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忘れられないの

作者: 青葉 ユウ




「――春菜。久しぶり」




 人々が行き交う騒めきの中、その声だけは鮮明に浮かび上がって耳に届いた。


 呼ばれた自分の名に、周りのスピードに合わせて動かしていた足がぴたりと止まる。


 『はるな』なんて、ありふれた名前だ。

 だけど、呼ばれたのが私だということは確信があった。



「水谷……?」



 歩道の中心で立ち止まる私を迷惑そうに避けていく人々の舌打ちが聞こえた気がした。

 隙間を潜り抜けながら、少しずつ歩道の端へと寄る。

 右へ左へと行き交う人々は中々途絶えない。信号が赤になれば少しは落ち着くのだろうが、信号が青に変わったばかりなのだ。待ちきれずに背伸びをしながらキョロキョロと辺りを見渡していく。


 そうして、目の前を背の低い女性が通った時に目的の人物を見つけた。

 ばちりと目が合うと、車道沿いに立つ私とは反対に建物の壁に背中を預けていた水谷はひらりと手を振った。

 私が見つけ出すのを待っていましたと言わんばかりに微笑んで。



 今回は随分と明るいアッシュグレーに染めたようだ。

 水谷は会う度に髪型も色味も変わっている。それに髪型に合わせて装いをガラリと変えるお洒落さんだ。


 けれど、やっぱり水谷は水谷なのだ。

 いくら見目を変えようとも、醸し出す雰囲気は何も変わらない。


 信号が変わり人の流れが途切れた一瞬を見計らって、水谷の元へと駆け寄る。


「久しぶり。田舎でもないのに、こんなにばったり会うなんて毎度のことながら驚くよね」


 向き合って話すとまた歩行者の邪魔になってしまうので、横に並んで壁に背中を預ける。

 首を捻り上げて見上げると、水谷もまた首ごと頭を下げて私へと顔を向けていた。

 薄い唇が弧を描いて頬を持ち上げている。


「それな。今日はこれから出かけるんだ?」


 今日の私の服装は、袖がシースルーの夏らしいワンピースだ。

 仕事のある日に出くわした時はスーツとまではいかなくてもきっちりとした格好をしていたので、仕事が休みの日だと判断したのだろう。


「うん。少し歩いた先にあるデパートの近くにカフェができたの知ってる? あそこのアップルパイが絶品だって聞いたから気になって」


「あ〜、そういえば俺も聞いた。絶対一度は食べろって言われたけど、中々行けてないんだよなぁ」


 当時の会話を思い出している最中のようだ。空を仰いでいるので表情は見えなかったが、その声音は食べたいと言っているように聞こえた。



 ――そういえば、水谷も甘い物好きだったっけ?



 母が遊んでいた私たちにケーキを用意した時はいつも、目を爛々と輝かせていた覚えがある。

 とはいっても、もう二十年近く前の話だ。そんなに時が過ぎていれば味の好みは多少なりとも変わっていることだろう。


 絶対に一度は食べろと言われているなんて大絶賛ではないか。ならば売り切れになる前に早く行かなくては。

 より楽しみになったと、売り切れになる前に急いで行ってくると言うつもりだった。


 いつものように、軽い挨拶だけで別れるつもりだったのだ。



 それなのに。

 口から出た言葉は思いもよらないものだった。



「――水谷は? もし空いてるなら一緒に、行ってみる?」


 元々大きく縁取られている水谷の瞳が、更に大きくなってこちらを凝視していた。

 そして、その瞳に映る私自身も目をまん丸と見開いていた。


 驚くのも無理はない。

 私たちは二人で出かける程仲の良い間柄ではないのだ。



「わるい、もうすぐ人が来るんだ。……ごめんな」



 その待ち人はもしかしたら彼女なのだろうか。

 言いにくそうに、けれどはっきりと伝えられた言葉は、逃げ出したくなるには充分だった。


「やだな、言ってみただけだよ? そんな二回も謝らないでよ。ほんとに軽い気持ちで言ってみただけなんだから。それじゃ、売り切れになってたら悲しいからもう行くね! また、ね。……また、どこかであったら」


