【潜入と疑念】
[PM 6:49] /○○区・歓楽街、駅前広場。
帰宅ラッシュもピークを迎え、老若男女でごった返す広場の銅像前に、素行の悪そうな女子高生が一人、ストラップのじゃらじゃらとついた携帯電話を片手に待ち合わせをしていた。
「レイナちゃん……?」
おずおずといった調子で声をかけられ、振り返ると、四十代前後のスーツ姿の男が立っていた。
「田口さん、だよね?」
「あ、あぁ……」
どことなく人目を憚るような男に対し、少女はけろっとした顔で言う。
「よかったぁ~。もう来てくれないかと思ったよ?」
「い、いや……」
男は落ち着かない様子で答え、なにやらしきりに辺りを気にするような素振りを見せる。男の顔色から不安と後ろめたさを感じ取った少女は、にこっと人懐っこい笑顔を浮かべ、矢庭に男の腕を引いた。
「ねぇ、何きょろきょろしてんの? おじさん、怪しいよ~? あー、もしかして、こういうのあんまり慣れてないとか?」
「ん……まぁ。キミの方は随分と慣れてるみたいだな」
「え~、今時こんなの普通だよ~? 友達もみんなやってるしぃ~」
「そ、そうなのか?」
「うん。っていうか、早く行こっ? レイナ、お腹すいちゃった」
「あ、あぁ……」
ぎこちない笑顔を浮かべつつ、男は誘われるがまま、歩き出す。
親しげに腕を組み、歓楽街の雑踏を行く二人の姿は、親子とも思えず、明らかにソレと判るのだが、この辺りでは別段珍しいことでもないため、気にする者もいない。
レストランで夕食を取ったあと、二人はラブホテルに向かった。
「お先~♪」
先にシャワーを浴びた〝レイナ〟が、バスローブを羽織って浴室を出ると、田口はベッドのところでそわそわしながら煙草を吹かしていた。
「おじさん? シャワー空いたよ?」
〝レイナ〟は濡れた髪をタオルで撫でながら、田口の許に寄って行く。
「……っ」
吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた田口は、切羽詰った顔であたふたと立ち上がり、いきなり〝レイナ〟に飛びつくと、湯上りの体を無理やりベッドの上に押し倒した。
「きゃっ、おじさん!? ちょっと待っ……!」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
すっかり鼻息を荒くした田口は、馬乗りになって少女の胸元をまさぐり、乱暴な手つきでバスローブを脱がそうとする。
「嫌っ、……ちょっと待っててば! ねぇ!」
〝レイナ〟の抵抗でようやく手を止めた田口は、やけに熱っぽい目をして合意を求めるような視線を注いで来る。
「いいだろ、このままでも……」
開き直りに近い態度で下心を隠そうともしない男に、組み伏せられたままの〝レイナ〟は嘆息を漏らす。
「もぅ、しょうがないなぁ……。でも待って? おじさん、ちょっと煙草クサイから香水つけてあげる。そしたらシよう? ね?」
「あぁ……」
少女はハンドバッグからピンク色の香水を取り出してキャップを取る。
「はい。それじゃあ、こっちを向いて?」
「ん……」
何の疑いもなく振り返る男。瞬間、プシューッと一噴き。
少女は男の伸びきった鼻っ面に、睡眠薬入りの香水を噴きつけた。
「――なっ!?」
驚愕の表情を浮かべた男は直後に昏倒し、ベッドの上ですやすやと寝息を立て始める。
「フフ、おやすみ~♪」
エンコー少女〝レイナ〟こと――Ms.チェリーベルは、乱れたバスローブの襟元を直し、それから田口の背広を探って財布を取り出した。
「えーっと……これか」
勤務先の入館証明書とIDカードを見つけ、ハンドバッグから取り出したカードリーダーで素早く中のデータを読み取る。
それが完了するとさっさと着替えを済ませ、部屋を出た。
その際、ベッドで眠る男に一言声を掛けて行く。
