【危険な約束】
――数日後、いつもの授業風景。
俺は俯き加減に机へと向かい、朝のHRで配られたプリントの裏にせっせと鉛筆を走らせていた。今は三時間目、クラス担任でもある赤城教諭の担当科目・英語の授業だ。
「はい、それじゃあ問題集の69ページ、例題の四番を解いてみてください」
先生の指示で、たった今授業でやったところの復習問題を解き始めるクラスメイトたちに混じって、俺は一人黙々とデッサンを続ける。
そのうち足音が近づいてきて、とんとんと肩を叩かれた。
「影村くん? 今はお絵かきの時間じゃないでしょ?」
咎めるような口調で言って俺の顔を覗き込む、ニコちゃん先生。
「あ、ぁあああ、あのぉ~、これはぁ~……」
「言い訳したってダメ。没収します」
ぴらっと俺の手元から紙を抜き取って、「しかもこれ、今朝渡した進路希望調査のプリントじゃない。もぅ、あなたって子は……」と呆れて俺の額をちょこんとつついたあと、その裏に描かれた問題のデッサン画を見る。
「……ぇ?」
途端、赤城先生は絶句して、耳まで顔を真っ赤に染めた。
「なななっ、――何よこれぇ~っ!?」
先生の悲鳴に、クラスメイトたちからの視線が集中する。
俺が書いていたのは赤城先生の絵だ。裸の。
顔の形から胸の大きさから下のヘアーまで、自画自賛になるが、なかなかの力作だ。
キャーッと、俺の気持ち悪さで騒然となる教室。
特に隣の席のギャル(桜坂鈴音)をはじめとする女性陣は、本気でドン引きしていた。
先生のウブな反応に一頻り悪戯心を満たした俺はゲスい顔で「グフフ」と笑い、「それ、プレゼントします。僕の気持ちですから」と照れながら申し上げた。
「いらないわよ~! どんな気持ちなの!」
「えっ、でもさっき先生、没収するって……」
「んむぅ……とっ、とにかく! もうこんなもの書いちゃいけません! それから影村くん? あなた教科書はどうしたの?」
「い、いぃいい、家にありますっ!」
「忘れたのね? それじゃあ隣の人にお願いして見せて貰いなさい」
「はひぃっ!」
顔を赤くしたまま、いそいそと教卓に戻って行く先生を見送ったあと、俺は桜坂の方を向いて伺いを立てた。
「あ、あのぉ~、鈴音さぁ~ん」
「キモイキモイキモイ、絶対イヤ! 死んでも無理ッ! ていうかマジ今すぐ死んで!」
「ありがとうございます!」
俺はずいっと椅子ごと桜坂の隣に身を寄せた。ギャーッと、再び俺の気持ち悪さで騒然となる教室。「誰もいいとか言ってねーだろオイッ! ざっけんなよ、てめぇ!」と桜坂は涙目になりながらメチャクチャ怒った。しかし、実際、窓側の誉ミサキが欠席である以上、俺の隣は桜坂しかいないわけで、選択の余地はないのである。
「へっへっへ、口では嫌だなんて言ってても、カラダは正直だぜッ?」
「うぅっ、もう最悪っ……」
――結局、桜坂は自分の教科書を俺に投げ出し、彼女自身が隣の席の子に見せてもらうという発想の転換で、俺との相席を回避したのだった……。
〝――!〟
ふと、ポケットの中で携帯端末のバイブレーションが振動する。
途端、周囲の喧噪が一気に遠退くような錯覚に陥った。
〝メールか……〟
これは仕事専用の端末なので、家族や知り合いからというようなことはありえない。
自然と神経が張り詰める。
ひとまず授業が終わるのを待ち、休み時間になると俺はトイレの個室に入って、早速、中身を確認した。差出人は、やはり例のクラブから。
しかし、その文面はいつものテンプレではなかった。
『――会員番号・B41182様、この度は折り入ってご相談したいことがございます。つきましては本日の午後十九時、○○区×丁目ランドマークタワーの噴水前にお越しください。急な申し出であり、唐突かつ一方的なアポイントメントであることをお許しください。何分にも火急の用件でございますので、失礼を承知でご連絡させていただきました。お忙しい中とは思いますが、何卒よろしくお願い致します。…MOON LIGHT 管理委員会』
