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SECRET≠BUDDY  作者: 早見綾太郎
SCENE.02 『さらば愛しき天使よ』
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【日常と暗躍】


SCENE.02『さらば愛しき天使よ』


 深夜、薄暗い一室に、カタカタとキーボードを叩くタイピングの音だけが軽快に鳴り響いていた。PCのモニターに映し出されたオンラインゲームの操作画面では、巷で〝神〟と噂されるプレイヤーが、卓抜としたキャラクター操作によって他の利用者を圧倒し、縦横無尽にバーチャルライフを謳歌している。だが、現実にそれを操る少女の顔は何故か不満げだ。

「はぁ……」

 不意に手を止めた彼女は、退屈そうに溜息を一つ。

 椅子の背凭れにどっぷり体重を預けながら、マグカップを取って中に入っていたフルーツ牛乳をちびちびと口に含む。

「つまらん……」

 酷く感情のない声で呟いたあと、少女は[Esc]キーを叩いて、バーチャル世界へと通ずる窓を閉じてしまった。卓上のデジタル時計に目をやる。

 ――[AM 4:30]

 カーテン越しに、外の景色が薄っすら明るくなり始めているのが判った。

 疲れた様子で、しばらくぼんやりとした少女は、それから何か思い立ったようにソフトを立ち上げ、モニターに『時間割』を表示する。

 本日の日程表を見て、嫌いな体育の授業がないことを確認すると、少女はなにやら思案するように頬杖をつき、ん~と低く唸った。

 それから考えること、十秒と少し。

「まぁ、たまにはええか……」

 些細な気まぐれを起こしたかのように椅子を立ち、少女は身支度を整えるため、部屋を出て備え付けのバスルームに向かった――。


              ***


 朝、いつもの時間に起床した俺は、いつものように家を出てタラタラと歩き、いつものように遅れて教室に入った。

「……影村くん?」

「ぁ、はぃ……わかってます」

「わかってます、じゃないでしょ? もう、あなたって子は~」

「せせっ、先生は今日もお綺麗ですね。ムフフッ……」

「そんなこと言って、誤魔化そうとしたってダメですからね? まったく」

 例によって担任の赤城教諭と一悶着あったあと、クラス中の冷たい視線を一手に引き受けながら自分の席に向かう。

(――おっ……?)

 なんだ。珍しいこともあるもんだと、心中で独りごちる。

 というのも、俺の隣席(窓際)に不登校児・誉ミサキの姿があったのだ。

 こいつはなかなか出て来ないレアキャラだ。この前に見たのは、もう一ヶ月以上も前のことだったような気がする。

 普段、当たり前のように空席だった席が一つ埋まるだけで、クラスの風景が随分と違って見えるのはなんとも不思議なものだ。とはいえ、別に誉が目立っているというわけではない。というより、誉ミサキは大人しくて地味な生徒だ。彼女が誰かと口を利いている姿なんて、それこそ見たことがない。

 大体、窓際の一番後ろの席で、こぢんまりと動かない置物になっているのが、俺の誉に対するイメージだった。

 久々の登校だというのに、誉は朝一番から、そのミニマルな体躯をちょこんと丸め、腕に顔を埋めている。HRが終わり、一限目が始まっても、誉は相変わらず机に突っ伏したまま、教科書を読んだり、ノートを取ったりする気はないようで、教師も別段それを注意することはない。まぁ、こんなんでも成績は学年トップだという話もあるし、それでなくとも不登校な生徒に対する教師の態度というのは、腫れ物に触れるみたいな対応になりがちである。

「……」

 俺がついつい珍しくて誉を観察していると、なにやらこめかみの辺りに凶器のような視線を感じた。何気ないふうを装って振り返ると、思った通り、隣の席のコギャル(桜坂鈴音)が、横目でじっと俺のことを睨んでいる。

 大方、誉をジロジロ見ていた俺のことを気持ち悪がっているんだろう。

 ったく、仕方ねぇな。それじゃあ、ちょっと構ってやるか。そう思った俺が『アハッ♪』ってな感じで爽やかに微笑み、キラッ☆とウインクを返してやると、桜坂は「おぇえっ」とえづいて「せんせぇー、ちょっと気分が悪いのでトイレに行って来ていいですかぁー?」とあてつけのように申告した。

 教師から了承を得た桜坂は、フッと鼻を鳴らして俺を嘲笑い、ケイタイを片手に悠然と教室を出て行く。なんだか負けたような気がして、俺は少しムッとした。……あいつ、またあとで泣かしてやるからな。