 壁に寄り掛かっていた背中をすぐさま離して、水谷の正面に立つ。

 へらりと笑いながらペラペラと言い訳のように言い切ると、胸元で小さく手を振ってから歩き出す。


 信号が青になったことは確認済みだ。

 人の流れに入り込もうとするとスピードもグンと速くなった。


「ああ。……また、な」


 少し離れた距離からでも聞こえた水谷の声と、数分前とは違って重々しく掲げられた手を確認したら振り返ることやめて前を向く。


 いつも通りだ。それでいいじゃないか。


 そう心の中で自問自答していると、僅か数秒後に水谷の名を呼ぶ甲高い声がいやに耳についた。

 人や車、そして街中のあちこちから流れる音楽やアナウンスの喧騒の中でもはっきりと。


 人の流れに合わせていたのなんて、最初の数十秒だけで、その後は追い越す勢いだった。


 早足から、駆け足になって。

 それから全力で走った。


 周りへの迷惑なんて、既に考えられなかった――……





◇◇◇


 水谷とはどんな関係かと問われたら、“交流のなくなった、けれど復活しつつあるかもしれない幼馴染”だろうか。


 階は違えど同じマンションに住んでいたということもあり、小学校中学年までは頻繁にお互いの家を行き来していた。今思えば、保育所から同じだったため親同士の気が合っていた要因が大きい。

 けれど、高学年になってからは水谷はスポーツクラブに通い、中学生になってからはお互いに活動時間の異なる部活に励んでいた。それに、ちょうど思春期真っ只中だった。

 顔を合わせること自体が年々減り、男女の垣根ができてからは、もう同じ学校に通うその他大勢になっていた。


 高校も同じだと知ったのは、入学後のクラス分けを見ていた時だ。

 しかし同じクラスになったことは一度もなく、廊下ですれ違った際に目が合うことはあっても、これといって雑談するわけでもなかった。


 卒業後の進路は勿論違うし、就職先も知らない。


 親同士が今も交流があるのかは知らないが、私達が全く関わらなくなったことは周知の事実だろう。水谷の名を口に出さなくなった私に対して、母が水谷の母親から聞いているかもしれない水谷の近況を伝えてくることもなかったし、私も尋ねようとも思わなかった。




 だから、地元から遠く離れた都会でばったりと、それも何度も会うなんて思っておらず、毎回お互いに驚かされていた。


 

 一回目は大学に通い始めて少し経った頃だ。

 夕暮れ時、学校や仕事が終わり帰宅する人々で混雑した中、「春菜」と呼ばれた。

 なぜだか、自分が呼ばれたことに気づいた。

 けれど誰に呼ばれたのかはわからなくて、辺りを見渡しても人混みで分からなくて。気のせいだったかもしれないと歩き出そうとしたら肩を叩かれて、見上げたら水谷がいたのだ。


 二回目は就職活動中だった。

 雨がザーザーと降り、傘を差していることすら無意味に思えていた時、「春菜」と再び呼ばれた。

 私の名を呼ぶ声音だけで水谷だとわかった。

 お互い濡れ鼠だな、と笑いあって、風邪を引かないように気をつけようと話しただけだ。

 それだけの会話だったけれど、就職先が中々決まらず鬱々としていた気分は雨に流れ落ちた。


 三度目は仕事帰りの夜道だった。

 遅い時間だったこともあり足早に歩いていた時に、またもや「春菜」と呼ばれた。

 足元を見ていたから気づかなかったけれど、水谷は反対側からこちらに向かって歩いてきていたらしかった。家まで送ると言われたが、細道を通る必要がなく、街灯で照らされた道を歩けば辿り着くので大丈夫だと断って別れた。

 