「おじさん、これぐらいで済んでよかったね? 私が本当に悪い奴らの手先だったら、奥さんや会社にバラすとか脅かされて、何百万円も強請られるところだったのよ? これに懲りたら、もう二度と援助交際なんて馬鹿な真似はしないこと。じゃあね~♪」
小さく手を振って、ベルは休憩所を後にした。
***
――今回の任務は、全国各地に百貨店を運営する白鳥グループの本社から指定されたナンバーのファイルを奪取すること。該当するファイルの所在は第一資料室と記されていたが、資料室のどの辺りに、どんな形で保管されているのかまでは判らない。まさか本番で探すのに手間取るなんてことはありえないので、事前に潜入調査が必要ということだった。
そこでまずはドクターに、社員の携帯端末やPCのアクセス履歴を片っ端から調査してもらい、見込みをつけた十余人に出会い系サイトを装った勧誘のメールを吹っかける。その結果を見て、中でも反応の良かった庶務課の『田口』という男にターゲットを絞り込み、ベルにハニートラップを仕掛けて貰ったのだ。あとは彼女が盗み取ってきたデータを基に、ドクターが偽のIDカードと入館証明書を作り、潜入の手筈が整う。
サラリーマンに扮した俺は、堂々と正面玄関からセキュリティーをパスして社内に潜入し、対象となるファイルの保管場所ほか、館内の警備体制も一通り見て回った。……そこで得た情報を基に最終的なプランを組み立てる。
「――白鳥グループの本社は十五階建ての巨大な高層ビル。見ての通り少々複雑な構造になっている。うち一階から四階までは各種店舗になっていて、百貨店フロアの営業時間は午前十時~午後九時半迄。平均して一日二千人前後の一般客で溢れてる。問題の資料室があるのは十三階にある、この場所だ」
俺は広げた見取り図に、マーカーで印をつけていく。
一通り情報を整理したあと、ドクターが溜息まじりに言った。
「問題は夜間の警備に雇われとんのが傭兵上がりの精鋭部隊っちゅーことやな? 当然まともにやりあっちゃあ、命が幾つあったって足らへんわ」
ベルも人差し指を唇に当てて、悩ましげな表情だ。
「かといって、これだけ人の多い昼間の時間帯に仕掛けるのは、リスクが大きすぎますしね……」
「どちらにしたって、今回の作戦には陽動が必要だ。ドクターには例によってサイバー攻撃を仕掛けてもらう。向こうの警備網、通信網をハッキングして思う存分撹乱してくれ。あとは俺とベルのどちらかが囮になって、階下の百貨店へと傭兵を引きつける。その間に潜入役がファイルを奪取、両者すみやかに脱出するというのが無難だろう」
「そんで? どっちがどっちの役に就くんや?」
緊張感に欠けたドクターの問いに、俺は少々頭を悩ませる。
うぅむ……。問題はそこだな。
軍人上がりの衛兵を相手にする以上、陽動役には死の危険が付き纏う。
しかし、潜入役には相応の技術が必要だ。
今回は特に、潜入場所が高層ビルの上階にあるという任務の都合上、簡易トラップに引っ掛かった場合など、逆に逃げ場がない……。
俺が思案に思案を重ねていると沈黙を破ってベルの方から申し出があった。
「ミスター、陽動は私がやります」
驚いて振り返ると、彼女は静かに意を決した表情で言う。
「潜入には不安があるけど、囮役なら今の私でも出来ると思うんです」
「いや、しかしだな……」
「ウチはベルっちに賛成やで?」
俺の言葉を遮って、ドクターがベルの意見を後押しした。
「心配性やねん、アンさんは。どっちにしたって危険なことには変わらん。せやったらお互いの得意分野で割り振るのがええやん? それに陽動の方やったら互いの位置情報とか、脱出経路とか、ウチにもサポート出来る。そんかし、アンさんのフォローには回れんくなるけど、そっちは大丈夫やろ? 潜入はアンさんの得意分野なんやし」
「あぁ、そうだな……」