              ***


 ――[PM 5:11]

 学校から帰宅すると、妹がリビングでテレビを観ていた。

 内容は昨日の深夜に放送されていたアニメ番組を録画したものらしい。

「あっ、良太兄ぃ、お帰り~」

 俺に気づいた杏奈は一度振り返ってそう言ったが、俺が「ああ」と答えると、それっきりすぐにまた目線を画面へと戻した。

「お前、今日はバイト休みか?」

「うーん……」

 見事な生返事。ソファーの上に体育座りをした杏奈は、片手に持った煎餅をボリボリと齧りながら、目の前のテレビに集中している。

 杏奈が一心不乱に観ているのは『女神を胸に抱くとき』とかいう、いかにもなタイトルの暑ッ苦しいSFバトル物で、画面上では、やたらとギラついた目つきの男たちがズタボロになって死闘を繰り広げている。

 なんだかよくわからないが、杏奈はこの手の作品を好んで視聴していた。

 年頃の女子高生だというのに、こんな頭の悪い中学生男子しか見ないような厨二バトルのどこがいいのか、俺にはさっぱり理解できないし、理解したいとも思わない。まったく世の中おかしなことばかりだ。

「フッ、満月の夜は血が騒ぐぜ……!」

 杏奈はテレビに出て来るキャラクターの口真似をして、「キャーッ、カッコイイ~!」等と一人ではしゃいでいる。なんか軽いトランス状態のようだ。

 前々から思っていたのだが、こいつは俗に言う中二病ではなかろうか。

 闇の炎とか、魔術とか、そういう胡散臭いの大好きだしなぁ……。

「フンッ、キサマが今泳いでいるのは、誰の涙が作った海だ?」

 どういう台詞なんだよ、そりゃ……。

 困ったものだと頭を抱え、俺が兄として真剣に妹の将来を心配していると不意に杏奈の方から声を掛けてきた。

「良太兄ぃは今日もバイト~?」

「ああ。たぶん遅くなるから、晩飯は先に食ってていいぞ?」

「あ~い」

 背中を向けたまま、聞いているのかいなのか、適当な返事をした杏奈は、それから再び「あばよ、虚しき断罪と復讐に生きた俺――」とテレビに出てくるキャラクターの真似をし、「キャーッ、痺れるぅ~!」と騒いで身悶えている。ダメだなこりゃ……。俺は呆れて嘆息し、リビングを後にする。

「戸締りだけはしっかりしておけよ」

「んー、行ってらぁ~」

 食べかけの煎餅を持ったまま手を振る杏奈に送り出され、俺はさっさと自室に戻ると、本日の会合に向けて身支度を始めた。


              ***


 ――変装セットをバッグに詰めて家を出た俺は、その後、駅のトイレで着替えを済ませ、荷物をコインロッカーに預けると、電車に乗って待ち合わせ場所へと向かう。

 ちなみに、今日のなりきりコンセプトは二十代前半のバンドマンだ。

 金髪メッシュの長ったらしいカツラに、鋲のついたTシャツ、黒のレザージャケット、破れかぶれのジーンズを穿き、銀の指輪やらネックレスやらをジャラジャラと付けている。仕上げにソーダ味のフーセンガムを口の中に放り込んで、くっちゃくっちゃふてぶてしく租借しながら、がに股で、踵をパコパコ引きずる感じに肩で風切って歩く。

 待ち合わせ場所のコンビニに辿り着くと、店の前、駐車場のところに座り込んでいるヤンキー女がいた。

 付けまつげと濃すぎるアイシャドウで目の周りを真っ黒に染め、パーカのフードを被って、ピンク色の派手な髪を胸元に垂らしている。

 女は俺に気づくと、大儀そうにこちらをやぶ睨みしながら、噛んでいたガムをぷくぅ~っと膨らませ、赤い色のフーセンを作った。

「……」

 俺も噛んでいたソーダ味のガムを膨らませ、水色のフーセンを作る。

 僅かな目配せのあと、俺は何事もなかったかのようにコンビニの前を素通りした。ピンク髪のヤンキー女は何気ないふうを装って駐車場をあとにし、歩調を合わせて俺の隣に並ぶ。女は前を向いて歩きながら言った。