 それ以降は数えることを止めた。

 幾度も偶然会ったといっても、一年の間に何度そんな機会が訪れたのかと問われると返答に悩むところだ。一年以上間があった時もあれば、一月もせずに再会することもあった。

 “偶然”なのだから、そういうものではないだろうか。


 そうして、気づいたら声をかけて挨拶はするけれど、決して連絡先を交換しようだとか、お茶でも飲みながら雑談しようだとか、そんな一歩踏み込んだ仲になることは一切なく長い月日が流れていた。


 だから、“交流が復活しつつある()()()()()()仲”なのだ。


 その一歩を踏み込みたいと思ったことなんてなかった。

 偶然出会ったときに声を掛け合う距離感に満足すらしていた。


 けれど、そう思い込んでいただけなのかもしれない。


 実際はもっと近づきたいと、昔のように仲良くしたいと心の奥底で望んでいたのかもしれない。

 



「――――あぁ、やだな」


 こんな形で自分の気持ちに気づいてしまうだなんて。

 思い返せば、気づくきっかけはいくらでもあったのに。


 学生時代に水谷を好きだと思ったことなんてない。

 女の子と仲良く歩いている姿を見かけたことが何度もある。それに対してなんとも思わなかったのだ。それなのに、今でもその時見た二人の後姿を朧気ながらも思い出せる。


 私だって彼氏は何人かいた。中には二年ほど付き合い続けた人だっている。

 けれど、その誰にものめり込むことはなくて。いつも、冷めてるよねって、時には可愛げがないとも言われた。

 自分でもそうなのだろうと思っていた。

 好きだから付き合ったけど、結婚したいと思えるほどの人はいなかったし、別れた後に思い出して懐かしんだり、後悔したことなんてない。



 それなのに何気ない日常の中でのふとした拍子に思い浮かぶのは、いつも水谷なのだ。



 単に幼い頃の日々を懐かしんでいるだけだと思っていた。

 けれどよくよく考えてみたら、赤の他人になっていた中学生や高校生の頃の水谷の姿が浮かぶほうが多かった気がする。



 ――今更、もう遅いのに。



 先ほど会った水谷は、お洒落だけどラフな格好をしていた。

 どんな職に就いているのかは未だに知らないが、今まで見てきた様子からするに仕事ではないのだろう。となると、最も考えられるのは一つ。彼女との待ち合わせだ。

 掲げられた左手の薬指には指輪を嵌めてなかった気がする。

 けれど、それも時間の問題かもしれない。


 何も知らないから。

 知ろうとしなかったのだから、全て自業自得だ。


 思い返せば、いつも声をかけてきたのは水谷からだった。

 幾度と繰り返された再会の中で、私が先に気づいたことは一度すらなかったのだ。


 髪型が毎回変わるから、なんてただの言い訳だ。


 私は街を歩いている最中に、もしかしたら知り合いとすれ違うかもしれないなんて思ったことすらなかったのだから。風景の一部としてしか認識していなかった私が気づけるはずもないだろう。


