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SECRET≠BUDDY  作者: 早見綾太郎
SCENE.03 『華麗なるスパイ大作戦』
12/15

【慰めの報酬】


 [PM 9:57] /○○区・(有)NRCラボラトリー

 刺客の追跡を振り切り、なんとかアジトに帰還した俺は、ドクターと二人、深刻な顔を連ねていた。モニターに映し出されたマップ上では、ベルの現在地を示す発信機のカーソルが、『ERROR : 信号を受信できません』と表示されたまま、虚しく点滅を続けている。

「あかん、ウチのせいや……。ウチが余計なこと言わんかったら、ベルっちは……」

 沈黙を破って落胆したように頭を抱え込むドクターに、俺は窓の外を眺めながら言った。

「……それを許したのは俺だ」

 最後にベルの所在が確認されたのは、東区にある港付近の道路。

 その後、匿名で警察に通報し、彼らの交信を傍受することで現場の情報を手に入れたが、地面に残されたブレーキ痕から、そこで何某かの交通事故が起きた可能性があるという以外、手掛かりは何も残されていなかったらしい。もとより人通りが少なく、交通量も極端に少ない郊外での出来事だ。プロの犯行である以上、目撃証言も期待できないだろう。

「ベルっち、殺されたんかな……?」

「いや、捕まったと見るのが打倒だろう。奴らの狙いは、恐らく――」

 そのとき、ポケットの中で、俺の携帯端末が高らかに鳴り響いた。

〝!!〟

 ベルの携帯からだ。目線の合図で、ドクターはすぐさまPCの前へと向かう。

 俺は深呼吸を一つ、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

 ややあって、相手が口を開いた。

『――久しぶりだな、NB』

 電話の向こうから聞えて来た男の声に、俺は驚嘆する。

「その声はっ、――マスター=ヴォイス!?」

 PCの前にかじりつき、逆探知の手筈を整えていたドクターも、思わずこちらを振り返っていた。

『スパイ連合の台頭によって我々の組織が解散となってから早一年――。その後も君たちの活躍は、いつも遠くから拝見させて貰っていたよ』

 かつての上司であり、俺をこの世界に引き入れ一人前の工作員に育ててくれた(マスター)の言葉を聞きながら、俺はようやく事の真相を理解する。

「――そうか……。Ms.コニーレッドを影で操っていたのは、アンタだったんだなァ!?」

『フフ、今更気づいたところでもう遅い……。そんなことよりもMr.ノーボディ、今日は君に折り入って相談があるんだがね?』

 低く嗤うような声。内容は見当がついている。

「……ベルをどうした?」

 数秒、こちらを焦らすように沈黙したヴォイスは、ややあって答える。

『こちらで拘束している。しかし、安全の保障は出来かねるな?』

「っ――」

『君たちが〝月光(ムーンライト)〟からの依頼で動いていることは知っている。どうだNB? ここは一つ、紳士的に取引と行こうじゃないか?』

「取引だと……」

『――今から五日後、私はとある組織のトップと、重大な契約を取り交わす。それまでの間、邪魔が入らぬよう、君の方から偽の情報を流し、そちらのクライアントの動きを抑えておいて貰いたい』

「俺に〝二重スパイ〟をやれと言うのか……」

 そうだと返事をしたマスターは、軽く笑いながら言ってくる。

『なに、心配しなくともたったの五日間だ。君はそちらのクライアントからも随分と信頼されている。そうでなくとも、Mr.ノーボディの実力であれば、この程度の任務、容易にこなせるだろう?』

「…………」

『君がこの取引に応じてくれるのであれば、人質の命は保障しよう。それに、五日後の契約が成立すれば、どのみちあの組織は崩壊するのだ。君たちはいずれ、我々の傘下に納まることになるだろう。どうかね? 決して悪い条件ではないと思うが?』

「……少し、考える時間をくれ」

『いいだろう、二日の猶予を与える。だが、その間にそちらのクライアントが本腰を入れて乗り出してきたら、この話はご破算だ。無論、人質は殺す。彼女はなかなか器量が良いからな? その前にウチで飼っている狂犬どもの餌食になる可能性があることも予め断っておこうか。そういうわけで、なるべく早い決断をお奨めするよ?』

