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 思い出を夢で見た。夢なのか、思い出していただけか、どちらともいえなかった。

 今はわたしが座っているはずの石の椅子に、父が座っている。幼いわたしを膝に抱えたまま。母を亡くしたばかりだったこのころは、ことさらに優しい父に甘えきってしまっていたのだった。父もわたしを憐れんで、できるだけ手近に置いてくれた。

 これはわたしの最も古い記憶の一つだった。それでも思い出すのは久しぶりで、存在すら忘れてしまっていたというのに。

 目の前には今よりも若い叔父が跪いている。輝かんばかりの美貌をこちらに向けていた。直接血が繋がっていないので当たり前だったが、ちっとも父に似ていない。父は醜いとは言わないまでも、平凡な顔立ちだった。叔父と比べれば、一目瞭然。あのころのわたしも、叔父を純粋な賛美の視線で見つめていた。そうだ。物心ついてから初めて叔父と会ったのがこのときだったのだ。


「随分と、久しいな。司教。妻が亡くなって以来か」


 きょとんとして、わたしは父を見上げたのだった。父の膝の上にいて、父としての声と伯としての声の両方を知っていたけれど、叔父に対してはどちらでもなく、声音が違って聞こえたから。どちらかといえば、苦みがあって、本人も口にしたがったものではないように思えた。


「はい。お久しゅうございます。兄上。お変わりないようで。……それに、イゾルデ姫も」


 父がわたしを抱えなおす。しっかりと、落ちてしまわぬように。わたしはといえば、叔父にひたすら興味深そうに叔父に見惚れていた。きっと緑の瞳をこれ以上ないほど、輝かせて。話に聞いていた青年司教に、わたしは魅入られていたのだ。そんな叔父に華のように微笑まれて、幼いわたしは気恥ずかしそうに顔をそらせてしまう。


「さて、わざわざこちらにご足労いただいたわけを聞かせてもらおうか。きっと、たいしたわけなのだろうな」


 父は不機嫌そうだった。きゅっと身を縮こまらせて、やり過ごそうとする。わたしのことで怒っているわけではないけれど、身から放たれたものが怖かったのだ。

 気づいたのかわからないが、父はそっとわたしの髪に触れた。優しく梳いていく。父にこうされるのが、幼いわたしは好きだった。目を閉じて、昼寝中の猫みたいに丸まるのだ。


「はい。実は教皇猊下がおっしゃっていたことで……」


 叔父の話が続く。政治的な話だっただろうか。わたしには何のことかさっぱりわからなかった覚えがある。

 それだけの、ささいな夢だった。




 体調が万全になったのは夜の帳が降りた頃。オーウェンは極秘に城内に入り、今は塔の部屋にいる。彼にとっての調査はすでに終えたということなのだろう。

 気分の悪くなったわたしは、マクスウェルが迎えをよこすまでオーウェンに介抱されていたらしい。


「酒は一時の忘却を導く……」


 麦酒で懲りたはずなのに、またも酒を煽りたくなった。「忘却」を望んで。

 独りで呟いてみて、自分の浅はかさがむなしくなる。これでは、昼間から酒を浴びるように飲むのんだくれと同じではないか。

 目の前には羊皮紙の束が転がっている。結ばれていた紐を解く。椅子に腰かけた。

 進むにつれ、わたしは無意識に握った手を胸に当てていた。見えない茨が胸を締め付けてくるよう。

 ああ……。声なき声は天井へと届いただろう。


「神よ、我々に『一時の忘却』が与えられんことを」





 老年の騎士たちは深々と頭を下げる。

 以上で、報告を終えます、と。

 昼下がりには相応しくない緊張した空気が城中に漂っていた。町は相変わらずの盛況だと聞く。城がこうなってしまったのは、調査隊の報告の内容の重みのため。彼らの顔もまた、強張っていた。すでに、オーウェンから一通り聞いていたものの、やはり、事実は変わらないもののようだ。彼の情報はいつも正しい。……今回ばかりは、外れていて欲しい、と思ってしまう。これは、死人に鞭打つ行為だ。死の棺を開けて、その遺体の腐敗を目にするようなもの。


「そう、今回使われた剣は、二十年前に一度密かに精製されたもの、ですか。ただ、命令した者は誰かわからなかったのですね」


 ふた昔も前のこと。祭用の剣をわざわざ真剣で作る必要なんてどこにある? ないのだ。ない、はずなのだ。

 ご苦労でした、下がりなさい。騎士たちは立ち去った。……彼らは老年の騎士。引退する前はこの城に出仕していた者もいたはずだ。言えないこともある。当事者だからこそ言えないことが。