俺は二人の意見を取り入れ、最終的な段取りを決めた。
「――よし、陽動はベルに任せる。ただし常にドクターの指示を仰ぎつつ、相手からは十分な距離を保って事に臨むこと。敵はその道のプロだ。間違っても交戦はするな。そして危ないと感じたら、すぐに離脱しろ。俺のことは気にしなくていい。こっちはこっちでなんとかする。いいな?」
「はい……!」
「ドクターも、ベルのサポートを頼むぞ?」
「あいよ、任しとき」
「作戦の決行は明後日の深夜未明、各々の配置・準備が完了し次第とする。ドクターはそれまでに各種装備の点検、ベルは任務に備えて体を休めておけ。潜入工作は昼間のうちに行っておく。客の出入りが激しく警備が手薄な時間帯を利用しない手はないからな。午後0時に一旦ここへ集合すること――」
「「――了解」」
***
アジトでの打ち合わせを終えて、俺は夜道を帰途に着く。
無論、途中立ち寄ったコンビニのトイレで変装は解いた後だ。
T字路に差し掛かり、直進方向からこちらに向かって歩いて来る人影に、ふと目を留めた。
「ん……?」
向こうも俺に気づいた様子で、大きく手を振りながらこっちに駆けて来る。
「おーい、良太兄ぃ~!」
妹の杏奈だ。斜め掛けにしたエナメルバッグを腰の辺りでぽんぽん跳ね上げながら、俺の前までやって来る。
「今バイトの帰り?」
「あぁ……お前こそどうしたんだ、こんな遅くに?」
「えへへ、ちょっとバイト先で長引いちゃってね」
俺は腕時計の文字盤を確認した。
「もう十二時まわってるぞ? いくらなんでも遅すぎやしないか?」
「だってしょうがないじゃん。こっちもお仕事なんだから」
「仕事ったって、お前まだ学生だろ。大体なぁ、十八歳未満は夜十時以降働いちゃいけないって法律で決まってるんだぞ?」
「そんなこと言ったら、良太兄ぃだって同罪じゃん」
「うっ……」
今のは完全に墓穴だった。
まぁ、俺の場合はそもそも裏稼業なので労働基準法もクソもないのだが。
犯罪まみれの身で、妹に法の遵守を説くのもなんだか気まずい。
俺は咄嗟に論点をすり変えることにした。
「そういうことじゃなくてだな、お前も一応、若い女なんだ。こんな夜遅くに一人で出歩いて、何か遭ったらどうするんだよ? ちょっとその辺の危機感というか、自覚が足りてないんじゃないか?」
「あー、それならへーき! だってあたし、強いもん!」
ぐっ……。
確かに、それは言えている。
俺でも正面からこいつと戦って、勝てる自信はあまりない。
「痴漢や変質者なんて、一発で仕留めてやるんだから!」
そう言って「シュッ!」と鋭く正拳突きの構えを見せる杏奈に、俺は隣を歩きながら頭を抱えた。
――というのも、杏奈は中学まで空手を習っており、その実力は全国大会でベスト4にその名を連ねるほどだといえばわかりやすいだろうか。
とにかく小さい頃から運動が得意で活発な奴だとは思っていたが、どうやら妹には格闘技の才能があったらしく、あっという間に黒帯を取って以降、通っていた道場の師範らから〝我が道場、始まって以来の神童だ!〟とおだてられ、出場する大会では、そのほとんどで優勝を飾ってきた。
残念ながら高校入学を期に、学業に専念するという大義名分のもと、惜しまれながら道場を去った杏奈だが、その実力は未だ衰えておらず、つい数ヶ月前も見事ひったくり犯を捕まえ、警察から感謝状を貰っていた。
警察からその功績を讃えられる妹の傍らで、スパイである兄(俺)は肝を冷やしているという……いや、あれは本当に、心臓に悪い出来事だった。
まぁそんなことはともかく、杏奈が並の女子高生じゃないことは確かだ。
しかし、これに関しては反論の余地などいくらでもある。