「――わかった……」

『それではまた二日後に連絡する』

 最後にそれだけ告げて、通話は途切れた。

 俺は逆探知を行っていたドクターの方を振り返るが、彼女は意気消沈した面持ちで首を横に振る。相手があのマスター・ヴォイスである以上、当然こちらにドクターがいることも知っていたはずだ。尚且つ、絶対にバレないという自信がなければ、おめおめと電話などは掛けて来なかっただろう。

「まさか、あン人までがグルやったなんて……」

「いや、なんとなく納得したよ。Ms.コニーレッドは狡猾な女だが、一人でここまでデカイ山を踏めるほどの器じゃない。バックに何者かがついていることは最初からある程度想定していた。無論、それがあのマスター・ヴォイスだったことは驚きだが……」

「けど、どうするん? 向こうの条件を呑まな、ベルっちは殺されてしまうんやろ?」

「…………」

 無言で考え込む俺に、ドクターは恐る恐ると言った口調で尋ねた。

「組織を、裏切るんか?」

 瞬間、室内の気温が一気に10℃ほど下がったような感覚に陥った。

 俺は張り詰めていた緊張の糸を緩めるように溜息を吐き、それから告げる。

「……どちらにしたって、今このタイミングで『MOON LIGHT』に動き出されたら不味い。ひとまずは時間を稼いで、そのあいだになんとか打開策を練ってみるしかないだろ」

「せやな……」

 小さく掠れた声で同意を示したドクターの呟きが、耳に残った。

「――前門の虎に、後門の狼か。こりゃあどっちに転んでも、ただじゃ済まんやろな……」


              ***


 [PM 10:26] /市内某所。

 バシィッ――!!

「くぁあ……っ!?」

 細く白い肌から滴り落ちる大粒の汗。

 一糸纏わぬ姿に剥かれ、天井の梁から手枷で吊り上げられたベル。

 敵の手中に堕ちた彼女を待っていたのは、過酷な拷問だった。

「シュッ!」

 ピシャッ――!!

「ああっ!」

 男の振るう鋭い鞭が容赦なく少女の柔肌を打ち据えるたび、ベルは表情を歪め、苦悶の声を上げながら必死で身を捩る。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、んぐッ――けほっ、かはッ……!」

 男は宙吊りで拘束されたベルに厳しい責め苦を与え続けながら、繰り返し詰問する。

「アジトはどこだ? 仲間はどこに居る!? 言えッ!!」

 バシィッ――!!

「きゃああっ!」

 ビシィッ――!!

「くふぅ……ッ!」

 バシンッ――!!

「ひぎぃい!?」

 男はその大きな手のひらで彼女の髪を鷲掴みにし、大声で脅しをかけた。

「おい! あんまり強情はってると、カラダ中、傷だらけになっちまうぜ? もう二度と好きな男とイイコトできないようなカラダになりてぇのか!? あぁっ!? なんなら、もっと痛い目みさせてやってもいいんだぜッ!? どうなんだ!」

「ぃ、いやっ……んぁ、もぅ無理……だめ……ダメなの……もぅ、やめっ――!」

「へへっ、全部吐いたら、楽にしてやるよ! オラァ!! 吐け、この雌犬がッ!!」

 バシィッ――!!

