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城の裏門をさっと抜け、城の丘を下っていくうち、にぎやかな町に入っていくのがわかる。人が多いし、金貨の色があちらこちらでちらつく。荷馬車も通り、買い付けに来た商人たちが各々の得が大きくなるように、持ち前の口のうまさで交渉している。
「町中に来ましたが、これからどこへ向かえばいいでしょうか……お嬢様」
馬の手綱を引いていくパウルは「お嬢様」の方を振り向いた。横座りで黒毛の馬の背に揺られていたお嬢様――実際はもうお嬢様という呼称は正しくないのだが――であるところのわたしは特に目的があったわけではないので、町の主要な区画をぐるりと回ることを指示しておく。馬はゆっくりと表通りを進み始める。
と、ここで思い切ったようにパウルは尋ねた。
「あの、さきほどのことなのですが、どうしてぼ、僕に好きな子がいるってわかったのですか。……名前まで」
「簡単な話ね」
ぱっと言いかけたが、パウルが心底不思議そうな表情をしたものだから、少し考えを改めた。
「想像に任せるわ、といっても納得してくれないわね」
「ぼ、僕の頭ではどうにも……。しかし、わからないというのもむずむずします」
「一つ手がかりをあげましょう。その――」
わたしは馬上に揺られながら、あるものを指差した。パウルはきょとんとして己を指さす。
「僕?」
「違いますよ。あなたの服装です」
胸を指差されたパウルは反射的に自分の体を縮こまらせ、へっと素っ頓狂な声を上げた。
「そんなにおかしいですか。ちゃんと昨日洗ったのに……」
「そうね。あなたは服装に気を付けるようになったわね。きれい好きにもなった。以前は一週間同じ服を着ていてもへっちゃらだったのに。布も少しいいものを使うようにもなった」
ここまで言えばわかるでしょう、とわたしは付け足した。
「人が普段の行動を変える時は、何かしらの理由が働いているものですよ」
パウルは呆然と目を見開いたが、馬が手綱を引いている感触に慌てて我に返った様子で、馬を右折させた。
「女伯様はよく人を見ているのですね」
少年が興奮したように鼻を膨らませた。
右折をすれば、市場が見える。主に朝にたつのが常の市場だが、夕方は夕方で別の賑わいを見せる。旅人たちはここで宿を探しがてら、夕食をとる。食材というよりも、軽食の香ばしいにおいが鼻先をくすぐるのだ。
例によってわたしの鼻まで。肉と香草が焼けた、食欲をそそるにおい。自分のおなかに手を当てて、ひそかに溜息を一つ。昼食は、叔父の訪問によってお流れにされていたのだ。
「あの、お嬢様。あと一つだけ。どうして『エリーゼ』の名前まで」
ああ、少しだけ静かにしていてほしい。今は煩悩と戦っているのに。仕方なく口を開く。
「わが伯家お抱えのエリーゼはお針子。そして、パウル。お前の給料も大体把握しているのですよ。親方ならともかく見習いのお前の給料と、その服はつり合いがとれていないのは一目瞭然。なら、どうしてその服を持っているのか」
口ばかりが勝手に回っていく。
「……もらったからに決まっているではありませんか。じゃあ、誰に? 父親? だが、あの男は息子にたいそう厳しいはず。母親は父親の意に従うだろう。と、いうわけで、胸ポケットから『E』という文字が見えるハンカチの送り主ではないかと思うわけ。糸の色が服を縫ったものと同じだから。あとは人物の特定のみ。縫われた文字がお前の頭文字ではなく、しかもお前が後生大事そうにしているのを見ると、相手は女、しかもお前の好きな相手だということは容易に想像がつく。……これは別の話なのだけれど」
「な、なんでしょうか」
今にもごくりと唾をのみこみそうなほどに張りつめた顔をしているパウルには悪いが、そこまで身構えることではない。
「エリーゼというお針子に男ができたらしいって噂がすでに耳に届いていたのです。時折城内で見ていたけれど、あなたが好きになりそうなふわふわの金髪ときれいな瞳をしたかわいい女の子だから、鎌をかけてみました」
