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6

 日は容赦なく過ぎ去っていく。

 遠くそびえる山上の雪はいまだに白いままだったけれど、町は一足先に春の訪れを祝い始める。城に吹き込む風も、町の賑わいをはらんでいるせいか、こころなしか柔らかく思える。

 町のあちこちににょっきり伸びた尖塔からたなびくのはかぼちゃ色の旗。ほかにも至る屋根から旗が現われ、細かい路地の両側にも旗が突き出ていることだろう。城の塔にも、城壁にも、城門にもかぼちゃ色の旗と、この伯領の象徴、威嚇しあう熊と鷲が描かれた旗が風に揺れる。

 ほかの人々と同じく、わたしも朝から忙しく動き回っていた。城に滞在する大勢の客人の好みや習慣に合わせた世話を指示し、彼らが望むとあれば、なごやかな歓談を催し、狩りの手配をして、伯家直轄林を解放する。直轄林には森林長官が常駐し、密漁の徹底と、森林の保護、管理を行っている。したがってその解放にはしかるべき文書をしたためなければならなかった。略式にできればそれに越したことはないのだが、今の森林長官はひどく頑固で融通の利かぬ男だから、そういうわけにはいかないのだ。

 しかし、救えないことに、この「頑固で融通が利かない」男を信頼できると見込んで取り立てたのがわたしなのだから、このぐらいの不便は許容するしかない。


「ベラ、これを伝令係に渡して頂戴」


 ベラに長々しい独り言を話しておきつつ、羽ペンは羊皮紙の上を滑らし、蜜蠟で封をして渡す。彼女は一礼して出ていった。

 わたしはすでに外出着に着替えていた。赤のビロードの生地を用い、鈴蘭の花のように袖をふわりと膨らませたドレス。髪は娘時代のように、自然のままに背中に流し。宝飾品もいくつか身に付けた。

 今日こそが祈年祭の初日。今年一年の豊穣を願って、五日間もの間、人々は大いに騒いで、飲んで、踊る。

 模擬決闘の会場に向かう。わたしは必然的にもっともいい席があてがわれるに違いなく、そのために甲冑姿の男たちが血に染まるのを間近で見なければならない。あまり良い気はしなかった。落馬や骨折が当たり前。不具の身になる者まであらわれてしまうのだから、わたしがあの、男たちががさがさと音を鳴らしてぶつかり合う荒っぽい催しに嫌気がさしてしまうのも道理だろう。


「イゾルデ様」


 扉向こうに控えさせておいた侍女がそっとわたしの名を呼んだ。もう出かける刻限だろうか。


「騎士オーウェンがお越しです」


 眉根を寄せたのが自分でもわかった。それでも会わないわけにはいかなかった。模擬決闘は二手に別れての集団戦で行われるのだが、その一方の将をオーウェンが務めることとなっていたのだ。

入りなさい、と拒絶の意を心のうちに秘めて、外に告げる。

現われたオーウェンは銀色の甲冑に赤いマントを羽織った堂々たる騎士姿。片脇に抱えられた兜の重さを微塵も感じさせない体格は、将を張るのにふさわしい。……そう、彼を将にしなければかえって不自然なほどに。


「どうしましたか?」

「今年も、女伯さまの『証』をお譲りくださいますよう、お願いに参りました」


 『証』。もう、何年になるだろうか、この男が初めての模擬決闘を前に、それをわたしに欲してから。

 『証』というのは一種の習慣だ。騎士が戦いに赴く際、敬愛する貴婦人が身につけているものを譲ってもらい、戦中は肌身離さず持っておく。一種のまじないに近く、貴婦人が騎士に対して安全と無事をこめて贈る。オーウェンからしたら、近くに適当に高貴な貴婦人がいないものだから、わたしのご機嫌取りのついでの、形式的なものだろう。

 今まで送ってきたものは指輪やハンカチなど、その年によってまちまちで――実際はその時手近にあったものだった。しかしまあ、毎年のごとく「負けなさい」と念じながら贈っていたのに、連戦連勝、かすり傷一つつかないで颯爽と勝利を手にしてしまうのはどういうわけだろう、わたしの願いはそこまで浅い気持ちで言っているわけではないのに。

 青い目はわたしをじっと見つめ、唇はどこか柔らかそうに笑んでいる。楽しいことでもあったのだろうか? 彼の顔を見ていると、わたしはその顔を歪めさせたくなった。皮肉気に、こう返してみた。


「今年も、ですか、オーウェン。祈りをこめてもらう相手はわたしの他にもいるでしょう。『証』は確かに貴婦人が与えるものですが、例外的とはいえ配偶者でも可能でしょう? 婚約者の方に頼んだら? マクスウェルの孫娘とだなんて、いい縁談なのですから、今までわたしにねだってきたようにして、機嫌取りをなさい」


