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SECRET≠BUDDY  作者: 早見綾太郎
SCENE.01 『秘密の相棒』
3/15

【スパイ連合】

              ***


 夕方、一日の授業過程を負え、帰宅した俺はシャワーを浴びたあと、本日のパーティに出席するためのスーツ他、必要な変装グッズをエナメルバッグに整理して詰め、早々に家を出た。

 自宅から直接、変装して行ければ楽かもしれないが、変装した姿で妹とばったり鉢合わせしてしまっては面倒なことになる。それに行き帰りで尾行される危険性も考えれば、やはりここは慎重にならざるを得ない。

 家から離れたところにある公衆トイレで、着替えと身支度を済ませ、駅のコインロッカーにバッグを預けた後、電車に乗って本日の会場へと向かう。

 プラットホームで、偶然クラスメイトの連中と居合わせたが、すぐ隣に立ったところで、今の俺を、影村良太だと認識できる奴はいない。

 今日のコンセプトは、三十代前半のエリート証券マンだ。

 髪はオールバックで固め、縁なしの眼鏡に、手入れの行き届いた顎鬚。スリーピース・ネクタイピン・腕時計・革靴もすべて相応の質で揃えた。

 電車で二駅、そこから徒歩で十五分。メールで送られてきたマップを確認しながら移動を続け、十八時四十五分、会場である某ホテルに到着した。

 ロビーで立て看板を確認すると、七階大ホール・(株)マルチアングル『新規会員様、歓迎&説明会』となっている。なるほど、今日はそういう名目か……。無論、この社名も催し内容もすべて架空のモノだ。

 エレベーターで七階まで上がり、ホールの入り口前で、受付を行う。

 その際、角膜の照合によって本人確認がなされた。

 ピピッ、と瞬く間に機械が登録されたアカウントを照合し、

「――会員番号B41182様ですね、お待ちしておりました」

 承認を終えると、受付の者が、専用のタブレットと、番号の書かれたプレート、それに仮面舞踏会御用達のアゲハ蝶を模ったアイマスクを手渡す。

 仮面を着け、ナンバープレートを胸につけると、俺は会場へと通された。

 ホール内にはいくつもテーブルや椅子が用意され、参加者と同じく仮面を着けたボーイやメイドが、飲み物・軽食などを優雅に配って歩いている。

 既に四十人ばかりの紳士・淑女が、会場には集まっていた。

 しかし見知った顔などない。仮面など着けずとも、皆、俺と同じく毎回変装スタイルを変えて来るので、そもそも素顔などわかるはずがない。当然、誰一人として名前も知らない。参加者は固定の会員番号ですらなく、入場の際に渡された胸の番号札で呼び合う。しかし、積極的に交流を図ろうとする者もいない。会員同士、話をしている者の声に耳を傾ければ、皆、恐ろしく中身のない上っ面だけのやり取りをしていた。

 それもそのはずだ。なにしろ――。


 ――ここにいるのは、全員〝スパイ〟なのだから……。


 俺は近くのテーブルに着き、メイドから渡されたシャンパンのグラスに口をつけながら、パーティの開始時刻を待つ。

 刻限になるとホール入り口の扉が一斉に閉ざされ、スピーカーから緩やかに流れていたクラシック音楽がフェードアウトすると同時に、バッと照明が落ちた。暗闇の中、代わりに段上の巨大スクリーンがでかでかとライトアップされ、舞台の袖から、司会を務めるタキシード姿の男が現れる。

「会場にお集まりの皆さん、大変長らくお待たせしました! それではこれより、本日の催しを始めさせていただきます――」

 男の前置きが終わり、開始のブザーが鳴らされた。

 スクリーンにスライドが映し出される。

「オークションナンバー01/(株)介山建設様からのご依頼です。お手元のタブレットをご覧ください」

 指示に従って電源を入れると、すぐさま依頼の詳細情報が送られてきた。

 画面をスクロールして、内容を確認する。

 ……なるほど、依頼内容は対立する篠山不動産に握られた汚職の証拠資料を奪取することか。それほど難しい仕事じゃない。問題は依頼額だ。

 スクリーンにその額が表示される。――三・五か……。

「入札開始額は、350万円からとなります。入札希望者の方は、このオークションに参加するという項目の『はい』を、それ以外の方は『いいえ』をタッチしてください。一分後に参加者の募集を締め切り、オークションを開始いたします。それでは、どうぞ――!」

