表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

好きな作品の感想と考察

大江健三郎と西洋文学――『個人的な体験』が成したもの――

作者: 639228

 はじめに

 大江健三郎(1935~)は西洋文学から多大な影響を受けながら小説を書いてきた作家である。そのことは大江自身が様々な場で語ってきたことであるし、作品に多数の引用を盛り込んでいく姿勢からもわかる。

 だが大江は初めから、多数の引用を盛り込むような作品を作ってきたわけではない。初めの頃はあまり引用は行わず、デビューから6、7年の間に少しずつ大江は引用を全面に押し出すようになっていくが、効果的な引用を多数盛り込んでいくという大江のスタイルが決定的になるのが『個人的な体験』(1964)である。この作品は大江の代表作の一つとみなされており、人気も高い。この作品ではウィリアム・ブレイク(1757~1827)の引用が中心的な役割を負っているのだが、この作品のブレイクを徹底的に分析している研究はない。小林恵子や松島正一らの先行研究の問題として挙げられるのは、まず、作品横断的に考察を行う傾向があることだ。大江は『新しい人よ目覚めよ』(1983)や『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969)といったブレイクを題材に扱った作品をいくつも書いている。小林や松島らは、これらの作品のブレイク引用箇所を並列的に並べ論じていくのだが、それでは、作品における個々の引用の分析が深まっていかない。事実、『個人的な体験』に引用されたブレイクの絵画には、引用されるに当たって省かれた図像があるのだが、そのことはいまだ指摘されていない。また大江の作品についての研究全般に言えることだが、大江自身の体験と作品が重なりあう部分が多いため、大江が経験した人生と大江の小説を混同してしまう傾向にある。さらに、大江自身が自作について旺盛に語るために、分析の論点が大江が語ったことに集中してしまう傾向もある。そのような要因が重なって、大江の個々の作品に対する分析は貧弱な傾向にある。大江の小説はわかりにくいとよく言われるが、その要因は大江の文体によるものだけでなく、批評研究の貧弱さが要因になっている可能性がある。

 本論の研究の目的は、『個人的な体験』で重要な役割を負っているブレイクの引用を徹底的に分析することによって、大江がこの作品に持ち込んだ一番大きな主題を明らかにすることである。そのことによって大江文学のわかりにくさが改善する一助になれば、幸いである。

 なお、『個人的な体験』の小説テクストの引用は全て新潮社の『大江健三郎小説』に拠る。

 第1章おいては、分析に入る前段階として、大江がどのような考えに基づいて引用を行うのか確認する。大江の引用の目的は、小説の文体を多様なものにするためである。

 第2章においては、まず『個人的な体験』における『ペスト、長子の死』の重要性について語る。『ペスト、長子の死』に天使が欠けていることを示し、なぜ天使が欠けているのか、フラ・アンジェリコの受胎告知図の天使や他の天使の記述を見ていくことでその理由をあぶり出す。天使の不在の表現は、神の不在の表現だと突き止める。

 第3章においては、西洋文学において神の不在がいかに、重要なテーマであるか示す。そしてそのテーマを摂取することで大江文学が脱皮を果たしたことを示す。


 1. 引用の姿勢

 作品について入って行く前に、まず大江の引用に対するスタンスについて確認しておこう。大江健三郎が想像力を語る際よく引いて出すのがガストン・バシュラールの言葉だ。それは、人間の想像力というのはイメージを作り出す能力ではなく、既存のイメージを歪ませ変える能力であるというものだ。この考えに基づけば、例えば詩の一節を小説の文脈に乗せて引用すれば、それだけで想像力を発揮していることになる。これはシンプルだが、とても力強い手法である。

 また大江は「小説の言葉、文章、そして作品全体にいたる様ざまなレヴェルでの文体というべきものを多様にするために引用を積極的にする」(1)と述べているが、これがどういうことか具体的に説明していく。

 わかりやすいように、ある人が有名人のモノマネをするような場面でも想像してみよう。例えば、正月太りをしたAちゃんが、同じく正月太りをしているBちゃんに太ったことを指摘されたとしよう。「ねえねえAちゃん最近太った?ほらお腹のとこパッツンパッツンだよ。やばいんじゃない?」自分のことを棚に上げてからかうBちゃんにムッときたAちゃんは福田康夫元首相風にこう返す。「わたしは自分自身を客観的に見ることができるんです!あなたとは違うんです!」この言葉は、Aちゃんの反発の気持ちを表す言葉であると同時に、福田元首相の言葉でもあり、そのギャップが笑いを生むという構造になっている。小説に引用がもたらされる時、これと同じようなことが、作品に起こる。引用先の文脈と引用元の文脈の齟齬によって多重的な意味の構造が作品にもたらされるのだ。大江は『日曜美術館』に出演した際、フランシス・ベーコンの絵を評してこんなことを言っている。


「絵というものは、文学でもそうですけど、ほんとにすぐれた文学、ほんとにすぐれた絵画、ほんとにすぐれた音楽というのは、それ以前に作られたものの影響を無視できない。ですからしばしば絵の引用がある。しかし引用であることによって表現が二重三重になる面白さがある」 (2)


 大江が『個人的な体験』について「いかにも多様な引用が見られて、作者からいうことではないかも知れないが、むしろ不思議な気持ちがするほど。」(3) とも述べている通り、『個人的な体験』は絵や詩の引用に満ちている。これからの考察によって、その二重三重の表現の面白さを明らかにしていく。


 2. 『個人的な体験』における引用

『個人的な体験』の先行研究は(バード)の決断部分とアステリスク以後についての研究も多かった。つまり後半部分の研究だ。しかしこの作品の面白さを決定づけているのは前半部分であると考える。前半部分の深みと赤ん坊に対する拒絶の正直さが後半を決定づけている。物語というものは、展開の底が決まればあとは駆け上がっていくだけであり、「底」の提示こそが物語の肝なのだ。

 その「底」の提示を、大江はブレイクを引用することで為している。まず、作品のあらすじから説明していく。


 2.1 物語の面白みと展開の底

 『個人的な体験』は、主人公の男、(バード)が脳に障害を持って生まれた赤ん坊を受け入れるまで描いた物語である。物語はおおまかに言って、赤ん坊が生まれるまでの不安、生まれた後の拒絶、そして生まれた子供の受容までを描いている。

 この小説の力点は、赤ん坊の存在の拒絶に置かれており、そこからいかに回復し受容に向かっていくかが、作品の醍醐味となっている。力点が、「赤ん坊の存在の拒絶」に置かれているとはどういうことなのか説明していきたい。

 例えば、障害児の父親に対して、ストレートに、お説教のように、子供と生きていかねばならない理由を並べ立てていったとしよう。だが、障害を持った子供に抵抗を感じている父親が、そのままその言葉を受け入れ子供を受容するという方向に向かうことができるだろうか。うまくやればできることなのかもしれないが、なかなかそれは難しい。父親の頭の中には障害児が生まれたことに対する混乱と否定があり、それが子供の受容を阻害する。

