【PROLOGUE】
【PROLOGUE】
西暦20XX年、長引く不況と未曾有の大災害に見舞われた日本は、起死回生の改革案と銘打って、大胆な経済政策の施行に踏み切った。
それが――〝経済特区制度〟である。
成長戦略の一環として導入され、「世界で一番ビジネスのしやすい環境を目指す」というスローガン実現のため、大規模な規制の撤廃や税制の見直しが図られたこの政策によって、企業間の産業競争力を高める構想の下、国家戦略特区に認定された『金恋市』は、今や日本の三大都市と呼ばれる東京・大阪・名古屋に匹敵するほどの一大都市に成長していた。
産業技術の目覚しい向上・発展とともに、海外資本も次々に参入。
景気回復には拍車がかかり、施行から十年が経った現在、『金恋市』は技術開発を中心とする工業系だけではなく、金融、観光、商業など様々な分野に渡って、近年に入ってもますますの発展を続けている。
……しかし、それはあくまでも、この都市の表の顔に過ぎない。
国家戦略特区『金恋市』では、工業・金融・観光・商業に加えて、もう一つ、密かに栄えている分野があった。
それが――〝スパイ事業〟だ。
犇きあうように高層ビルが乱立し、企業間の競争が激化の一途を辿る中、名乗りを上げる企業も後を絶たないが、利益を上げられずして脱落して行く企業も後を絶たない。非情なまでに断固とした資本主義経済の世界、そこには必ず、表と裏がある……。どの企業も表向きは真面目にせっせと自社の開発・経営に精を出しながら、裏では如何に他社を欺き、貶め、ときには功績を盗み取ろうと暗躍している。
国家戦略特区『金恋市』――ここでは数多の企業が誉れ高き功績と莫大な利益を巡って鎬を削り……また、密かに依頼を請けた数多くの諜報員たちが、裏に表に、日夜、激しい抗争を繰り広げていた――……。
***
ヴィィイイ――ン、ヴィィィイ――ン……!!
耳を劈くような警報が鳴り響き、真っ赤な警告灯が明滅して薄暗い通路を奥まで照らし出す。慌ただしい足音がいくつも反響して、サブマシンガンを抱えた衛兵たちが血相を変えて走り抜けて行く。
「くそッ、やられた!」
悔しげに歯噛みをし、班長格の男が無線で本部と連絡を取る。
「こちら、CP‐09、資料室の金庫が破られてる! 侵入者の数は!?」
『こっちで確認できているのは一人だが、くれぐれも油断するな! まだ館内には仲間が潜伏している可能性がある!』
「了解ッ!!」
そのとき、別の班からの緊急通信が割り込んで来た。
『――こちら、CP‐05、東館Bブロックにて侵入者一名を発見、現在追跡中! 至急、増援を求む!』
「よぉし、すぐに行く! お前たちはそのまま侵入者を第三フロアまで誘い込んでくれ、そこで挟み討ちにかける!」
『了解!』
通信が途切れ、男はしたり顔でぐっと拳を握り締めた。
「フン、こそ泥めッ、袋のネズミにしてくれる……! おい、急ぐぞ!!」
男の指示に従って、守衛たちが一斉に走り去ったあと。
相変わらず警報機の作動音だけが延々と響き続ける無人の通路に、次の瞬間、通気口の蓋が勢い良く蹴り落とされた。
天井裏からバッと飛び出して来る黒い影。
音もなく着地を決め、衣服についた埃を払う。
ナイロン製の黒スラックスにタンクトップ姿の男。
暗視用のゴーグルを外しつつ、彼は呆れたように小さく笑った。
「あいつ、またヘマやったな……」
男はイヤホン型の通信機で、オペレーターと音声通信を取り繋ぐ。
「ドクター、状況は分かってるな? ベルの現在地は?」
男の質問に対し、スピーカーの向こうから、やけにのんべんだらりとした女の声が返ってくる。
『――ん~とねぇ、東館Aブロックの四番通路を、六番方面に向かって絶賛進行中。ありゃ~、これは第三フロア直行のルートやね?』
「まずいな、上手いことポイントに誘い込まれてる。そっちから通信は?」
『あかん。ゆうても向こうの通信機が完全に沈黙しとるもん。銃弾でも受けて故障したか、どっかに落っことして踏んづけたか……まったく、あの子はホンマにドジやんなぁ~』
怪しい関西訛りを聞き流しながら、男は取り出したタブレットで素早く館内の見取り図を画面に表示する。
「――ドクター、館内の防災システムにハッキングして、防火扉をそっちで下ろせないか? 上手くいけば、扉を挟んで追っ手を遮断できる」
『フフゥ~ン♪ アンさんやったらそう言うやろう思うてな、実はもうさっきからやっとる最中やねん』
スピーカーの向こうからは、のんびりとした女の声とは裏腹に、物凄い速さでカタカタとキーを叩くタイピング音が聞えていた。
「さすがだな」
男が感嘆して小さく笑うと、それから数秒と待たず、一際強くエンターキーを叩く音がして、女が言った。