***
[PM 6:57] /○○区×丁目、ランドマークタワー噴水公園前。
俺は指定された場所で、周囲に警戒を走らせていた。
今回は時間と場所柄にあわせ、バイト帰りに恋人と待ち合わせをするショップ店員風のカジュアルな格好で、万が一に備え、変身用のメガネも既に装着している。
さて、そろそろ約束の時間だが……。
そう思った瞬間、着信音が鳴って携帯にメールが来た。
『――只今、お迎えに上がります。もうしばらくそちらでお待ちください』
メッセージを受け取り、周囲に視線を巡らせれば、公園の入り口の方から歩いてきた美人秘書風の女が、真っ直ぐ俺のところまで近づいて来る。
手元の腕時計を見ればジャスト十九時。さすが、時間には正確だな……。
「会員番号・B41182様ですね?」
俺は無言のまま頷き、確認のため、メール内容の表示された携帯端末の画面を見せる。
「それではお車の方へ……」
女の案内に従って、俺は路肩に停めてあった黒塗りのハイヤーに乗り込む。
車内は俺とその女、二人きりだった。
「貴方がメールの差出人か?」
「いいえ、ワタクシは単なる送迎役です。これからクライアントの元へとお連れ致しますので、申し訳ありませんが、そちらにある目隠しをお願いします」
「……」
俺は後部座席に用意されていたアイマスクを見て、それとなく車内の様子を見回した。
こちらの視線の鋭さに気づいたのだろう、運転席の女は苦笑しながら言う。
「そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですよ。なんなら、車内の点検、ワタクシのボディーチェックなど行って貰っても構いませんが?」
「……いや、結構」
俺は硬い声で低く返事をすると、自ら目隠しを手に取って視界を覆った。
この女からは別段悪意のような気配は感じられないし、車も特におかしな点は見当たらなかった。それにいざとなれば、ドクターの開発した変身システムで、俺は一瞬のうちに戦闘モードへと移行できる。ならばこんなところで時間を浪費するのも馬鹿らしい。
まぁ、その依頼主とやらが『MOON LIGHT』の重役であることを考えれば、居場所を秘匿するのも当然のことだろう。
「それでは、出発致します」
恭しい女の言葉と共に、車は動き出した――。
***
三十分ほど車に揺られ、どうやら目的の場所に到着したらしい。
「こちらからの指示があるまで、目隠しはつけたままでお願いします」
俺は案内役の女に手を引かれながら降車すると、どこかのビルらしき建物に連れ込まれて行く。エレベータに乗って、通路を歩き、程なくカードキーを通す僅かな電子音が耳に届いた。いよいよ、ご対面か……。
「――失礼します。会員番号・B41182様をお連れしました」
「ご苦労、君はもう下がっていい」
「はい」
女が一礼して去って行く足音と共に、背後で自動扉が閉ざされる。
「もう、よろしいですよ?」
男の声に従って、俺は視界を塞ぐ目隠しを取った。
「……」
暗闇に慣れた目を瞬かせながら、軽く室内を見渡す。
それほど広くないワンルーム。壁・床・天井、全体的に白を基調とした殺風景ともいえる簡素で無駄のない室内の様相は、さしずめ高官の執務室と言ったところか。
俺は目の前のデスクに座した仮面の男と対峙する。
「ようこそおいでくださいました。――会員番号・B41182様、ここに至るまでの数々のご無礼、謹んでお詫び申し上げます」
恭しく陳謝の姿勢を取る男。俺は軽く首を振って、単刀直入に尋ねた。
「それで、ご用件は……?」
「この場や、我々のことに関しては、何も訊かないのかね?」