 ではどうすればいいのか。それにはまず、自分がその子供を拒絶しているということを認識することから始めなくてはならない。その気持ちと向き合うことが赤ん坊の拒絶から受容に向かう第一歩となるのである。だが小説中において、主人公である(バード)はなかなかその認識にまで辿り着かない。なぜなら、病院や職場といった公の場では「親は子供を受け入れるものである」という社会的に正しい義務が重くのしかかっており、子供を受け入れたくないという(バード)の気持ちは常に否定されることとなるからだ。そういう場では自分の子供を拒絶する気持ちと向きあうのは難しくなる。(バード)は病院で義母に、早く赤ん坊を「処置」してもらうように、つまり殺してもらうように便宜を図るべきだとせっつかれるのだが、これは(バード)の子供を厭う気持ちが承認されているとは言いがたい。これは子供を亡き者にしたい義母の気持ちを押し付けられているだけで、(バード)の気持ちが承認されているわけではないからだ。(バード)と義母が共犯者として互いの気持ちを共有するには、互いの互いに対する承認が足らないのだ。このような理由によって主人公(バード)は、妻でも家族でもない第三者的な女性である火見子のもとで、自分の後ろ暗い気持ちと向き合っていくことになる。思うに、障害というものが遺伝に関係することもある以上、血縁関係のない人間の方が、相談をするのに都合が良いのかもしれない。

 (バード)は逆説的に「子供を受け入れない」という選択を様々に検討することによって、子供を受け入れないことに対する自分自身の心理的ごまかしと向き合い、子供を受け入れる。(バード)がその検討するに当たって様々な助言を与えてくれる存在が火見子である。彼女は(バード)に、直接赤ん坊を殺すサジェスチョンを与えるだけでなく、具体的に赤ん坊を殺してくれる伝手を用意したりする。彼女はそのように振る舞うのにも関わらず、その本心において、(バード)の赤ん坊を疎んではいない。彼女の、後ろめたさを持たないゆえのためらいのなさが物語をスキャンダラスな方向へと向かわせる推進剤となっているのである。

 子供の人生を引き受けること、または、殺すこと。『個人的な体験』ではこの2つの極地が進むべき方向として提示される。この2つの内、物語として、スキャンダラスなまでに力を持つのは、殺すことの方である。物語の面白みは主人公が限りなくこちら側に近づくところにある。その危うさが、子供の受容へと向かう(バード)の決心を劇的なものにする。物語の力点が「赤ん坊の存在の拒絶」にあると私が言ったのはこういうことである。

 そして大事なのは、その拒絶の極地がいかに提示されるかである。展開の底がバネとなり物語を劇的なものにするのなら、その「底」がいかに導入されるかが問題となる。ここで中心的な役割を果たすのが、疫病たる鱗の男の絵だ。この作品が物語の人物たちと彼らの感情を象徴する複合的な交差点となっている。これからウィリアム・ブレイクの『ペスト、長子の死』のその導入のされ方を見ていき、『ペスト、長子の死』が「底」の描写に一番大きな役割を果たしていることを示す。『ペスト、長子の死』の導入はまず、詩の引用から始まる。


 2.2 予言による「底」の提示

 障害児が生まれたことによる不安や混乱、そして周囲からの重圧に(バード)は苦しむわけだが、そんな状況にも底はある。それは(バード)自らの手で子供を殺すことだ。子殺し、それが(バード)を巡る状況の底である。『個人的な体験』では、その子殺しのイメージは、火見子が行うウィリアム・ブレイクの引用からもたらされている。そこではまず初めに、詩の引用からなされている。それは『天国と地獄の結婚』の「地獄の格言」からの一句である。火見子は、(バード)が、自分の赤んぼうが生まれてすぐ死んでしまったのだと言ったことを受けて、このように引用を行う。


「体を洗っていて思いだしたんだけど、こういう詩をおぼえている?」と火見子はいって英詩の一節を呪文のようにつぶやいた。(バード)は聞きおわってからもういちどやってくれるように頼んだ。

   Sooner murder an infant in it’s cradle than nurse unacted desires……

  「赤んぼうは揺籠のなかで殺したほうがいい。まだ動きはじめない欲望を育てあげてしまうことになるよりも、というのね」

  「しかし、すべての赤んぼうを揺籠のなかで殺してしまうわけにはゆかないよ」と(バード)はいった。

  「これは誰の詩だい?」

  「ウイリアムブレーク。わたしはブレークのことを卒業論文にしたでしょう?」(4)


 この火見子が彼を慰めようとして使った言葉は、奇しくも(バード)が抱いている子殺しの欲望を言い当てるものとなっている。子供が死んでしまったのは不幸なことだけど、逆に良かったのかもしれないよ、というような慰めの言葉が、実はまだ生きている赤ん坊を死んだものとして伝えてしまった(バード)の、赤ん坊に対する拒絶の念を露呈させる。そしてさらに自分がこの先、子供を殺すかもしれないという不吉な可能性をも垣間見せる。またそもそも、まだ生きている赤ん坊を死んだものとして伝えてしまうこと自体、(バード)が障害を持って生まれた赤ん坊を負い目に感じていることを示している。

 (バード)は火見子と会う前に、医者から、赤ん坊が植物的な存在にしかならないのなら殺してしまった方がいいと提案される。火見子の言葉はその医者の「植物的存在であるのなら」という条件付きの提案から更に一歩進んだ提案となっている。それは欲望を持った存在を育て上げてしまうなら殺した方がいいという提案である。ここには植物的という形容に対して言うならば、欲望を抱えた、つまり動物的な存在を殺すことへの肯定が見られる。(バード)の意識の上では、安楽死のような消極的な死の提案から、より明確な殺意を持った提案へと駒が進められる。

 また、火見子は物語の後半において、(バード)の子殺しを積極的に支援しようとするのだが、この引用はそういった火見子の危うさの一端を示すものとしても機能している。物語が進むにつれ火見子は堕胎を行った経験があることが示されるのだが、言い換えれば堕胎というのは母体という揺籠の中で赤ん坊を殺すことであり、彼女の引用の言葉には自己の都合で子を殺すことへの承認が含まれていることがわかる。

 つまりこの引用は小説上において主に3つの意味合いを持っている。まず、(バード)の子が死んだことに対する火見子の憐れみ、慰めの意味。そして、火見子自身が行った堕胎の過去を正当化する意味合い。もうひとつが、(バード)が抱えている子への殺意の萌芽を探り当て、(バード)が行いうる行為の可能性を提示することである。

 ちなみに大江は「Sooner murder…」の詩について、エッセイでこのように述べている。


   《赤んぼうは揺籠のなかで殺したほうがいい。まだ動きはじめない欲望を育てあげてしまうことになるよりも》

   これは『天国と地獄の結婚』の「地獄のことわざ」からの引用です。そしていま考えてみるかぎり、小説のたくらみのひとつとして、意識的におこなったのだったか、そうでなかったか――つまりブレイクについて知識のまずしかった自分の誤訳であったのか――わからぬのですが、あきらかに翻訳として妥当ではありません。

   “Sooner murder an infant in it’s cradle than nurse unacted desires.”

   ブレイクが決して肯定しなかったのは「実行されない欲望」ということであり、そうしたありようを拒むことが、かれの思想の基本的態度でした。したがってブレイクは「地獄のことわざ」として――地獄はとくに悪い意味あいではなく、天国と対をなしている、その片方ということですが――「実行されない欲望」を批判することを、警句の主眼としたのでした。「揺籠のなかで殺される赤んぼう」は、譬喩的な、第二義の形容にすぎないのです。しかし警句のその部分こそが、畸形の後遺症状はのちまでつづくはずの嬰児を、手術によって生き延びさせ、生涯にわたってひきうける、という苦しい決断の前に立つ若者を刺戟する詩句として、小説に導入されたのでした。(5)


