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古い城の町トゥアーには、かつて美しき女伯が君臨していた。彼女の玉座や、歩いた城の回廊、彼女が聞いた鐘の音は、今もトゥアーを訪れる旅人を魅了する。同時に彼らは女伯の物語を知るだろう。
女伯が愛した三人の男と、選び取らなかった愛のこと。
今は静かに眠る古城の大広間の中心で、目を閉じてみてほしい。耳を澄ませてほしい。彼女に思いを馳せ、そっと息を吸いこむといい。
もしも彼女の感じたすべてに身を浸し、古き息遣いに触れることができたなら。
たちまち眼前に女伯が現われ、自身の物語を語るだろう。
その女伯の名は、イゾルデと言った。
神に捧げられるものはたいていが美しいものだ。修道士たちが歌い上げる賛美歌も、鮮やかな彩色が施された聖書も、聖書の教えを絵で表現するために制作される色とりどりのステンドガラスと、それがはめ込まれる教会や聖堂の荘厳な建築も。
神に惜しげもなく捧げられる美。その美に賢明さも備わった人物が実在するなら、彼を愛さないでいるのは難しい。
しかしそれは、濃い血の繋がりがなかった場合のことだ。
ずっと慎み深い距離感を保ってきた叔父が、音もなくわたしに身を寄せてきたのは、薄暗い昼と夜の狭間の頃だった。その時はたまたま近習もおらず、玉座の間で二人きりになっていたから。
「おまえはわたしのものだよ、イゾルデ」
耳元で囁いたのはほんの一言だけ。清らかな僧衣の下には、わたしには及びもつかない情熱が眠っていたらしい。
それまではただの学問の話をしていたというのに、何の脈絡もなく放り投げられた愛の告白は、わたしを本気にさせるものではなかった。叔父の目を見ようという気にすらならない。まるで何かの悪い冗談だ。
「聖職者がいうことではありませんね。司教という地位にも清貧と不姦淫という美徳は求められているでしょうに。戒律を破るおつもりですか?」
言葉の端に棘が混ざるのは仕方のないことだ。叔父の「野心」がわたしに向けられてはかなわない。今、わたしは微妙な立場に置かれており、身の振り方には慎重にならざるを得ない。血縁だからと気を許したのがいけなかった。飢えた狼はそこらじゅうにいるのだ。
「叔父様、恐ろしいことをおっしゃらないでください」
この城の主はわたし。女伯イゾルデの名を醜聞で汚すことは叔父であろうと許さない。
トゥアーの主にだけ許された石の玉座から死ぬまで下りまいと誓っているのだから。
わたしは叔父から身を引いたのだが、叔父の手は追いかけてきた。軽く身を竦めてもやめる気配がない。
「知っているだろう、イゾルデ。おまえはすでに大人になっているから」
叔父はわたしの髪に触れた。騎士が貴婦人にするように恭しい仕草で。しかし、本物の騎士はみだりに淑女の髪に触れないものだ。女の髪は男の欲望を煽るものだと教えられるから、女側から触らせた場合は誘惑の意味を持つか、その女が痴女でしかない。
「公な結婚ができなくとも、愛は交わせる。裏道ならばいくらでも。あなたにとっても悪くない話だよ。私と関係を持てば、教会があなたの後ろ盾になる」
「言い方を変えれば、教会に内政干渉されるということではありませんか」
叔父の手をやんわりと押しのけるが、叔父は気にする様子もなくとろりとした蜂蜜のような笑みを浮かべた。
「それはおまえの腕次第だよ。……不機嫌そうだね、イゾルデ」
気づかないうちに眉根を寄せていたらしい。人差し指で眉間の皺を確認した後、ため息を零した。
「聖職者である叔父様がここまで俗人とは知りませんでした。ご自身の持つ権力を盾に下劣な取引を持ちかけられるとは予想外です。見返りにわたしの身体を所望されるなんて。……わたし、これでも既婚者なのですが」
「行方不明の、という前置きが必要な夫だ。もう何年待っている? 結婚して数か月で消えた薄情な男に操を立てる必要はどこにある? あなたはもっと自由でいてよい。助けになろう」
三年だ。教会法では伴侶が生死不明のまま三年が経つと、その婚姻は解消可能となる。
――そろそろその三年が経過する。
叔父が夫の話を持ち出したのはつまりそういうことなのだ。わたしに「うん」を言わせ、婚姻解消のための手続きを行いたいのだろう。いざそうなれば、叔父はあらゆる手段を使って、最短で処理を終わらせるに違いない。
叔父は元から夫のバスチアンを嫌っていた。結婚が決まった時、わたしにはふさわしくない、顔だけの男だと、珍しく激情を露わにして父に訴えたぐらいには。
「お前をさびしくこの椅子に座らせておく男のことは忘れなさい。次を考えねば。おまえが今必要とし、真におまえに似合った男を選ぶべきだろう」