少々意外そうな表情で訊き返して来る男に、俺は答えた。
「知りすぎた奴は消される、それが〝闇の稼業の定め書き〟でしょう。余計な不安材料はなるべく抱え込みたくない性質でしてね」
「フフ、了解しました……。それでは早速、本題の方に移らせていただきます」
――そう言った男は席を立ち、室内をぐるりと巡回するようにゆっくりと歩き出しながら、淡々とした口調で話をはじめた。
「今日ここに貴方をお呼びしたのは他でもない。実は先日、査問委員会からの通達で情報管理委員会の職員に二重スパイの嫌疑が掛けられましてね? 極秘裏に調査を進めていた矢先、本社で襲撃事件が起きました。その結果、警備兵八名、追跡した本社の特殊工作官十二名が殉職するという事態になりまして、襲撃の手引きをした管理委員会の第二室長ほか、あわせて十数名の職員はこちらで処理したのですが、肝心の主犯格は現在も逃走したまま、依然としてその足取りを掴めずにいます」
「なるほど、察するに一昨日の夜にあった乗用車三台の玉突き炎上事故は――」
「ええ、主犯格の追跡に失敗したウチの工作官です。無論、そこは裏から手を回し、各メディアによる報道や正式な警察発表でもよくある交通事故として処理されましたが……問題は、盗まれたデータの方なんです」
「……データ?」
「――はい……。実のところ、件の襲撃事件によって盗まれたのが、『MOON LIGHT』に所属する工作員のリスト、述べ1059名分の個人情報でして……」
〝!?〟
「これは『MOON LIGHT』始まって以来の不祥事です……。恐らく首謀者は盗んだ工作員の個人データを材料に、他所の組織へと取引を持ちかける算段ではないかと……」
「他所の組織っていうのは、〝麻生〟か?」
「我々はそう睨んでいます……」
〝麻生人材派遣コンサルティング〟――表向きは所謂、派遣会社を装っているが、その実『MOON LIGHT』と業界内のシェアを二分するスパイ連合組織の大手だ。
「えらいことになりやがったな、これは……」
予想外の事態に、俺は思わず額に手をあてて溜息をもらす。
途方に暮れて立ち尽くす俺を尻目に、リモコンを手にした男は「あちらの画面をご覧ください」とスイッチを押した。スクリーンに映し出される一枚の拡大画像。
「これが今回の事件の首謀者――データを持ったまま逃走中のターゲットです」
写真を見た俺は、驚きというよりは妙に納得のいく心境で事実を受け止めた。
「……Ms.コニーレッド」
もうなんとなくそんな予感はしていた。
しかし、これでようやく話の全体像が見えてきたな。
俺がどうして、今日この場に呼ばれたのか……。
「知っての通り〝麻生〟はウチと双璧を成すほどの諜報機関です。ただでさえ昨今は依頼の入手経路を巡って小規模な衝突を繰り返しています。ウチとの関係は、お世辞にも良好とはいえない状況です。そこへ……今度の事件は、更なる対立を生む起爆剤ともなりかねない。下手をすれば、大規模な全面抗争に発展する危険性もある」
「同業者同士の潰し合いなんて不毛だ。一文の得にもなりゃしない」
「ええ、ですから我々としても慎重に事を運ばなくてはならない。そこで貴方にお願いしたいんです、Mr.ノーボディ――。出来れば先方との取引が成立する前に、事態の進展を食い止め、盗まれたデータを奪還、もしくは抹消していただきたい」
男の申し出に、俺は失笑した。
「ご冗談でしょ。話を聞く限り、俺は無関係どころか、どちらかと言えば被害者ですよ? 盗まれたデータの中には、俺やウチの小隊に所属する諜報員の個人情報も含まれているんだ。道義的に言って、それはあなた方の手で解決すべき問題だと思いますが?」
「ごもっともです。しかし前述の通り、この事件に他の諜報機関が絡んでいる以上、我々は対立を避けるためにも、表立って動くことができないのです」