 この詩の正しい翻訳というのは「実行されない欲望を育てるよりはいっそ揺りかごのなかのおさなごを殺せ。」(6)というもので、この主意は、「実行されない欲望を育てるな」というところにある。これは一種の強意表現であり、なによりもまず、実際的な「行動」を求める警句である。松島正一(1995)は、『個人的な体験』の大江の訳を「意図的な誤訳というよりも、たんなる間違い」(7)と評しているが、この見解には与しない。なぜならば、火見子の訳というのは『ペスト、長子の死』を導きだし、補強する役割を負っているからだ。語学的に正しいだけの訳ではその役割を十分に果たすことができない。後に導入される絵画『ペスト、長子の死』は、怪物たるペストがエジプト人の長子を殺した場面を描いており、長子の死は重要な出来事である。正しい訳の方では赤ん坊を殺すことに主眼が置かれていない。これでは不適切である。では、火見子の引用の続きの場面を見てみよう。


「そうだった、きみはブレークだった」と(バード)はいうと頭をめぐらせて探し、居間と寝室の仕切りの板壁にかかげられたブレークの絵の複製を見つけた。(バード)はこの絵を、たびたび見ていたが、とくに注意してそれを眺めてみたことはなかったのだった。しかし、いま気がついてみるとそれはいかにも奇妙な絵だ。石版風の効果をあげているが、それはじつは水彩画にちがいない。原画には色彩もあるのだろうが、いま分厚い木の枠にはめこまれてそこに飾られている版はいちめんに淡い墨色だった。中東風の建物にかこまれた広場。遠景に様式化された一対のピラミッドが浮びあがっているから、おそらくエジプトなのだろう。夕闇か夜明けの薄明りが画面を領している。広場には腹をあけられた魚みたいに横たわっている若い死者と、いたみ悲しむ母親を囲んで、燈りをかかげた老 人や嬰児を抱いた女たちが描かれている。しかし最も重要なのは、それらの人々の頭上に両腕をひろげ跳躍して、広場を横切ろうとしている巨大な存在だ。それは人間だろうか?美しい筋肉質の体にはいちめんに鱗が生えている。禍まがしくファナティクに悲痛な憂いにみちた眼、鼻もめりこむほどに深く窪んだ口は山椒魚を思わせる。かれは悪魔なのか、神か?暗く乱れる夜の空へ鱗の炎に燃えたちながら飛翔してゆこうとしているように見える……

  「かれはなにをしているのだろう、体をおおっているのは鱗じゃなくて中世の兵士の鎖かたびらかなあ」

  「鱗だと思うわ、色彩板のこの絵では緑色をしていてもっと鱗らしかったわ。かれはエジプト人の長子たちをみな殺しにするためにがんばっているペストなのよ」

   (バード)は聖書についてほとんどなにも知らなかった。出エジプト記かもしれない、と(バード)は考えた。この鱗の男の眼と口の異様さときたら、激烈だ。悲しみ、恐怖、驚愕、疲労、孤独感、それに笑いの気配までが暗黒の眼と山椒魚じみた口から無限に湧いている。(8)


挿絵(By みてみん)

 図版1 ウィリアム・ブレイク『ペスト、長子の死』1805年、紙・ペン・水彩・鉛筆、318×276cm、ボストン、ボストン美術館


 ここで描写された絵は、その題名の通り、ペストがエジプト人の長子に死を与えた場面を描いたものである。この絵はそれ単体では(バード)にとって痛烈なものではない。災難に見舞われたエジプト人の悲しみと災厄を振り撒いたペストの精の激烈な存在感というのは、(バード)を取り巻く状況、つまり障害を持って生まれた赤ん坊のもたらす重圧とそれに苦しむ(バード)の心情をある部分で代弁してくれるものであるからだ。つまり、これは「災い」に見舞われた(バード)にとって、自分の心象風景と向き合うように見ることができる絵なのである。そこにはある種の癒やしがある。この時このペストの精は、(バード)にとっての「怪物」である息子の存在を象徴するものである。また同時に、障害児の子どもの親となることによって生まれる 世間や社会からの圧迫を象徴するものでもある。

 そしてこれは(バード)自身が無意識に気づいていることかもしれないが、この絵は(バード)に暗い救いをもたらす絵だ。強大な存在が我が子を殺してくれるなら、子を厭う自分の気持ちや責任はうやむやになる。やっかいな、疎ましい長子を抱えている親にとっては、それを殺してくれるペストは救いなのだ。それは暗く、陰惨な救いだ。火見子は(バード)のそんな心理を突くように次のような言葉を投げかける。


  「かれ、チャーミングでしょう?」

  「きみはこの鱗の男が好きなのかい?」

  「好きよ」と火見子はいった。「それに自分がペストの精であるとしたらどんな気持がするものかと、考えてみることも好きなのよ」

  「自分がペストの精であるとしたら、この鱗の男みたいな眼と口になってしまうほどの気持がするわけだ」(バード)はちょっと火見子の口許を眺めてみながらいった。

  「恐しいわね」

  「ああ、恐しいね」

  「わたしは恐しいめにあうたびに、もし逆に自分が誰か他の人間を、恐しいめにあわせる側だったらもっと恐しいだろうと思って、心理的な代償を得るのよ。あなたは自分がこうむったもっとも恐しい感情とおなじほどの恐怖を、他人の頭に植えつけたことがあると思う?」

  「どうだろうなあ」と(バード)はいった。「それはゆっくり考えてみなければわからないね」

  「考えてみてわかる種類のことじゃないのかもしれないわ」

  「それじゃ、ぼくは、まだ他人を本当に恐しいめにあわせたことがないんだろう」

  「そうね、きっと。あなたはまだそうしたことがないのよ。だけど、いつかはそれを経験するのじゃない?」と火見子は控えめながらも予言者風にいった。

  「赤ん坊を揺籠のなかで殺すことにでもなれば、それは自他ともに恐しい経験になるだろう」と(バード)はいった。(9)


 火見子は自分がペストの精であるとしたら、という発言で被害者と加害者の立場を逆転させる。そして火見子は(バード)が加害者になるだろうという予言をする。(バード)は予言され、その予言を受け取った。(バード)はこの後、その予言を成就させるか否か、行きつ戻りつしながらクライマックスに至るまで足掻き続ける。この先の展開の中で結局、赤ん坊を自らの手で殺すということ以上に恐ろしい想像は出てこない。「赤ん坊を揺籠のなかで殺すことにでもなれば、それは自他ともに恐しい経験になるだろう」ここが(バード)を巡る絶望の終着点なのだ。ここより下はない。この小説の深みはここで決まっているのだ。小説を評価する基準として、小説のリズムという考え方がある。リズムを予測できる未来と定義するなら、この予言が小説のリズムを形作っている。これより後の展開は、予言の達成か、またはそれを裏切るか。二つに一つしかない。

 実際の絵と大江の文章を見比べてみると、大江の描写になくて、絵には描かれているものがある。それはペストの精の足の間にいる羽の生えた天使の描写である。なぜ天使の描写が大江の文章から省かれているのか?その理由を解き明かすために、このブレイクの絵を調べていきたい。


 2.3 『ペスト、長子の死』と出エジプト記

 ブレイクの『ペスト、長子の死』を説明するにあたって、まずその元ネタである出エジプト記を説明していきたい。出エジプト記は旧約聖書の2番目の書で、創世記の次に来る書である。主な内容は、預言者であるモーセが、エジプトで奴隷にされていたイスラエル人たちを引き連れエジプトを脱出するというものである。モーセはイスラエル人を解放すべくエジプト人の王ファラオと交渉を行うのだが、ファラオはなかなか受け入れない。この交渉の中で、ヤハウェはモーセの要求がヤハウェの命によるものだということの証にエジプトに対して様々な災いをもたらす。結局ファラオは十番目に行われる災害によってモーセの要求を受け入れることとなる。この十番目の災いは、ヤハウェがイスラエル人以外のエジプトのあらゆる長子、家畜の長子さえも皆殺しにするというもので、これがブレイクの『ペスト、長子の死』で扱われている災害となっている。