「もう、わかっているのでしょう? わたしがすべてを知っていることを」


 女伯の椅子。厳然たる地位の上から呼びかける。その視線の先にいる男。……実行犯である、この男を。


「ねえ、マクスウェル?」


 品のよい銀髪の男は取り乱すことはしなかった。ただ、静かに跪き、頭を垂れた。マントが、床へ広がった。


「元より隠せるとは思っておりません」


 彼はきっぱりと断言し、顔を上げる。女伯さまは賢明なお方ですから。


「そうでしょうね。……だからこそ、わたしが決して表沙汰にしないとわかっていて、実行したのでしょうから。このあまりにも杜撰な計画を」


 杜撰で、単純なこの計画、としか言いようがないほどの、穴だらけの罠。

 はい、と彼は目を伏せた。罪を犯した自身を悔いているわけではなく、ただ静かに何もかもを受け入れているように見える。まるで、いつもと同じように。


「すべては可能性の問題でした。『たまたま』や、『偶然』が折り重なった結果で起きたこと。司教は自ら罠に落ち込まれていったのです」


 わたしは瞑目し、凍り付いた胸を溶かすようにゆっくりと息を吐いた。


「ええ、わかっています。貴方がたがしたことといえば、祭用の剣と同じ装飾をつけた真剣を用意したことと、その剣を模擬決闘に紛れ込ませたこと、そして、模擬決闘の最中、城の武器庫に真剣を幾本か紛れ込ませたことぐらいでしょうね」


 騎士たちは試合中幾本も剣を替える。……ときには近くの審判に取り替えさせることもある。最終的にオーウェンが振るうことになった凶器は、マクスウェルに買収された騎士、あるいは審判が持ち込んだものだろう。


「ただ、武器庫に納められた祭用の剣は、試合前と試合後、台帳と本数があっていました。普通なら、試合前に真剣が紛れ込んだ、と考えるところでしょう。ですが、そう思わせたいだけで実際は逆。可能性は二つ。武器庫の管理責任者であるあなたが本数を改ざんしたか。またはこっそりと紛れ込ませた真剣の本数だけ、本物の祭用の剣を取り除いたか。わたしは後者を支持します」


 祭用の剣は使い道がいくらでもありますから。若い騎士たちの訓練に使われる剣に払い下げられることもあるし、模擬決闘を観戦したお忍びの貴族たちや商人が、記念にと買い求めることもある。今年の試合後は殊更、剣はきちんと数を記され、一旦はすべて戻っているが、通常ならば、多少数本消えていても問題にはされない。騒ぎが落ち着けば、通常のように、幾割かの祭用の剣は城から払い下げられることになるだろう。その際に幾本か多く混じっていても誰も気づかない。責任者がマクスウェルなのだ。ごまかしようは幾らでもある。


「改ざんはすぐばれてしまう。そう思ったのでしょう? 台帳の数字はわたしも目にするものだから。気づいてしまうかもしれない。あなたは目的を果たすまでは免職になるわけにはいかなかった」


 仮に今回が失敗しようとも別の罠にかけるだけのことだ。同じような虫食いの罠を。


「その方がいろいろと都合がよいものがありましたので」

「そうね。あなたはベラを動かした。彼女に命じて、城で留守を預かるあなたの代わりに、ひそかに真剣を模擬決闘に紛れ込ませた。……道理で彼女が戻ってくるのが遅かったはずです。そうしてあなたは武器庫に真剣を紛れ込ませた。祭日で、しかも城主のわたしがいないときといったら、人がまばらになるのも当然でしょう。『予備が必要になった』、とでもいえば、鞘に納められた剣を祭用の剣と思って、持ち運びをさせたりもできるでしょうね。刃先を見なければ、瓜二つでしょうから」

 そのとき、雲がさっと陽を隠し、辺りの色をくすませた。マクスウェルの顔に影がおりる。明から暗に移り変わるにつれて、彼の表情が沈痛さを帯びているように帯びていた。


「あなたは賢い男です、マクスウェル。あなたのしたことはぎりぎりのグレーゾーン。……決定的に罪である、という地点の一歩手前。罪悪感はあろうとも、決して大きな刑罰には値しない」

「あからさまに手を汚すな。そういうご命令でしたので」


 誰の、とは聞かない。わたしでないなら、答えは一つだけなのだから。彼が仕えた主はもうひとり。

 司教のために自ら手を汚す必要などない。……あいつが落ちるときは、運が悪いだけ、ひっかかるあいつが悪いのだ。

 よく知っていた人の、悪意に満ちた声が耳に囁いてくるようだ。普段はおくびにださなかったけれど……それでも時間が経つにつれて、ああそうだったのか、と得心することがある。

 自分にないものが相手にはある。その妬ましさ。わたしにはオーウェンがいたように、あの人にとって、それは叔父が持っていたものだろう。

 叔父の美貌。

 両親の愛情。

 伴侶の恋情。

 欲しいと思うほど、持っている者を妬ましく思う。羨ましいから、妬ましいのだ。それを持て余し続けていたら。卑屈にならざるをえないとすれば……ああ、だから、あの人はあのとき……。


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