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 パウルが戻ってきたのは、道化の襲来からまもなくのこと。食べ物だけでいいものを、彼は余計な「者」も持ってきてしまった。


「お嬢様――レディ。このようなところへお越しになっているとはつゆ知らず……どうしてほとんど供も連れずにいらっしゃるのですか」


 ああ、オーウェン。わたしに息抜きもさせてくれないの?

 癖のあるくすんだ褐色の髪を短く刈り込んだその男。先ほどとは変わらない旅装姿でそこにいた。その眼は険しく、慇懃な態度をとりつつも、立ち上る怒気までは隠しきれていない。

 羽を伸ばしに町まで下りて来たというのに、ここに来て、オーウェン。また、オーウェン。


「供ならパウルがついていますし、あなたに心配されるほど危険な場所には立ち入るつもりもありません。……パウル。食べ物はきちんと買ってきましたね? いただきましょうか」


 包みを抱えて立ち尽くしていたパウルは眼でオーウェンの顔色をうかがいつつ、おそるおそるわたしへ近づいてきた。


「あの、よろしいのですか」

「何を?」


 あくまでにっこりとパウルに笑いかける。意志は十二分に伝わったらしく、粛々と包みを広げた。パンに、ソーセージに、パイ……。ぱっと部屋に広がるかぐわしい香り。望んでいたものが魔法のようにぽんとあらわれたようだった。


「スープの方は屋台の主人に鍋によりわけてもらえるようにしておいたので、また今から取りに行ってきます」


 パウルはそそくさと戸口に立つオーウェンの脇をすり抜けた。階段を降りる音が聞こえた後、部屋の中では沈黙が支配する。

 部屋の扉は開いたまま。傾いた夕日の光が窓から部屋中を明るく照らし、そのやわらかな色に目を細める。そのまま首をひねって背後を見る。


「オーウェン。邪魔は許しません。扉を閉めて去りなさい」


 騎士とは主人に忠誠を誓うもの。けれど、わたしに騎士はいらない。わたしの横にいるべきなのは、今はパウルのような純粋な者であり、あるいは窓枠向こうの平和な風景なのだ。わたしが守るべきもので守りたいものはオーウェンではない。

 話す気がないという意思を察したのか、オーウェンは所在なさげに身じろぎした後、静かに告げる。


「レディがそう仰せなら」


 この男の声は耳に優しく、花の蜜のように甘い。釣られて蜂も寄ってくるというものだ。ぱたりと静かに扉が閉まる音が聞こえた。部屋には静寂だけが残った。オーウェンは言われたとおりに去ったのだろう。

 目の前の食べ物に向き直って、一人きりの食事が始まる。パンをちぎっては食べ、焼いた

ソーセージはナイフとフォークで切っては食べる。パイも少しずつ切ったものを咀嚼する。

 城では御馳走と言えるような豪華な料理も出るけれど、こうした町中で手に入る素朴な料理は好ましかった。この料理が、民衆の口に入り、文字通り、彼らの血肉となる。わたしは自分の治める領地を知るために、彼らのことをもっと知らなければならないと思う。