女とまがう細く白い指がわたしの顎にかかる。無感情な彫像のような見た目に反し、叔父の内心を物語るような熱が伝わる。叔父がわたしの瞳をとらえている。叔父は海のように鮮やかな青の色彩を持ち、その奥には、緑の色彩を持つわたしが映っていた。
叔父の心には魔性が巣食っているのではないか。正気の沙汰とは思えない。実の叔父を愛人にしろと? 神をも恐れぬ大それた望みに眩暈を覚える。
「叔父様を選びます、と言ってほしいのですか。ありえません」
叔父はわたしだけでない、トゥアーをも手にするつもりだ。わたしが頷けば、叔父の権力に屈したことを意味する。倫理的にも政治的にも最悪の選択肢だ。
二人きりの私的な場でも言質を取られるわけにはいかない。冗談めかした調子で微笑んで、紙一重の均衡を保たせる。――そうやって、幾度叔父の誘いをかわしてきたことか。叔父は辛抱強い。相手をする女がほしければ、別に探せばいいものを、叔父はわたしの娘時代からそれとなく己の望みをほのめかせてきたのだが、特にここ三年、夫が行方不明となってからというもの、あからさまになっていた。
「わたしは待つよ。これからもずっと。しかし、それも遠い先のことではなさそうだ」
聖職者にはもったいないほどの、女性を魅惑する微笑みを浮かべた叔父は、わたしの頬にくちづけを贈った。近親への親愛の情にはふさわしいが、城主と司教という立場からではいささか行き過ぎだ。僧衣を着ていなかったら、まさに夜をともにする恋人を相手にしていると勘違いされるだろうに。
叔父の言葉は聞いていないふりをした。
「司教として、多くの民を救われますように」
何事もなかったように格式ばった言葉をおくる。このあと、侍女に頼んで教会への布施を用意してやればいいだろう。これでおしまい。叔父は悠然と部屋を出ていった。
冷たく硬い椅子の感触に沈み込む。
そのうち、外に控えている侍女から、「騎士オーウェンが参りました」と先ぶれが来た。次から次へと気が重い謁見が続くものだ。
騎士オーウェン……この領内の軍事権力第二位。わたしに次ぐ若き実力者。
わたしはけだるい気持ちを抑えながら、目だけ動かし、扉をうかがう。
勝手に扉は開いた。叔父と同じ青い瞳を持つオーウェン。領民の支持を受ける人望深きオーウェン。勇猛果敢、公平で高潔なオーウェン……。数え上げればきりのない褒め言葉ばかりが頭の中を掠めていく。
彼は鍛錬の末に鍛え上げられた筋肉や背の高い堂々とした体格をしている。そのわりに怖くない印象を受けるのは、目元が優しく和み、人への物腰が柔らかだからだ。
彼はマントを翻してわたしのもとにひざまずく。
「騎士オーウェン、帰着いたしました」
「オーウェン、久しいこと。また領内視察に行っていたのだと聞きましたが。わたしがトゥアーの租税と犯罪の取り締まりを一任したのを忘れていましたか?」
城下町トゥアーは、諸侯が群立する国内でも有数の商業地だが、その代わり多くの人間が出入りするために発生する税の徴収漏れと、犯罪の増加が主な問題点だった。オーウェンにはこの二つの制度の抜本的見直しを命じていたのだが、知らせだけ寄こして領内視察へ出かけていたのである。
オーウェンは説明不足を悪びれもしなかった。
「わたしがそのようなへまをしないとご存知でしょう、レディ。制度を改定するにも、事柄の関連性を考慮しなければならないのです。人や物品の流れをきちんとこの目で把握しておきたかったのですよ。それにはトゥアーだけでは足りません」
よどみのない答えがスラスラ出てくることだ。自信たっぷりな傲岸さが見え隠れするものの、彼のやることに問題はない。……問題があれば、すぐに降格させられるものを。
わたしは頬杖をつく。
「サー。それで成果はあったのでしょうね」
「はい。女伯にご満足いただける結果になるかと」
オーウェンはにっこりと目じりを下げて笑った。獅子が猫に変わったかのようにいとも簡単に、戦士の仮面を脱いでしまう。こういうあっけらかんとしたところが下々の者には受けるのだろうが、わたしにはどうしても胡散臭く見えて仕方ない。
「具体的な策は後日、文書にて詳しくご報告いたします。本日はわが主にご挨拶申し上げるために参りました」
旅装を解かず来たのがわかるよう、オーウェンは自身のマントを軽くたたく。粉塵が舞う。眉根が寄るのを自覚しながらも、片手を差し出した。
「それなら挨拶なさい。――無事の帰着を心から喜ぼう、わが騎士オーウェン」
左手の薬指には、バスチアンとの婚姻の証がはまっていた。そこにオーウェンは忠義を示すために形ばかりの接吻を贈る。
「ありがたき幸せにて」
言葉は嘘をつく。オーウェンがあげた顔からみれば、わたしがついた「嘘」にちっとも満足していないのがわかった。……ならば何を望んでいるのだ?