「理由はそれだけじゃないでしょう? 派手に動けば、今回起こした不祥事の情報が外に漏れる。そうなれば『MOON LIGHT』の信用はガタ落ちだ。当然、業界内での地位も危ぶまれることになる。――違いますか?」
「全く、お恥ずかしい限りです……」
「それに何故、俺なんですか? 優秀な人材なら他にいくらでもいるでしょう?」
「それは我々の会議で、過去一年間のオークション出席率、依頼の落札率・成功率を計算しましたところ、貴方が最も信頼に足る工作官だと判断されたからです――Mr.ノーボディ。それに貴方はかつてターゲットであるMs.コニーレッドと同じチームに所属していた経験もある。貴方ほど今回の任務に相応しい人間は他にいないと思いますが?」
「……しかし」
「もしお引き受け頂けるのであれば、口止め料を込みで一人頭・一億円の報酬をお支払い致します。無論、必要経費は別途です」
「……ッ!?」
あまりの額に一瞬、耳を疑う。
「正気か?」
「ええ、ただし任務成功の暁にはという条件付ですが」
いや、実際『MOON LIGHT』の存亡が掛かっているのだと思えば、この額でも当然というか、むしろ少ないくらいだと承知しているが、いかんせんこれまで請け負ってきた任務とは文字通り報酬の桁が違う。一介の工作員に一人頭の報酬が一億円だなんて、それこそ国家機密に纏わる任務に就くような超一流スパイ以上ともいえる前代未聞の高待遇だ。
「これは我々『MOON LIGHT』の総意であり、正式な依頼であるとお考えください。如何でしょう? お引き受け、頂けますかな?」
「……」
当初、断ろうと思っていた俺はそれですっかり返答に詰まってしまう。
あとに続く俺の言葉を見越したように、男はしたたかに笑って言った。
「――ご協力、感謝します」
***
[PM 9:42] /○○区・(有)NRCラボラトリー
緊急招集したベルとドクターに今回の依頼内容とその報酬額を告げる。
「ぶーッ!!」
額面を告げた瞬間、ドクターは飲んでいた牛乳を勢い良く口から吹き出してむせた。
「うわっ、もう! ちょっと、ドクター!?」
すぐさまティッシュを取り出して汚れた床やテーブルを拭き始めるベル。
そんなことなどお構いなしに、すっかり目を『¥』の形にしたドクターは声を荒げ、猛然と訊き返してきた。
「い、いいっ、一億やてぇ~!? ちょっ、それホンマかいなッ……!?」
俺が証拠として契約書を見せてやると、金額の項目に記されたゼロの数をかぞえ、ドクターは「うきゃあー」と飛び上がって大喜びした。
「こんだけあれば、もう当分の間は危ない橋渡らんでも済むなぁ!!」
「三人で海外旅行でも行きましょうよ! あたし、タヒチがいい!」
「アホかぁーッ! 貯金や貯金ッ!!」
「えぇ~、そんなぁ~」
すっかり浮かれて舞い上がる二人を諭して、早速ブリーフィングを開始する。
なにしろ今回は大仕事だ。念入りな打ち合わせが必要だった。
「――今回の任務は、『MOON LIGHT』本部から盗み出された工作官リストの奪還。問題はターゲットとなる〝Ms.コニーレッド〟の潜伏先を如何にして特定するか……」
「逃走後の足取りは?」
ベルからの質問に、俺は首を横に振って答える。
「ターゲットは赤のMR‐Sで逃走、勿論ナンバーは偽造だった」
「赤のMR‐Sって……」
ベルの記憶にも何か引っ掛かるものがあったらしい。俺は彼女の方を見て一つ頷く。
そうだ。カジノでの任務を終えてアジトに帰還する際、俺たちは該当の車種と一度すれ違っている。まぁ、あのときは一瞬のことだったので、あの車にMs.コニーレッドが乗っていたかどうかまでは定かじゃないが、個人的な意見をいえば、その可能性は極めて高い。