 それでも。

 ただの言い訳だと思っても、それに縋るしかない。


 どのくらいなら明るくしても上司から注意を受けないだろうか。

 そんなことを考えながら、無機質で冷たい携帯を耳に当てて、コールを鳴らした。




◇◇◇



「春菜……? 驚いた、思い切ったんだな」


「……水谷。久しぶり」


 なぜ、気づいてしまうのだろうか。

 なぜ、私を見つけてくれるのだろうか。


 悔しさと嬉しさ、そしてどう接したらよいのかわからないもどかしさがない交ぜになる。


 あの日から半月も経っていなかった。

 なんてタイミングの悪い“偶然”なのだろうか。

 一年、せめて半年くらいは間を空けてほしかった。

 そうしたら、気持ちの整理ができていたかもしれないのに。


「印象が全然違うから、声かけて知らない人だったらどうしようかと迷ったよ」


「あはは。美容師さんがショートも似合いそうだって言ってくれたから、お任せしてみたの」


「うん、確かに似合ってる」


「そう? ありがとう。お世辞でも嬉しい。それじゃ、また、どこかであったら」


 胸元で小さく手を振って歩き出す。

 ()()()と同じように、一言二言だけであっさりと別れる。

 それでいいのだ。


 だって、どうしたらいいのか分からない。


 それに今日はこの後予定があった。長話をできる時間的余裕もない。

 だから、いいのだ。


 私の願望かもしれない。

 視界の端で手を伸ばしかけた水谷を、何かを言いたそうに口ごもる水谷を見た気がした――




◇◇◇


「お疲れさん、春菜」


「……え、なんで?」


 今度は絶対、偶然とは言えない。

 だって、仕事が終わって会社を出たら、正面の歩道の端で水谷が待ち構えていたのだから。


「この前帰省した時にさ、偶々春菜さんに会ったんだ。そんで世間話してたら、春菜の勤め先も教えてくれたから」


「え、それで、……なんで?」


「ふはっ。なんでもなにも、偶にはゆっくり話でもしない? それとも、もう何か予定入ってた?」


 困惑して言葉の出てこない私を見て吹き出した水谷は、口角を上げて頬を持ち上げながら誘うなり、今度はしゅんと捨てられた子犬のように肩を下げた。


「今日、は真っ直ぐ帰って洗濯しようかと」


 未だに落ち着きを取り戻さない思考の中、仕事をしながら考えていた予定をそのまま口にする。


「なら大丈夫だな。実はもう居酒屋予約してんだ、行こう」


「あっ、待って……!」


 お盆でもお正月でもなければ連休もない今時期になんで帰省したのかとか、そんな偶然母とも会えてしまうものなのかとか、そもそも彼女は怒るんじゃないかとか、洗濯は今日のうちにしておきたいんだとか。


 そんな事はもう後でいいやと思えた。


 後ろも振り返らずにスタスタと歩いて行く水谷の隣に並ぶために、小走りで駆け出した。




◇◇◇



 ふわふわと心が浮足発つ。

 嬉しいし、楽しい。


 夢だからだよ、と言われたら納得してしまいそうなほどだ。


 だけど夢じゃない。

 だから嬉しい。


 水谷の職場は歩いて三十分もかからないほど近い会社だった。

 棲んでるマンションは少し遠い区域だった。

 ここ数年、彼女はいないらしい。

 どうやら以前待ち合わせていた人は友達とその彼女だったらしく、私と別れた後に三人で食事したお店が大層美味しかったようだ。一度は行くべきだと食事の写真とともに熱弁されてしまった。


 そして、祝日が繋がったわけでもないただの休日に帰省したのは、私の母と偶然会うことを期待したかららしい。



 ――ねえ、それって本当に“偶然”なの?

 これで期待しない女の子はいないでしょう?