「いやぁああああああああああ――――ッ!!」

 生々しい鞭の痕は、既にお腹や背中だけではなく、乳房の周りや、下半身、お尻や太ももの辺りにも、全身の至る所にくっきりと浮かび上がっていた。

 男たちの恫喝と、ベルの悲鳴がこだまする室内で、入り口の扉付近に佇んだマスター・ヴォイスにMs.コニーレッドが問い掛ける。

「よろしかったのですか? ノーボディに取引の日取りまで教えてしまって……」

「構わん。奴はあの娘を見殺しに出来ない。断言してもいい」

 ヴォイスは腕組みをして、ベルの拷問風景を眺めながら悠然と言い切った。

「しかし、だからといって、こちらの味方につくとは限らないのでは?」

「ああ、だからこそ猶予を与えてやった。二日間、あいつは血眼になって俺たちを捜すだろう。しかしそれが無駄に終わればあとは大人しく両手を挙げる。アレはそういう男だ」

 コニーレッドが納得したように頷き、不意に鞭を打つ音が途切れる。

「――……」

 過酷な拷問に耐え切れず、ベルはがっくりと宙吊りのまま意識を失っていた。

「捕らえた子ウサギから巣の場所を聞き出せれば、話は早いのだが……」

 恥部を露わにしたまま痛ましい姿で眠る少女を見て、ヴォイスは冷酷に鼻を鳴らす。

「どうやらあの娘の方が先に、限界が来そうだな」

「そのようですね」

 興味を失ったように背を向けて、ヴォイスは手下の男たちに指示を出した。

「交代でここを見張れ。痛めつけても構わんが、殺さぬ程度にしろ」

『ハッ!』


              ***


 [AM 2:47] /市内某所。

 快適な速度で郊外の道を走る黒塗りのセダン。

 あれからすぐに緊急のアポイントメントを取り付けた俺は、その日の深夜に指定された場所で落ち合い、ドライブがてらに後部座席でクライアントの男と面会していた。

 運転席に座っているのは、依頼を受けたあの日、俺を迎えに来た例の美人秘書風の女。

『MOON LIGHT』の管理下にある車内は三人きり、ここでの会話が外部に漏れる心配はない。そこで俺は早速、男に状況を説明した。敵の首謀格が、かつての上司であり、育ての親であるマスター=ヴォイスであったということ、そして肝心の取引が五日後に迫っているということ、しかし、以前として敵の居場所は掴めていないこと……。

 俺の話を一通り聞き終えた男は、確認するように一つ頷いてから口を開く。

「なるほど、分かりました……。五日後ということなら、もう組織の面子がどうこうという場合じゃない。あとは我々の方で全力を挙げて対処しますので、当初の誓約とは異なりますが、あなた方への依頼は一旦ここで打ち切らせて頂きます。報酬につきましては、当社の不始末にご尽力いただいた謝礼の意味も込めまして、当初提示させていただいた額の半分をお支払い致しますので、それでご了承いただけますか?」

 男の言い分はもっともだ。報酬に関しても、依頼を完遂していないにも関わらず半額の五千万円を支払うというのだから、文句のつけようがない。しかし――。

「それが……」

 口ごもる俺に、男が尋ねる。

「何か、問題でも?」

 軽く息を吸って吐き、俺は意を決して打ち明けた。

「……ウチの工作員が一人、敵の手に捕まっているんです」

 しばしの沈黙が尾を引いた。隣でふと男の表情が翳る。

「Mr.ノーボディ、残念ですが――……」

 男の答えは分かりきっていた。

 敵の手に堕ちた仲間は見捨てる。それが、闇の世界で生きるスパイの掟――。

 掟……そう、掟だ。

 いつも俺たちを縛りつけ、行く手を遮る灰色の大きな鎖。

 しかし、逃れることの出来ないその忌まわしき鎖によって俺たちが生かされていることもまた事実であり、そしてなによりも、その掟をこれまで忠実に守り通して来たのは、他でもないこの俺だ。

 男は深刻な声で淡々と弁明を続ける。

「――今回の場合、取引が成立してリストが漏洩すれば、『MOON LIGHT』に所属する、実に千人以上の工作員が危機に瀕することになります。無論、その原因を作ったのは我々であり、徒にあなた方を巻き込んでしまった責任もある。そのことについては、誠にお詫びのしようもありませんが……それでもやはり、一人の命を尊重して、他の大勢を危険に晒すわけにはいかないのです」

「…………」

「それに個人的な意見を言わせていただくと、残念ですが、既にその方は生きていないと思います。Mr.ノーボディ、あなた程の人であれば、その理由も理解できるでしょう?」

 工作員は機密情報の宝庫だ。その場で殺されず、捕らえられたとなれば、そこには必ず何某かの情報を引き出そうという意図があり、激しい拷問が付き物になる。

 秘密主義の誓いを守って口を噤めば死ぬよりも辛い目に遭わされ、耐え切れず情報を吐き出せば用済みと殺される。黙り通そうが、洗いざらいぶちまけようが、結果は同じなのだ。なので通常、敵の手に堕ちた工作員には、速やかな〝自決〟が推奨されていた。

「納得して頂けましたか?」

 最終確認のような男の問い掛けに、俺は――。

「――いや、まるで……?」

 男が少々面食らった表情を見せる。

 俺は小さく笑いながら言った。

「確かに一人前の工作員なら今頃生きてはいないでしょう。もし、捕まったのが俺だったら、間違いなくその場で舌を噛み切ります。しかし、今捕まっているウチの工作員というのは、まだまだ半人前のペーペーでしてね? とてもじゃないが、そういったプロの仕事が出来るような奴じゃないんですよ」