「203号線の手前で尾行車三台を振り切ったあとの動向についてだが、街頭に設置されているいくつかの防犯カメラに、それらしい車の影が映りこんでいた。――ドクター」
「あいよ」
呼びかけに答えた彼女がパチパチと手元のノートPCを操作する。
俺たちの囲むテーブルの上に、3D映像で地図が表示された。
車の目撃されたポイントに赤い矢印が出て、そこから予想される逃走先の範囲が青く塗りつぶされてマップ上に展開される。
「広すぎるな……」
「ちょっとこれじゃあ、虱潰しにってわけにもいかないですよね……」
「ほんなら、この線は無しってことかニャ?」
ドクターの問い掛けに、俺は首肯して答える。
厄介なことに今回の任務にはタイムリミットが設定されている。それも残された期限がどれだけあるのか、こちら側には一切わからないという鬼仕様だ。
「とにかく、俺たちは取引が行われる前に、対象からデータを押さえなければならない。もし間に合わなければ、この仕事はパーだ」
「そしたら一億円も?」
俺は頷き、手のひらを結んで開いてのジェスチャーで答えた。
「えらいこっちゃ……」
ドクターは金のこととなって深刻に焦り始める。
ベルが軽く手を挙げて、一つ提言した。
「取引の相手が〝麻生〟だってことは、判ってるんですよね?」
「ああ」
「それならいっそのこと、そっちに張り付いて、取引の瞬間を狙うっていうのは――?」
「まぁ、そいつは最後の手段だな」
俺の返答に、ドクターが解説を付け加える。
「取引ンときは向こうかて警戒するし、まぁ~、がっちりガードを固めてくるやろ。ウチら三人でそこに挑んで、一体なんぼの勝算があるか……相当分の悪い賭けやで」
「とりあえず、〝麻生〟の方には、『MOON LIGHT』本社の諜報員が二十四時間体制で張り付いてる。向こうに何か動きがあればこっちの耳にも入ってくるから、そっちは気にしなくていい」
「でも、あのぅ……一つ根本的なことなんですけど、盗まれたのはデータファイルなんでしょう? だったら、実際はもうとっくに取引が終わってるって可能性もあるんじゃ……その、メールとかで」
「ムフフゥ~♪ ええなぁ~、今日のベルっち、素人全開やん」
「もぅ、ドクターは意地悪です……!」
「可能性は低いな。素人犯罪ならともかく、今度の場合はプロ同士の取引だ。ましてや機密保持と情報管理を徹底して行うスパイ業界なら、尚のこと慎重になる」
極端な話、SNSなどのネットワーク環境なんてものは、そもそも多くの人間が、いつ、どこにいても簡単に交流が図れるということを主な目的としたものであって、セキュリティーやプライバシー保護といった側面においては、ザルもいいところだ。
ハッキング、スパイウェア、遠隔操作ウイルス、etc.……ドクターのような専門家じゃなくても、その手のスキルを持った者は民間人の中にも大勢いる。
「皮肉なこっちゃな。こんだけネットワーク環境の整った世の中やけんど、安全性や機密性を考慮すれば、結局は一世紀近く前のアナクロな手段に頼らざるを得ないなんて」
――サイバー攻撃や個人データの流出、情報漏洩の可能性はそれこそ数限りなく存在している。どこで誰が見ているとも判らないような環境、ましてやそれを利用して諜報活動を行うことも多いスパイ業界の人間なら、殊更その危険性を熟知しているため、間違ってもネットワーク上で重要な取引など行わないというのが結論だ。
***
[PM 10:48] /市内某所。
金と欲望の街を一望出来る高層ビルの一室で、ベビードール姿のMs.コニーレッドは革張りのソファーにゆったりと腰を掛け、シャンパンの入ったグラスを傾けていた。
夜景を見るために部屋の明かりはすっかり落とされ、薄暗い室内は冷たく乾いた夜の静謐に包まれている。青白い月光と、宝石箱をひっくり返したかのような街明かりに照らされて、奥の部屋から取引先と電話で打ち合わせをしていた男が戻って来る。
