神様が救うか、己が救うか。 ―God saves or you save―
日常の中で訪れる問題。それを助けてくれる誰かが居たら、あなたはどうするか。自分はどうするか。
あなたを助けるのは、その人なのか?
唐突に、神様が僕にこう言った。
「人生、数十年生きていれば、色々とあるものだよ。良いこと、悪いこと。そういうのを全部まとめて、君の人生のグラフを書いてちょうだい」
僕は今、人生のどん底にいる。絶不調だ。どれくらいのどん底なのかを語るのは後にするとして、もう、お先真っ暗の崖っぷち、とだけは言っておこう。危機的状況だ。
そんな僕の前に、突然、神様が現れた。
たまたま見かけた、ネットの広告だ。
『あなたの悩み、神様が聞き届けます』
怪しい。
怪しすぎる。
それは判っていたのだけれど、藁をも掴む思いで、その広告をクリックした。正しく言うなれば、クリックしてしまった。しかし、現状をどうにかするには、それこそ、神頼みしかないのだ。仕方がなかったのだ。
そのサイトに幾つかの個人情報を打ち込んだ数分後、メールが届いた。記載された住所に、指定の日時に来て下さい、と言う内容。差出人、神様。
そして、当日。
繁華街から離れ、人通りの全くない裏通りにある寂れた雑居ビルの一階。『オフィス神様』なんていう、ふざけた名前の場所にやって来た僕は、見たところ年も僕と変わらないくらいの、グレーのスーツを着た神様と対面した。
「やあ、どうも。予約の人ですね。初めまして。神様です」
想像していたよりもかなりフランクな口調で、神様は僕を迎え入れてくれた。名刺もくれた。名刺には、神様、とだけ書かれていた。
怪しい。
怪しすぎる。
僕は、再び感じた。
神様なのに服装が普通だし、威厳がないし、オーラがないし、後光も差していないし、それに名刺を持っているって、どんな神様ですか。神様って職業ですか。資格か何かですか。髪型を七三分けにした神様って何ですか。てか、神様なのに、オフィス狭くないですか。お掛け下さいって言われたソファーは座り心地悪いし、テーブルはなんか汚ないし、これ、大丈夫なやつですか。清潔ですか。
「えぇと、その、……神様って、あなたが、ですか?」
恐る恐る聞くと、自称神様は、自信満々の口調で笑んだ。
「えぇ、そうですよ。神様ですよ。まぁ、皆さん最初は同じ反応ですよね。そうやって胡散臭そうに見てくるんですよ」
「えぇ、そうですね。その、……胡散臭いです。貧乏神の方じゃないですよね」
「よく言われます。神様に失礼ですよね。……あ、貧乏神も神様なんですから、悪口を言っちゃ駄目ですよ」
「はぁ……」
「じゃあ、そんな訳なので、先ずは、これを」
そう言って神様は、一枚の用紙を僕に手渡す。
「これ、なんですか」受けとった紙を持ち上げ、僕は聞く。
「紙です。神様から渡された、紙です」自称神様からは、簡潔な返答。
「これを、どうしたらいいんですか」
神様からの紙、という、神様の下らない一言を無視して、僕は質問をした。冷静に考えれば、よくもまあ、こんな怪しい人物と話が出来ていたものだと呆れてしまうのだが、要はそれだけ、自分が置かされた状況に追い詰められていたのだろう。
神様は、とっておきの駄洒落を無視されたことに不服そうではあったが、この紙の中央に横線を引き、その線と交わるように、紙の左端に縦線を書くように、と言った。
「横線が時間軸ね。左が過去で、つまり、生まれてから現在までの線。縦線が、まあ、幸福度みたいなやつ。時間軸と交わったところがゼロ。上がプラスで、下がマイナス。幸せだったらプラス。調子が悪かったらマイナス。オッケー? 理解した?」
判った、と頷いて、僕は白紙の紙に縦横の線を引いて、自分のこれまでの人生を数値化し、グラフへと変換させる作業を始めた。
多感で能天気な幼少期。基本的には、常にプラスだっただろう。多少の上下はあったが、大体がプラス域の上を保っていた。しかし成人し、社会というものを知って、様々なしがらみの中で生きるようになった頃から、徐々に下がり始める。そして、ある時を境に、失速した飛行機のようにグラフは下降し、そして、現在に到達。
現在の自分は、紙の一番右下にいる。
マイナスの、一番下だ。
「あはは。これは見事に不幸そうなグラフだねぇ」神様は、グラフを見て笑った。「いや、不幸そのものか。こんなひどいグラフは、なかなかお目にかかれない。いやぁ、これはすごい」