例えば武器を持った男たちに大勢で襲われたら、いくら杏奈でも勝ち目はないだろう。それに正々堂々戦うことを義務付けられているスポーツ格闘技とは違い、現実の悪党に守るべきルールなんて存在しない。――不意打ち・闇討ち・騙まし討ち、どんな手を使ってでも、勝ちさえすればそれでいいというのが裏社会の常識だ。何事も直線的で正攻法を好む杏奈との相性は最悪だろう。……しかし、そんなことをいちいち説いて理解させるのも面倒なので、ここは手っ取り早く、兄の権限を行使させてもらうことにした。
「ええい、やかましい! これはお兄ちゃん命令だぞ。今後は夜十時以降の無断外出を禁ずる! 言いつけを破ったら、毎月の小遣いは差し止めだ」
「え~っ、そんなぁ……!」
叔父さんの名義で毎月口座に振り込まれている生活費その他諸々の費用はすべて俺が管理している。というか、実際は俺が稼いだ金なのだから当然のことだが。杏奈は抗議の声を上げる。
「横暴だぁ!」
「口答えをするな。若干十六歳の女子高生を、こんな夜遅くまで働かせるようなブラックな会社など断じて許すわけにはいかん!」
「ん、むむむむ~っ!」
俺が頑固オヤジのような態度を示すと、杏奈は唇をへの字に引き結んで低く唸った。厳しいようだが、俺には両親に代わって妹を育てる責務がある。それにただでさえ杏奈はちょっと抜けているところがある、というかまぁ、単刀直入に言って〝バカ〟だ。世の中のことも、この俺がきちんと教えていかなければならない。
「はぁ、もう……わかったよぅ、今度から気をつけるからさ?」
「いいか? バイト先にもちゃんと断っておけよ? お前が自分の口から言いにくいということなら、俺が代わりに話をつけてやる」
「えっ……イヤイヤイヤっ、いい! それはいいから!」
何故か唐突に慌てふためいて、ぶんぶん両手を振りながら猛烈に嫌がる杏奈。俺は不審に思って聞き返した。
「なんだ? 俺に電話されると困るようなことでもあるのか?」
「いやいや、別にそうじゃないけど……っていうか、普通に恥ずかしいじゃん! 家族からバイト先に電話してもらうなんて!」
まぁ、それは至極もっともな言い分だが、しかし怪しい。
大体、杏奈は普段から嘘を吐くのがかなり下手な方だ。
さてはこいつ、何か隠してやがるな。
俺は確信に近い直感を拾い読んで、さらに鎌をかける。
「そういえば、俺、お前がどこで何のバイトをしているのか、まだ聞いてなかったよなぁ?」
「ギクッ!」
いや、ギクッてお前、口で言うなよ……。
「まさかとは思うが、ヤバイ仕事じゃないのか?」
「そっ、そんなことないよー?」
嘘だ。目が泳いでる。
「おい、杏奈。お前、援助交際なんてやったら只じゃおかないからな」
「ばっ、馬鹿じゃないの!? そんなのするわけないじゃん! もう最低! 良太兄ぃのスケベ! 変態! エッチ・スケッチ・ワンタッチぃ~!」
まぁ、俺もこんな時代遅れなギャグ(?)を使う奴が援助交際なんて女らしい真似できるとは思っていないが。
「隠したってダメだ。本当のことを言え」
「ぐぅ……なっ、内緒だもん」
「何故だ?」
「友達の紹介だから、勝手に色々言っちゃいけないの!」
「どうせ股のユルイ友達から、ハゲ散らかったオジサマと〝お食事に行くだけ♪〟の簡単で割の良いバイトでも紹介されたんだろう!?」
「だから違うってばぁ!」
顔を真っ赤にしながらエンコーの線を強く否定した杏奈は、それから小さく溜息を吐いて語り出した。
「詳しいことは事情があってやっぱり言えないけど、今のバイトは私の憧れっていうか、小さい頃からの夢だったの。今はまだ見習いで、今日なんか待機してばっかりだったけど……でもね、今度やっと仕事に就かせて貰えることになったんだよ? なんかね、あたし今、すっごいワクワクしてるの!」
具体的なことは言えないというのが気にかかるが、杏奈の瞳は子供のようにキラキラしていて、嘘を言っているようには見えない。
しかし、こいつの小さい頃からの憧れって何だろう?