 男の掛け声と共にシンキングタイム開始のブザーが鳴って、専用の音楽が流れ出す。俺はさして迷うことなく『いいえ』をタッチして、この依頼を見送った。難しくはない仕事だが、いかんせん報酬額が少ない。ここからさらに百万は落ちるだろうから、それを三等分して、さらに必要経費を引いて……なんて計算していたら、せいぜい俺の手元に残る金額は三十万ちょっとだ。

 終了のブザーと共に、参加者の募集が締め切られ、そこから参加を表明した者たちによって競りが開始される。

 しかし、参加者が誰なのかということは本人にしかわからない仕組みになっており、スクリーンに映し出されるのは金額の推移だけだ。

 350万から始まったオークションは――320……300……280……250――と、順調に値が落ちていき、最終的には俺の予想よりもさらに五十万下回る、二百万円で落札が決まった。まぁ、ツーマンセルの小規模なチームならこれでも妥当な額かもしれない。かくいうウチも三人所帯だが、こっちには高給取りの引きこもりが一人いるので、そうもいかない。

「――続きまして、オークションナンバー02/花山コーポレーション様からのご依頼です……」

 今度は入札開始額・三千二百万円からの大仕事だったが、こっちは内容の方が相当厳しい。相手があの超大手企業で施設の護衛に傭兵を抱えているとなれば、いくら報酬が良くても、こっちの命が足りない。最終的に二千六百万円という額で落札されたが、恐らく受けたのは、二十人規模の一流諜報員を抱えた大所帯のチームだろう。さもなければ、こんなものは自殺行為だ。

 その後も、様々な理由で、俺は依頼を見送ってゆく。

「――続きましては本日の目玉、オークションナンバー07/R&Fカンパニー様からのご依頼です!」

 内容は、最近に入って頭角を現してきた新興企業の研究施設から、新型液体燃料の研究データを奪取すること。入札開始額が八百五十万か……。なるほど、この内容でこの額なら、三百は落ちるだろうな……。仮に五百万で落札したとしても、少なく見積もって百万近くは俺の手元に残る計算だ。

 タブレットに表示された『はい』の項目をタップして、入札に参加する。

 予想通り、五百五十万円まではあっという間に値が落ち、そこからは寸刻みで徐々に他の入札者を振るい落としていく。結局、予定よりも二十万ほど下回る、四百八十万円でこの依頼を落札した。

《――会員番号B41182様、おめでとうございます! ★このオークションはあなたが落札しました! お手持ちのタブレットを返却し、係員の案内に従って別室までお越しください》

 タブレットの表示を確認して、俺は席を立った。出入り口付近で待機していた係りの者に端末を返し、そのまま誘導に従ってホールを後にする。


 ――裏稼業も今や制度化の時代である。

 金恋市では、いくつかの連合組織がスパイ市場を取り仕切っており、俺の所属する『MOON LIGHT』もその内の一つ。

 会員制で、強制力はないものの、数々の大手企業と伝があり、政財界への口利きもできるという……『MOON LIGHT』を始めとする連合団体に属さない者は、まずまともな仕事にありつくことが出来ない。ここムーンライトでは不定期に『クラブパーティ』という体裁のもとオークションが開かれ、企業から『MOON LIGHT』に持ち込まれた依頼を、そこで一件ずつ競売に賭けてゆく。パーティにはそれぞれのチーム代表者が集い、競売はダッチ・オークション方式で、もっとも低い値をつけた者がミッションを請け負い、差額は『MOON LIGHT』側の取り分になるという仕組みである。