 旧約聖書ではイスラエル人たちはヤハウェがエジプトに災いを振り撒く際、家の入り口の二本の柱と鴨居に子羊の血を塗っておくことで、ヤハウェによる長子殺しがイスラエル人たち自身にまで振りかかるのを回避する。『ペスト、長子の死』の画面にはイスラエル人は出てきておらず、戸口にも血は塗られていないが、この天使が戸口の前に立っていることから家の中にいるイスラエル人を守る存在なのだろうと推測できる。そもそも出エジプト記の本文において天使は出てこずヤハウェが直接長子たちを殺してまわるのだが、6~7世紀の絵画ですでに剣を持った「死の天使」が長子を殺してまわるという描写が見られる。そのため19世紀初期のものである『ペスト、長子の死』に天使がいるのは珍しいことではない。しかし『ペスト、長子の死』の天使が「死の天使」であるかはわからない。この天使は剣を持っていないし、「死の天使」が担うべき殺戮の役割をペストの精に譲っているからだ。

 では一方ペストの方は一体どこから出てきたのだろうか。十番目の災いの場面でペストが出てくる絵が『ペスト、長子の死』以前に存在したかは私自身不勉強なためわからなかったが、広く知られたアイディアでないことは確かである。ヤハウェの五番目の災害として、疫病がエジプト人の家畜を殺し尽くすというものがあり、ブレイクはこのあたりに着想を得て、長子を殺すにあたり、殺戮を担う存在としてペストを持ち込んだのだろうと思われる。十番目の災いにペストを出すというアイディアはブレイク独自のアイディアである可能性がある。

 殺戮を担うペストの精と守護を担う天使、相反する役割を負っている二つは相争うかというと、そうでもない。画面を見てみれば分かる通り、この二つは対立の構図は作られていない。ペストと天使はどちらも中央に位置し正面方向を向いている。天使はまっすぐ正面を向いておりポーズも左右対称であるが、ペストは上半身を捻って前に向かせる形になっており視線も正面もしくは正面右方向あたりと定まらない感じである。これはペストが行っている殺戮という行為を鑑みれば、多少なりとも歪な印象をもたらすポーズの方がそぐわしいということなのかもしれない。いずれにせよ、彼らはヤハウェに遣わされたという点において同じ存在であり、天使と悪魔というような対立関係にはない。

 次に天使とペストの役割と関係性を考察していきたい。『ペスト、長子の死』の原題はPestilence: Death of The First Bornというものだが、このpestilenceはいわゆるペストを指し、ひいては伝染病、悪疫を指す言葉である。伝染病のもつ特性として対象を選ばない無差別性がある。ヤハウェの五番目の災いでは、疫病によりエジプト人の家畜は殺され、イスラエル人の家畜はヤハウェの加護によって守られた。では『ペスト、長子の死』ではどうなっているのか?ブレイクが描いたペストはエジプト人の長子だけを殺し、その他のエジプト人は殺していない。ペストの精が手心を加えていると考えてみることもできるが、ペストがそういう温情を持った存在だと考えるより、ペストは無差別な殺戮者だが、何らかの要因によってその他のエジプト人にまでその力が及んでいないと考える方がすっきりしている。「死の天使」の役割が、ペストと天使に分けられていることを鑑みれば、守護的な性格を持つ天使がペストと相対することで長子以外のエジプト人を守っているか、あるいは天使がペストを監督することでその他のエジプト人にまで被害が及ぶのを防いでいると考えることができる。どちらであろうと、ヤハウェの加護が天使を通して間接的にエジプト人まで及んでいるのに変わりはない。ヤハウェはエジプト人に被害を与えるだけでなく、保護もしているのだ。これは旧約聖書の選民性の色濃さを考えると、大きな改変である。しかし、ブレイクのキリスト教に対する考え方は、聖書を絶対視するような考え方と違い、ラディカルで大胆なものである。この手の改変というのはブレイクにはよくあるし、そこがブレイクの作品を面白くしている。

 そもそも、イスラエル人にとってはこの災いによってエジプトから解放されるわけであり、自分たちの喜びに比べれば、エジプト人の悲しみなど瑣末な出来事のはずである。殺される長子というのはエジプト人の長子であり、イスラエル人の長子ではないのだから。

 だがこの絵の画面にはイスラエル人の姿はなく、エジプト人の悲劇だけが強調される。ヤハウェの加護がエジプト人にも及んでいるのだという新しい視点を示すことで、わざわざエジプト人の悲劇を主題に持ってきたことの意義が達成されるのである。『ペスト、長子の死』は小説内では破滅のイメージを持っているが、本来の絵画の方では、救いの表現をも含んでいる。ここでは大江が言うような引用による多重的な表現が達成されているのである。

 これらの考察を踏まえた上で、なぜ、大江の『ペスト、長子の死』の文章から、天使の描写が省かれているのか、考察していきたい。

『ペスト、長子の死』に天使がいない状態というのを想像してみよう。ペストは、自分が殺した長子の家族の上に依然堂々と居続けており、そこにはペストの精が、更に長子の家族を殺すかもしれないという緊張感が生まれることとなる。ペストの精の表情は、次の獲物を狙い吟味する肉食獣のような、暴虐の予感に満ちたものに見えるかもしれない。次の瞬間には破綻するような一瞬の静寂が画面の雰囲気を支配するかもしれない。フォトショップで加工して天使を消してみてもいいが、面倒なのでやめる。こういった考察は、絵にのみ着目したからできることである。実際には題名に「Death of The First Born」という言葉があるために、そういう考察には至らないだろう。長子の家族の安全は題名の「Death of The First Born」によって担保されているわけだ。逆に言えば、「Death of The First Born」という長子のみが死ぬ状況を、絵的に表現するための道具立てが天使の存在なのだと考えることができる。『個人的な体験』の絵の描写も、天使がいないことによって、破滅的な雰囲気は増している。その効果のためだけに天使は外されていると考えてみることもできるが、より大きな、作品自体のテーマと関わる理由がある可能性を検討してみる。

 そのためにはまず、この小説の語り手の性質を考慮する必要がある。團野光晴(1996)はこの小説の語り手について次のように述べている。


 この作品の語り手はいわゆる三人称の語り手であって、肉体を持たない。原則としてこのタイプの語り手は、主人公及びこれを取り巻く状況を客観的に語る役割を持っているが、この作品の場合語り手の視点は唯一の例外箇所を除いてすべて主人公の視点と同一である。時折主人公の容貌や内面及び周辺の状況が客観的に描写されることがあっても、それらは主人公の自意識として解釈されるものばかりであり、原則として状況が主人公の意識を離れて語られることはない。このような語り方の下では、本来客観的に語られるべき状況が、主人公の主観の反映になってしまうのであり、逆に主人公の意識の変化が状況を変えてしまうことすら可能になっているのである。(10)


『ペスト、長子の死』の描写の場面も、語り手の視点と(バード)の視点が同一の場面である。語り手の視点は(バード)の主観の反映となっているため、天使は描写されない。ではどうして天使は抜け落ちているのか?テクストの視点となっている(バード)の頭に、天使の概念が抜け落ちてるから、天使が出てこないのか?いや、そんなことはない。小説内に天使が出てくる場面はいくつかあり、(バード)は天使と、天使がもたらしてくれる恩寵を求めてすらいる。しかし、『ペスト、長子の死』の描写においては天使の存在は抜け落ちているのだ。ではその天使が現れる小説内の他の場面を見ていってみよう。