「だから、生きていると……?」

「ええ、少なくとも俺はそう思っています」

 男は神妙な面持ちで少し考え、「しかし……」と口にした。

 俺は男の言葉を遮って、強く告げる。

「二日。あと二日だけ時間をください。それでこの件は綺麗さっぱり片をつけます」

「本気で言ってるんですか……?」

「勿論」

 訝るような男の視線に、俺は思いっきり己を誇示して吹っかける。

「――捕らえられたメンバーを救出し、データも奪い返す。そして報酬は一億だ。それ以下なら要らない」

「それはまた、随分と強気ですね」

「フフ、俺を誰だと思っているんです? 元よりあなた方の出る幕なんかありませんよ。勝利の栄光はすべて、このMr.ノーボディが頂いて行きます」

 男が複雑な表情で目を瞑り、やがてこくりと頷くのを見届けた俺は、走り続ける窓の外に目をやりながら、黙々と打開策を練り始めた。


              ***


 [PM 1:46] /私立・緑川学園高校、二年C組

 タイムリミットまでに残された猶予は、今日を入れてあと二日……。

 昨夜あれだけ大見得を切って、クライアントに英断を促した俺だったが、現状なんら解決策を見い出せていなかった。兎にも角にも手掛かりが少なすぎる。Ms.コニーレッドも、マスター=ヴォイスも、かつて同じ組織で任務を共にした間柄ではあるものの、俺は二人の個人情報を何一つとして知らない。素性も素顔も、その他一切が不明という状態だ。

 現在、情報収集に長けるドクターが全力を挙げて二人の潜伏先を探索しているが、それでも間に合うかどうかは五分五分といったところか……。

 なによりも、人質となったベルの安否を考えれば、口先ばかりで結局は何も出来ず、ただダラダラと普段の生活サイクルに身を委ねてしまっている己が心底情けない。

 渋る目頭を軽く指先で押さえて揉み解す。ダメだ、頭が回らない。

 焦る心とは裏腹に、昨晩一睡も出来なかった影響からか肉体は疲労しきっていた。

 けだるい午後の授業風景に誘われて、俺はついついうとうとと、眠りに落ちる。

「……――っ」

 ふと気がついたとき、俺は机に突っ伏したまま、クラスメイトたちの出払った教室に一人残されていた。窓からは夕暮れ時の赤みを帯びた日差しが静かに垂れ、壁にかかった時計に目をやれば、既に時刻は午後五時半を過ぎていた。本日の授業過程がすべて終了し、生徒たちは揃って帰宅か、各々の所属する部活動へと向かったのだろう。吹奏楽部のチューニングと運動部員たちの掛け声が、どこか遠く鳴り響いている。