 耳の底ではまだオーウェンの声がこだましている気もしたけれど、それらを振り払うように食に没頭した。


「お嬢様。お待たせしました」


 途中でパウルがやってきて、熱々のスープを器に注ぐ。

さっそく木のスプーンで掬い取り、スパイスの香りが立ち昇る湯気ごと口の中でスープを味わう。ゆっくりと、けれども夢中になって飲みほした。

お腹に残るのは満足感と幸福感だ。気が緩んでいくのを感じながら、わたしは椅子に深く腰掛けた。

パウルは部屋の端で立ち、残ったスープを器によそって食べていた。


「パウル。付き合ってくれてありがとう。おかげでよいものが食べられました」

「い、いえ。僕は何も……」


 恐縮しきるパウルの姿が可笑しかった。微笑ましい気持ちになった。


「とても美味しかった。いい気分転換になりました」

「何よりです。しかし、よかったのでしょうか」


 彼は途端に声を潜めた。


「オーウェンさまを追い出すような真似をなさってしまっては」


 パウルも私の気分を害すると知っていて蒸し返したのだろう。可哀想なほどに顔は白い。

 主君と臣下の不和は領民からすれば望まれまい。領地が乱れる元だ。尖った声になるのは仕方がないが、できるだけ安心させるように告げた。


「心配は無用ですよ。あの男の図太さは並大抵のものではありません。形だけとはいえど、臣下の礼は欠いたことはありませんから。また何食わぬ顔で参上してくるでしょう」


 「形だけ」というのが最も不安要素でもあるのだけれど。このことは口にしなかった。


「婚約が決まったのだから、あの男も少しは落ち着くでしょう。あの男はすぐにふらふらとして、猟犬のように辺りを嗅ぎまわる癖がありましたからね」


 先祖代々我が伯家の騎士を務めた家柄と人柄によるものも大きい人脈の広さは、女伯であるわたしをしのぐものがある。できれば、この城下から一歩も外へ出ないでほしいのが本音。だが実際は「女伯のため」と称し、よく外に出ていこうとする。その理由が至極もっともなことなので、わたしとて留められない。ただの散歩だったらよいのだが、彼の野心を考えれば、落ち着いて待っていることも難しいのだった。

 まさしくオーウェンは目の上のたんこぶといっていい。浮いた噂もほとんどないため、独り身を貫くのだろうと思っていた彼は、近頃婚約を発表したらしい。彼から直接聞くことはなかったものの、相手は伯家に忠実な家宰の孫娘だと聞いている。結婚すれば、あの男も伯家《こちら側》の人間だと確定される。心を落ち着かなくさせる視線に晒されることもなくなる。何を考えているのか考えあぐねずに済む。


「オーウェンさまが婚約なされたのはめでたい話だとは思います。女伯さまもお祝いされるのですね!」


 少年の顔ににわかに血の気が戻ってくる。あからさまにほっとした様子だ。


「そうね。伯家の方からも祝いの品を届けさせるでしょうね」


 わたしは彼の期待に応えて頷いた。

 実際のところ、あの男の奥方になる娘には同情する。わたしとあの男の力の均衡を保つための楔となり、女伯の不審をかっているために将来的にこれ以上権力を持ちえないどころか、いつ失脚させられるかわからない男の妻となるとは。

 伯家から贈るのは、祝いの品というよりも、その娘への詫びの品になるだろう。


「当時のわたしと同じ、十七才での縁談でしたね。男とは違い、女は早くに人生を決められます。せめて、伴侶といい関係を育めることを祈るしかありません」


 エリーゼとのこともちゃんと考えてあげなさい、と言えば、パウルは真剣な面持ちで頷いた。……彼ならば、大切な相手をおろそかにはすまい。

 わたしの夫は、優しかった。育ちの良さからくる気品や物腰はさることながら、学問に優れた男だった。わたしを覗く茶色い目と髪は、もう城の肖像画でしか見ることはない。だから、今更わかるはずがなかった。彼の心の中にいた人が誰か、なんて。


「あなたも、エリーゼも幸せなのよ」

「え、そうですか。うれしいなぁ」


 想い想われる二人は、きっと美しい。ほんの少しだけ羨望を混ぜた微笑みを浮かべて椅子から立ち上がる。


「さて、そろそろ城に戻りましょう。帰りも頼みますよ」


 ふと何気なく開け放たれた窓の外が気になって、二階から下を見る。……そのまま笑顔がひきつった。

 お嬢様、と不思議そうなパウルの声。だが即席従者に応える余裕などなかった。

 かちり、と目が合ってしまった。……店先からわたし《こちら》を望む、青い目と。主人への敬意を表す礼さえしないとは、この男は何に心を囚われているというのだろうか。

 逃げるようにパウルに向き直る。オーウェンと顔を合わせたくなかった。


「……なんでもありません。帰りは裏口から歩いて帰りましょうか」


 わたしは知らない。知りたくもない。わたしの周囲にいる男たちのそれぞれの思惑なんて、知れば知るだけ泥沼に陥るものなのだから。



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