少なくとも、ケーキ屋さんとか、お花屋さんとか、そういう如何にも少女が憧れるような職業にはまるで関心がなかったような気がする。
どっちかといえば、今も昔も特撮ヒーローとかアクション映画とかが大好きな奴で、俺と一緒に男友達の輪に入っては、なんとかレンジャーごっことかを喜んでやっていたような記憶がある。
やはり、ちょっと心配だな……。
しかし、こういうときの杏奈は至って頑固だ。
この場でいくら問い詰めても絶対に白状はしないだろう。
まぁ、とりあえず、明日・明後日の仕事が片付いたら、杏奈のバイト先について少し探りを入れてみよう。俺はそんなことを考えながら妹と二人、明かりの消えた夜の住宅街を歩き、揃って帰宅した――。
***
――作戦当日……。
[PM 3:15] /白鳥グループ本社・1F百貨店エリア
今日は日曜日だということもあって一般客も多く、エスカレーター脇の一角では今度発売される新商品の販促イベントが行われていた。
「いらっしゃいませー」「どうぞお試しください」
大勢の老若男女が行き交うフロアで、際どい衣装に身を包んだキャンペーンガールたちが商品の試飲を勧め、子供には無料で風船を配るというサービスを行っていた。一部カメラを抱えて集まった客層の間では、単なるコスプレ撮影会と化していたが、それもまた業務の一環といった感じで、キャンペーンガールたちは目線やポーズの要求にも愛想良く応じている。
お盆の上の紙コップをすべて配り終え、補充に戻る少女のところに、休憩から帰って来た同僚が声をかける。
「お疲れ。ユーナちゃん、休憩まだだったよね? 私が代わるから」
「あ、はい。それじゃあ、あとよろしくお願いします」
少女は小さく頭を下げて、持ち場を離れた。
従業員通用口を通って、一旦更衣室に向かう。
「ふぅ……」
キャンペーンガールの一人として現場に潜入していたMs.チェリーベルは、ロッカーの中からポーチを取り出して、目的の場所を目指す。
***
「オーライ、オーライ――」
建物の裏手、搬入口には次々とトラックが停まり、積み荷が降ろされていた。名簿を片手に品目と品数をチェックする担当の男に、段ボールを抱えた作業着姿の運送屋が一人近づいてきて声をかける。
「これはどこに運んだらいいんっすかねぇ?」
「んー? あぁ、それは三番倉庫だ。とりあえず番号順に重ねて置いてくれ」
「へーい」
ずぼらな返事を返し、作業着姿の男は倉庫の奥へ。すれ違う他の男たちに「お疲れーっす」と声をかけながら、何食わぬ顔で三番倉庫を通り抜け、商品搬入陽のエレベーターに乗り込んだ。扉が閉ざされると同時に、目深に被ったキャップの下から覗く、鋭い双眸。
運送屋を装って内部に侵入したMr.ノーボディは、鮮やかな手際で天井の蓋を外す。依然、停止状態のエレベーター。外から足音が聞えてきた。
「ほら、さっさと積み込んじまうぞ」「うっす」「あれ? 扉が閉まってる」
ボタンが押され、ドアが開いた。
「――――」
間一髪、籠の上へと飛び移り、蓋を戻したノーボディは、キャップと作業着を素早く脱ぎ捨て、潜入用の手袋と暗視ゴーグルを装着する。そうして本物の運送屋たちが足元でダンボールを積み込んでいく間、換気扇を取り外し、脇の通気口から鼠のように、埃っぽい天井裏へと潜入を開始した。
***
「――おい、こんなところで何をしている?」
そそくさと警備室へと通ずる関係者用通路を歩いていたベルは、見張りの衛兵から声をかけられ、その場で呼び止められた。