 2.4 天使の引用と記述

 まず最初の天使は、小説の最初数ページの段階で、青年の顔の比喩として登場する。この段階ではまだ赤ん坊は生まれておらず、(バード)は自分の冒険旅行の夢が子供の存在で閉じてしまうことを予感しながら、妻の出産をそわそわと待ちうけている。そんな時に出会う青年の顔が「フラ・アンジェリコの受胎告知図の天使」と形容されている。ではその場面を前後含めて見てみよう。初め、(バード)は女装した若い男を大柄な女と誤認しているので、小説の語り手は(バード)の誤解に寄り添って青年を女と表現している。


 その時、ガラスの奥のほの昏い湖のなかを、どこか奇妙なところのある女が、(バード)に向かって近づいてきた。肩幅のがっしりした大女で、ガラスに映っている(バード)の頭の上にその顔がでるほどの背の高さだった。(バード)は背後から怪物に襲撃されたような気分で、つい身がまえながらふりかえった。女はかれのすぐ前に立ちどまって、穿鑿するように真剣な表情で、(バード)をしげしげと見つめていた。緊張した(バード)もまた、女を見かえした。一瞬あと、(バード)は女の眼の中の硬く尖った緊急なものが憂わしげな無関心の水に洗いさられるのを見た。女は(バード)にたいして、それがどような性質のものであるかは判然としないにしてもともかく一種の利害関係の()()()を発見しかけていたのだが、不意に、(バード)がその()()()にふさわしい対象ではないことに気づいたのだ。その時になって(バード)の方でもふさふさとカールした豊かすぎるほどの髪につつまれたフラ・アンジェリコの受胎告知図の天使みたいな顔の異常、とくに上脣に剃りのこされた数本の髭を見出した。それはすさまじい厚化粧の壁をつらぬいてとびだし、たよりなげに震えている。

「やあ!」と大女は闊達に響く若い男の声で、軽率な失敗に自分自身閉口しているといった挨拶をした。それは感じがよかった。

「やあ!」と(バード)は急いで微笑して、これもかれを鳥じみた印象にする属性のひとつの、いくらか嗄れた甲高い声で挨拶をかえした。(11)


 (バード)は女装した若い男を女だと思っていたのだが、その顔の剃り残しの髭と彼の挨拶によって、自分の誤解に気づく。その若い男の顔を形容する際「フラ・アンジェリコの受胎告知図の天使」という比喩が用いられている。その印象は剃り残された髭によって害されているわけだが、(バード)にとって、受胎告知図の天使の印象を打ち消してしまうほどではない。

 この場面に受胎告知図の天使を出し、またその印象に綻びを与えている意図というのは明白である。これから出産を待ちうける(バード)に、受胎告知という華々しい祝福がもたらされることを予感させ、そしてその祝福が失敗することで、これから(バード)の身に待ちうける苦難を読者に予感させるという意図だ。(バード)は妻の出産を控えて、自分の未来に対する悲観を打ち消してくれるような事態に期待している。中途半端な天使のせいで(バード)の期待は裏切られるのだが、(バード)は一度は崩れかけた期待を、饒舌な語りによって回復させようとする。それが続く場面である。


 あいつは飾り窓に自分を映してみながら誰かを待ちうけている様子のおれを、性倒錯者と間違えたわけだ、と(バード)は考えた。それは不名誉な誤解だが、ふりかえったかれを見て、男娼が、ただちにその誤解に気がついた以上、かれの名誉は回復されたのである。そこで(バード)は、いまその滑稽感だけを楽しんでいた。やあ! というのはあの際じつにしっくりした挨拶ではないか。あいつは相当に知的な人間にちがいない。(バード)は大女に扮した若者に突発的な友情を感じた。今夜あの若者は、うまい具合に、性倒錯者を見つけだして鴨にすることができるだろうか? むしろ、おれが勇気をふるいおこして、かれについて行くべきだったかもしれない。(バード)は、自分があの男娼と二人で、どこかわけのわからないおかしな隅っこに入りこんでいったいったのだったら、と空想しながら、鋪道を渡りきって酒場や軽飲食店のならぶ盛り場の一郭へ入りこんで行った。あの男とおれとは、兄弟のように仲良く裸で寝そべって話しあうだろう。おれまで裸になっているのはあの男を窮屈な気持から救うためだ。おれはいま妻が出産しつつあるということをうちあけるだろう。またおれがずいぶん前からアフリカを旅行したいと考えており、その旅行のあと《アフリカの空》という冒険記を出版することが、夢のまた夢であることを話すだろう。そして、いったん妻が出産し、おれが家族の檻に閉じこめられたなら(現に結婚以来、おれはその檻のなかにいるのだが、まだ檻の蓋はひらいているようだった。しかし生れてくる子供がその蓋をガチリとおろしてしまうわけだ)おれにはもうアフリカへひとりで旅に出ることなどまったく不可能になるということを話すだろう。あの男は、おれを脅かしているノイローゼの種子ひと粒ひと粒を丹念にひろいあつめて理解してくれるにちがいない。なぜなら、自分の内部の歪みに忠実であろうとして、ついには女装して性倒錯の仲間をさがしもとめるにいたった、そういう若者は、無意識の深い奥底に根をはる不安や恐怖感に本当に鋭敏な眼と耳と心とをもった種族であろうからだ。(12)


 (バード)は青年に抱いた失望を挽回させるまで語り尽くす。最終的に性倒錯者というのが自分の悩みを打ち明けるのにぴったりな存在だと考察するまで至るのだが、実際に(バード)がこの若い男に打ち明け話をすることはない。ここで繰り広げられている語りは、聞き届けられない懺悔なのだ。

 (バード)は終盤にも、同性愛者であるかつての友人菊比古と出会い会話をするのだが、(バード)がここで述べられたような懺悔を行うことはない。(バード)が自分の正直な心をぶつけられるのは、火見子に対してだけだ。そのことを鑑みれば、必要なのは「無意識の深い奥底に根をはる不安や恐怖感に本当に鋭敏な眼と耳と心とをもった種族」であって、性倒錯者は絶対必要な道具立てではないことがわかる。ではなぜ、性倒錯者に受胎告知の天使の役割を負わせなければならないのか。受胎告知の基本を確認しながら考察していこう。

 フラ・アンジェリコ(1395~1455)の受胎告知は、新約聖書のルカの福音書のエピソードを元にして描かれる。その内容は大まかにいえば、処女であるマリアの下に天使ガブリエルが現れ、マリアが神の子を身ごもることを告げるというものだ。フラ・アンジェリコは受胎告知の絵をいくつか描いているが、『個人的な体験』ではそのどれを指しているのかははっきりしない。だが、議論を明確にするために、ある程度の見当はつけておきたい。候補として一番有力なのが、サンマルコ国立美術館の図版2のものである。


挿絵(By みてみん)

 図版2 フラ・アンジェリコ『受胎告知』1437-1446年、フラスコ画、フィレンツェ、サン・マルコ美術館


 理由としては三つある。一つはフラ・アンジェリコの受胎告知の中で一番代表的なものがこれであり、特に指定せずただ「フラ・アンジェリコの受胎告知図」と言った場合、この代表作を指していると考えるのが自然であるからだ。

 二つ目は、『個人的な体験』において表情を例える際に受胎告知図を引用していることに着目する。マリアと天使の表情や二人の心理的交錯に焦点を定めたものとして一番はっきりしているのが図版2のものであり、小説本文の引用が表情に着目した引用である以上この絵は引用元として有力である。ちなみに他の絵は、天使の後ろに聖人が立っていたり(図版3)、建物の屋外にアダムとイヴがいたり(図版4)、天使の口から漫画のように文字が飛び出していたりする(図版5)。表情を引用のイメージとして作品に持ち込むのなら、これらは雑然としていて不適切であると思われる。


挿絵(By みてみん)

