知らなかったけれど、わたくしヤンデレだったようです
何度も何度も浮気をくりかえす夫。
何度も何度も傷つけられながら、それでもずっと許してきた。
『もう二度と浮気しない』
『大切なのはお前なんだ』
そんな言葉、きっと物語の中にしかない。
だって、一度たりともそんなことは言われなかった。浮気を責めても、優しく受け止めてみても。あなたは私を愛しているって言わなかった。別れたくないって言わなかった。
「もう無理だ。お前を好きじゃない」
あなたから出るのはいつも私を責める言葉。
「ここにいるのがつらい」
いつだって理由を私に押し付ける。
「こんな家、まったく楽しくない。全部お前のせいだ。子供もかわいくない。お前がいると思うと、吐きそうになる」
この台詞たちを聞くのは、もう何度目だろう。
あなたはいつもこうして私を責め立てる。
……ねえ? 悪いのは私なの? あなたが浮気をするのは、家庭をないがしろにするのは、全部私のせいなの?
あなたのいつもの癇癪に、ただ黙って耐える。
……私が何をしたんだろう。ただ家にいて、きちんとした暮らしを守っていただけなのに。私が目を吊り上げて叱っているのはあなたの子供なのに。
ねえ? あなたが何度も浮気をくりかえすのは、本当に私のせいですか?
あなたの行動はあなたの責任ではないのですか?
……そんなあなたをいつでも許し、支えた私が悪いのでしょうか?
そんなあなたを今でも許したくて、愛したくて、愛されたくてたまらない私が悪いのでしょうか?
周りの人に言えば、私とあなたの関係は終わっていると思うだろう。
あなたはすぐに出て行って、あっけなく離婚して終わりだ、と。
……でも、こんなあなたを引き止める方法を私は知っている。
泣いて縋って、行かないでと言えばいい。あなたはなにもしなくていいから、ただここにいて欲しいと懇願すればいい。
自分で自分を粉々に壊して、自分の守ってきた家庭を自分で否定すればいい。
ダメな家庭だった。こんな家庭だから、あなたは辛いし、子供だってかわいいと思えなかった。これから私がもっとがんばるから、ここにいて欲しい、と。
するとあなたはこう言うの。
「もう無理だ。一年前なら良かった。でも、もう無理だ」
そうね。今は浮気相手と盛り上がっているところだものね。 だから、今はそうやって無理やり理由を作り、私とはやっていけないと突きつける。
……でも、また明日もこの家に帰ってくるの。
だから、今日だって、そう言えば良かった。
精いっぱいの愛を伝えて、それをあっけなく捨てられて、それでも笑って過ごして、嵐が過ぎ去るのを待つ。
ただ毎日あなたに怯え、あなたが出て行くのではないかと震え、帰ってきたあなたを無理やりの笑顔でもてなして……。
『行かないで』
もう言葉が出ない。
『あなたを愛している』
もう伝えることができない。
『私を愛して』
いつも、いつも。
届かない。
――だから、あなたの名前が呼べなくて。
「ヘンリー……」
あなたの代わりに、私の護衛をしてくれているヘンリーの名前を呼ぶ。
扉の外に待機していた彼は私の呼び声に応えて、すぐに部屋へと入ってくる。夫婦二人だけで話をすると思っていた夫はわかりやすく狼狽した。
「なんだ、無礼だぞ」
次期伯爵として、雇い主として、ヘンリーに冷たい声をかける。けれど、ヘンリーは夫を見ることはなく、まっすぐに私を見ていた。
「ヘンリー。捕まえて」
「なっ」
私の言葉にヘンリーは素早く動く。革張りのソファに座っていた夫はあっという間に後ろ手に拘束され、上半身を革張りの座面へと抑えつけられた。
「くっ、なにを、して」
革に強く顔を抑えつけられているため、夫の声がくぐもる。なんだかそれがひどく心地よくて、思わずふふっと笑ってしまった。
「ねえ、あなた。あなたの持っているものは本当にあなたのものですか?」
言葉にすれば、思ったよりも平坦な声が出た。どうやら今は怒りと言うよりは、もっと違う何かの感情に支配されているらしい。