「こちらです」

 俺を別室まで案内した係員は、扉を開けて俺を誘い入れたあと、「失礼します」と頭を下げてから、早々に持ち場へと戻って行った。

 俺はそこで待っていた真っ赤なカクテルドレスの女と対面する。

 女の目元には、俺や他の連中と同じ、蝶を模ったアイマスク状の仮面。

 素顔は窺えない。だが、俺はこの女を知っていた。

 そして、この女も、俺のことを知っている……。

「会員番号B41182様ですね?」

「ああ……」

 かつかつと高いヒールを打ち鳴らし、危険な香りが、自慢のスタイルをひけらかすかのように歩み寄って来る。

「それとも、こうお呼びした方がいいかしら?」

 女は艶やかなリップを歪めて、妖しく嗤った。


「――Mr.ノーボディ」


 女の口から出たその単語に、ぴりぴりと神経が張り詰める。

「いいや、結構だ」

 俺も女の挑発的な態度にあわせ、相応の返答をしてやった。

「……それに、ここでは確かナンバーで呼び合うのが規則じゃなかったか?えぇ……? ――Ms.コニーレッド?」

 沈黙の中、俺たちは気の置けない視線を交え、冷ややかに嗤いあう。

 ――俺たちはかつて同じチームにいた。

 それも二年前、『MOON LIGHT』が創設される以前のことだ――……。

 

「この度はムーライト・取引仲介サービスをご利用いただき、ありがとうございます。早速ですが、ご利用規約の説明に移らせていただきます」

 コニーレッドは完璧な営業スマイルで、いつもの定型文を話し始めた。

「――例によって、貴方、もしくは貴方のチームに所属する諜報員が、死亡または拘束を受けた場合、如何なる理由であっても、当局は一切関知いたしませんのであしからず。万が一、依頼を遂行できなかった場合――依頼料の全額返金はもとより、依頼金の半額分を〝詫び料〟として、返金額に上乗せしていただきます。宜しいですね?」

「ああ……」

「それでは、今回の依頼に関する詳細なデータをお渡し致します」

 そう言ったコニーレッドが端末に専用のコードを打ち込むと、背後の引き出しが自動的に開いて、防護ケースに収められたディスクが出現する。

「閲覧の際に必要なパスワードは会員番号に設定しております。極秘の資料ですので、お取り扱いには十分ご注意ください。尚、本ディスクからデータの読み取りが可能なのは一回のみとなっております。開封後一定時間が経過しますと、ディスク内の全データは自動的に消去されるようプログラムされておりますので、予めご留意ください」

 コニーレッドはそう言って取り出したディスクを俺に差し出す。

 だが、俺が受け取ろうとすると、ひょいっとその手を引っ込めた。

「……おい」

 フフッ、と微笑んだコニーレッドは口調を戻して親しげに言う。

「ところで、ミスターN? このあとのご予定は?」

「アンタに教える義理はない」

「冷たいのね」

「秘密主義は職業柄だ。お互い様だろ……」

 俺は端的に言って再びディスクへ手を伸ばす。するとまた、性懲りもなくするりと俺の手を躱したコニーレッドは、淫蕩な表情で防護ケース入りのデータディスクを真っ赤なドレスの隙間から覗いた胸の谷間に差し込んで俺に見せる。遊ばれているのだと分かっていながら、俺は少々苛立った。

「……どういうつもりだ?」

 猫のように俺の脇にすり寄ったコニーは、仮面の下から覗く瞳に蠱惑的な光を宿し、絡めた二の腕に吸いつくようなバストを押しつけてくる。

「ねぇ、ミスターN? ……私と組まない? 今よりもっと割りの良い職場を紹介してあげるわ? 悪い話じゃないと思うけど?」

 ……なるほど、そういう魂胆か。

 俺は警戒を強め、努めて固い声を出す。

「その様子じゃあ、また何か企んでるようだな、コニーレッド」

 女は決まりきったように首を振って、媚びた眼差しを向けて来た。

「違うわ、純粋にあなたを見込んでいるのよ? あなたはこんなところで下請け仕事なんかやってるような器じゃない。現に――〝実体を持たない男(ミスター・ノーボディ)〟の噂はあちこちに広まってる。あなたさえその気になれば、もっと高いところでいくらでも大きなビジネスが出来るわ?」