 図版3 フラ・アンジェリコ『受胎告知』、1437年-1446年、フレスコ画、フィレンツェ、サン・マルコ美術館


挿絵(By みてみん)

 図版4 フラ・アンジェリコ『受胎告知』、1426年頃、テンペラ画、マドリード、プラド美術館


挿絵(By みてみん)

 図版5 フラ・アンジェリコ『受胎告知』、1430年頃、テンペラ画、コルトーナ、ディオチェザーノ美術館


 三つ目は、天使ガブリエルに話しかけられた際のマリアの状態に着目する。他の絵では、マリアの膝の上や手に本があり、読書中に天使に話しかけられたといった様子となっている。しかし図版2のこの絵ではそのような小道具はなく、瞑想中か何かの時に話しかけられたといった風情である。少なくとも何か作業中だったわけではないことは確かだ。女装の青年が現れた時、(バード)は飾り窓に自分を映したままもの思いにふけっていたのであり、この絵のシチュエーションともよく似ている。以上を持って図版2の受胎告知が引用元だと推理する。

 天使に性別はないが、ガブリエルは青年の姿をしているのが一般的であり、この絵も青年の姿で描かれている。青年とは言ってもその顔に髭を生やしたりはしていないし、髪も巻き毛がふさふさしており女性的な印象も受けるかもしれない。『個人的な体験』のような現代を舞台にこのような姿形の人物を登場させるには、女装者といった特殊な装いをしている人物として登場させるのが都合がいいのかもしれない。だが、これだけでは天使を性倒錯者として登場させる理由としては物足りない。そのためにもうひとつ、マリアが処女であることに着目する。そもそも(バード)は男であり処女マリアとは似ても似つかぬ存在だが、女装者に「鴨にされる」ことによって、(バード)は擬似的に、女性的な役割を負うことができる。性倒錯者の目線を借りるならば、男性経験のない(バード)を処女と擬することが出来る。つまり、(バード)を処女に擬するための機構が性倒錯者なのだ。滑稽な解釈だが、そのために性倒錯者を受胎告知の天使に例えた可能性は高いだろう。もちろん本文でも述べられている通り、性倒錯者が「無意識の深い奥底に根をはる不安や恐怖感に本当に鋭敏な眼と耳と心とをもった種族」であることも大きな理由の一つではあるだろうが。

 出産後の不安を抱える親にとって、生まれ出る子供が世の救い主となるという予言を受け取るというのは一つの理想であり、それは大きな救いなのだ。(バード)が期待しているそんな受胎告知的な救いは達成されないわけだが、その根本的な原因は男と女の出産に対する責任のとり方というのが違うことにある。

 そもそも男として出産の責任をとるというのは、なかなか難しい。極端なことを言ってしまえば、出産に関して男が頑張る必要というのはあまりないからだ。妻の精神や生活をサポートしたりという間接的なサポートはあるかもしれないが、結局のところはそれが限界なのだ。一方女性というのは、子供を胎内で育み出産した時点で子供に対する責任の半分くらいは果たしてしまっているものなのだ。場合によってはそれが全てなんて場合もあり得る。例えば王室の世継ぎを産んだりする場合はそうなのではないだろうか。もちろんマリアの場合はその典型だ。マリアがイエスを産んだ時点で、マリアのやるべきことというのは、ほぼ終わってしまっているのだ。

 (バード)の苦しみというのは、(バード)が男としてどうやって出産の責任をとったらいいのかよくわかっていないこと、そして漠然とそんな責任を取りたくないと思っているところから来ている。アフリカ旅行が云々かんぬんというのは、言い訳みたいなものなのだ。男というのは、たいてい多少なりともそういう悩みを抱えているわけなのだが、(バード)の場合、赤ん坊が障害を持って生まれたことで、最初からどーんとその苦しみの波がきているわけだ。たいていの場合は育てている途中で、この子はおれの思い描いていたような理想の子供ではないという、子の存在に対する親の承認の問題が持ち上がったりするのだが、(バード)の場合はいきなりクライマックスが来たような状態なのだ。

 性倒錯者による受胎告知が失敗に終わることは、後に来る受難を多少なりとも予告している。少なくとも、そう簡単に(バード)に救いがもたらされないことは明らかになるわけだ。

 次の天使を見ていこう。『個人的な体験』に出てくる天使はあと三つだが、うち二つは、指している人物たちが同じなので、実質二つである。(バード)は、赤んぼうの頭部を手術するため大学病院に赤んぼうを連れて行くことにするが、(バード)は出発する救急車の中で自分を見ている妊婦たちを見る。彼女たちは天使の群れのように見える。


 病院の二階の窓という窓、それにバルコンまでをいちめんにうずめて、起きだして顔を洗ったばかりなのだろう、白っぽい素肌を朝の光にさらした妊婦たちがこちらを見おろしている。彼女たちがそろって着こんでいる赤やブルーや水色の合成繊維のゆるやかな夜着。とくにバルコンに出ている妊婦たちは踝までとどく長い夜着を微風になぶらせて中空を舞う天使の群のようだ。(バード)は彼女たちの表情に不安と期待と、それに欣びまでを見出して眼をふせた。(13)


 つまりは野次馬であり、自分とは無関係なことだからこそ彼女たちは「(よろこ)び」まで見出して(バード)を見ている。天使という言葉は、彼女たちの残酷な無邪気さを表すためのものだ。別の場面に彼女たちは(バード)の回想の中で出てくる。この場面は、ミルクを減らすことを頼んだ医者に、赤んぼうの衰弱の経過を聞いた後、妻の見舞いをするために病院内を歩いている時のものである。


 (バード)とすれちがう女たちは意味もなく傲然と(バード)を見やり、(バード)はそのたびごとに気弱くうつむいた。救急車で出発する(バード)と奇怪な赤んぼうを、天使の群さながらの格好で見おくった女たち。彼女たちはあれ以後の(バード)の息子の経過すべてを知りつくしているのかもしれないという妄想が、(バード)を一触した。そして彼女たちは腹話術師みたいに喉の奥でこうささやいているかもしれない、ああ、あの赤んぼうは、いま能率的なコンベアシステムの嬰児殺戮工場に収容されて穏やかに衰弱死しつつあるわけね、それは、よかったですね!(14)


 フラ・アンジェリコの受胎告知の天使に期待されていたような、受容と祝福の気配をこの天使たちは持っていない。天使は(バード)を祝福しないし、むしろ好奇の目線で傷つける。そして(バード)の行いを監視し、責めたてる。特に前の引用は『ペスト、長子の死』の絵が登場する以前のものであり、天使のような妊婦たちを前に「眼をふせ」ているという描写は、『ペスト、長子の死』の天使の不在に関連があると思われる。なぜならば『ペスト、長子の死』の天使はまさに殺戮者たるペストを監視する存在であり、妊婦の天使の群れと似た役割を持っているからだ。彼女らを疎ましく感じていた(バード)の意識が、天使を排除したと考えるのは間違った推理ではないはずだ。天使を見ることができないのは、もう一つ、失望の描写と見ることができる。かつて望んでいた祝福への期待を今、(バード)は意識の隅へと追いやっている。意識から排除されたものは描かれることはないのだ。

 ついでに、最後に出てくる「天使」を見ていこう。それは、(バード)が赤ん坊の手術をしないこと「決断」し、赤ん坊を持って病院から出て行く場面に出てくる。


 本館の正面玄関にさしかかると、(バード)はそこに群れている外来患者たちの厖大な好奇心から、寝籠のなかの赤ん坊を自分の両肱だけで守りぬくことはまさに不可能だと感じた。(バード)は敵軍のメムバーがびっしり整列しているゴールにむかって、単身ラグビー・ボールをかかえて突入しようとする選手の気分だった。かれは躊躇しそれから思い出して、