 お酒は酔い潰れてしまうほど飲んでいないはずだ。

 それなのに舞い上がってしまう気持ちが乗算されて、表情筋はへらへらと終始緩み切っている。

 このまま幸せな気持ちに浸っていたいと思っていたら意識まで遠退いてきた。


 そんな私を頬杖をついてグラスを傾けながら眺めていた水谷は、何てことない、思ったことをただ口に出すように話し出した。


「春菜さ、なんで髪切ったの? その色だって、会社に許されてるのかって春菜さん驚いてたぞ」


 こてん、と顔を傾けると短くなった横髪がさらりと視界の端を流れた。

 お店の照明が当たって、綺麗に透き通った髪色。

 実はブリーチもしてしまった。

 染めたばかりの時は色んな意味でどぎまぎしっぱなしだったけれど、とても気に入っている。

 何度か前に会った時の水谷の髪色なのだ。


「へへ、ぎりぎり怒られなかったよ。多分呆れられたけど。もしかして、変? 似合ってない?」


 前回会った時に似合っていると言われて内心喜んでいたが、もう一度言われるということはやはりお世辞だったのだろうか。


「いや、似合ってるよ。可愛い。けど俺は、はるの長い髪が一番好きだなって思ってさ」




 似合ってるよ。

 可愛い。

 けど俺は、()()の長い髪が一番好きだなって思ってさ。




 似合ってるよ、可愛い、はるの長い髪が一番好きだ――――




 柔らかくて優しい陽だまりのような、()()()()の透き通った声音が、何度も脳内を駆けまわる。


 これは本当に夢じゃないのだろうか。


 ふにゃりふにゃりと笑みが零れる。

 締まりのない緩み切った顔になっている自覚はあるけど、もうどうしようもできない。


「嬉しい。それならやっぱり伸ばそうかな~。えへへっ」


 両肘をついて揺れる体を支えながら両手で頬を包み込む。

 じんわりと温かくて、熱を生み出している。


 そうして、熱に浮かされた瞳で晴君を見つめる。


 やっぱり好きだ。

 私は晴君が好きなのだ。

 一体いつからなのだろうか。


 わからないけれど、もう諦めないことにする。

 逃げないことにする。

 晴君が用意してくれたチャンスをきちんと受け取ることにする。


「でさ、なんで? もしかして失恋でもしたのか」


 なんで?

 そんなに晴君は私の髪型を気にしているのだろうか。

 晴君なんて会うたびにがらりと変えているのに。


「う~ん? 晴君、彼女と待ち合わせしてたんだと思ったけど勘違いだったみたい。それに、髪型変えたら晴君は私なんかに気づかないんじゃないかって思ったけど、違ったね。嬉しかったな、えへへぇ」


 瞼を閉じると昨日のことのように思い出せる。

 当時は嬉しさの他にどろどろとした感情も混ざり合って素直に喜べなかったけど、今は違う。


 嬉しいんだ。その言葉しか出てこないのだ。



「……お前、酔いすぎだぞ。送ってくよ」


 向かいの席から呆れた、けれど柔らかい溜息が聞こえた。

 そんな溜息さえも、やっぱり好きだ。


「やだ、まだ時間はあるよ」


「いつでも会えるだろ。ほら、行くぞ」


 腕を優しく引っ張られて、渋々腰を上げる。

 私の家は職場から近い。

 そしてこの居酒屋も職場から近かった。

 待ち構えていたタクシーに乗ってしまえば、初乗り料金であっという間に着いてしまうのだ。


 フラフラな私のせいで、晴君もタクシーを降りてマンションの中へと一緒に入ってくれる。

 エレベーターを待っている時も、ドアの鍵を開けている時もずっと。


 晴君の温もりがすぐそばにある。離れたくない。



「あとは一人で大丈夫だよな?」


 私が靴を脱ぎ終えるまで支え続けてくれた晴君は、そう口を開いた。


 確かにもう一人で大丈夫だ。

 だけど、大丈夫じゃないのだ。

 それを言い表す言葉がでてこない。


「はる君……」


 晴君だけはいつでも鮮明に見える。

 というよりは、熱に浮かされた視界では晴君しか見えない。


 ――ごくり。


 見上げていた晴君の喉仏が上下した。


 男らしいな、晴君ももう大人の男の人なんだなと、晴君に対するイメージが急速に塗り替えられていく。


「……んぅっ」


 ぼんやりと考え込んでいた私が気づいた時には、抱き寄せられて口を塞がれていた。

 触れたところから伝わってくる、薄くてすっきりとした晴君の唇だ。少しだけひんやりとしていたそれは、どこもかしこも熱をもつ私にはとても気持ちが良い。


 持ち上げるように引き寄せられたため、身長差のせいでつま先立ちだ。加えて、立ち位置が少し離れていたため前のめりになってしまい、力が抜けて崩れ落ちないよう必死に晴君の服を掴む。


