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お忍びから戻り、自室で外套のフードを取り去ったところ、こちらへ頭を下げているベラに気が付く。侍女のベラは気配を消すのがうまいのだ。
「いたのですね、ベラ。急に出かけてごめんなさい。苦労をかけましたね」
侍女のベラは、わたしのねぎらいの言葉に対し、いいえ、城は何もなく平穏でした、とさっぱり断言した。
「思い悩むことがおありだったのだと推察いたします。近頃のイゾルデ様はお疲れのご様子でしたから」
彼女の言動からは、女伯不在の裏にあっただろう厄介ごとを微塵も感じさせなかった。彼女は本当に仕事熱心な侍女だ。彼女の気づかいや機転には何度となく助けられてきた。一生頭が上がらないだろう。
流麗な彫刻が施された木の椅子に腰かけ、温かいワインに口をつける。その横でベラは隣のクローゼット部屋へ外套を片付けに行った。
窓の外はすでに夜の帳はおりて、どこからかフクロウのかすれるような、もの悲しいような、死者を悼むような、恐ろしげな鳴き声ばかりが心に染み入る。月明かりがないことはどうしてこれほど不安なのだろう。
やがてベラは体が埋もれそうなほどに大きな布の塊を運んできた。丸机の上にどさりと置いて、一つ一つ広げて見せた。
「イゾルデ様。明日のお召し物ですが、これと、これと、これにいたしますがよろしいでしょうか」
「そうしましょう。そこのもう一着は?」
「わたくしが作りました」
木綿の粗末なドレスは城主が身に着けるものとは思えなかった。しかし、ベラはそのドレスをわたしの体にあてて、丈の長さを見るや、会心の笑みを浮かべた。
ドレスの仕立はお針子の仕事だ。だがベラ自身も元お針子のため、わたしの私的な訪問着を作ってくれることも多かった。口に出しはしないが、わたしに似合う衣裳を一番よく知っているという自負を持っている。
「もうじき春の訪れを祝う祈年祭がございますので、そのお忍び用のドレスです。今年の祈年祭の色はかぼちゃ色と決まりましたので、そのようにしました」
「祭り用なのね。ありがとう。実は今年も行ってみたいと思っていました」
暦に疎くなっていたわたしが何も言わなかったにも関わらず、ベラが先回りして衣裳を用意してくれたのだ。
ベラは、でしょう、とばかりに頷き、かぼちゃ色のドレスをふたたび仕舞いこむ。
「今年の色彩はずいぶんと派手ね。当日はこの色が町中に広がると思うとかなりおかしいこと」
祈年祭では年ごとに一つの色が「祭色」となり、人はおろか、家畜や建物にいたるまでその色を身に着ける。年によって変わるので、毎年祭りの纏う衣が変わってしまう。昨年は深い緑だった。あのときは、お忍びで深緑のドレスで出かけたものだ。
今年はかぼちゃ色ならば、あのこげ茶色の町も華やぐことだろう。
女伯となれば祭りの一日目に儀礼が立て続けにあるが、二日目、三日目ともなると賑わいは城から町に移り、城の召使いたちの多くがかわるがわる町に繰り出す。わたしが浮かれる街に行くこともたやすい。
「マクスウェルの方の手配はどう? 手際はいいとはいえ、体を大事にしてもらわなくては」
ベラは口を開きかけたが、それをふと閉じて、視線を背後に移す。背後の扉に近づく足音に気付いた。
「直接お聞きになってはいかがでしょう」
折よく扉がたたかれる音。ベラがすっと部屋を横切って、扉を開ける。初老の男が入ってきた。マクスウェル。我が家の家宰にして、伯家の従える数百の騎士の頂点に立つ男だ。ただ、数年前に病のために右腕の自由が利かなくなって以降、軍事面からはさっぱり手を引いて、今はもっぱら城内のしきりと荘園の管理にあたっている。
「女伯様。祈年祭のご報告にあがりました」
ゆったりとしたラインの服は僧侶のそれに近い。もとは黒かった銀髪は後ろで品よくまとめられ、背中のマントへ流れていた。
「そうですか。今年もつつがなく進みそう?」
「今のところは」
マクスウェルは持ち前の慎重さから確実なことを述べた。
「職人たちや商人たちのギルドもたいした衝突もなく、準備を進めているようです。……しかし、あちらこちらでイゾルデ様のお噂が聞かれているそうです」
わたしは、深く、深く椅子に腰かけた。きっと、その噂はこうだ。
――もうじきバスチアン様が行方知れずになられた日だぞ。
――祭りの喧騒に紛れ込んで、どこかへ消えてしまったんだと。
――それらしい人影を見たやつがいるらしいぞ。あと、女連れだったとか。
――ああ、今年で三年だ。イゾルデ様の婿選びが始まるぞ。
「どれも根も葉もないものでもないのだから。新たな夫を探さなければなりません。そうでしょう、マクスウェル?」
「我らが領内の平和のためには」
言いにくいことは遠まわしに語る癖は相変わらずなことだ。
「あなたがそういうのなら、もうとっくに出来上がっているのでしょう? 婿となるべき人材の候補リストが」
案の定、彼が差し出した羊皮紙を手に取る。ずっしりと重い。何枚分あるのだろうか。
ぺらぺらとめくって、字面をちらと見て、私はマクスウェルの、表現に乏しい、鷲のような賢明さにあふれた顔つきを見上げた。