「ノーボディが高級ブランドだったのは先代までの話だろう。俺は才能も実力もないただのコソ泥だよ。買い被りすぎだ」

「あなたこそ自分の実力を過小評価しすぎてる。それに心配なのよ、あなたのことが。……私の気持ちは、わかってくれないの?」

 耳元に絡みつく、甘えたような声。

 いじらしい女の指先が、情欲を掻き立てるように胸板をなぞる。

「さぁ、わからんね」

「……もうっ、鈍い男は嫌われるわよ?」

「浮気女ほどじゃないだろう」

 そっぽを向こうとする俺の頬を、柔らかく両手で挟み込んで、コニーレッドは無理やり自分の方へと顔を向けさせた。

「愛してるの、あなたが一番よ……」

「随分と強引だな」

「これくらいじゃなきゃ、あなたは分からないもの……。引き篭もりとお嬢ちゃんが相手じゃ、あなただって退屈でしょう? あなたには、この私こそ相応しい。私のところに来て? 気持ちいいこと、たくさんしてあげる……」

 俺の両腕を自らの腰に強く巻きつけながら、彼女は甘く囁いた。

「ねぇ、キスして……?」

「――いいのか、俺は本気にするぞ」

「えぇ……」

 つんと上向きに唇を据えて、女は密やかに目を閉じる。

 ぎゅっとコニーの柔らかな腰を強く抱き締めた俺は、首を傾けながら顔を近づけて、そのまま唇を重ねる……と、思わせたところで素早く躱し、胸の谷間に挟まっていたディスクケースを銜えてそのまま引き抜いた。

「……!」

 驚いた顔で、ぱっと目を開けるコニーレッド。

 俺は口に咥えたディスクを見せつけるように嗤い、絡みついた女の身体を払い退けて踵を返す。背後からコニーの溜息が聞えた。

「相変わらずつれないのね?」

「悪いが、新興宗教の勧誘とアンタの誘い文句だけは、例外なくお断りすることに決めてるんだ。臆病な性質でね」

「後悔するわよ……?」

「アンタこそ。裏切りは女のアクセサリーというが、それも行き過ぎると身を滅ぼすぜ? それから香水を変えた方がいいな。前々から思っていたんだが、そいつは少々匂いがキツすぎる」

 背後で微笑を漏らす僅かな息遣い。数秒の間を置いて。

「ご忠告ありがとう。またのお越しを――」

 妙に含みのあるマニュアル通りの台詞が、耳に届いた。

「任務の成功を、心よりお祈りしていますわ?」

「……」

 俺は無言のまま部屋を出た。

 受付で仮面とナンバープレートを返却し、エレベーターに乗り込む。

 ――まったく、油断のならない女だ……。

〝Ms.コニーレッド〟

 その美貌と魅惑的な体躯、挑発的な態度で幾人もの男を篭絡し、あらゆる任務を成し遂げてきた魔性の女スパイ。主に諜報と潜入の任務に長け、裏切りや破壊工作はお手の物。二重・三重のスパイ活動だってしばしば。目的のためとあれば誰とだって簡単に寝るが、利用価値なしと判断された者に関しては容赦なく切り捨て、あるいは殺す。血も涙もないやり方で、あらゆる組織を転々とし、そのどこにおいてもある程度の地位を確保してきた。

 守銭奴で金狂いの利己(エゴ)主義者(イスト)……。まったく、諜報員の鑑だな。

 人間としては間違いなく最低最悪の部類だが、闇の商売人としては一流と言わざるを得ない。

 思えば二年前、あの女が俺の元居たチームを抜け、当時・創設後間もなかった『MOON LIGHT』に鞍替えしたのも、結果的には正しい判断だった。

 その後、『MOON LIGHT』を模範とした大規模な連合組織がいくつか立ち上がり、あっという間にスパイ市場を独占してしまうと、それまで独自のルートで仕事を得ていた俺たち中小規模のスパイチームは一気に飯の食い上げとなった。結局のところ多くの中小組織は解散を余儀無くされ、食いあぶれた組織の残党たちは余り者同士で即席の小隊を組み、こぞって連合組織の傘下に吸収される運びとなったのだ……。