『ほい、準備完了っと……! いつでも行けるで?』
「よし、それじゃあ発信機でベルの現在地を追いながら、順に扉を下ろして今から俺が言うポイントまで誘導してくれ」
『りょうかぁ~い』
暢気に欠伸を漏らしながら答えるエセ関西弁の女に、男は素早く指示を下して、自身も移動を開始する。――その前に……。
男は懐の携帯ケースに収納されていたサングラスを取り出して装着。
縁にあるスイッチを入れると、小さく駆動音を立てて、音声認識システムが起動した。
「蒸着――……」
男が声を発すると、メガネの柄尻に仕込まれた超軽量型スピーカーから機械音声が返って来た。
〝声紋確認――オールクリア、蒸着システム起動〟
瞬間、かあっと眩い閃光が解き放たれた。
キラキラと宙に飛散した光の粒子は、男の身体に吸い寄せられるかのように集積、瞬く間に結晶を結んで形状を固定する。
男はタンクトップ一枚の軽装から、一瞬で、漆黒のタキシード姿へと変身を遂げた。――潜入モードから、戦闘モードへの仕様変更。目元を覆うサングラスも、いつの間にかアイマスク状の仮面に変化している。
仕上げにベルトのバックルについたスイッチを入れると、右腰に提がっていた筒状の携帯ケースから、圧縮収納されていた防弾・防刃加工の外套が射出される。膝下まである黒いマントに身を包み、男はバッと長い裾を翻してその場から走り出した。
***
堰を切ったように銃弾の雨が降り注ぐ。
「くっ……!」
コンマ00数秒遅れて、足元の地面が、背後の壁面が、ガリガリと音を立てて蜂の巣になっていた。嵐のような銃撃の中、火薬の匂いに甘いコロンの香りを溶かし込みながら、――走る、走る、走る。
特殊繊維で作られた防弾・防刃加工の外套を身に纏い、アイマスク型の仮面で素顔隠した少女は、追っ手の放つサブマシンガンの一斉掃射を間一髪のところで防ぎ躱しながら、警告灯で真っ赤に明滅する通路を駆け抜ける。
失敗した――失敗した――失敗した。
金庫を破って、目的の書類を盗み出すところまでは上手くいったのだが、内部に仕掛けられていた熱源感知センサーに気づけず、まんまと警報装置を作動させてしまった。しかも銃撃の渦中で、通信機まで壊れてしまい、おまけに慌てて逃げ出したため、情けないことに現在地まで見失っている。
(こんな初歩的なミス、あの人だったら絶対、犯さないのに……)と、少女は己の未熟さを恥じながら、(帰ったらまたドクターから馬鹿にされるのか)と歯痒い思いで、噛み締めた奥歯をギリギリと軋ませた。
しかし、ともかく今は、背後に迫る追っ手を撒くことが先決だ。
現在の日本では、国家戦略特区である『金恋市』市内においてのみ、スパイ行為には死罪が適応される。こと、重大な機密文書の奪取や、企業の経営、ひいては国の利益に損失を齎しかねないような行為を行った者については、現行犯に限り、発見し次第、射殺の許可まで下りているのだ。
このままでは死ぬ。なんとか脱出しなければ。
と、そのとき――。
〝!?〟
前方にいくつも存在した通路の入り口が、次々と重厚な防火扉で塞がれていく。まるで誤った退路を閉ざすように、道が一つに絞り込まれていった。
〝まさか、これは……!〟
少女は何かに導かれるかのような思いで、残された道を直走る。
敵の策略という線も考えられるが、どのみちシャッターで閉ざされた通路に無理やり割って入るような技能を彼女は持ち合わせていない。この路の先にある結末が如何なるモノでも、もはや少女には突き進むしかないのだ。
そして、なによりも。
〝――ミスターN、私はあの人を信じる!!〟
***
侵入者の挟み撃ちを狙ってポイントまで移動した一行は、防火扉によって閉鎖された通路の入り口を前に、愕然とした。
「どういうことだ……!?」
班長格の男が、再び状況の説明を求めて、本部へと繋ぎをつける。
「第三フロア前の通路が隔壁で塞がれてるッ! 一体、何があった!?」
『館内全域の防災システムが何者かにハッキングされたらしい! 現在こちらからも緊急解除コードを打ち込んでいるが、応答しない。システム内のデータが滅茶苦茶に書き換えられているようだ!』
本部からの報告を受け、男は唇を噛んだ。
「おのれェ、やはり仲間がいたのかァ……!」
「――ご明察だ」
「何ッ!?」
突然、背後から掛かった声に、驚いて振り返るよりも早く首筋に手刀を打ち込まれて、男は昏倒した。
敵の一個小隊を僅か数秒で沈黙させ、アイマスクの男は再び走り出しながら、オペレーター役の少女と通信する。
「誘導は上手くいっているようだな」
『ベルっちのポイント到達まで、残り三十秒。ほれほれ、アンさんもはよぅ急がな、閉じ込められてしまいますえ~?』
胡散臭い京都弁を使う少女に、男は訝るような表情で「ドクター、あんたはどこの出身だ?」と聞き返す。