神様は、僕のこれまでの人生をそのように評した。そして、急激な下降を始めたところを指差した。
「ここ。ここから急に下がっているね。ここで何があったの?」
僕は、説明をした。現在の危機的状況の発端となった出来事を、できるだけ簡潔に。
そして説明の最後に、一言、付け加える。
「もうこの際、死んでしまった方が楽なんじゃないかと……」
自分としては、その過剰な一言は重たい言葉だと理解していたのだが、神様からは言葉が即座に返された。
「そうだね。死んじゃったら楽かもね」
「え?」
僕は、返された言葉の意味が判らずに、その一言だけしか発せられなかった。
いや。意味は判っていた。判らなかったのは、そんな言葉を悩みの相談で訪れている者に、ましてや、神様を自称している者が言うだろうか、という部分だっただろうか。
「ええと、……すみません、なんて?」確認の為に聞き返す。
「死んじゃったら楽だねって」返されたのは、同じ言葉だ。「死んだら、君なんて存在は無くなるんだから、そりゃあ、苦労も何もないよね。まあ、幸せとかもないけどさ。うん、よし。決めた。死んでしまおう」
「いやいや、ちょっと、待って」僕は、少し慌てる。「待ってくださいよ。助けてくれるんじゃないんですか」
僕は狼狽し、口調も、手などの動きにもそれが如実に表れている状態であったのだが、しかし、目の前のそれは、まるで動じず、平静なままで僕を見続けていた。
「え、なんで?」口調にもまだ、明るさを含ませている。
「なんでって、ネットにも神様が助けてくれる的なこと書いて……」
「書いてない、書いてない。神様が聞きます、って書いてはおいたけど、助けますなんて、そんな面倒なこと一言も書いてないよ。書くわけがないじゃない。そんなこと書いたら、面倒くさくてしょうがないよ」
言われ、記憶を遡る。
確かに、ネットの広告の文面は神様の言う通り、聞き届けます、だったような気がする。だったら、この神様は何をしてくれるというのか。聞くだけなのか。それを、問う。
「だから、悩みを聞き届けるだけだって言ったじゃん」
「言ったじゃん、って、そんな。……本当に神様なんだったら、困っている人を助けてくれるんじゃないんですか」
「冗談じゃない。そんな、キリストやブッダみたいなことしないよ」
「神様なのに?」
「神様だからだよ」
神様は、胸を張って断言した。
ならば、いったい誰が窮地に陥ったこの僕を助けてくれるのか。自称ではあるが、全知全能の神様が助けてくれないと言い切ったのだ。神様が無理だと言ったことを、他の誰かがどうにか出来るとは思えない。もう、他に手立てはないじゃないか
本当に、死ぬよりほかにないのか。
テーブルに置かれた僕の人生グラフ。紙の一番下にまで落下した、僕の人生。それより下に紙がないだけで、本来はもっと下まで落ちているのかもしれない。
修復不可能な僕の人生。神様でさえお手上げの、不幸なグラフ。
「そうですか……」僕は、首を90度前に倒した。「僕の人生、ここまでですか……」
「いや、そうとは言っていないけど」
その言葉で顔を上げると、神様は僕を見て、笑っていた。それまでと同じように。
いや、それまでとは少し、その笑窪の形状や瞳の角度が異なっているだろうか。
それを見た、僕の感想でしかないが。
「だって、君、まだ生きてるじゃない。死んでないでしょう? だったら、人生ここで終わりとか、そういうの無くない?」
「でもさっき、死んでしまおうって……」
「うん。選択肢の一つとして提案したけど、でも君まだ死んでいないじゃん。……あぁ、そうだ。勘違いしているだろうから言っておくけれど、神様が人を助けるんじゃないよ。言ったでしょ。神様は、悩みを聞き届けるだけだって。人ってのはね、勝手に救われるものなんだよ。勝手に悩んで、勝手に救われて、それを勝手に、神様のお陰だって決めつける。こっちからしてみればいい迷惑なんだよね、ほんと」
神様はそこで、これまでの流れでは珍しい、どことなく不機嫌そうな顔で腕を組み、神様らしくないことに、なんと、愚痴をこぼした。