 そしてそれは、俺の元居た組織とて例外ではない。

 コニーレッドの脱退とマスターの失踪により、組織は事実上の解散状態。

 俺は残った二人の諜報員とチームを編成、現在に至る――。


              ***


 パーティ会場のホテルを後にした俺は、そのまま電車を乗り継ぎ、仲間の待つアジトへと向かった。電気街の一角にあるボロけた雑居ビルの二階。

『(有)NRCラボラトリー』という、一見して何の会社かさっぱり判らないこの寂れた事務所こそ、現在、俺たちのチームが根城としている隠れ家だ。

 外観こそ築云十年の古ぼけた建物だが、その実、ドクターの手によってセキュリティーは万全に整えられている。周囲に設置された超小型監視カメラによって既に俺の来訪は、中に居る二人には筒抜けとなっているはずだ。

 狭く薄暗い階段を上がる前に、脇の郵便受けを探るフリをしながら指紋認証チェックを済ませ、警報装置のセンサーをオフにしたあと、階段を上がった先にある入り口の扉――覗き穴に偽装されていた角膜認証式のロックを解除して扉を開ける。玄関先で下足箱の上に鎮座していた狛犬の置物に、IDカードを咬ませると、最後の侵入者防止システムを解除した。

 廊下を進んでリビングルームのドアを開けると、「あっ……」と、ソファーに座って髪を梳いていたベルが、慌てたように手鏡を仕舞い、可愛さを演出するみたいに表情と角度を取り繕って、笑顔を向けて来る。

「おかえりなさい、ミスター」

「ああ……」

 この女は――〝Ms.チェリーベル〟

 彼女は今から一年半前、脱退したコニーレッドの穴を埋めるため、欠員補充としてこの業界に入って来た、まだ駆け出しの新人スパイだ。

 しかし、結局のところ、それから半年と経たないうちに『MOON LIGHT』をはじめとする大規模な連合組織が台頭し、不況の波を受けた俺たちの組織が解散、直後に今の体制へと移行したため、俺としても彼女の新人教育に今ひとつ時間を割けないまま現在に至っている。だが、あれからベルも既に二桁を超える数の任務に同行し、失敗を繰り返しつつも、経験によってある程度の知識・技能を身につけている。まだまだ頼りないところの多い新米ではあるが、今の俺にとっては唯一現場を共にする実質的な相棒だ。

「ドクターは?」

「部屋にいると思います。私もさっきから声を掛けてるんですけど〝今ちょっと忙しいから声かけんといてー〟って」

「そうか」

「たぶんミスターがいらっしゃったことは監視カメラの映像で分かってると思うんですけど……」

 彼女はそう言って、冷蔵庫から取り出したミネナルウォーターをコップに注ぐと俺に差し出す。手刀を切ってコップを受け取り、俺は喉を潤した。

「これからミーティングですよね? 私、呼んで来ましょうか?」

「いや、構わん。俺が行こう」

 空にしたコップを流しに置いて、俺はリビングを出た。

 部屋の前に立つと、扉越しにタイピングの音と軽快なBGMに加えて爆発音のようなSEが立て続けに聞えて来る。こいつは、またオンラインゲームか……。俺は溜息を一つ、こんこんと扉を叩いて中の人物に呼びかけた。

「ドクター、仕事だ」

「ん~? あ~、アンさんか。ちょい待ち! あと五分やけん!」

「……分かった。とりあえずデータだけ渡すから、資料化して五分後にリビングまで来い。それから打ち合わせだ。いいな?」

「おーけぼくじょー」

 フェミニンな声に似つかわしくないオヤジギャグを言った後、扉が十センチほど開いて、そこからひょっこり白い腕が伸びてきた。指先をひょいひょいっと曲げて(ほらよこせ?)と横着に合図を送って来る。俺が懐から取り出したディスクを握らせると扉の隙間から生えた腕は引っ込んで、すぐにまた凄まじいタイピング音と「おらおら~、死に晒せや、ボケぇー! ひゃっほーぅ」などと剣呑な声が扉の向こうから響き出した。