 瞼を閉じて受け入れると、私の頭を覆っていた手の力が更に強まった。

 隙間がないくらい密着して、声が漏れ出ることさえない。

 鼻で呼吸をするにも、鼻息がかかってしまうのが恥ずかしくて思うようにできない。


 一体どの位の時間が経っただろうか。

 一度離れて呼吸を整え終えたら、また呼吸ができなくなって。


 私は元々熱に浮かされていたけれど、晴君から向けられる視線もまた、いつの間にか熱っぽかった。


「はる、くん……」


 中、入ろう? と言おうとした時だった。

 その言葉を遮るように晴君は私の態勢を戻してから、くるりと身を翻した。


「帰る。鍵、ちゃんと閉めろよ」


 固く、冷えた声だった。

 返事をする間もなく目の前の扉が開いて、晴君が消えていく。


 バタンと音を立てて閉まって静寂が訪れた途端、今度はへたりとその場に座り込んだ。


 行っちゃうの? 帰っちゃうの? ――晴君。


 当然といえば当然だ。

 だって、私達は付き合っていない。

 好きだと気持ちを伝えてもいない。


 晴君は、見境なく女の子を襲うような人じゃない。……と、思う。


 でも、行っちゃうの?

 あんなに、あんな風にキスして、帰っちゃうの?



 中々動き出せずに呆然としていた。


 そしたら再び音を立てて扉が開いた。

 その僅かな隙間から晴君が顔を覗かせる。


 やっぱり、晴君も名残惜しくて戻ってきてくれたの?


 そんな淡い期待はすぐに消え去った。


「か! ぎ! 早く閉めろ」


「……はぁい」


 返事を聞くなり再び閉められた扉へと、崩れ落ちた腰をなんとか持ち上げて手を伸ばす。


 カチャンと金属音が小さく響く。

 扉越しに、離れていく足音が聞こえた――




◇◇◇



 翌日になって、自分の行いに顔が青ざめた。

 あんなに酔って、浮足立って、へらへらと笑うことなんて一度たりともなかったのだ。


 あれでは声に出してないだけで、全身で好きだとアピールしてるようなものではないか。


「うぅ……っ、恥ずかしい」


 本当の恋ってこういう感覚なんだろうか。今までの“好き”は違ったのだろうか。


「会いたいな、晴君……」



 ――そして、好きだと言いたい。


 なんで帰ったのかはわからないけれど。

 だけど晴君だって私のこと、多少なりとも好いてくれてるんだよね?