「困った時もそう。願い事が叶った時もそう。昔からさ、そういった時、自分が信心深く神様を思っていたから救われた、願いが叶ったって、人は言うんだ。逆に、叶わなかった時は、自分の信仰心が足りなかったんだって悔い改めて、前よりもっと神様を思うようになる。神様を思い続ける。そして願いが叶った時、やっぱり人は、神様ありがとうってなる。前よりも強く神様を思ったから願いが叶いましたってね。そうやって人は、ずっと昔から、自分たちが起こした結果を神様に結び付けてきた。でもね、神様は何もしませんよ。今までも、これからも、何もしません。神様は、見てるだけ」
「見てるだけ? 神様なのに?」
「もちろん」胸を張り、誇らしげな声を出す。「昔ね、何かの本でこんな一節を目にしたことがあるんだわ。神様は何もしない。何もしないのに偉そうだから、神様なんだって。これは、実に的を射た表現だよ。まさにその通り」
「じゃあ、人はどんな時でも、自分で問題を解決するしかないってことですか」
「人が作ったものは、人の手で壊すことが出来る。人が壊したものも同じ。それは、人の手で直すことが出来る。違うかな?」
僕は、考えた。今言われたことは正しい。その通りである。だが、大前提の問題の解決に導く言葉ではない。それが、僕の感想であり、返答だった。
「でも、僕には今の自分の状況を、自分の手でどうにか出来るとは思えません。どうしよう、もなくて、それで神頼みに来たんです。その神様に見放されたら、僕はやっぱり……」
死ぬしかない。その単語は、直前で飲み込んだ。
「死ぬしかない?」飲み込んだ筈の言葉を、彼が言う。「死ぬしかないって、会話に出てきたけど、本当にそれしか方法ってない?」
僕は、数秒だけ考えた。
「ないです。どうしようもないんです。仕事をなくして、それで借金まで背負って……。一万、二万の額じゃないんですよ。とても、返せるような金額じゃないんです。もう……」
もう、死ぬしかない。
そんな考えが頭の中に溢れて、胸が苦しくなる。
息苦しい。
そうだ。僕はもう、死ぬしかないんだ。
「仕事を首になったんだったら、ハローワーク行った?」
僅かに呼吸困難を患う僕に向けられた言葉は、相も変わらない響きだ。
「え?」僕ほ、問い返すことしかできない。
「自分に合う仕事がないとか、言わせないよ。この世界にいくつの仕事があると思う? それらを全て経験したなんて、まず、ありえないじゃない。逆に、仕事をしないで生きる方法もあるよ。多少の困難は伴うだろうけど、ホームレスの人達を見てみなよ。仕事しないでも生きていけているじゃない。あと、借金。借金が原因だったら、自己破産の申請とかした? してないよね。ねえ、してないよねぇ?」
神様の声は、どことなく怒っているように聞こえる。その響きに押されて、僕は、頷きも返せなかった。
神様の言葉は、僕からの返答を待つ程度の間を置いてから、続いた。
「いい? 言いたいことはひとつだ。神様は話を聞くだけ。人を助けるのは、人でしかない。人っていう字は、人と人が支え合っているっていう言葉があるけど、こうも解釈ができないかな。人が踏ん張って、その場にどっしりと構えている姿ってさ」
人、という字を思い浮かべる。まあ、確かにそういう状態の人の形に似ていなくもない、かもしれない。
「君の話を聞いていると、ちょっとむかつくところがあってさ。君、神様を頼るのはいいんだけれど、ちょっとまる投げしすぎじゃない? 君、本当にそこに自分の力で立ってる? ふわふわ浮いてるようにしか見えないんだよね。そのくせ、僕はもう限界ですぅ。神様も助けてくれません、もう死ぬしかないです。なにそれ。そういうので神様の品格とか信頼度とかを下げるの、マジでやめてくんない? ホント、いい迷惑なんだよ。やめてくれよ」
「でも……」
「デモも、ストもないよ」返される言葉は、これまでで最も圧力があり、鋭い。「これ、神様からの最後の言葉ね。ちゃんと、よく聞いてよ。人を救うのは、いつの世も人だけ。人は、人にしか救えない。足を広げて立っていない奴が人な訳ないじゃん。それなら、救われないのは当然じゃん? だからさ、先ずは自分の足元から見直してくれない? とりあえず、立って。話はそこから。自分の足で立って、踏ん張って。それでも駄目なら、もう一回ここに来ればいいよ。そん時は、また話を聞いてやるよ」
そこまで聞いた途端、急に視界が狭くなる。
意識がぼやける。
目の前に座っている神様が、どんどんと遠くに離れていく感覚だ。
あれ?