 この引き篭もり兼、ネトゲー廃人がもう一人のメンバー。

 ――〝Dr.レミントン〟

 直接現場に赴くことはなく、諜報員として必要な技能も体力もおおよそ持ち合わせていない完璧なデスクワーク派だが、その実、天才科学者であり、凄腕のハッカーでもある彼女の存在は、チームの要といえる。

 正直に言って、ドクターの持つハッキング技術や特殊ガジェットによるサポートがなければ、俺とベルのコンビなど、それこそ、そこいらの空き巣とさして変わらないレベルなのだ。現場担当の俺とベルが、ドクターのサポート役だといっても過言ではないほど、彼女の功績は大きい。

 反面、性格には若干の問題があり、報酬も俺やベルの倍は取る。

 依頼金の分配は、まず必要経費を除いた半分の額をドクターが取り、残りの半分を、俺とベルで二等分するというのがチームの決まりだ。

 ……以上、現場担当二名、コマンドポスト一名の三人小隊が、現在・俺の所属するスパイチームの内訳である――。

 ちなみに、表の看板にある〝NRCラボラトリー〟とは、それぞれのコードネームである《Nobody》《Remington》《Cherry bell》の頭文字を取ってくっつけた物であり、特に意味のようなものはない。

 それから十分後……。

 約束より五分ほど遅れて、小冊子を抱えたドクターが欠伸を漏らしながらリビングに入ってくる。どう考えても小柄な背丈に合っていない白衣の裾を十二単の如く盛大に引きずりながら、冷蔵庫に入っていたフルーツ牛乳を取り出して、ぐびぐびと一気飲みにする。

「――遅いっ!」

 ベルは苛立った様子で、開口一番ドクターの怠慢を指摘した。

「しゃーないやん? こっちかてなぁ、色々と忙しいねん」

「忙しいって、ただゲームやってただけでしょ!」

「そうカッカしなさんな。カルシウムが足りてへんのと違うか?」

「あなたねぇ、他に何か言うことはないの!?」

「あ~、はいはい。えろうすんまへーん」

 けぽっとゲップをし、ドクターはどこまでもマイペースに、ベルの神経を逆撫でしてから、ばさっと抱えた小冊子をテーブルの上に広げた。

「……」

 俺は早速、一部受け取って、依頼の詳細が書かれた資料に目を通す。

 その横で、二人は相変わらずくだらない口論を重ねていた。

 どうにもベルとドクターは性格的に馬が合わないらしい。顔を会わせる度にこうして痴話喧嘩を繰り広げているのだから、困ったものだ。

「大体、何よその変装は? あなたこの仕事を何だと思ってるの!?」

 ベルの怒りはもっともである。

 ――裏稼業の人間にとって、機密保持と徹底した情報管理は鉄則だ。

 氏名、年齢、表向きの職業など、プライベートな情報は一切を秘匿するのが常識。他チーム間はもとより、たとえ同じチームの仲間であっても決して正体は明かさない。基本的に仲間内でのやりとりは、出来る限りメールや電話など専用の通信端末を介して行われ、直接会う際は、必ず変装し、互いに素顔は晒さないのが掟だというのに……ドクターの変装はあまりにもお粗末過ぎる。いや、これはもう変装と呼ぶのもおこがましい。簡単に言えば、パーティグッズ等でよく見かける、あの安っぽい鼻ヒゲ眼鏡をかけているだけだ。俺やベルが毎回、あらゆる年齢・職業の人間に扮してミーティングに臨んでいるというのに、こいつはいつもこんな調子である。まぁ、もともと引き篭もりで現場に赴くこともない彼女からしたら、本格的な変装などは必要ないのかもしれないが、少々スパイとしての自覚が足りていない。

 だが、ドクターには自らの怠慢をすべて正当化できる、絶対的なアドバンテージが存在した。

「はんっ、粗相ばかり起こしとる新入りに、この仕事のなんたるかが分かるっちゅーんかい? ほぉ~、ご立派ご立派! 見上げたもんやねぇ~?」

「ぐぅッ……!」

 自覚の有無はともかくとして、諜報員としての格はドクターの方が上だ。

 実際、ほとんどミスを犯したことがないドクターに対して、ベルは作戦中でもよくミスをやらかす。そこを突かれると、彼女は返す言葉がないのである。キッと恨みがましい目線を送るベルに対し、ふんぞりかえったドクターは咥えたロリポップを葉巻に見立てて、極悪人のような顔をする。