「はぁ……」

 結局、今日一日を無駄にしてしまった。時間がないというのに。

「何をやってるんだ、俺は……」

「ホントに、何やってるんでしょうね~?」

 背後から声をかけられ、驚いて振り返ると、担任の赤城教諭が入り口のところに立ってじぃ~っと俺の方を見ていた。

〝やべっ……〟

 俺は慌てて学校での自分のキャラを取り繕う。

「ああ、ぁ、赤城先生、あのぅ、おぉっ、おっ……おはやうございます」

 ファイルの表紙でぽんと俺の頭を軽く叩いたニコちゃん先生は、やれやれと腰に手を当てて、ふっと呆れた笑みを見せる。

「あなた今日一日、ずぅ~っとぼんやりしてたわね? 午後の授業なんかもうグーグー寝てるし。おかげで、他の教科の先生方から随分と嫌味なことを言われちゃったんだから」

「グフフ。ななっ、なんていうか、それはご愁傷様みたいな感じですね……?」

「なにその他人事みたいな言い方~。あなたのせいでしょ、まったくもぅー」

 赤城先生はそう言いながら教卓の上のプリントをまとめてよいしょと抱え上げる。

「ねぇ影村くん? ちょっとこれ、職員室まで運ぶの手伝ってくれる?」

「嫌だッ!」

「なにもそんなに勢い込んで断らなくたっていいじゃない? ねぇ、お願い。私一人じゃこんなには持ちきれないもの。それに影村くん、今日、日直の当番でしょ?」

「あれ? それじゃあ、もう一人は?」

「桜坂さんは今日欠席だったじゃない」

 ああ、そうか。そういえばあいつ、今日は珍しく学校休んでいたっけ。

 俺はプリントの山を抱え、赤城先生と二人、夕暮れに染まる放課後の校舎を歩く。

「昨日はあまり眠れなかったの?」

「はひぃ! 昨日は朝までずっと自家発電をやっていたのです!」

「へ、へぇ~……」

 若干というか大いに引いた感じで俺の与太話をさらっと受け流した赤城教諭は、歩きながら、ふと口元に手を当てて小さく欠伸を漏らした。「ごめんなさい」と涙目に言う先生の目元には、上手く化粧で誤魔化してあるが、薄っすらと隈のような影が見える。

「先生も、お疲れみたいですね」

「えぇ、それはもう、あなたみたいな生徒がいるから、教師も大変なのよ」

「そそっ、それは、なんていうか、そのぉ~」

「ご愁傷様みたいな感じですね、とは言わなくていいのよ?」

 他愛のないことを話しながら、階段を下りて行く。

 しかし、その仕事疲れと会話に気を取られていたことが不味かったのだろう。

「――きゃっ!?」

 不意に先生の足元がガクンとぐらついた。高いヒールで段差を踏み外したのだ。

 バッとばら撒かれるプリントの山。赤城教諭の体は大きく傾いたまま階下へと――。

〝!!〟

 瞬間、俺は咄嗟に身を投げ出し、空中で先生の体を抱きとめると、そのまま背中から下敷きになって階段を一番下まで転げ落ちた。

「ッ……!」

 背面に走る多少の衝撃と鈍痛は避けられないが、きっちり受身は取ったつもりだ。

 それよりも、これは――。

「うっ、うぅっ……! あっ――影村くん! 大丈夫!?」

 我に返った赤城教諭は、下敷きになった俺を気遣ってすぐさま起き上がろうとするが。

「ぇ……あれっ?? ちょっ、ちょっと影村くん!? 何してるの?」

 俺は彼女の背中に手を回し、ニコちゃん先生の柔らかな胸にがっつり顔を埋めていた。

「ブヒヒッ、先生、イイ匂いがしますねぇ~。クンカ、クンカ、ムッハァあぁあ……!」

 恍惚とした表情で鼻の穴を広げて見せる俺に、赤城先生は真っ赤な顔で抵抗を示す。

「こ、こら、やめなさい! もうあなたって子は~、こんなときまで~!」

「はぁ、はぁ、はぁ! ニコちゃんしぇんしぇい、僕とせっくぴーしませんかぁー!?」

「するわけないでしょー!」

 結局その場は事なきを得て、俺は先生から助けてもらったお礼と、狼藉を働いたことに対する軽い叱責を受けた。一応、用心のために保健室へ連れて行こうとする先生のご厚意を、俺は気の触れたふりで上手く逃げ躱し、早々に別れを告げる。

 今日はこれから、少しやることが出来た――。


              ***


 [PM 10:37] /中央区・スカイビル

(株式会社)『南洋貿易グループ』がその拠点を構える地上二十三階建ての高層ビルには、屋上から〝創立十周年〟の巨大な垂れ幕が下がり、記念行事の開催と祝意を謳っていた。

 通りを挟んで斜め向かい側、死角となる駐車場の隅に車を停めた俺は、車内からビルの正面玄関口を見張りつつ、ドクターからの応答を待っている。

 不意に通信機の赤いランプが点灯し、スピーカーから声が入って来た。

『アンさん――』

「……どうだった?」

『――ビンゴやで』

 歯切れのいいドクターの口調に、俺は小さく拳を握るような心持ちで解説を聞く。

『(株)南洋貿易グループは表向き、工業製品の原材料やなんかを中心に海外から輸入する貿易会社やねんけど、裏では傭兵の囲い込みやら、拳銃の密輸入なんかにも手を出しとるっちゅう黒い噂があったみたいや。しかしまぁ、胡散臭い言うてもウチらのおる業界には特に入植する素振りもなかったみたいやけん、すっかり見落としとったけど。過去数年間のデータを遡って調べてみたところ、ちょうどウチらの元居た組織が解散になる前後から怪しい動きを見せ始めとるみたいやで? 敵の本拠地と見て、まず間違いないやろ』