「今日も完璧な変装ですね、ミスター?」

 俺もそれとなく周囲を警戒しながら、声を落として答える。

「お前こそなかなか堂に入ってる。レディースの経験は?」

「ありませんよ、そんなの。フフ……」

 不良カップルを装った俺とベルは、そのまま歩いて、本日のオークション会場であるライブハウスへと向かった――。

 入り口の立て看板に『本日貸し切り V系バンド・MOON LIGHT 単独ライブ会場』の文字を確認して、地下へと通ずる細い階段を下りて行く。

 ムーンライトの主催するスパイオークションは、秘密保持の観点から、毎回異なった開催場所が指定され、また様々な体裁に偽装されている。

 例えば、どこかの学校の同窓会であったり、結婚披露宴であったり、葬儀であったり、珍しいものでいくと、ナイトクルージングと称して船上で行われるなんてパターンもあった。

 そして、その開催場所・日時・催しの名目はすべて当たり障りのない広告メールとして一斉に伝達され、会員はその都度、時と場合に合わせた変装をして参列するのが、組織の決まりとなっている。

 ――[PM 6:56]

 例によって入り口のホール前でチェックを受けたあと、俺たちは会場へと通された。狭く薄暗いハコの中に、胡乱な輩たちが雁首を揃えている。

 俺たちと同じように、不良チックな格好をしている者もいれば、普通に一般客を装っている者もいる。オークション開始前のホール内には控えめなボリュームで客入れ用のロックなBGMが流れていた。

 定刻になって扉が閉ざされると、爆音と共にステージ上が色鮮やかなカクテル光線によってライトアップされる。

 エキストラのバンドがオープニングナンバーを演奏し、舞台袖から司会の男が、「ヒャッハァー」とさながら世紀末覇者のように躍り出てきた。

「クソ野郎とビッチどもッ!! 今日はよく来たなァアア!!」

 男のアジりに対し、集まった会員たちは声を揃え『YAH~!』と野蛮に応える。「金が欲しいかァー!」「仕事が欲しいかァー!」「依頼を取りてぇかァー!」と扇動する男に合わせて『おぉー!』と熱くレスポンスを返し――。

「暇な奴らめッ、それじゃあお望み通り、狂った夜会を始めてやるぜぇ!!」

 ――盛大な拍手と共に、いよいよオークションが始まった。

「今日の一曲目は(株)●●マーケティングからの依頼だ!」

 手持ちのタブレットに詳細情報が転送されて来る。

「競りに参加する奴は勝手にしろ、それ以外の奴らは音にノッて踊り狂え! 準備はいいなテメェら!? いくぜーッ!!」

 俺は表示された任務の内容・入札開始額の項目を確認して、このオークションに参加するの『はい』をタッチした。

「オークション・スタートだァアア――!!」

 男の宣言と共に、歓声が巻き起こる。

 エキストラバンドが怒涛の勢いで攻撃的な演奏を繰り広げ、舞台上のスクリーンに金額の推移が表示される。俺はひとまず様子を見ていた。

 今回の入札開始額は500万円。それほど大きな額じゃない分、十万ずつ、五万ずつ釣り下げていく小刻みな競りになるだろう。

 入札額が400万を切ったところで、ようやく俺も手をつける。

 現在の金額が380万か……。うぅむ、――370じゃ、端数が出るな。

 俺は〝360万円〟でこのオークションに入札した。

 これより下回る額で他の会員から入札があった場合、この依頼は流す。

 数秒後、俺のタブレットに『おめでとうございます! このオークションはあなたが落札しました!』の文字が表示された。

 オークションの終了に伴い、バンドの演奏がエンディングを迎える。

「サンキュー!!」

 拍手と歓声に沸き立つ狭いハコの中、続いて二曲目の紹介に入る舞台上の男を尻目に、俺はベルの肩を叩き、目線で〝行くぞ〟と出口を示した。


              ***


 例によって依頼に関する詳細データを受け取るため、控え室に通される。

 正直、気が重い……。俺の憂鬱は、恐らく控え室の方で待ち構えているであろう女と、すぐ隣にいる相棒、両者に起因するものだ。

 そうして俺は、――Ms.コニーレッドと対面した。

 長机の端に腰をかけ、細い煙草を吸っていた彼女は、俺たちの姿を目にするや否や淫蕩な笑みを浮かべ、高いヒールを打ち鳴らしてこっちに寄って来る。ブロンドのエアリーな髪に厚化粧、毛皮のストール、今日は彼女も場所柄に合わせてか、なんとなくヤクザの愛人みたいな雰囲気だ。しかし、やたらと露出度が高いのは相変わらずである。

