『9』
『9』
幽閉の身となってからわずか三日目の夜、デルソフィアに対するその罰は解かれた。オッゾントールと同じく、神皇帝である父の相談役を務めているコンマス・ソエタが二人の衛兵を伴って居室に現れ、淡々とその事実を告げた。
己を曲げて謝罪の意を示すこともなく、想定するよりも遥かに早い時間で自由の身に戻れたわけだが、その理由が明らかでない以上、喜びよりも戸惑いが勝った。畢竟、デルソフィアはコンマスに理由を問い質した。その結果、「私は何も聞かされておりません。詳細は、ご自身の側仕にでもお聞きになるがよかろう」と、何ら感情の籠らない平板な言葉が返ってきた。
デルソフィア、さらにはジェレンティーナとウィジュリナも含め、第二皇妃の実子三人に対するコンマスの接遇は、その他の皇子や皇女とは明らかに異なった。ややもすれば、厭悪、嫌悪、拒絶といった感情が漏れ出てしまうのを隠すための無感情。そうした態で接してくることが常であった。
変わらぬコンマスの接遇に、最早デルソフィアには苦笑すら浮かばなかった。感情を排した無表情で、「わかった。そうしてみよう」とだけ伝えた。
これにも当然の無反応で、目も合わせることなく、コンマスは二人の衛兵を引き連れ、そそくさと居室を出て行った。コンマスのデルソフィア達に対するあからさまな態度、そうなった要因は第二皇妃の実母にあるのだろうと漠然と想像していた。正答を確かめる術が無くはないが、自身の半分にも満たない年齢の者に対し、なんとも大人気ない態度に終始するコンマスという人物が、卑小な人間以外の何者にも思えず、その必要性を微塵も感じなかった。
コンマス達が退室した後、わずかな時間を置いて居室には新たな訪問者があった。たった今、コンマスがその存在を口にしたハーネスである。
入室の許可を得て居室に入ってきたハーネスは、実に気持ちを読み取るのが難しい表情を浮かべていた。だがそれは、無感情、無表情のコンマスとは真逆であり、寂寞、憤怒、感心、安堵、羞恥など幾つもの感情がくるくると移ろい、いったいどれがハーネスの抱いている気持ちなのか判別するのが困難な状況によるものであった。そんなハーネスを見て、デルソフィアは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ハーネスにしてみれば、自らが与り知らぬところで、仕える主が幽閉の身となってしまったのだ。ジェレンティーナやウィジュリナから状況を聞くことは出来たかもしれないが、百聞は一見にしかずの字義通り、その場を見ていないという事実が、可能性という枠にとらわれた幾つもの不確定要素を芽生えさせ、それらが絶え間なく不安を煽り続けたであろう。
デルソフィアはハーネスの真正面に立った。跪こうとするハーネスを、両肩を抱くことで制すると、相対したハーネスに向かって頭を下げ、「ハーネスよ、すまぬ」と、謝罪の意を示した。
頭を上げて再び相対したハーネスには驚愕の色が濃く滲んでいたが、デルソフィアは続けた。「俺が、神皇帝たちに向けて口にした言葉は全て本音、本心であり、それらを曝け出したことに悔いはない。ただ、そのような後先を考えぬ発言が、自身とは別の者を苦しめたという事実は見過ごしてはいかぬだろうし、その者が他ならぬお前であったことは痛恨である」とし、再び「すまぬ」と繰り返した。
ハーネスは、主の謝罪に返す言葉が見つからない態で立ち尽くしている。そんな姿に、愛おしさにも似た感情が湧き上がり、それと共に心に強く刻まれた決意がデルソフィアの心を奮う。
「俺は、力を持たねばならぬ」そう断言すると、ハーネスの両肩に左右の手を置き、「言いたい放題の態で自身の思いを口にするなら、その発言が、発言したという事実が、他者へ累を及ぼさぬ力を得なくてはならない。それをハーネス、お前が気付かせてくれた」と告げた。
両肩に置かれた主の手へ交互に視線を送りながら、「デルソフィア様、勿体ないお言葉であります」と、ハーネスは絞り出すように言った。そして、デルソフィアが両肩から手を離し、力強く頷いてみせると、それを合図としたように、ハーネスから次々と言葉が溢れた。
