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夫であるバスチアンと出会ったのは幼いころのことだ。もちろん、当時は相手が決まったばかりの縁談相手だとは思わずに、父親がきまぐれで連れてきた他領の君主の息子だと言う認識だった。貴族の領主の娘として当然のことながら、政略結婚であることに間違いはない。夫婦間はまずまず良好であったと言っていいだろう。決定的に仲がこじれることもなく、彼は礼儀正しいこともあったし、わたしを大事にしてくれた。
それでもわたしにはバスチアンの本心をすべて見通せたわけではなかった。
――優しくしなければ、罪の意識を感じてしまうのだよ。
夫がその言葉に何を込めていたのか、すべての謎解きは終わっていなかった。夫が消える直前に言っていた言葉なのに、わたしには情報が足りなかった。頭の隅で引っかかるばかりで、重要だとわかっていても何も繋がらない。
随分前に捨て去ったはずの疑念が再び泡沫となって水面に浮かび上がってくる。そのきっかけは……自分でもわかっている。
「イゾルデ様。もうすぐ礼拝の時間でございます」
ベラが呼びに来て、自室の椅子から立ち上がった。質素な白いドレスに、コーラルの首飾り。白い手袋を身につければ、礼拝堂に出向くには適当な服装となる。
祈年祭三日目は祭りの中日にあたるわけだが、この日には宗教関係の儀礼が立て続けにある。女伯として参加しなければならないものもいくつかあり、すべて終えるのは深夜となる。晩餐にも気が抜けない。
「……教会の使者の方は到着しましたか?」
「はい。明け方ごろに」
予定通り、といったところか。
「叔父様の名代として、当日すべて取り仕切ってくださると聞いていますが」
「はい。教皇猊下の命を受けた同じ修道会の修道士の方が三人いらっしゃり、そのうちの一人が務められるそうです」
そう、と口の中で呟き、唇を引き締めた。
「調査隊の方から何か報告があったら知らせなさい。ああ、そうでした、彼らに祭用の剣を作った鍛冶屋にあたるように命じなさい」
「鍛冶屋……でございますか。かしこまりました」
祭用の剣はごくわずかな鍛冶屋、その中でも一流の職人しか作ることを許されていなかった。これは祭用の剣を城に納めることはトゥアーの鍛冶屋の最高の名誉であるためだ。
鍛冶屋のギルドが以前提出した報告によると、祭用の剣を作る栄誉を与えられている職人は現在五人。それぞれ多くの徒弟を抱え、親方として采配を振るう。技術的にも、機密保持の点から見ても、彼ら五人の誰か。その中で祭用の、しかも禁じられている真剣を作り上げることができる人物とは?
わたしは頭を振って、思考を追い出した。これ以上は何も導けそうになかった。調査隊の報告を待った方が有益だろう。
「参りましょうか、ベラ」
彼女は静かに頭を下げた。白い手袋をはめ直し、コーラルの首飾りにそっと触れる。
淡い橙の玉の連なりは心を安堵させるものがある。
ふいに町にいるオーウェンのことを思う。
ああ、そういえば。今年彼に与えた「証」の釦は、コーラルでできたものだったか――
教皇の使者は三人。その代表にあたるのはパーシヴァルという男だった。すっぽりかぶった頭巾の前から燃えるような赤毛が零れている。一直線に引き結ばれた薄い唇が印象的であった。
「不慮の事故に遭われた司教に代って儀礼に加わりましたこと、何卒ご了承くださいませ」
見た目は思っていたよりも若いが、声は不思議と老人を思わせる深みのある声だった。
「構いませんよ。急の呼び出しに応じてくれたことに感謝いたします。教皇猊下にも感謝の言葉をお伝えください」
ええ、と頷いて、わたしの差し出した手に口づけを贈る。
時刻はすでに夕方に差し掛かっていた。儀礼と晩餐の合間のこの時になって、ようやく使者と直接言葉を交わすことが叶ったのだ。
「さて、手短に申しあげましょう、パーシヴァル卿」
わたしはまずそう言い置いてから、手を石の玉座に置いた。