「ぼくのズボンのポケットから帽子をとりだして、この頭のうしろを覆ってくれないか?」といった。

 かれの頼みに応じながら火見子が腕をおののかせるのを(バード)は見た。それから(バード)たちは、おしつけがましい微笑とともにかれらにすりよってくる他人どものなかをしゃにむに突破した。

「可愛い、赤ちゃん、天使みたい!」などと歌うようにいう中年女がいて、(バード)は軽蔑されたような気がしたが、それでも頭をさげたまま立ちどまらずに、一気にそこを通りぬけたのだった。(15)


 頭の瘤を帽子によって隠された赤ん坊を天使と形容するのは、皮肉だ。知らずに上っ面しか見ていないのなら不快だし、知っているのなら、あまりにも酷な言い回しだ。赤ん坊の実情を知る者にとっては、天使という比喩は痛烈なものとして響く。実態と言葉の距離によってこの表現は辛辣になる。ここでの天使は、純粋さや無垢さといったような一般的な天使のイメージを持っている。だがこの赤ん坊はそのイメージにはそぐわない。そこに悲しみがある。

 ここまで『個人的な体験』の中の全ての天使を見てきたが、これら全てが共通して表現しているものはなんだろうか?それは、天使の加護が(バード)の側にはないということだ。もっと押し進めて言えば、神の加護がないということだ。一つ一つ確認していこう。まず『ペスト、長子の死』では、天使がいなければ、長子の家族は、ペストの危機にさらされてしまう。つまり、加護のない状態になる。(バード)はそういう状態の絵を、自分に重ね合わせて見る。次のフラ・アンジェリコの受胎告知図の天使のイメージを託された青年は、(バード)が期待する祝福をもたらさない。三つ目の天使の比喩を持つ妊婦たちは、好奇の目線で(バード)を傷つけるだけだ。最後の赤ん坊は、天使が象徴するものとは遠いところにいる。この最後の天使の部分は、(バード)と赤ん坊が共に加護のない弱い立場にあることを示すもので、赤ん坊をまるっきり拒絶し自分を脅かす怪物として見ていた(バード)の意識の変化を示すものとなっている。

 このように天使の加護が(バード)の側にないことを示すことによって、大江は、神の沈黙、神の不在というテーマをこの小説に持ち込んでいることがわかる。


 3. 神の不在と救済のあり方

 西洋文学の大きな柱として、ギリシア・ローマ文学とキリスト教が挙げられるが、神の不在は特にキリスト教の方と密接にリンクするテーマである。災害などによって悲惨な目に遭う人間をなぜ神は救わないのか。救いをもたらさない神など、いないのと同じではないかというのが、このテーマの趣旨である。『個人的な体験』が大江文学の転機とみなされるのはこの西洋文学における大きなテーマを作品に取り込むことに成功したからに他ならない。

 この神の不在というテーマを扱った作家として日本では遠藤周作がいる。大江は遠藤と同じテーマを共有している。遠藤は直接的に神の不在というテーマに立ち向かったが、大江は間接的に立ち向かう。聖書の言葉を直接引用はしたりはせず、フラ・アンジェリコやウィリアム・ブレイクの宗教画の引用を通して、神の不在という概念を『個人的な体験』に持ち込んでいる。それも救済を描くために引用するのでなく、失敗や破滅を描くのに、聖書を引用する。天使を扱うというのも間接的である。天使というものが、人間と神の間に位置する、神との媒介者であると考えるなら、大江は天使を扱うことで神を扱っていると言える。そして大江は神の不在から人間はいかに救済されうるかまでを描いている。大江はその手腕が卓越していた。

 徹底して神の不在と向き合うことになる(バード)はいかにして救われるのか。(バード)は、破滅に近づくことで破滅を脱する。危機と相対することで、危機から脱する。一歩間違えればそのまま破滅しかねない、ぎりぎりの綱渡りをすることで、(バード)は救いを得る。多くの場面で危機への導き手を火見子は果たしている。彼女はファム・ファタール的な要素を持つ女だ。(バード)を破滅へと誘う火見子は一種悪魔的存在と言える。具体的に悪魔的な誘惑が存在することによって、(バード)はそこに抗う術を見つけることができる。形無きものに抗うことは常に難しい。危機を具体化させ、浮かび上がらせる力を持つ者が悪魔だというのなら、(バード)の救済は、まさしく悪魔的な存在である火見子の力を借りて達成される。そのことが端的に表れているのが、物語終盤における火見子と(バード)の一連の問答である。


「ぼくは赤んぼうを大学病院につれ戻して手術をうけさせることにした。ぼくはもう逃げまわることをやめた」といった。

「あなたは逃げまわっていないじゃない?どうしたの、(バード)。いまさら手術などと」と火見子が訝かしげに問いかえした。

「あの赤んぼうが生れた朝から今までずっと、ぼくは逃げまわっていたんだ」と(バード)は確信をこめていった。

「いま、あなたは、自分の手とわたしの手を汚して赤んぼうを殺しつつあるのよ。それは逃げまわっていることじゃないでしょう?そしてわたしたちはアフリカへ出発するんだから!」

「いや、ぼくはあの堕胎医に赤んぼうをまかせてここへ逃げてきたんだ」と(バード)は頑強にいった。

「そして逃げつづけ、逃げのびてゆく最後の土地としてアフリカを思いえがいていたんだ。きみ自身も、やはり逃げているのさ。公金拐帯犯と一緒に逃げているキャバレーの女みたいなものにすぎないよ」

「わたしは自分の手を汚して立ちむかっているわ、逃げてはいないわ」と火見子がヒステリー症状の深みにおちこみながら叫んだ。(中略)

「赤んぼうの怪物から逃げだすかわりに、正面から立ちむかう欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつしかない。始めからわかっていたことだが、ぼくはそれを認める勇気に欠けていたんだ」

(バード)、赤ちゃんはいま肺炎をおこしかけているのよ、大学病院へつれ戻すにしても、途中の車のなかで赤ちゃんは死んでしまうわ。そうなれば、あなたは逮捕されるほかない」

「そういうことになれば、それこそぼくが自分の手で直接に殺したわけだ。ぼくは逮捕されてしかるべきだ。ぼくは責任をとるだろう」(中略)

「手術して赤ちゃんの生命を救ったとしても、それがなにになるの?(バード)。かれは植物的な存在でしかないといったでしょう?あなたは自分自身を不幸にするばかりか、この世界にとってまったく無意味な存在をひとつ生きのびさせることになるだけよ。それが赤ちゃんのためだとでも考えるの?(バード)

「それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ」と(バード)はいった。

 しかし火見子はなお、理解しようとしなかった。彼女は疑わしげに、あるいは挑むように、(バード)を睨みつけ、眼いっぱいに湧きおこる涙をものともせず薄笑いをうかべようとつとめながら、

「植物みたいな機能の赤んぼうをむりやり、生きつづけさせるのが、(バード)の新しく獲得したヒューマニズム?」と嘲弄した。

「ぼくは逃げまわって責任を回避しつづける男でなくなりたいだけだ」と(バード)は屈せずいった。(16)


 火見子が返す言葉というのは、基本的に(バード)が抱えていた思考の反映である。そのことから(バード)の問題を真正面から受け止め、表現してくれたのが彼女だとわかる。自分の思考の矛盾を切り分け、一方の役割を相手に担ってもらうというのが、(バード)を回復させたやり方なのである。風邪をうつして自分は治るみたいなものかもしれない。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』でも、こういった感情の引き受け手のような人が出てくる。加納クレタと加納マルタというのがそのキャラクターの名前である。彼女らの演ずる役割は、火見子の演ずる役割とよく似ている。