「私の用意した服を着て、私が健康を考えて作らせている料理を食べて、私の選んだ馬車で移動する。そして、どこかの女に会って、私の足りないものを二人であげつらって、私と女を比べて、女のほうがいいと二人で納得するのでしょう?」
私の悪いところを二人であげつらえば、それはさも真実の愛のようだろう。女だって本気でそう思っているかもしれない。自分は彼を救う、女神である、と。
『私はそんなことしない』『私はあなたを大事にする』必要なのはその言葉だけ。具体的に何か行動をする必要などないのだ。なんてお手軽な真実の愛だろう。
「あなた方が真実の愛に没頭している間、私はあなたの子供を育て、あなたの身の回りを整理し、あなたが休めるように家の者に指示を出すのです。あなたはそんな家に帰ってきて、悠々と夕食を取り、何一つ家のこともせず、こんな家はいやだ、お前が悪いと私におっしゃる」
私は真実の愛の障害物。夫を不幸にする悪い妻。
「……男爵家の次男であるあなたがなぜそんなに高価な服を着られると思いますか? なぜ健康的な肉体と容姿を保っていられると思いますか? 周りから侮られることなく過ごし、帰ってくることができるのはなぜだと思いますか?」
それは次期伯爵の彼にとっては当たり前のものだったのだろう。それは当然のように受け取るべきもので、それらすべては夫のものなのだ。
「この屋敷も、盤石な地位も、豊富な資金も……。すべては伯爵家の一人娘である私のものです。父や母があなたに優しいのも私が選んだのがあなたであったから。愛されているのはあなたではなく、私なのです」
今まで伝えなかったことをあえて話す。今持っているもの、それは夫のものではない、と明確に線を引く。
「……私はあなたが伯爵家にふさわしいかどうかなどどうでもよかった」
伯爵家の一人娘に男爵家の次男。
それはとても驚かれたし、止める人は何人もいた。けれど、私は夫がよかった。ただ一人、このソファに押し付けられているこの人が。
「あなたが私を愛してくれるなら……私はすべてをあなたに捧げても構わなかったのです」
私の持っているもの、それがすべてあなたのものになってもよかった。あなたと二人、笑って暮らしていければそれでよかった。
「浮気をされるのは悲しいです。他の女がいるなんて、怒りで目の前が真っ赤になる。……けれど、あなたが私を愛してくれるのなら、私はあなたをすべて許します」
そう。許してきたの。
あなたはきっと私を愛している、と。不器用なあなたは優しい言葉をくれないけれど、それは私に甘えているからだろう、と。
――言い聞かせて
――信じて
――必死にいいところを数えて
「……けれど、少し疲れました」
小さく漏れた言葉は少し掠れていた。
「出て行く、出て行くと脅され、それでも変わらない日々。あなたがどこかに行くかもしれない……でも、今日はいてくれた。では明日は? 明後日は? あなたをこのまま自由にしていいんでしょうか? あなたがどこかに行く日は明日かもしれないのに」
心が苦しいの。
逃げたくて、でも何から逃げていいかもわからなくて……。
だから、私は行動に移すことにした。
「ヘンリー。地下牢へ」
私の言葉にヘンリーが夫の体を無理やり起こす。ようやく口が自由に動くようになった夫は怯えた目をして、けれど精いっぱいの虚勢を張った。
「こんなことをしても何もならない! お前が悪い! お前が!」
「はい。わかりました」
夫のいつもの言葉に、私もいつも通りの声音で返す。
「悪いのは私で構いません。私には家も子供も地位も富もあります。この家に仕えてくれている者たちもあなたに仕えているわけではありませんから。……あなたにはなにもないでしょう? 父母はすでになく、男爵家を継いだ兄とは絶縁状態。浮気相手はごろごろといますが、ご心配には及びません。きっとすぐに忘れてくれますから」
そして、絶句する夫にふふっと笑った。
