槍の稽古をしたかった。授業が休みの日であっても、ゴンコアデール院自体は開放されており、実技、座学を問わず、自主的に学びたい者を受け入れていた。年の末および年が明けた幾日かを除けば、ゴンコアデール院は年中開放されている。先日の実技試験で明らかになった己の長槍の才とオッゾントールの言葉、この二つが、休日といえども休むことより鍛錬することを選択させた。一振りすればその分だけ、確かに力が向上していく。そのように思う自身がいた。

常であればゴンコアデール院の学舎が見え始める場所まで来ても、激しい雨の幕に遮られ、ほとんど何も見えなかった。その事実が、ロビージオを少し苛立たせたが、到着までに要する時間を正確に把握できる位置まで来たことが溜飲を下げた。そして次第に、雨に煙る風景の中にゴンコアデール院の威容が浮かび上がってきた。

到着すれば、長槍を振れる。そう思うだけで心が跳ね、雨中を進む足取りさえ軽くなった気がした。

ゴンコアデール院の正門は閉ざされていた。休日は正門が開くことはなく、正門脇の扉から中へ入るよう定められており、規定に沿った形だ。

ロビージオが横開きの扉の前に立った時だった。突如、扉が横へと滑り開かれ、向こう側に人が現れた。それはロビージオと同世代の若い女だった。

ゴンコアデール院生であろうか。一旦はそう考えたロビージオであったが、すぐに否定した。自身と同じリーガだけでなく、年長のプレミア、年少のアンに所属する者も含めて、在院生の顔はすべて知悉しているが、眼前の女の顔に見覚えがなかったのである。

女は開いた扉の向こう側にロビージオがいたことに特段驚いた様子は見せなかった。むしろ、泰然自若とした態でこちらを見据えてくる。若干とはいえ、動揺の色を滲ませたのは自身の方であり、相対する者が女であることがまた、ロビージオの羞恥を刺激した。

ロビージオは、男尊女卑を地で行く男ではなかった。ゴンコアデール院にも、座学だけでなく、実技も秀でた女がたくさんいたし、母一人子一人の家庭で育ったロビージオには、自身を懸命に育ててくれ、かつその死後においても、残された子の暮らしに関わる憂いすら除去していた母の偉大さが身に染みている。

ただ、その母が「男の子は女の子を守るものよ」と繰り返していたのも事実であり、偉大であると同時に守るべき存在という、相反するようなものが同居しているのが、この時点におけるロビージオにとっての女だった。眼前の女、その容姿だけで判断するのは正鵠を得ていない可能性もあるが、自分より頭一つ小さい背丈に華奢な痩躯であり、その姿を見ていればいる程、守るべき存在の方へロビージオの心は傾いた。

道を譲るべく、ロビージオは少し左へとよけて半身になり、扉を先に通るよう視線で促そうとした。ロビージオと女の目が合ったその瞬間だった。

眼前の女が崩れ落ち、その場に膝をつくと、今度はそのまま前のめりに倒れてきた。突然のことと半身になっていたことが影響し、ロビージオの反応は少し遅れたが、前のめりに倒れる上半身が地に着く前に、滑り込むような格好で女の上半身を支えた。

触れたことで知った女の身体はやはり華奢で、強く抱きしめたならば壊れてしまいそうだった。ロビージオは最善の注意を払い、そっと優しく女を抱き抱えた。拍子抜けするほど軽かったが、纏う衣服は水が滴るほど激しく濡れていた。

女を抱き抱えたまま院内へ入ったロビージオは医務室へ向かった。休日でなければ、医務室には医師が常駐しているが、休日の今日は恐らく誰もいないだろう。だが、卒倒した者を連れて行く先として、院内では医務室以外には思い浮かばなかった。

中央棟の一階にある医務室まで来ると、室内から話し声が漏れてきた。話の内容から医師ではなさそうだった。

両腕が塞がっているロビージオは、右足の爪先で医務室の扉を二、三度つついた。話し声が止み、足音が近づいてくる。扉を開き、ロビージオの眼前に現れたのは、同じリーガに所属する女子院生だった。室内にいるもう一人も同様で、眼前にいるのがキズン・マーケ、室内で椅子に腰を下ろしているのがパラ・ニルヴァだった。