「そうか……」

『しっかしよう見っけたなぁ~。それどっからの情報?』

「単なる勘だよ」

『うそ~ん』

 実際まさかと思って調べてみたが、こいつはとんだ大穴だった。

「まさに、灯台の下暗しってやつか……」

『……ん? 今、なんか言うたか?』

「いや、なんでもない。こっちの話だ」

 不思議そうなドクターに構わず、俺はふと話題を変える。

「ところで、ドクター。昨日、頼んでおいた、例の……」

『あー、アレね。一応用意しといたで? 色々説明もあるけん、あとで一旦取りに戻りぃ』

「了解……」

 俺は通信を切って、再びビルの正面玄関口へと視線を走らせる。

 やがて入り口の自動ドアが開き、二時間ほどの滞在を終えて一人の女が現れた。

 金髪のウィッグに、真っ赤なピンヒール。

 来るときと帰るときで変装を変えてくるとは、さすがに入念だな。

 深夜という時間帯に合わせた派手な格好で近くに停めてある軽自動車へと向かう。

〝Ms.コニーレッド〟を追って、俺は密かに尾行を開始した――。


              ***


 [AM 0:52] /○○区・(有)NRCラボラトリー

 アジトに帰還した俺は装備を整え、最後にドクターから頼んでおいた品を受け取る。

 所狭しと機材の立ち並んだ開発室から現れたドクターは、手にしたビーカーを俺の方に差し出した。脱脂綿の上に眠るのは、一発の弾丸。

「これか……」

「アンさんのルガーに合わせて、一応9㎜パラペラムと同じ口径サイズに加工しといた。一発しかない試作品やけん、使いどころはよう考えてな?」

 俺は受け取ったそれを通常の9ミリ弾と見比べてから、マガジンに装填する。

「効果範囲と持続時間は?」

「半径十メートル以内、持続時間は、まぁ五分が限界やろな。今回は急な話やったけん。あと二、三日あれば、もっと高性能なモンをいくらでも量産できたんやけど……」

「いや、一発あれば十分さ」

 これだって俺の無茶な頼みを聞いてくれたドクターが、時間のない中、徹夜で仕上げてくれたのだ。文句などあろうはずもない。

 俺はルガーを懐のホルスターに仕舞い、準備を整えて玄関口に赴く。

 出口のところまで、ドクターが見送ってくれた。

「ホンマに、一人で大丈夫か……?」

「ああ」

「一応、向こうの警備システムにはハッキングして撹乱するけど、なんかあったときのために、コレ持っといて?」

 ドクターが白衣のポケットから取り出したのは、デジタル式の腕時計だった。

「ジャミング対策もしてある。そんで、万が一、助けが必要なときは文字盤の上のところにある黄色のボタンを長押ししてくれたら、こっちのアラームが起動する仕掛けになっとるけん。……まぁ、ウチなんかが役に立てるかわからんけど、無いよりはマシやろ?」

「心強いよ、信頼してる」

 俺はドクターから受け取った腕時計を身に着け、改めて彼女と向き合う。

「アンさん……? ベルっちのこと、よろしく頼んます」

 妙にしおらくなって、深々とお辞儀をするドクターに、俺は軽く笑って告げた。

「そう不安そうな顔をするな」

 小さな頭に手を置いて、ぽんぽんと優しく撫でてやる。

 普段、声も態度も大きい分だけあまり印象にないが、こう大人しくしているときのドクターはびっくりするほど小さくて頼りない感じがする。

「ベルは無事に連れて帰るし、データもきっちり奪い返す。報酬は一人一億だ。大船に乗ったつもりで、新しい銀行口座でも用意しておけ」

「……ぐすんっ、うん」

 ドクターは気を取り直したように鼻の先を拭うと、顔を上げてニッコリ笑った。

「えへへ、せやな……。ちょっと、今のはウチらしぃなかったわ! 忘れてくれろ?」

 俺は微笑みを持って頷き、それから彼女に背を向ける。

「ほんじゃ、気をつけて……! また三人で会おうな!」

 後ろから追いかけてくるドクターの声に、俺は振り向きざま、背中越しに手を振って、しばしの別れを告げた。これより単身、敵地に向かう。

 囚われたベルを救出するため、任務を完遂するため。

 そして過去の因縁と、決着をつけるために――。


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