貧血?
突然の睡魔?
このタイミングで?
ちょっと待ってよ、まだ話は途中じゃない。て言うか、神様の前で気を失うのって失礼にならない? いやいや、それ以前に、僕、神様に怒られただけで、問題は何も解決していないような……。そうだ、僕、怒られただけじゃん。神様は、神様のくせに怒っただけで何もしてない。しかも、神様は自称だ。
遠ざかった自称神様は、やっぱり軽薄な笑みを顔に浮かべて、最後にこう言った。
「だから言ったでしょ。神様は何もしない。人は勝手に救われるんだよ」笑んで、言う。「ばぁか」
ああ。神様って本当に、何もしてくれないのに偉そうだ。
「もしもし。もしもーし、もしもーし」
どこからか声が聞こえる。いや、呼ばれてる? あれ、何だろう。何があったんだろう。良く判らない。判らないが、呼ばれていることは判る。
「もしもーし。お兄さん大丈夫? ちょっと、お兄さーん。お兄さーん」
目を開くと、見知らぬお兄さんが、僕の顔を覗き込んでいる。背中には、硬い感触。ああ、これはコンクリートだ。え、でもなんで? なんでコンクリートに寝ているの? てか、ここどこ? どうして僕、地べたに寝てるの?
「あ、起きた」僕を呼んでいたお兄さんが、安堵した表情で、頬に笑窪を浮かべた。「ちょっと、お兄さん大丈夫? ふらふらしてたからどうしたんだろうって思って見てたら、急に、ばたーんって倒れたから、驚いたよ。大丈夫? 立てる? 貧血? 変な病気とかじゃない? 救急車呼ぶ?」
心配そうにこちらを見ているお兄さんの手には、携帯が握られている。言葉の通り、救急車を即座に呼ぶ体制をとっているのだろう。
「大丈夫。大丈夫です」僕は、上半身を持ち上げる。「えっと、……病気じゃないです。たぶん貧血じゃないかな。ちょっと休めば、良くなると思うんで、多分ですけど、ええ、はい、大丈夫です」
僕は、お兄さんに手を引かれて立ち上がった。頭がまだぼんやりとしているが、怪我は無いようだ。
周囲を見渡す。ここは、繁華街から離れて人通りの全くない、寂れた裏通り。目の前には、小汚いビルがあった。そこにテナントはひとつも入っていないようで、廃墟のような佇まいである。
はて、僕はどうしてこんなところにいるのだろうか。どうしてこんなところに来て、気を失ったのだろうか。
あれ? おかしいな。
何かを忘れている気がする。
なんだろう。
何かがあったような気がする。
気がするんだけど、どうしてだろう。思い出せない。
記憶喪失? いや、そんなことはない。その何かは思い出せないけれど、他のことはしっかりと覚えている。自分の名前、住所、現状。……そう、現状。お先真っ暗の、今の境遇。
思い出したら、また気を失いそうになった。頭を鈍器で殴られた感覚。ああ、そうだ。明日をも知れない危機的状況なんだった。これからどうしよう。そう思って、……ええと、あれ? そう思って、それからどうしたんだっけ? うーん、まずいな。まるで思い出せない。やっぱり記憶喪失か?
頭を抱える僕を見て、見知らぬお兄さんの僕を見る眼差しは、更に心配そうなものになった。
「ねえ、ちょっと。本当に大丈夫? 頭とか打ってない? 救急車、本当に呼ばなくて平気? 救急車があれなら、タクシーでも呼ぶ?」
お兄さんの言葉に社交辞令の定型文みたいな冷たさはなく、本心から僕を気遣ってくれているようだ。その言葉の温度が、とても心地良い。見ず知らずの僕をこんなに親身になって気遣ってくれるとは、何て優しい人だろう。こんな優しい人、本当に居るんだなあ。ありがたい。本当に嬉しい。
お兄さん、神様か何かですか。
「はい、えっと、大丈夫です」立ち、僅かに付いたゴミを落とそうと、膝を叩く。「ええ、大丈夫。その、……本当に。大丈夫、大丈夫です」
「本当に? 心配だなぁ。ちゃんと立てる?」
彼に問われ、僕は自分の足元を見た。
「大丈夫。立てます」