「フフ、待ってたわよ。ダーリン?」

 どことなく嗜虐的ともいえる笑顔で、安っぽい挑発の言葉を投げかけるコニー。そんな誘いに俺が乗るはずもないことは向こうも承知しているはずであり、ターゲットは俺ではなく、俺の隣にいるベルなのだ。

「……」

 案の定、ベルはムッとした表情で、ピリピリと剣呑な雰囲気を漂わせていた。豊満なバストとくびれた腰を揺らして遠慮なく距離を詰めてくるコニーレッドと俺の間に割って入り、彼女は毅然とした態度で物を言う。

「あの、余計なことはいいので、早くデータを渡してください」

 コニーはベルを無視して、俺に語りかけた。

「もぅ、ダーリン? 子供を仕事場に連れて来るなんて感心しないわね?」

「私だって一応、ここの会員ですから。――おばさん」

 ベルの一言は思いのほかクリティカルを突いたらしく、コニーは余裕を装って笑っているが、こめかみでは血管がピクピクと動いていた。

「うふふ……なあに? あなた? 失敗続きでチームのお荷物のくせに、まさかこの人の正妻気取りなの? 呆れて物も言えないわね」

「そっちこそ。あなたの話はミスターから聞いてます。お金のためなら体も心も簡単に売る、淫乱女だって」

「私たちは大人の関係なの。お子様は幼稚園でお飯事でもしてなさい?」

「あなたこそ、二度とうちのミスターに色目を使ったり、変なちょっかいをかけないでください。はっきり言って迷惑です」

「随分な物言いね。だけどそんなこと、あなたに言われる筋合いはないわ」

「いいえ、あります。私はミスターの現・パートナーですから!」

 二人が醜く言い争う光景は、傍から見るとヤクザの愛人とレディースの幹部が張り合っているように見えて、ちょっと異常だ。

 きっと何も知らない人間がこの状況を見れば、一人のチャラ男(俺)を巡って、爛れた三角関係が修羅場を迎えているのだと勘違いするだろう。

 大人の色気を武器に人を食ったような態度がお得意のコニーと、精神的に子供で挑発に乗り易いベル――。そんなベルも体の発育は決して悪い方ではないと思うが、女としての力量ではやはりコニーに一日の長がある。その代わりベルには年齢的な若さというコニーにとっては少々耳に痛いアドバンテージがあって……とまぁ、はっきり言ってこの取り合わせは色々最悪だ。

 そもそも、どうしてこんなことになってしまったのか……。


 ――原因はいうまでもなく、悪女・コニーレッドにある。

 

 近頃やたらと俺に絡みたがるこの女が、顔を会わせるたびにベタベタと色仕掛けを迫って来たせいで、アジトに集まった際、あるときドクターが俺の服から女物の香水の匂いがすると騒ぎ出したのだ。

 二人に問い詰められ、正直にコニーのことを白状してしまった俺も馬鹿だと思う。それで一気に機嫌を損ねたベルとドクターは、こんなときだけ意気投合して何やら相談を交わし、その結果ベルが、次からは自分もオークションに同伴すると言い出したのだ。

 俺は絶対、面倒なことになると思っていたので、ベルをコニーに引き合わせたくはなかったのだが、俺が彼女の申し出を断ると「嫌なんか!? やっぱり、やましい事があるんとちゃうんかい!?」「ミスターっ!」と二人がかりで散々責められ、結局こういう形になってしまった。