女は妖しく微笑み、並んで腰を下ろした男にグラスを差し出した。
「……取引は一週間後、場所は向こうの所有する大型客船上で行う予定だ」
「いよいよ、この時が来ましたわね?」
「ああ……」
かちんとグラスを合わせて、ささやかに祝杯を挙げる。
しゅわしゅわと気泡の湧き立つ黄金色の液体で喉を潤し、男は感慨深げに口を開いた。
「思えば欲を掻きすぎたのかもしれんな。スパイ業界が現体制に移行する遥か以前から、俺は中小組織を一手に抱き込んだ統合諜報機関の創立で、業界内のシェアを独占する構想を持っていた。……だが、実現するには些か課題が多くてな? 結局は暗礁に乗り上げた。そんな折だ、今の『MOON LIGHT』が創設されたのは――。連合制という新たな形態で俺の抱えていた課題をすべてクリアーした奴らは、瞬く間に業界ナンバーワンの規模と地位を獲得、その後は『MOON LIGHT』を規範として、〝麻生〟をはじめとする同形態の連合組織が次々と立ち上がり、結果、俺たちは完全に出遅れる破目になった……」
男の回想を引き継ぐ形で、コニーレッドが語った。
「しかし、今回の一件で間違いなく『MOON LIGHT』の評判は地に堕ちるでしょう。そして一週間後に控える〝麻生〟との取引が成立すれば、業界ナンバーワンの実績を誇る『MOON LIGHT』はまもなく崩壊――。現在あちらに所属する工作員、スポンサー、その他の資本をそっくりそのまま引き込んで、〝麻生〟は一気にその勢力を拡大。業界最大手の地位を揺るぎないものにするでしょうね」
「今度のことに関しては君の尽力が大きいよ、Ms.コニーレッド。二年前、大規模な統合諜報機関が創設されるという噂を耳にしてすぐ『MOON LIGHT』内部へと潜り込むとは、いやはやビジネスに関する君の嗅覚は尋常のものではないな」
「いいえ、それもマスターのお力があればこそです。私一人ではここまで大掛かりな計画を秘密裏に推し進めることは叶わなかったでしょう。『MOON LIGHT』と〝麻生〟の仲を悪化させるため、事あるごとに小規模な衝突を引き起こして対立の火種を煽ったり……」
うーんと唸って、背凭れに腕を回した男は天井を仰ぎつつ呟いた。
「なかなか骨の折れる仕事であったが、見返りはそう悪くあるまい?」
「ええ、それはもう……。私たちは巨額の褒賞金を受け取ったのち、『MOON LIGHT』に代わって業界ナンバーワンの地位を築き上げた〝麻生〟から重役幹部というポストで迎え入れられる。……フフ、素晴らしい計画ですわ」
「いや、まだだ。それはあくまでも通過点にすぎない」
断固とした口ぶりでそう言い切った男の眼光には、黒々とした野望の炎が滾っている。
「――俺は上層部に食い込んだのち、最終的には〝麻生〟を乗っ取り、国内のスパイ事業を今度こそ完全に独占する」
「そうなれば、すべてを手に入れたマスターは、業界の〝ゴッド・ファーザー〟と畏れられることでしょうね?」
女はうっとりと目を細めながら、男の胸に寄りかかった。
「君はその右腕にして愛人だ、Ms.コニーレッド。俺に付き従っている限り、たっぷり甘い汁を吸わせてやる。心にも、カラダにもな……」
「フフ、お供いたしますわ?」
***
[PM 11:32] /○○区・(有)NRCラボラトリー
打ち合わせを終えて、ベルが帰宅したあと、ラボに残った俺をドクターが呼び止めた。
「ところで旦那? なんや、ベルっちとおデートの約束をしたそうで?」
「ん……あぁ、そういえばそうだったな」
「あ~あ~、やっぱり忘れとったんかい。どうせそんなことやろーと思ったわ」
「いや……別に忘れていたわけじゃないんだが、このところ色々忙しくてな? なかなか時間が取れなかったんだ」