彼に与えられるような上の地位もなく、それ以上の名声もない。上にいるのはわたしだけ。いつか彼がわたしにとって代わる日も来るだろうか。彼が忠誠を誓ったのは、わたしではなく、わたしの父で、わたしだけがここの伯家の直系の最後の一人にあたるのだから。この伯家の血も風前のともしびというものだ。
この男の眼もまた青い。叔父といいこの男といい、わたしの周りにいる青い目の男たちはことあるごとにわたしの眼をぶしつけに見るのが習慣らしい。
「……何か気になることでも?」
試しに聞いてみれば、彼はふいとあからさまにこちらから顔をそむけた。
「いえ、ただ、髪を下ろされている姿がお珍しいので」
わたしは自分の髪を一房掬い取った。癖のない金の髪が着ているドレスにまでまとわりついているようだ。髪飾りも何もつけず、ただ生まれたままに流しているのだ。
「もう娘ではないから、まとめろと? しかしそうもいかないのです。わたしには子がありませんから」
夫婦の片割れが三年行方知れずとなったら、教会法では離婚成立が可能となる。高位聖職者――枢機卿クラスであれば特別な免許状が発行でき、わたしは新たに伴侶を娶ることも、夫以外の子を産むこともできる。この伯家を正式に相続できるだけの資格を持つ子を。叔父ならたやすくこの免許状が得られるだろう。
髪を下ろしたのはわたしが独り身だと示すため――伴侶を求めているとのしるしに。そして叔父とも渡り合え、そして権力闘争に巻き込まれないだけの度量の持つ男を選ぶための決意。叔父もそれを察したから、ああも大胆なことを言ったのだ。叔父は自分が選ばれるものと思っているようだから。
近ごろは侍女も家臣たちも色めき立っている。侍女は主人の伴侶が誰になるかと勝手に予測しあって騒ぎ立て、家臣たちはどこから選ばれるか固唾をのんで見守り、城の召使いたちはめぼしい男たちを思いつく限り挙げては、賭けをする。
「今度はどこの誰を迎えるつもりなのですか」
ふとオーウェンは訊ねた。私の伴侶問題は彼の進退にも関わる重要事項だ。聞いてみたくもなるのだろうが、残念ながら決まったことは何もない。
「さてね。またどこぞの諸侯の次男か三男坊でしょう。同盟にもなる上に、内部で余計な争いを避けられるものですから、都合がよろしい」
外部から婿一人だけをもらいうければ、面倒な姻戚関係を持ち出してぶつくさいう連中も何も言えまい。
わたしはこくりと首を傾け、微笑んで見せた。――あなたに口出しされることではないよ、と言外に威嚇を込めて。
「オーウェン。沈黙こそが最上の美徳ですよ。特にわたしの一身上にもかかわることにはお気をつけなさい」
「……はっ」
オーウェンの返事はうわっつらだけのものに聞こえた。昔からそうだ、彼は私の領域に土足で踏み込もうとする瞬間がある。おそらく欠片も反省していないだろうし、思うことがあれば次もするに違いない。ちっとも言うことを聞かない臣下に疲労感を覚える。ただでさえ、叔父の執着じみた告白を聞いたばかりなのに、続けて厄介な男を相手にしなければならないのだ。
「少し休みます。もう下がりなさい」
まごまごと居座り続けるオーウェンに背を向け、奥の自室に引っ込んだ。