「連絡先……って、だめだ!! 私のバカ」


 傍に置いてあった携帯をポチポチと操作して、すぐにベッドの端へ放り投げた。

 あんなに話していたのに、連絡先すら交換できていないなんて。


 けれど、まだ手はある。

 勤め先も勤務時間も雑談の中で確認済みだ。

 仕事を早く切り上げてれば、晴君がしていたように私も待ち伏せができる。


 それしかない。

 今度は私が会いに行く番だ。


「なにはともあれ、まずは仕事か。やだなぁ」


 行かないわけにはいかないけれど。

 重苦しい溜息を飲み込むことはできなかった。




◇◇◇


「水谷……、なんでここに」


 道端にしゃがみこんで携帯をいじっていた水谷に気づいた私は、離れた位置でぴたりと止まった。


「お前こそ。こんな時間まで、どこ行ってたの?」


 水谷が私を視界に留めるなり、立ち上がってずんずんと近寄ってきた。

 眉間には皺が寄っているし、不機嫌を隠そうともしていない。


 既に月は空高くまで登っている。

 どこにいたかなんて口に出すのは恥ずかしいけれど、水谷も私と同じなのだからお相子だ。


「水谷の職場前で待ち構えてたんだけど……、中々でてこないから遅くまで残業してるのかと思って」


「え、いつから?」


「えっと……、五時頃から?」


 焦った水谷を見るなんて新鮮だ。

 幼い頃を除けば初めて見たかもしれない。


 私の返答に驚いたり、視線を斜め上に向けて考えていたり、顔が青ざめたり。

 どれも初めてで、その全てに嬉しいと思ってしまう。


「もしかしてさ、大通り沿いの出入り口にいた?」


「え、うん。そうだけど。もしかして、他にも出入り口あったの?」


 待ってる間その可能性も頭を過ぎった。

 けれど、あきらかにそこに務めている社員のような人たちが続々と出てきていたから、大丈夫だろうと思っていたのだ。


「あぁ~……、そうなんだよな。裏の出入り口使う人少ないから、しょうがないんだけどさ。それで、こんな時間まで俺を待っててくれてたんだ?」


 直に言われてしまうと恥ずかしくて、視線を逸らしてはまごまごと口ごもる。

 素直に答えられない私の頭上からは、「怒るべきだけど嬉しいから困るんだよなぁ」と唸り声とともに呟きが落ちてきた。


「ええと、水谷は? どうしてここにいるの」


「同じだよ。はるの職場行っても出てこないから、もしかしたら仕事休んだのかと思ってインターホン鳴らしたけど出ないから、こうして待ってた」


「じゃあすれ違いになっちゃったんだね」


「そうみたいだな」




「「……」」




 夜の喧騒と車が走る音が遠くで聞こえる。

 けれど、私たちの間だけは静かな、澄み切った静寂が流れていた。



「でさ、なんで名字呼びに戻ってんの。俺悲しいんだけど」


 降り注ぐ声は口調のわりに柔らかくて暖かい。

 昔みたいに呼んでよ、とお願いされているような気持ちになる。


 急速に昨夜の熱がじわりじわりと押し寄せた。



「晴君……、好き」



 吐息をこぼすように呟く。

 昨夜のように熱に浮かされた瞳で見上げたら、私を見返す晴君も同じだった。

 降り注ぐ視線が熱くて眩暈がする。



「うん、俺も。はるが好きだ」



 満面の笑みで返されて、それがきらきらと眩しくて。

 私も嬉しくてへにゃりと綻んだけれど、見つめ合うのが恥ずかしくて晴君の胸におでこを預ける。


 視界に入った手を指先でそっと触れると、ひんやりと冷たかった。


「なんでかさ、はるを好きだって思ったことなかったのに、唐突に何してんだろうなって思い出すんだよな。それに人混みに紛れててもはるだけはすぐ分かっちゃうし。そんで、やっと気づいたわけ。俺ははるをずっと探してたんだなって」


 抱きしめたい衝動が駆け巡った。

 晴君の言葉全てが嬉しくて、声にならない衝動をぐりぐりと額を晴君の胸に擦ることで落ち着かせる。


「私も、そうなの。何気ない生活の中でふいに思い出すのは、いつも晴君だったの」


「っ、可愛すぎかよ」


 ぼそりと漏れ出たその声ははっきりと聞こえた。


「ね、晴君もご飯まだでしょう? おもてなしは出来ないけど、今日は上がってってくれるよね? 体も冷えてるし、そうしようよ」


 夏とはいえ、もう夜は冷たい空気が支配している。

 私の手も、そして晴君の手も冷え切っていて、それが二人してお互いをずっと待ち望んでいた証だった。


 早く温まりたい。



 ――晴君の温もりを感じたいのだ。



「それってさ、俺が狼になってもいいってこと? 酔った勢いだと思われたくなかったから、昨日は我慢したけどさぁ……」


 晴君の可愛らしい大きな瞳が細まって、光を放つ。

 投げかけられた問いかけには、言葉の代わりに触れていた指先を絡めて歩き出すことで答えた。








【補足(誤字? とのご連絡をいただいたので、後書きで失礼します)】


 主人公の「春菜」は名前かと思いきや、実は名字です。あだ名 (はる) は名字からとっています。

 男の名字はそのまま「水谷」で、あだ名 (はる) は名前からとっています。


 二人とも名前は残念ながら出ませんでしたので、いずれ、長編の箸休めに続編を……と思っております。

 お互いの呼び方の変化も、楽しんでいただけたら幸いです。


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