 案の定、彼の表情は一瞬固まった。最近婚約を結んだ娘の話題は、彼にとっては触れられたくないことだったに違いない。


「機嫌取りだなんて」


 オーウェンは何事もなかったかのような顔をしておいて、


「私は親愛なる女伯さまへの忠誠を示し、その名の下で勝利を収めたい、と思うのみ。それではいけないのでしょうか」


 この男はきれいごとばかりを並べたがる。だから、この男が嫌いなのだ。本音を微塵も感じさせない、うわべばかりの嘘つき。

 だがそんなことは口に出せるわけもなく。その代わり、椅子から立ち上がると左袖につけられたボタンをむしって、オーウェンの手に落とした。


「わたしの名の下に、というぐらいなのですから、その重みはわかっているのでしょうね?」


 そう耳に囁いてみれば、彼の下向きの横顔には、笑みが現われていた。


「十分に。あなたの名に恥じぬ戦いを誓いましょう」


 彼は恋人に対するように囁いた。




 入れ替わりにやってきたのは、麗しのわが叔父だ。


「今年もご機嫌ななめかな、イゾルデ? わたしの晴れの舞台に不愛想な顔を見せないでおくれ」


 ゆるく束ねられた金の髪が馬の尻尾のように揺れていた。

 叔父は楔帷子を着ているぐらいで、全体に見て薄い装備に思えた。腰から下げた大きな剣が大層不釣合いだったけれど。


「本職が聖職者にも関わらず、模擬決闘に参加できるのは先々代の養子だった叔父様ぐらいでしょうね」


 確かに叔父は司教という地位にあるが、その実叔父のいる修道会は「戦う修道士」を数多く輩出する武闘派集団として知られる。南方の海に出る海賊、領地を侵犯する異民族や皇帝配下の領主たちから自分たちの土地とそこにすむ人々とを守るために武装化したのが修道会のはじまりだ。所属した修道士は、少年時代の大半を厳しい武芸の訓練に費やし、「修道騎士」という称号を与えられる。現在の教皇を出しているほど、その影響力は大きいのだ。    

叔父はその修道会で高い地位についている。そのため父は彼に一目おき、彼に甘く、彼を通じて教皇との円滑な関係の維持を図ったのだ。そのための、特権。


「褒めてくれているのかな。……さあ、イゾルデ。私に『証』をおくれ」


 結局訪問の理由はそれだったらしい。

 わたしは左腕が気になった。先ほど一つ欠けてしまったボタンのことを。


「叔父様」


 叔父を見上げ、やんわりと微笑んだ。


「差し上げるのは簡単ですが、わたしは一人の女のためではなく、神聖で、清廉な神の代弁者たるために戦う叔父様を見たく思います。その剣は神のために捧げられた、聖なるもの。わたしのものを身につけてしまったら、周囲にいる者が叔父様を信仰心がないのだと、見損なってしまいます」

「……あなたも断るのが得意になったね。イゾルデ。私が知らないとでも思っていたのかい? オーウェンには与えているではないか」


 あくまでも柔らかく、叔父はわたしの顔を覗き込もうとする。その眼はどこか仄暗い欲望が垣間見えた。


「オーウェンは将です。 それにわが伯家の騎士だから、求められれば与えるのが当然でしょう」


 違いますか、と叔父に問い返してみれば、確かにそれもそうだというふうに頷く。けれど、艶のある溜息をついた。


「幼いころのあなたはもっと無邪気で何の疑いもせずに差し出していただろうに。美しい女性に成長するうちに鉄の意志を身につけていたのだね。……おろかでなかったことがあなたの不幸だよ」

「不幸?」


 叔父のいうことがわからず、反芻する。

 彼はわたしの手を取って、恭しく唇を近づける。ぴくりとわたしの手が跳ねたように見えたがそれはまさに他人事のように思えた。


「私を見くびってお思いか、イゾルデ。あなたを手に入れるためなら、手段を厭うつもりはない。あなたがオーウェンを選ぶ、あるいはオーウェンがあなたを望んでいるならば……私とて、黙っていられまいよ」


 この上もなく面倒だ、と言いたげな顔がすうっと音を立てて冷たく凍っていったように見えた。


「さて――あなたが逃げられるのはここまでだ。次に顔を合わせた時にはあなたはわたしの意のままになるのだよ」


 叔父は謎めいた言葉を残してその場を去って行った。

 彼は何を仕掛けているのか――わたしは袋小路に追い詰められたような、あるいは後ろから冷たい剣先をあてられたような背筋の寒さを感じたのだった。



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