「――大体、あなたが悪いのよ!?」

「――それはこっちのセリフですっ!!」

 俺は尚も言い争う二人の姿を、何十歩も引いた気持ちで漫然と眺め、深々と溜息を吐く。もう、勘弁してくれ……。


              ***


[PM 8:42] /○○区・(有)NRCラボラトリー


 あれから一悶着も二悶着もあってようやくデータを受け取ることが出来た俺は、すっかり疲弊して、ベルと二人アジトに向かった。

「ミスターも気をつけてくださいよ? あの女はキケンです! ゼッタイ、誘惑に乗ったらダメですからねっ!?」

「あぁ、そんなに念を押さなくても分かってるよ。コニーのことは俺の方がよく知ってるんだ……」

「またそんなこと言って。私は今後も、ミスターのガードを続けますから」

「はぁ……もぅ、勝手にしろよ」

 辟易した気分でセキュリティーをパスし、玄関の扉を開けると、部屋の置くからドタドタと慌ただしい足音を立てて、またウルサイのがやって来た。

「ベルっち、どうやったッ!?」

 鼻ヒゲ眼鏡ドクターの問いに、ベルは手で丸を作って答える。

「バッチリ言い負かしてやったわよ!」

「よっしゃあー、でかした~」

 パァンと、祝砲のようにクラッカーを鳴らして、二人はキャーキャー大はしゃぎ。……うるっさいなぁ。

「やっぱりドクターの言ってた通り、私が〝おばさん〟って言ってやったらあの女、見事に動揺してたわ!」

「うへへへへ~ッ、ええ気味やんなァ! あの■■■■女~!」

 女三人寄れば姦しいというが、二人でも十分すぎるほどだ。

 ていうか、いつの間にこんな仲良くなったんだよ、こいつら……。

 共通の敵を前にして、ライバル同士が手を組んだってことか?

 カリオストロ伯爵を前にした、ルパンと銭形みたいに。

 ……俺も例えが古いな。

 ともかく、このまま放っておくと長引きそうだ。さっさと二人を集めて、ブリーフィングを始めることにしよう。今回の依頼も少々難物だ……。


              ***


[AM 0:40]

 ――眠らない街・金恋市の夜景を一望出来る高層ビルの一室で、男は革張りのソファーに深く腰を下ろし、ブランデーの入ったグラスを傾けていた。

 部屋の明かりはすっかり落とされ、薄暗い室内はひっそりとした深夜の静謐に包まれている。青白い月明かりと、街並みの放つ、金貨の海のような輝きだけが、一面ガラス張りの壁面を通して、部屋の様相をぼんやりと照らし出していた。……カツカツと透き通った空間に足音を響かせて、背後の暗闇から、浮かび上がるように姿を現す女。

 男は動じることなく、前を向いたまま言った。

「ノーボディの懐柔は芳しくないか……」

「正直なところ、これ以上は時間の無駄かと――」

 女は上着を脱いでソファーの淵に掛け、男の隣に腰を下ろすと、空いたグラスに慣れた手つきで新しく水割りを作り始めた。

「コニーレッド。お前ほどの女でも、やはり奴の心を動かすのは難しいか」

 男の言葉に、女はくすっと微笑を漏らし、指先でグラス内を一掻きすると、氷が縁に当たってカランと音を立てる。

「もとより、彼の性格はマスターもよくご存知のはずでしょう?」

「あの年頃で女の一つも知ろうとせんとは、相変わらずつまらん男だ」

「その辺のお堅さは、父親譲りかと」

「フン、そうだったな……」

 差し出されたグラスを受け取りながら、男は女の肩を抱いて側に引き寄せた。女はされるがまま、男の胸にこくんと頭を傾ける。

「まぁいい。奴をこちら側に引き入れられれば、余計な手間が一つ省けると思ったまでのこと。最初からあまり期待はしていなかったさ」

「――それじゃあ、予定通り、ノーボディは〝処分〟するという方向で、宜しいのですね?」

「ああ……。残念だが、奴が味方につかんということであれば、大人しく消えてもらうしかあるまい。すべてを明かしてはいないが、それでもこちらの手の内を知っている以上、生かしてはおけん。敵の手駒に取られても厄介だからな。頭痛の種は早めに取り除いて置くに限る」

「了解しました」

 男はグラスをコースターに置いて、葉巻を手にする。

 女は即座に金色のジッポを取り出し、その先端に火をつけた。

「それで、アプリコットの方はどうなっている?」

「そちらの方は順調に。素質でいえば兄以上かと」

「フフ、血は争えんもんだな。すぐ使えそうか?」

「えぇ……。ただ、その……」

「何か問題が?」

「彼女は少々、頭の方がユルイようで……。その点、兄に遅れを取る可能性があります」

 男は吸い込んだ紫煙を一気に吐き出して答えた。

「構わん。そこはお前の方で上手く誘導しろ。残念ながらアレを一流のスパイに育て上げている暇はないのだ。捨て駒として使うには、少々惜しい気もするが、それもノーボディを倒すための生贄と考えれば安い物だ。最終調整にはあとどれくらいかかる?」

「今日の依頼を受けて、恐らく一両日中にも動き出すかと思いますので、それまでにはなんとか」

「先方から取引を急ぎたいと通達があった。この件は早急に片を付けねばならん。手配を急げ」

「――はい」

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