「今回のこと、実に遺憾でなりません。ですから、こちらで今できるだけの調査をさせております。しばらくお待ちいただきたいのです」
「構いません。猊下のお考えはどこまでのものか存じませんが、修道士である私としましては伯家の領分に立ち入るつもりはございません。……ただ教皇猊下に納得していただける報告をさせていただきたく」
物の道理がわかった男である。下手に嗅ぎまわられるより余程いい。
いいでしょう、と言い置いてから、相手を見定める。
「しばらくこの城で逗留なさい。一日に一度、叔父への面会を許します」
有り難うございます。パーシヴァルは慇懃な一礼を返す。
「しかし、司教はいまだお目覚めになっていないと聞いておりますが」
ええ、と返事にも溜息が混じる。
「医師に詳しい話を訊ねてください。……教皇猊下にはこうお伝えください。叔父はもう、猊下の助けにはなりません、と」
教皇との繋がりが薄くなってしまうが、どうしようもない。叔父の役目はもう果たせないだろう。それならば、新たに親類から誰か聖職についてもらう者を探し、先々代のように養子として貰い受けることを考えた方がよい。
「確かにお伝えいたします」
「今回のこと、事故かはたまた故意の出来事であったかの判別となるでしょう。叔父という糸車は無数の糸が絡み合ったままで動いていました。……教会内の叔父のことで気になったことがあれば教えなさい」
パーシヴァルの瞳がかちりとわたしを捉えた。薄茶色なのだと、その時初めて知る。
「私の知る限り、司教は、誰よりも修道士に相応しく、誰よりも相応しくないお方でした。教皇猊下への忠誠は、猊下が教皇の座につかれるはるか前より捧げられ、また神への信仰にも並々ならないものがあると存じます。布教活動も熱心に行い、南方へと伝導しにいかれたこともございました。異教徒には断固とした態度で臨まれた。……確かに派閥の中で、かの方が個人的にしたことで恨まれることもあったでしょうが、今の教会において決定的な確執があったわけではありません。むしろ、今回のことで派閥の一角が揺るがされ、今までの絶妙なバランスを失いつつあります。我々教会での争いは、無関係であるとみていいと思われます」
この男は教皇に使わされただけあって、教会の中枢に通じているはず。嘘をついている様子もなさそうだった。
「ですが」
彼はさらに続ける。眼光がきつくなったように感じた。言葉じりが鋭くなる。
「女伯さまには身に覚えがあるように存じます」
顔が一瞬にして強張るのがわかった。彼を軽く睨む。
「その言葉、不興を買うと知っていながら発しているのでしょうね?」
彼はかえって怯えることを知らず、堂々とわたしの視線を受け止める。
「もちろん、軽々しくいうことではないことは百も承知。しかし、周囲にいる者が誰もが感じていたことを彼らに代って代弁するのは、私の役目と心得ています。……ここ数年の司教は表面的には変わらずとも……狂っておられた。女伯さまのために」
狂っていた。そう言われれば、そうだろう。叔父は自分が聖職者であることを忘れてしまっているような行動を取っていた。先日の忌まわしい出来事の直前の言葉のように。叔父は、わたしを手に入れたがっていたのだから。
「かつての司教はその地位にふさわしいだけの不遜さと清廉さを持っておられた。……だからこそ、我々は、司教を変えてしまった女伯さまが憎い」
わたしは眉を顰めた。
「叔父が狂ったのはわたしのせいだと? 叔父は一人で狂って行ったのに?」
「人は皆、身分や階級以前に人である。これが教会の教えの一つです。女伯さまは司教に対して、女伯としての返事はしていても、女伯さまご自身のお答えを出していましたか」
そして。パーシヴァルは祈るかのように瞑目した。
「一体、あなたさまが愛したのは誰なのですか――」
わたしは皮肉気に顔を歪めた。口を開いて潜めた声でこう告げる。
そんな者がいたとしたら。
わたしは、今ここに座ってはいないでしょう。
わたしが愛したのは誰なのか。
その問いが平静という名の湖面に一滴のしずくを垂らし、静かに波紋を広げていた。