パウルががっかりしたように小石を蹴り出した。奇術の種はばらしてしまえば、ひどくつまらなく見えるものだ。
両側にある屋台のテントには色とりどりの食べ物が並んでいる。林檎、無花果に、蜂蜜。ああ、本当に空腹にはたまらないものばかり。
春には、農村部にもこうした食べ物が行き渡るようになる。冬で飢えてしまう人々がいるのは、不作のせいばかりでもなく、この城下町への交通路が雪で遮断され、救援の物資も行き届かないようになってしまうからだ。春から秋にかけて、領民には喜びの季節なのだ。だからこそ春を尊び、訪れを祝う。
竈で焼かれるパンの匂い。ゆであがったばかりのソーセージ。器に盛り付けられたのは肉の入ったパイ。野菜たっぷりのスープ。
馬の背中で揺られている間にも、次から次へと美味しそうなものが目をくぎ付けにする。屋台の食事は城内のものと比べて簡素で粗野な印象があるけれど、町の喧騒こそが最高のスパイスになって、最高の旨味を引き出してくれる。
「……パウル。馬を止めて頂戴」
「はっ、なんでしょう! もう僕にはお嬢様に隠し事することなんてありませんよ!」
彼はいったいどう勘違いしたものだろう?
違います、と言い置いて、馬から下りた。パウルは眼を丸くした。乗降台なしで降りたのがそんなに珍しいのだろうか。昔はよくやったものだけれど。
わたしは腰に結わえつけておいた袋から一枚の金貨を取り出した。
「これで、あのパンと、そこのソーセージ、あっちのパイと、そちらのスープを買ってきて頂戴。あなたも食べたいならそこから出していいから。これだけあれば足りるでしょ? おつりはあなたの臨時お給金にしておきなさい」
「え、よいのですか!」
パウルはわざとらしく喜んだ。何度か、お忍びに付き合わせたため、すっかり小遣いに味を占めてしまったようだ。
「ええ、口止め料ですもの」
「……ハイ」
さらっと釘を刺しておけば、少年が力なく肩をすくめる。
「じゃあ、手近な店の二階を借りましょう。お嬢様にはそこでお待ちいただくことにして、僕はその間に食べ物を買ってきます」
「頼みます。ああ、そうそう」
「何です?」
「臨時給金なのだから、エリーゼに何か贈り物をしてはどう? エリーゼはあなたのために服を縫ったのでしょう? 服一着作るにも相応の労力が必要なのです。不安はあるかもしれないけれど、エリーゼはあなたを愛していますよ」
パウルはさっと顔を赤らめて、「何でもお見通しではありませんかッ!」と叫んだ。恥ずかしがらなくてもよいのに。
純情な少年は実にてきぱきと働いた。まずは近くの宿屋に飛び込んで、二階から市場を見下ろせる部屋を貸し切った。馬は宿屋の馬屋に連れていき、わたしは確保した部屋で彼の帰りを待つことになった。わたしは部屋の窓からパウルが宿屋から弓矢のようにさっと駆けていくのを、見送った。人の波を見切って、網の目をくぐり抜けるようにゆくパウル。世の中の男がすべてあのようであればもっと生きやすい世界になっただろうに。
くるくるくるとおなかが小鳥のように鳴く。それとともに、体中の力が抜けていくような気がする。
「こんな姿、他人が見たらどう思うかしら」
ぼろぼろの木の椅子に腰かけて、眠そうに眼を細くする女伯というのも、なかなか見られないだろう。
自虐的な思考に陥ったところに、声がかかった。ひょうきんな、からかい混じりの低い声。
――ああ、美しき女伯イゾルデは、誰にも知られぬその陰で、つらい胸の内をさらけだす。
彼はさっと扉から入ってきて、大げさな身振り手振りをしながら歌いだす。
――まどろむその姿は、聖女のごとく神々しく、男ならば誰しも彼女に口づけの嵐を与えるだろう。ああ、我は道化、ベルデンゲンチェルン。すべての者の代弁者。おどけて笑って、泣いて怒って、それでもばたばた踊るのさ! 真実の口は誰にも閉じさせぬ!