「これだけの情報を得るのは一朝一夕とはいかないでしょう。一年前には取りかかっていましたね?」
「はい。おっしゃる通りです」
何年一緒にいると思っているのか。忠実な家宰の考えていることぐらい察せる。
「スベリア公の三男に、ルンザレム王の第五王子――小国が多いけれど、結べば大きな勢力となりそうなものばかりね……あら、ニールの商人貴族まで。貿易で莫大な利益が得られそう」
誰が結びついた時、より利があるのか――それを何より先に考えなければならない。
この伯領とつり合い、かつこちらが呑み込まれない規模の所領をもつ家柄がもっとも好条件といえる。マクスウェルもまたそれを心得ていたようだったが――一年も前から取り掛かっていたとすれば。それはもうバスチアンが二度と帰ってこないだろうと、予期していたということだ。
彼は正しい。どこまでも。
「さて。選定にはどれだけかかるでしょうね。婚約期間もおかなければならないし。寡婦の証明書を教会から得なくては」
一番の難関は叔父だろうか。叔父はきっと手中から私を逃したくないに違いない。教会法でわたしが貞淑な妻ではなく、独り身の寡婦となってしまったら……叔父はわたしを籠絡し、わたしを通じてこの伯領を牛耳るつもりなのだ。あわよくば、わたしと叔父との間にできた子を嫡出子として教会権力に訴えて、自分の地位をさらに盤石にしようとまで思っていてもおかしくない。
寡婦となるのは歓迎するだろうが、相手がいるとなると、叔父は邪魔をしてくるはずだ。
「女伯の夫という地位は、野心の強い男は適さず、意志の強い男は耐えきれず。人のいいだけが取り柄のほうがかえって邪魔にならなくて良いでしょうね。女伯の夫は、実権を握れはしてもけっして一番にはなれず、わたし自身も実権を渡すつもりはないのだから、生きたまま生殺しになるのは必然のこと」
だからバスチアンは迷わずに伴侶の城を出て行ってしまったのだろう。彼は結婚して数か月後には戦場にいき、そのあと帰ってきたものの、一月後の祭りの中で行方をくらました。夫は聡明で優しい人だった。けれどわたしに向けた優しさは、すべて贖罪のため、わたしに対するうしろめたさのためだった――。
ここでわたしは物思いから醒めた。羊皮紙が一枚床に落ちた音が響いたせいで。マクスウェルは何食わぬ顔で実に優雅にそれを拾ってわたしの手に再び戻す。
「イゾルデ様。実はこのリストに記した方々を次の宴にお招きすることになっております」
「あなたが仕組んで?」
「めっそうもない」
慇懃に彼は言う。その言葉は彼にとって真実だけれど、その頭の中で計算が働いていることもまた真実。マクスウェル、あなただって本当は気づいているはずでしょう? その反応に虚実が混ざっていることぐらい。
蝋燭の火がゆれて、影もゆれる。絨毯に落ちた影の黒さは、夜の闇と同じで底知れない。
ふうと冷たい息を漏らした。
「そうですか。そのことは構いません。どういう名目でお招きしたのです?」
「祈年祭中の模擬決闘への参加あるいは観戦、ということに」
この伯領は今でこそ商業が発達してきているが、元は北の開拓を目指した騎士団がこの辺りを支配していた。この城も城塞として建てられたが、後に居住のための空間が整えられ、今に至っている。騎士団が支配していたころの名残が模擬決闘という形で祭りに取り入れられているのだ。
模擬決闘は祭りの初日に行われ、近隣からの騎士や貴族、聖職者や庶民まであらゆる人々があらかじめ黒線で仕切られた会場の外に見物に訪れる。女伯の名のもとに招待する人々も毎年大勢いるため、名目としてあたりさわりがない。
ただ、わたしは今年も予想される「とある事態」に思い至り、皮肉めいた笑みを浮かべてみせた。
「騎士ならば、判をおしたように皆参加したがりますね。彼らは己を見せびらかしたいばかり。反則すれすれの荒っぽさで、どれだけの負傷者がでたことか。わたしが生まれたころから死者が一人も出ていないのは奇跡としかいいようがありません」
マクスウェルは笑っているような、困っているような唇の形をして、
「男となれば、己の武勲を誇りたいのですよ、イゾルデ様。若者となるとそれが顕著であり、ある程度年を経れば少しは落ち着くものです」
彼自身の身の上から穏やかにそういう。あなたの若いころの数多くの武勲を聞けば、その言い草には少し苦笑を覚えるけれど?
「彼らの功名心を抑えるためのはけ口、でしょうか? 日常で暴れまわられるよりはまし、と考えるしかないのでしょうね。きちんと武器の刃先はすべて潰してあるのでしょう?」
「何度も確かめております」
武器の刃先を潰すことは模擬決闘での必須条件となる。刃先を潰さなければ、その刃先は肉に食い込み、真っ赤な血を噴き出させ、人の命を簡単に奪ってしまう。あくまでも「模擬」なのだから、命がけである必要がない。
「今年も念入りに、間違いのないようにするのです、サー。祭りの盛り上がりは、主催する我々の威信にも関わることなのですから」
「承知いたしました」
マクスウェルは静かに頭を下げた。