「今回、側仕として、デルソフィア様のお側におられぬ時が、これほどまでに寂しい時だということを知りました。また、幽閉を解くにあたりまして、何一つ役に立てない己の無力にどれほど嚇怒したでしょうか。畢竟、オッゾントールさんに縋るしか術の無かった己の力不足を恥じております。一方、デルソフィア様はお独りで過ごす時間も決して無為にはせず、素晴らしいお考え等に至られたことを示してくださいました。そして何より、デルソフィア様のお側にいられることが我が最良であると、その確信を深めております」
感情が籠りすぎて、言葉の端々が裏返った。ここまで平静さを失ったハーネスを見るのは初めてであったが、デルソフィアは嬉しさを感じていた。ハーネスもまた、力を伸ばす余地がまだまだ残った人間であり、これからも共に成長していける存在であることを再認識する。
二人の前途に差し込んでくる光明は、瞬く間に輝きを増し、進むべき道を明るく照らしているように感じた。デルソフィアは、左手をハーネスの前へ差し出した。皆とは異なり、星紋が出現している左手だ。その左手を、ハーネスは両手で包み込むように握ってきた。その温かみが伝わる。
デルソフィアは決断した。
左手に現れた星紋、ヌクレシアの魂との邂逅、まだ誰にも明かしていない話を、これからハーネスへ告げようと。ただ、その前に確認したいことがあり、「ハーネス、聞きたいことがある」と口を開いた。はい、と応じ、ハーネスは聞く体勢となる。
「今回の俺の幽閉だが、何故これほど早く解かれたのか、その理由を知りたい。先程の話で、どうやらオッゾントールが絡んでいることは理解したが、詳しく聞かせてほしい」
デルソフィアの願いに、一瞬躊躇する色を滲ませたように見えたが、「かしこまりました。私が知る全ては、お話しいたします」と言うと、ハーネスは詳細を語り始めた。
全てにおいて、神皇帝は最優先されるーーいつ頃、どこでだったか、その記憶が定かではない程まだ幼き頃から、多くの者がそう教わり続けてきた。皇国やバルマドリー大陸に暮らす民、さらには海を隔てた各王国、各大陸の民、およそこの世界で生きる民にとって、神皇帝は字義通り、神と等しき存在であるといえた。畢竟、全てにおいて最優先される存在とは、神皇帝を筆頭とした世界の頂き周辺の者たちが強圧的に押し付けたものではなく、民が自然と敬い、奉った結果として齎されたものであった。
その根本には、世界を統一するという偉業を打ち立てたバルマドリーとヌクレシアに対する崇拝や憧憬などがあり、彼等の子孫である後継の神皇帝もまた英邁との、やや妄信的ともいる考えが、時代時代における多くの民の心を占拠してきたのも事実であった。
だが、皇国の祖と敬われるバルマドリーとヌクレシアの威光を追い遣り、当時の神皇帝に対して邪な思いを抱く側近の出現という変事が史上において皆無だったわけではない。特に大きな変事は、第十代神皇帝チョジール・デフィーキルの治世で起きた。
チョジールは生れながら病弱であり、神皇帝を継いだ後も病に伏せることが多く、神皇帝最側近の政大将軍と武大将軍が代理として、その皇務のほとんどを担っていた。このうち政大将軍の位にあったカエイラ・デフォンは、只ならぬ野心を秘めており、神皇帝デフィーキル一族に取って代わり、世界の頂きに立つことを常日頃から夢想していた人物だった。病弱な神皇帝の存在が歯止めを効かなくし、夢想が最早、夢の世界の中だけに留まらなくなるほどに肥大すると、カエイラは皇位を簒奪すべく行動を起こした。
まずは皇宮に仕える兵たちの取り込みにかかった。政を任されるだけあって言葉も巧みなカエイラの諫言によって、半数を超える皇国兵が政大将軍派となった。
次にカエイラは街に暮らす民の懐柔に取り掛かる。ここでも、皇宮内の勢いそのままに政大将軍派が優勢になっていった。やがて、神皇帝派と政大将軍派に割れた皇国の民たちの間には、争い、諍いが絶えずに治安が悪化するなど、皇国内の生活環境は著しく低下した。