 神の不在、あるいは沈黙。厳密には神の救済の不在。西洋というのは、神という救済の不在を人間自らの手によって克服することによって発展してきた。科学の発展も神という道具立てを不要にするために発展してきた。神による救いなどないというところから出発している点において、『個人的な体験』はそれと似ている。それがこの作品を強力なものにしている。

 障害児は、神に愛されなかった子供だ、という考え方がある。神の寵愛の不在。だとしたら、いったいだれが(バード)の赤ん坊を保護し、守ってやれるのか。それは父親だ。赤ん坊の命が自分の手の内にあるとはっきり自覚できた時、我が子の命が自分の意志によって左右されるのだと理解できた時、(バード)は子供を受け入れ守るという選択をすることができるのだ。


 おわりに

 大江は想像力を発揮するのに、引用という手法を好んできた。その手法は、表現を二重三重にして、小説の様ざまなレヴェルでの文体を多様にするために行われてきた。

 大江文学の転機となった作品である『個人的な体験』では、ウィリアム・ブレイクの『ペスト、長子の死』の引用が物語全体の展開を規定する役割を負っている。(バード)をめぐる災難の最悪の状態がどういうものなのかがここで示されている。

 この絵が提示される前段階として、「地獄の格言」からの引用がある。「赤んぼうは揺籠のなかで殺したほうがいい。まだ動きはじめない欲望を育てあげてしまうことになるよりも」という火見子の訳が、『ペスト、長子の死』とリンクして効果をあげている。

 また『ペスト、長子の死』は絵を引用することの利点を見事に生かしている。小説に登場する絵が、架空の絵である場合と現実の絵を引用している場合の違いを考えてみよう。架空の絵を小説の中で提示する場合、言葉の描写が全てとなる。一方現実の絵を引用する際、描写されない部分が必ず出てくる。そこに遊びが生まれる。特に、一人称の小説では、語り部たる主人公に見えない、意識から外している場所を提示することが可能となる。『個人的な体験』では一人称ではなく三人称であるが、この小説の三人称は視点をほぼ常に(バード)という一人の人間に沿わせているため問題ない。『ペスト、長子の死』では記述されない部分が小説の豊かさを作っている。

『ペスト、長子の死』は出エジプト記と比較されることによって、天使の図像の意味合いが明らかになる。それは、エジプト人がヤハウェに苦難を与えられていると同時に保護もされているということだ。つまり、試練が与えられているということ。

『個人的な体験』の『ペスト、長子の死』に天使の図像が欠けている理由について探るため、その他の天使の記述について調べると、それは(バード)にとっての天使の不在、ひいては神の不在を意味することがわかった。

 神の不在から、いかに救済されるかというのを示したのが『個人的な体験』であり、西洋文学の大きなテーマを摂取したことが大江文学が転機を迎える要因となったことが明らかとなった。

 西洋文学において神の不在というテーマがいかに中心的な役割を果たしてきたか。その掘り下げが甘いものなってしまったことを申し訳なく思う。力量不足のため、西洋における無神論の歴史を体系的に論ずることはできなかった。そして無神論の歴史からいかに大江文学につながっているのかを示すこともできなかった。私が言えるのは、大江文学が神の不在という西洋文学の中心的なテーマに接続したということ、そしてそれによって大江文学が脱皮を果たしたということだけである。火見子についてはちらりと出しただけで、あまり言及はしなかったが、『個人的な体験』の大きな柱になっているキャラクターである。ただ先行研究の方も充実しているので、新たに言うべきことというのはあまりなかった。それゆえ紙面を割かなかったのだが、もう少し紙面を割いて書いてもよかったかもしれない。

引用

(1)大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫、2001年、p.111

(2)大江健三郎ほか(出演)「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」『日曜美術館』NHK教育テレビ、2013年5月5日放送

(3)大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫、2001年、p.99

(4)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.329

(5)大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮文庫、1995年、p.115-116

(6)ウィリアム・ブレイク『ブレイク全著作1』(梅津濟美訳)名古屋大学出版会、1989、p285

(7)松島正一「ブレイクと近代日本 : 柳宗悦と大江健三郎の場合」学習院大学『研究年報』第42号、1995年、p167

(8)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.329-330

(9)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.330

(10)團野光晴「『個人的な体験』試論」金沢大学国語国文学会『金沢大学国語国文』第21号、1996年、p106

(11)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.293-294

(12)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.294-295

(13)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.311

(14)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.373

(15)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.424

(16)大江健三郎『大江健三郎小説 2』p.435-437


参考文献

『大江健三郎小説』全十巻、新潮社、1996-1997年

青山恵子「日本におけるウィリアム・ブレイク受容の一断面(1) : 大江健三郎そして明治・大正期のブレイク移入」学習院女子大学『学習院女子短期大学紀要』第32号、1994年

飯塚香苗「大江健三郎『個人的な体験』論--(バード)の決断とモラルをめぐって」東洋大学大学院『東洋大学大学院紀要』第38号、2001年

大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫、2001年

ウィリアム・ブレイク『ブレイク全著作1』(梅津濟美訳)名古屋大学出版会、1989年(翻訳の底本はGeoffrey Keynes, ed., The Complete Writings of William Blake with All the Variant Readings, The Nonesuch Press, 1957.

David Erdman, ed., The Complete Poetry and Prose of William Blake, Newly Revised Edition, Anchor Books, 1982.

G. E. Bentley, Jr, ed., William Blake’s Writing, 2vols., Oxford at the Clarendon Press, 1978)

旧約聖書翻訳委員会 訳『旧約聖書 2 出エジプト記 レビ記』(木幡藤子・山我哲雄訳)岩波書店、2000年

小林恵子「大江健三郎とブレイク-1-」立命館大学人文学会『立命館文學』第506号、1988年5月

小林恵子「大江健三郎とブレイク-2-」立命館大学人文学会『立命館文學』第517号、1990年7月

小林恵子「大江健三郎とブレイク(3)」立命館大学人文学会『立命館文學』第551号、1997年11月

小林恵子「大江健三郎とブレイク」立命館大学人文学会『立命館文學』第557号、1998年11月

小林恵子「大江健三郎とブレイク(5)」立命館大学人文学会『立命館文學』第567号、 2001年2月

小林恵子「大江健三郎とブレイク(6)二. : 蚤の幽霊」立命館大学『立命館文學』第620号、2011年2月

Scott M. Langston, Exodus through the centuries, Wiley-Blackwell, 2005

團野光晴「『個人的な体験』試論」金沢大学国語国文学会『金沢大学国語国文』第21号、1996年

松島正一編『対訳ブレイク詩集』岩波文庫、2004年(翻訳の底本はDavid Bindman, ed., William Blake’s Illuminated Books, 6 vols., Tate Gallery, 1991-1995.

David Erdman, ed., and Harold Bloom, commentary, The Complete Poetry and Prose of William Blake, University of California, 1965 ; rev. 1982.

Geoffrey Keynes, ed., Blake : Complete Writings, Oxford, 1957 ; 1974.

[The Noel Douglas Replica] William Blake : poetical Sketches, Noel Douglas, 1926.)

松島正一「ブレイクの<誤読>-大江健三郎のブレイク受容まで」国学院大学出版部『国学院雑誌』第85号、1984年10月

松島正一「ブレイクと近代日本-柳宗悦と大江健三郎の場合」学習院大学『研究年報』第42号、1995年

矢代幸雄『受胎告知』創元社、1952年

渡邊健治『受胎告知の図像学』共立女子学園、1966年

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