「もう、ベルっち楽しみにしてんねんから、ちゃんとしたりぃ~や?」
「わかってる。借りた服の弁償だったな。俺の方で何か選んで、今度渡しておくよ」
「はぁ~、ダメだこりゃ! この男、全然わかってないわ。女心っちゅーもんが……!」
これ見よがしに溜息を吐き、やれやれと肩を竦めたドクターは唐突に説教を始めた。
「あんなぁ!? よう聞いときぃや!? ベルっちはなぁ、アンさんと二人で、一緒にお出かけするのを楽しみにしてんねん! そんな服なんか、正直どぉ~でもええねん!」
「いや、どうでもいいって、そんな……」
「やかましい! いらんこと口挟むなボケぇ!」
ばんばんっ、と机を叩いて俺の言葉を遮り、ドクターは熱弁を振るった。
「とにかくな、今度逢うたら、ちゃんとベルっちを誘ってあげなあかんで!? なんもそんな難しいことやないねん、いまどきの若い女なんか――ほれ、今流行っとるやろ、あの映画や、ディステニーの――『穴とSMの女王様』ば見させて、〝パンケーキ〟でも食わしとったらもうそれで満足すんねんから! そんくらい出来るやろッ!? ぇえっ!?」
「いや、それはまた、随分と偏った考え方じゃないのか……」
「しゃーらしいッ!! つまらん言い訳ばっかりすなッ! この唐変木ぅ!!」
ムッ……。
なんだかこうも言われっぱなしだとさすがに悔しいので、俺は反論する。
「しかしな、そもそも俺たちは裏稼業の人間だぞ。同じチームに所属する諜報員同士が、仕事以外のところで必要以上に接触するのは、掟に反するんじゃないのか?」
「またそれか……ホンマに頭の固い仕事人間やな。ほいじゃあナニかい? アンさんの考えからすると、裏稼業のモンは幸せになったらアカンと、そう言いたいんかッ!?」
「そうは言ってない。ただ、それは仕事以外の場所と相応の人間関係で築き上げるべきだと言ってる。第一、お前たちは何故そこまで俺にこだわる?」
「アンさん、それ、本気でわからへんの……?」
「ああ、わからんね」
そう言って背中を向ける俺に、すぅっと大きく息を吸い込んだドクターは、直後にバンッ――と一際強く机をぶっ叩いて、怒鳴りつけた。
「――あの子はアンタのことが好きなんや!! ベルっちはミスターに惚れとるんよ!? もう、ずぅ~っと前からなぁ!!」
声を張上げて激昂したドクターは、そのままの勢いで捲くし立てる。
「確かにアンさんの言うことはもっともや! それに善良な一般市民からしたら、ウチらのやっとることなんか悪党の所業やっちゅーこともようわかってる! そン人たちに言わせりゃあ、ウチらみたいなもんが幸せになる権利なんてないのかもしれん! せやけどな、何も好き好んでこの世界に入ったわけやない奴かていっぱいおんねん! ベルっちもその一人や! あの子は親の残した云千万って借金を返すために、無理やりこの世界に引き入れられたんやと! ウチもそれ以上の詳しいことはわからん、アンタお得意の掟のせいでなんにもわかってあげられへん! けどな、これだけはなんとなくわかるで? 右も左もわからんまま、無理やり連れて来られたこの情容赦ない闇の世界で、あの子がたった一つ見つけた心の拠り所が、アンタやったんで、ミスター!? ホンマはもっと真っ当な男に惚れた方がいいことくらい、ウチかて重々承知しとる! でもベルっちが好きになったんは他の誰でもないアンさんやったんよ! 好きになったモンはしょうがないやろ!」
「…………」
深い沈黙が訪れる。
いつの間にか降り出した雨が、ぽつぽつと窓を叩いていた。
「ちょっとはあの子の気持ちも考えたってや……そうせな、ベルっちが可哀想や」
意気消沈した声でそう言い残したドクターは逃げるように自分の部屋へと戻って行く。
「――――」
一人残された俺は、しばらくその場に留まって考えていた。
ベルのことを――……。