皇国建国以降、最悪の治安、生活環境は改善の兆しを見せぬまま約三年もの時間が経過した。神皇帝派と政大将軍派の戦いには大きな変化はないものの、緩やかな傾きをもって政大将軍派が優勢を深めていき、カエイラが全てを掌握するのも時間の問題と思われた。
政大将軍派、中立派だけでなく、神皇帝派の中でも政大将軍の謀反の成就が囁かれ始めた時、カエイラに真っ向から対立する者が現れた。神皇帝チョジールの第一皇子であったパドゥーバ・デフィーキル。当時まだ十九歳の若者であった。
良くみても三対七という分の悪い戦いに敢然と臨んだパドゥーバは、そうした周囲の指摘に対しても、「問題ない。彼我の戦力差は俺の器で埋まる」と豪語したという。だが、パドゥーバは豪放磊落に見えて、緻密な面も身内に同居させていた。一朝一夕で形勢を逆転させることが難しいことを瞬時に悟ると、時間をかけて一穴ずつ穴を穿つような行動に終始した。
味方の民を主導する立場にある者などのもとへ足繁く通い、話し合いを重ね、希望や願いを聞き、悩みや心配事を解決し、互いの心を通わせて絆をより深くしていく。
その一方で、神皇帝第一皇子の立場を活用し、政大将軍派の民や中立的な民の主導者たちとも会った。そして、味方の民へ向けた行動と同様の行動に出たのだ。神皇帝の直系、しかも次期神皇帝の最右翼である存在が、民のもとに通うなど前代未聞である中、味方だけにとどまらず、中立派、政大将軍派の民の眼前にも、その姿を晒した。
この行動は中立派はもちろんのこと、政大将軍派の民たちの心も激しく揺さぶった。いざパドゥーバの姿を目の当たりにすると、その神々しさに畏怖した。言葉を交わすうちに、その気さくな人柄に感嘆した。パドゥーバを知れば知るほど、その深遠な器を崇拝した。
果たして、形勢は逆転。カエイラが企てた内乱は鎮静化していった。
それと刻を一にして、チョジールが身罷り、パドゥーバが、第十一代神皇帝の座に即位した。二十一歳になっていた。
生まれながらにして世界の頂き周辺にあり、やがてはその頂きに立つことが約束されていたヌクレシア以降の神皇帝たちとは異なり、自らの努力や創意工夫もあって頂きに立ったといえるパドゥーバ。それにもかかわらず、自らの功績よりも民による導きが、この地位に立たせてくれた要因として最も大きいとの思いを、終生に渡って発し続けた。
こうした人間性もパドゥーバが秀でていた点の一つであり、何よりも民の暮らし、民の人生に仕えるとの思いや行動を自らが実践すると共に、己の周辺、すなわち世界の頂きに近い立場にいる者たちにも徹底させた。畢竟、パドゥーバの統治下でバルマドリー皇国は再び安定し、世界もまた皇国に先導されるように大きな平和に包まれていった。
しかし、時の流れは平等である。人や動植物など、命ある者が衰え、やがて土に還るように、人工的に造られた物が老朽化し、やがて跡形もなくなるように、偉大なる教えや考えであっても、その威光は薄れていくものだ。
そこに邪な者、特に権力を有した邪な者の出現が重なれば、世界の安定は再び揺らぎかねない。
そしてまた、世界の頂きに立つ神皇帝といえども全てが英邁なわけではない。暗愚な神皇帝は現れないと、何故言い切れよう。
事実、現神皇帝フガーリオの常日頃からの挙措動作、配下たちに対する振る舞い、そして実子を前に発した暴言にあったように民を蔑ろにした考えは、およそバルマドリーやヌクレシア、パドゥーバからはかけ離れ、暗愚な神皇帝と断じてしまえるのかもしれない。
フガーリオの右手甲には星紋が一つしかなく、この一つは神皇帝に即位したことで出現したものと考えると、彼にはその他、星紋出現に見合うような功績が何ら無いことになる。
十七人の神皇帝にバルマドリーを加えた十八人の中で星紋が一つしかないのはフガーリオと、病弱であったと伝わるチョジールだけだ。星紋が出現する機序が解明されておらず、またこの先、フガーリオに二つ目、三つ目の星紋が出現しないと断言できるわけではないが、暗愚ではないかと憂慮する者は皇国内だけでも相当数に上っている。それが現状だった。




