入学式、鈴の音、白昼夢
「ナナちゃん起きなさーい!」
遠くから母さんの声が聞こえる。
「入学式に遅刻するよー」
「……ふぁーい」
眠い頭をかかえ、目をこすりながら階段を降りる。菅原七海、十五歳。名前の読みは「なつみ」だが、漢字が数字の七なので、ナナちゃんと呼ばれている。
「おはようナナちゃん」
おっとりとした、温かみのある母さんの声が子守唄となって、また眠くなる。でも今寝てしまうとまずい。大きく伸びをした。
「おはよー……ってまだ六時じゃん! 入学式の日は九時登校だから八時過ぎに家を出れば大丈夫だって」
今日は目覚ましを七時にかけていた。母さんにも七時に起こしてと伝えていたはずだけど。
「つい癖で起こしちゃった。もう朝ごはんも用意しちゃったし、食べてね」
テーブルにはすでに、トーストと目玉焼き、ベーコン、そしてインスタントのスープが用意されていた。
「はいコーヒー」
差し出されたマグカップに注がれたコーヒーを一口。ミルクなし、砂糖入りのそれが全身に染み渡る。早起きだった中学校時代からの目覚ましの儀式みたいなものだった。ちょっと長い春休みのうちに生活習慣がすっかり夜型になってしまっていて、カフェインの力がないととても起きていられそうになかった。入学式で居眠りしたらそれこそ一生語り継がれてしまう。
いただきますと手を合わせ、トーストにかじりつく。この食パンは近所のスーパーに入っているパン屋さんのものだ。巷では高級食パンというものが流行っているらしく、一回母さんが買ってきてくれた。食べ比べをしたところ、スーパーのパン屋さんの食パンの方が口に合った。
朝食を摂り終え、だいぶ目が覚めてきた。真新しい通学鞄に必要なものが入っているかをチェックすると、手持ち無沙汰になったのでテレビをつけた。いつも見ている朝の情報番組は長寿で、私が生まれるずっと前から放送されている。なんかいろいろ流れたあと、一番気にしている星占いのコーナーになった。占いなんて迷信だと言われればそれまでだけど、七海にとっては注意すべき点が得られるので、わりと役に立っている。ちなみに今日の結果は六位とまずまずだったものの、耳に痛い言葉がくっついてきた。
「魚座のあなた、注意力が鈍って肝心なことを取り逃さないように注意してください!」
注意力が鈍る、私にとって一番嫌な響きを持つ言葉だ。これまで、何か自分にとって重要な出来事があるときに限って、ろくなことが起こらなかった。忘れ物をするのは序の口、頭に鳥のフンが落ちてきたときは散々だったし、スポーツ大会の前に捻挫して見学する羽目になったこともあった。自動販売機にお金を吸われた経験もある。こちらは商品補充のお兄さんがすぐに飛んできてくれて返金してもらえた。こうした不幸があまりにもひどいので、近くの神社のお守りを山ほど身につけてみたり、部屋にパワーストーンを置いてみたりしてみたけど、効き目はなかった。
高校生になるにあたって、母が銀色の小さい鈴をくれた。いわく、母が二十歳のころに大学のサークルで知り合い、友達になったとある神社の娘さんからもらったものらしい。その人は「もしあなたに子供が生まれたら『一番上の女の子』にあげてね」とアドバイスをくれたとのこと。母はそのことを長く忘れていたけれど、家の大掃除をしたときにそれを見つけ、その話のことも思い出したという。せっかくなので通学鞄にその鈴をつけておいた。
七時半、少し早いけど家を出た。授業が始まるとこの時間の電車に乗ることになる。朝のラッシュの時間なので、今のうちに慣れておきたい。駅までは徒歩五分、やってきた電車に乗って、そして途中で一回乗り換えれば高校に着く。電車は少し混んでいたものの、座ることができた。温かい車内の空気が心地いい……
「お客様?」
声をかけられて目が覚めた。車掌さんが心配そうな顔をして私のほうを見ていた。
「え? ……ここどこですか?」
まわりを見渡すと、かなり大きな駅だった。もしや、と思うと、車掌さんが想像どおりの駅名を答えた。
「佐倉市駅ですね、この電車の終点です」
「あの、東陽高校って通り過ぎちゃってます、よね」
「ここから急行電車で藤崎駅まで戻ってもらって、それから乗り換えになりますね。乗り換え込みで二十分くらいかかります」
「ありがとうございました……」
やってしまった。初日からいきなり寝過ごし。結局高校の最寄り駅に着いたのは八時半だった。家を早く出ていてよかったのか、それとも早く出た分の時間、家で寝ておけばよかったのかわからないけど。なんだか今日のイベント前に気力体力を半日分使ってしまった気がする。でも間に合ったので大丈夫。高校へ行こうと一歩を踏み出し、しかし思ったところに地面がなかった。
「わっ!」
三段ほどあった階段を踏み外したことに気づいたのは少し後のことだった。体のバランスが崩れ、とっさに頭を守るために鞄を手放した。鞄が先に地面に落ち、鈴が音を立てる。
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「……あれ?」
階段の上にいた。さっき踏み外したはずなのに。体は何ともなく、さっき手放してしまったはずの通学鞄もきちんと持っていた。
「夢、だったのかな」
立ったまま寝て、そのまま現実の続きみたいな夢でも見たのだろうか。なんだかよくわからない。ふと駅前の時計を見上げると、八時半少し過ぎを指していた。高校は駅から近いけれど、あまりのんびりしてもいられなかった。今度は階段に気をつけて降り、高校に向けて歩き出したところで、後ろから声をかけられた。
「ナーナっち!」
親友の西里瑞希だった。
「あれ同じ電車だった? 違う車両だったのかな?」
「ううん。私朝七時半に家を出たんだけど、電車寝過ごしちゃって」
「そっかー、おつかれー」
瑞希は近所の幼馴染だ。幼稚園から中学校まで、クラス替えがあってもずっと同じクラスという謎の縁で結ばれている。そして高校も一緒になった。さすがに高校ではクラスが離れ離れになりそうだ。
「じゃ、学校行こっか」
「うん」
高校までの道のりは、七海たちと同じ真新しい制服に身を包んだ新入生たちであふれていた。はじまりからアクシデントを引き起こしてしまった新生活、悪いことが起きないといいなと思いつつ、高校の門をくぐった。
いろいろあって更新が大幅に遅れ、最初の投稿から1年経ってしまいました。これから少しずつ改稿を進めて投稿していきます。