ぱちぱちぱち。乾いた拍手が響く。彼が自分の歌に自分で賛辞を贈ったのだ。
「あなたは神出鬼没ね、道化。つけてきたの?」
油断ならない相手に背筋を伸ばし、毅然と相手を見返す。
扉から入ってきた小男は大仰に自分の足に顔をくっつける勢いでお辞儀をした。小男といっても子供の背丈とまるで同じ。眼の端についた笑い皺を見て初めて、彼が中年の男だと気づくだろう。黄色いチョッキに、だぼだぼの緑の長ズボン、つま先は恐ろしいほどに尖った靴。服がちぐはぐなのは、道化の定めだ。
彼もまた父の代から仕える臣下のひとり。道化ベルデンゲンチェルン。
「女伯さまはお忍びがお好き。だけどもだけどさ、愛人に会うためじゃないさ! すかすかのお腹を一杯にするためさ!」
彼はいつも歌うような話し方をする。ことさらのんきに、愉快なことに出会ったかのような顔をして。
道化の仕事は、風刺することと笑わせることだ。自分の雇主をも例外なく笑うことで、主人を戒め、周囲に笑いを配る。うわべは確かに莫迦のふり。実際頭が足りない者がなることもあるが、必ずしもそうとは限らない。主人の勘気を被らない程度にぎりぎりの命の綱渡りをする者もいる。この男は後者に思えた。
城では彼の振舞いを面白がり、笑う者も多いが、わたしには笑えるところなどひとつもなかった。笑顔の仮面の下に隠れているものが気になって仕方がなかった。
わたしは忘れていなかった。昔、父の前でおどけてみせた宴の席で、余興の終わりが告げられたその刹那、彼の瞳に知性の仄暗い光が宿ったのを。周囲は彼の言動に腹を抱えていたから、父を含めてだれも気付いていなかった。今まで莫迦のふりをし、焦点すら合っていないように思えた大きな黒い空洞の底に蠢いた賢明さはわたしと目があった瞬間にはかき消されて、彼は再び笑顔になったのだけれど。
あれ以来、この男はどことなくわたしを見張るように、近くにまとわりついてきた。一人きりのわたしの傍にはべって、冗談をいってはおどけたり、踊ったりしてわたしの関心を引こうとする。さすがにお忍びにまでついてくるとは思わなかったが。
相手にするのも面倒なのだが、無視をしたところでむやみに騒ぎ立てるだけなので、仕方なく口を開く。
「まさにその通り。おなかがすいているの。あなたの情報網はなかなかどうして侮れないのかしら。せっかくだからあなたもいかが?」
道化は顔に見合わない長い舌を出し入れさせて、ゆかいそうに足をはねた。
「おれさまは女伯様の美味しい話でおなかがいっぱいいっぱいだ! 可憐な女伯様はお忍びで屋台の食べ物をつまむのだ!」
「それはあまり口外してほしくないわね」
道化はどこまでもふざけている。あまりいい気分ではなかった。
「言いはしないよ。ただただ知りたいのさ!」
「それで楽しいの?」
「楽しくないの? いいや、楽しいはずだよ」
からからと道化は笑い続ける。けれどふっと真顔になった。
「……ただおれさまは結末を知りたいな。女伯さまのこの先が。どの男を跡取り息子の父親にするか」
珍しくも道化の瞳に知性の光が宿っていた。
「必ずしも息子を産めるとは限らないでしょう」
「いいや、産むさ」
大きな口をがばりと開けて、にやりと笑う。
「女伯さまの運命の星に定められているのさ。定まっていないのは子の父だけ。運命の岐路。家の盛衰の分かれ道。ああ、正しき答えは神のみぞ知る」
道化はわざとらしく祈りのポーズを取った。
「道化なのに、予言もするのですか? あなたのいうことはもっともらしいけれど、ありきたりね」
「では、最後に一つ。……お望みの失せものは二度と見つからないだろう。戻ってこない」
手足をぷらぷらさせた道化は、一陣の風のようにあっという間に消えた。わたしがどんな顔をして道化のいた名残を見つめていたか、自分でもわからなかった。