「なんや? なんか文句あるんかいお嬢ちゃん? ゆうてみぃや、ほら~」

「――何がお嬢ちゃんよ、自分の方がよっぽど幼児体型のくせにッ……!」

「アァ~? 聞えんなァ~?」

「……もうその辺にしとけ」

 俺は見かねて口を挟んだ。

「ドクターはベルをからかいすぎだ。ベルも少しは冷静になれ。お前はすぐそうやって挑発に乗るから、面白がって意地悪されるんだ」

「ミスター……」

 しゅんとして肩を落とすベルに対し、ドクターは堪えた様子もなくニシシと勝ち誇ったように笑った。……ったく。

「――ブリーフィングを始めるぞ」

 俺の宣言で、睨み合っていた二人もようやく資料を手に取った。

「今回の任務は、D社の研究施設から新型液体燃料の開発データを奪取することだ。指定された期限は十日間。対象は施設内二箇所に保管されている。……まず執務室にあるインターネット回線未接続の固定OSにオリジナルのデータが、それから資料室にある金庫にもデータを複製した資料が収められているとのことだが、依頼ではその両方を奪取せよとある。備考としてオリジナルデータの方は、盗み出したあとD社側のOSから該当する情報を削除して欲しいとあるが、これはもうウイルスにでも感染させて、HDごと破壊してしまうのが早いだろうな。――ドクター、施設の警備システムに侵入して、セキュリティーを制圧するのにはどれくらいかかる?」

「この程度なら三十分とかからんなぁ」

「今回はOSから直接データを抜き取る必要があるのだが、その辺は接続と同時に自動で作業が開始されるよう、そっちでプログラムを組めるか?」

「問題ない。任しときぃ」

 まぁ、いつも通り、ドクターなら上手くやってくれるだろう。

 心配はないな。

「あとは例によって現場の詳細情報か……」

 潜入作戦となれば、館内の見取り図や人員の配置、その他諸々の事情を考慮した上で装備を決めなければならない。

「ああ、館内の見取り図なら、資料の最後におまけで付けといたけど?」

 ドクターの言葉に従って資料をめくると、仰る通り、最後にちゃっかり施設内の解析図が付録されていた。

「どうせ必要になるやろ思うてな? 某国の監視衛星にハッキングして、さっきついでにスキャンしておいたんや」

「さすがに仕事が速いな……」

 俺は見取り図で目的の部屋がある位置を確かめ、いくつかの潜入ルートを考えた。……まぁ、どのみち衛兵の数や配置を知るため、事前に一度〝潜入調査〟を行う必要があるだろう。詳しいプランの組み立てはそれからだ。

「ひとまず、俺が明日、現場の下見をして来る。――ドクター、もう一つついでと言っちゃなんだが、D社のデータベースにハッキングして、雇用者リストを改竄してくれないか? そうだな、雑務担当の新人アルバイトってことで、適当に名義を一人分追加しておいてくれ。あとは俺の方で上手くやる」

「りょ~か~い」

 ドクターはやる気のない返事をして、やる気のない敬礼を返す。

「あ、あのぅ、ミスター?」

「ん?」

 振り返ると、ベルが伺いを立てるような表情でこちらを見ていた。

「えーっと、私は、何をしたら……?」

 そう言って、どことなく期待と不安の入り混じった視線を向けて来る。

 俺は端的に答えた。

「ベルは詳細が決まるまで、とりあえず待機でいい。恐らく数日中には実行に移せるだろうから、何か予定があるなら、先に断りを入れておけ」

「ぁ、はぃ……そうですか……」

 なんだか小さく落胆したように肩を落とす。

 俺は彼女の様子が気になって訊き返した。

「どうかしたか?」

「い、いえっ、なんでもありません! 了解です……」

「ん……そうか?」

 俺はなんとなく引っ掛かりを覚えながらも、ひとまず本日のブリーフィングが終了し、そこで各自解散となった。


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