「それに、今回のことでようやく諦め……いいえ、自分のよくないところがわかったのです。……自分のすべてを捧げれば、懸命に努力をすれば、愛される私になれると思っていました。……でも、無理だった」
努力したって叶わないものは叶わない。
あなたはやはりあなたのままで、永遠に私を悪者と呼び続ける。
「他の方に目を向けようと思います。……初恋は終わってしまいますが、そうやって思い続けなくてもいい、と自分を許したいのです」
他の人に恋をしたっていい。
自分の人生なんだから、やり直したっていいの。
「地下牢にはなるべく行かないようにします。会えばまた好きな気持ちがよみがえってしまいますから……」
「な、なら、地下牢に入れる必要なんてないだろう! 俺と離婚をすればいいだけだ!」
「……申し訳ありません。いろいろと考えてみたのです。あなたを諦めるのならば、あなたの幸せを願って、そっと手を離すべきかもしれない。離婚をして、私は私の道を生きればいいだろうって」
なんて健気なんだろう。なんて美しい妻だろう。
私もそんな風になりたかった。
「でも、それってあなたに都合がよすぎませんか?」
右手を口元に当てれば、笑い声のせいで、肩が小刻みに揺れる。
おかしくて、笑える。
「私は悪者ですから。もう今更あなたに好かれる必要はない。あなたがそうおっしゃった。何度も何度も私を傷つけながら、私が悪いとおっしゃった。ですから、私はこのままでいいと思ったのです」
そう。あなたの幸せなんて願わない。あなたが私の知らないところで生きていくなんて許さない。あなたは私を悪者と呼んで、そのままずっといればいい。
「……あなたはかわいそうですね。私でなければ、女癖が悪いあなたでもころころと相手を変えながら、適当に生きていけたかもしれないのに。私が何度も許すから、あなたはずっと私のそばから離れられず、そして、暗いところで一生を終えるのです」
私の言葉にいよいよ恐れをなした夫がヘンリーから逃げようともがきだす。けれど、鍛え上げたヘンリーに、このところ、不摂生のせいでふくよかになってきた夫がかなうはずもない。
だから、私は安心させてあげようとにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。他に好きな人ができれば、ちゃんとあなたを殺してあげますから」
それを言い放てば、夫は更に暴れる。
けれどヘンリーは意に介した様子もなく、そのまま夫を談話室の外へと引きずり出して行った。
一人、部屋に残った私は、あまりの爽快感に相変わらず肩を揺らしながら笑う。
――最後の言葉。
あれは今まで私が打ちのめされてきた理論だ。
相手と向き合い努力をするのではない。自分だけが苦しみから逃げて、そのくせ上から目線で相手の苦しみを無視をする。
これは確かに居心地がいい。相手はいつもそばにいる。その上で他の人を探しながら、いらなくなったら捨てればいいのだ。自分の心は守ったまま、また別の預け先を見つけられる。
そうして、肩を揺らしていたはずなのに、気づけばポロリと涙が出ていた。そして、後から後から続いて出てくる。
「……いいの。これでいいのよ」
……好きだったのだから。
失恋すれば、誰だって涙が出る。それはたまたま夫であったけれど、これまでの努力が無駄になったわけではない。
家もある、子供もいる。健康な体と支えてくれる人がいるのだから、私はまだまだやりなおせる。
これから夫が失踪したことで、少しごたつくかもしれないが、それはみんなで団結すれば乗り越えていけるだろう。
前向きに。前向きに。
やってしまったことは戻らない。起こってしまったことは変えられない。傷つけられた心も失恋の痛みもなくならない。
……それでも、私は私の道を進む。
――だから。
「早く殺せるようにしないと」
あんな夫いらない、と心から言える私になれるように。
5/22活動報告にヘンリー視点の地下牢での小話をupしました