「あっ、すいません……。ちょっと、道に迷っちゃって……私、今日が始めての出勤だったので……」
もじもじと弁解するベルの背格好を訝るように見て、衛兵は口を開く。
「イベントガールか。ここは従業員も立ち入り禁止だぞ」
「ごめんなさい……あの、でも……」
「何だ?」
衛兵は高圧的な態度でどことなく挙動不審なベルを威嚇する。
ベルは下腹部の辺りを押さえてそわそわしながら、上目遣いに言った。
「トイレを、貸してもらえませんか……?」
「何? それなら戻って従業員用のを使え。ここから先は許可証のない者を通すわけにはいかない」
「お願いです……。もう我慢できないの。おしっこ漏れちゃいそう……」
赤らんだ頬、上擦った吐息、熱っぽく潤んだ瞳――。
スリットの入ったミニスカートから覗く生足は内股気味に、両手で下腹部を押さえるポーズが、大きく開いた衣装の胸元を強調し、ぎゅっと両側から押しつぶされた柔らかな双丘の谷間に、否応なく視線が吸い込まれる。
「んぐっ……」
衛兵はごくりと喉を鳴らして、生唾を飲み込んだ。
それから取り繕ったように、咳払いを一つ。
「……仕方ないな。付いて来い」
「ありがとうございます」
警備室前のトイレに案内され、ベルはキュートな笑顔で一言お礼をいった後、いそいそと中に入って鍵を掛けた。
「……」
廊下に残った衛兵はそれとなく周囲を窺って人通りがない事を確かめたあと、こっそり扉に耳を寄せ、中から聞えてくる音に耳を澄ませた。
扉を隔てた向こう側、がさごそと衣擦れの音が聞こえたあと、ややあってジョロジョロと勢い良く水音が耳に届き始める。衛兵は密かに想像力を発揮しながら、息を荒くして中の音に聞き入っていた。
――ベルはポーチの中に隠し持っていたスポイドを使って便器に水を垂らしながら、同時進行で便器の裏にドクター特製の装置を取り付けていた。
細かい配線や難しい作業は予めドクターが済ませている。
彼女は胸の谷間やスカートの奥に隠し持っていた部品をそれぞれ取り出して簡単な組み立てを終えた後、ポケットから一枚の板ガムを取り出して包み紙を解く。リトマス試験紙のように、中央で赤と青に別れた珍妙な物。
Dr.レミントンの開発したスパイグッズ――〝ガムガム・ボンバー〟だ。
一見普通の板ガムのようだが、赤の部分と青の部分にはそれぞれ違う成分の薬品が練り込んであり、二種類の色を馴染ませるように租借して粘土状に柔らかくしたあと、強い衝撃、または熱を加えることで途端に爆発する。
ベルは口に放り込んだガムが、きっちり紫色になるまで丁寧に租借したあと、それを接着剤代わりに装置の動力部分を便器の裏に貼り付け、携帯電話で指定されたコードを入力・発信する。信号を受け取った装置が、便器と壁の僅かな隙間で赤い豆電球をチカチカと点滅させ始め、準備が完了した。
レバーを引いて、ジャーッと水を流し、個室トイレを出る。
扉を開けて外に出たところで、先ほどの衛兵とばったり顔をあわせた。
「おほん、こほんっ……!」
衛兵は何やら慌てた様子で咳払いをし、取り澄ました顔で言う。
「……随分、長かったじゃないか」
男が扉の前で聞き耳を立てていたことに気づいていたベルは、小悪魔的な微笑を浮かべ、密談を持ちかけるように衛兵の耳元に唇を寄せた。
「――実は私……今日、あの日なんです」
「ぇ、あっ……(察し)」
「フフ、それじゃあ~」
なんとも言えない表情で立ち尽くす衛兵を残し、イベントガール姿のベルはさっさとその場を去って行った――。