ロビージオは眼前のキズンに、「突然、倒れたんだ。とりあえず横にして休ませた方が良いと思って、ここへ」と、説明した。

ロビージオが言い終える前に、室内にいたパラは動き出しており、医務室内の窓際に設置された二つの長床の一つを、女を寝かせられるように整えていた。キズンに先導され、医務室内に入ったロビージオは、抱き抱えていた女を長床へ寝かせたが、そこで途端に手持ち無沙汰となった。医務室に運んだは良いが、何をどうしたら良いかが分からない。

すると、突っ立ったままでいるロビージオの前に、回り込むようにしてキズンが立った。無言で医務室の入り口の方を指差す。

その指に導かれるまま、ロビージオは入り口の方へ振り向いたが、開け放たれた扉以外に特段目につくものはなく、キズンの意図が掴めなかった。

再びキズンへ視線を戻し、顔全体を使って疑問を呈した。そんなロビージオに対してキズンは呆れたような表情を隠そうともせず、やや大袈裟に溜息をついてみせた。

「ロビージオ、言わなきゃ分からないの?」

「えっ、何が?」

「あの子、びしょ濡れなの。だから着替えるの。そこで見てるつもり?」

「あっ……」そう言って固まったロビージオの眼前にキズンは指を突き差し、そのままおでこを突いてきた。

「すまん。頼む」慌てて踵を返し、医務室から出ると、「ここで待ってるから、終わったら教えてくれ」と言い、扉を閉めた。

扉を背にして、ロビージオは立ったままで待った。廊下の窓から外が見え、雨が上がっていることを知った。医務室内と同様、待つこと以外、何も行動を起こせないロビージオの脳裏に、あの女は何者なのかという疑問が、当然のように浮かんできた。

ゴンコアデール院の中から出てきたが、院生ではない。新たな院生を迎える時期でもない。部外者であるならば、休日の院に一体どのような用事があったというのだろう。

卒倒するほど体調が悪かったのであれば、雨具も持たず雨中を歩むなどという愚を犯さず、雨が止むのを待つ、急ぐのであれば院内での訪問先あるいは訪問者から雨具を借りるといった選択もできた筈だ。僅かな時間だけ向き合った女は透き通るような白い肌をしていたが、特に体調不良を抱えているようには見えなかった。そのこともロビージオの心内に痼りのように引っかかっていた。

枚挙にいとまが無いほどの疑問や憶測が浮かんでは消え、その数が多ければ多いほど、正体不明という女の謎が深みを増していく。

ロビージオが医務室を出て、それほど時が立たぬうちに扉が開き、今度は中からパラが顔を出した。

「とりあえず濡れた身体は拭いて着替えは済ませたわ。熱も無さそう。まあ、ずぶ濡れだったから、これから熱が出るかもしれないけどね」

「そうか。ありがとう。助かったよ」

「ただ、今はまだ目が醒める気配は無いわね。もう暫く、ここで寝かせる必要がありそう」そう言ってパラは半身になり、ロビージオにも中の様子が窺えるようにしてくれた。

医務室内を覗き込むと、先刻ロビージオが運んだ長床とは別の長床に女は毛布を掛けられた状態で寝かされており、顔だけしか見えなかった。寝息すら聞こえない静かな眠りだった。

キズンが後片付けをするべく動き回っていた。ずぶ濡れの女を寝かせたことで濡れてしまった長床の片付けが優先されているようで、女の着ていた衣服が長床の傍の丸椅子に無造作に置かれており、その衣服から未だに水滴が落ちていた。

それを見た刹那、ロビージオの中に一つの疑問が生じた。いくら強雨であったとはいえ、院内から出て門まで歩き、そこで倒れかけて再び院内へと運ばれるだけの間に、あれほどずぶ濡れになるだろうか。雨中を暫くの間走ってきたロビージオと同等、或いはそれ以上に濡れているように見える。

正体不明。多々なる疑問。「いったい何者だ?」

思わずといった態でロビージオは零した。そんな呟きを聞いてか聞かずか、パラがロビージオの肩を指でつついてきた。目を合わせると、視線に促され、医務室入り口から少し離れたところで二人は相対した。

「気付いてた?」とパラが訊いてくる。

唐突な質問。極力言葉を省いた形に、主たるものの重みを感じた。だが、女が呈した謎の数々で、パラの質問における主たるものが掴めない。

畢竟、「何に?」と返していた。

パラは得意げになるでもなく、淡々と告げてきた。「あの子、微かだけど血の匂いがしたわよ。でも、衣服や身体への血の付着は皆無。不思議よね」

謎ばかりが深まる。本当に、いったい何者なのだろうか。

「血の匂い……」ロビージオは、そう呟くしかなかった。

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