「まぁまぁ、そんなんどこでもええやんけ~」と少女は適当にあしらい、「それよりなぁ? ウチ、聞いて欲しいことがあんねん」となにやら相談を持ちかけるように言って来た。
「どうした? 何か問題でも……?」
状況が状況だけに、少々深刻な顔をする男に対し、少女は。
「あぁ~、し、しまった~ッ! 扉が~! な~んちゃって」と、つまらないダジャレを言って一人で爆笑しはじめる。いい加減イラッと来て通信を切ろうとした男の耳に、口調を戻した女の声が届く。
『あぁ、それとな? 最後一枚の隔壁は遠隔制御できん仕組みになっとるみたいやから、そっちで直接閉めたってーな? 出口のところの壁両サイドと非常灯の真下、全部で三箇所スイッチがあるから』
「――……了解ッ」
***
走る、走る、走る――。
前方に腰の辺りまで下がりかけた隔壁が目に入った。
その少し手前に左方向へと続く通路の入り口。
今度は左折か。
〝……!〟
少女が次の曲がり角に意識を集中しようとしたそのとき、直進方向にある閉じかけた隔壁と床の隙間から、滑り込むようにして男が現れた。
「ミスター!!」
途端、少女の表情がどこか安心したものに変わる。
男は少女を先導するように通路を駆けながら言った。
「ベル、こっちだッ!」
「はい!」
合流した二人は並んで通路を奥へと走り抜ける。
「くそッ、新手か! 構わん、撃てッ、撃てぇえええ――――ッ!!!!」
背後から追っ手の衛兵たちが、次々と短機関銃を掃射する。
吐き出された銃弾は、バチバチと二人の纏った防弾仕様の外套に当たって防がれる。走りながら、小さく肩越しに背後を振り返った男は、追っ手との間にある距離を素早く目算した。
「ちょっと近いな、引き離すか……」
そう言って懐のホルスターから、一丁の自動式拳銃を引き抜く。
銀メッキ加工の施された高級感溢れる〝ルガーP08〟――。
男は振り返り様、バッと外套の裾を翻して照準を定めると同時に、迷うことなくトリガーを引き絞った。
「――ッ!!」
銃声の継ぎ目すらもわからない、怒涛の六連射。
衛兵たちの手から得物のサブマシンガンが次々と弾き飛ばされていく。
思わぬ反撃に相手が怯んだ一瞬の隙を突き、二人は一気に速度を上げて距離を引き離した。前方にいよいよと出口が見えて来る。
「仕上げだ……最後は決めるぞ」
「了解っ!」
少女はするりとスカートの裾をたくし上げ、腿のホルスターから小型の回転式拳銃を取り出した。S&W モデル10/通称・ミリタリー&ポリス。
慎重な手つきで銃把を握り締め、バチッと撃鉄を起こす。
「逃がすなァアアアアアア――――ッ!!!!」
二人の背後から憤怒の形相で追い縋る衛兵たち。流星群のように放たれた弾丸の一発が、男の頬を僅かに掠めて、赤い線を一本引いた。
〝……!〟
だが、男は怯むことなく双眸をギラつかせ、不敵に嗤う。
「カウント、スリー……」
瞬間、バッと振り返って背中合わせに銃を構える二人。
「一」
男のルガーが、右側面のスイッチを撃ち抜く。
「二」
女のS&Wが、左側面のスイッチを撃ち抜く。
「「三――!!!!」」
二つの銃弾が重なり合うように、三つ目の開閉スイッチを撃ち抜いた。
瞬間、真っ赤な稲妻が走る。
ゲームの終わりを告げるように、警告のブザーが鳴り響いた。
「なっ……!?」
驚愕する衛兵たちの目の前で、ガタンとストッパーが外れ、最後の隔壁が猛然と天井から滑り落ちて来る。
「きゃっ!?」
男は素早く少女の肩を抱き寄せて、思い切り大地を蹴り上げる。ギロチンのように落ちてくる厚さ十数センチ、重さ数百キロの防火扉を、間一髪、跳躍と同時に潜り抜けて脱出。二人が外に転がり出ると同時に背後でシャッターが床を打ち、衛兵たちを中に閉じ込めたまま、建物は完全に封鎖された。
パンパンと、手のひらについた埃を景気よく払いながら、男が呟く。
「――作戦完了」
二人はそのまま走って施設の敷地内を抜けると、即座に変身を解いて、路肩に停めてあったワンボックスカーに乗り込む。薄汚れた作業服を素早く上から羽織り、アイマスク状の仮面は着けたまま、帽子を目深に被って顔の上半分をすっぽりと覆い隠した。
運転席に座った男がエンジンをかけて車を発進させると同時に、スイッチを押すと、車体前後のナンバープレートがくるっと回転して別の物に挿げ替わり、『市内巡回パトロール』と書かれた車体の塗装がポロポロと剥がれ落ちて、その下から『(有)ニコニコ運送』の文字が現れる。
何食わぬ顔で運送業者に早変わりした二人は、そのまま真っ赤なテールランプの犇く大通りに紛れ、電飾の煌く摩天楼の夜に消えて行った――。
…………
……
…
To be continued...