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第3話 ロイヤル・ブライド(2)

 ランタンの明かりに回廊の石柱がゆらゆら揺れる影絵を作り出し、銀竜騎士団本部の中庭はまるで無数のギャラリーに囲まれている様だった。

 リーズベル王国王女アンネリーゼは、引き込まれてしまいそうな、魅力的な笑みを浮かべながら香澄を見つめていた。

 年の頃は自分やセイラと変わらないかもしれない。後10年も経てば絶世の美女という形容詞がぴったになるだろう。が、今はまだ、可憐な、という言葉がよく似合う。さらに、強い意志の力を感じさせるその瞳は、見る人々になんと凛々しいという感想を抱かせるだろう。

「ホシナ・カスミだな。アンネリーゼだ。アンネと呼んでくれて構わない。よろしく頼む」

 爽やかな笑顔を浮かべ、王女は軽く頭を下げた。絹糸のようなストロベリーブロンドの髪が、はらりと落ちる。

「い、いえ、そんな…。こちらこそもったいなく恐縮で…」

 香澄は自分でも何が何だが分からない台詞を言いながら、ギリギリと音を立てるように視線をレティシアに向ける。

 全力でどういうことなんでしょうかという意味を目に込めて…。

 香澄の眼力を受けた天騎士様は、ふふふと上品に笑った。

「ところで、その子は誰かしら?」

 そこで初めてレティシアはセイラに視線を向けた。セイラはレティシアが現れてから、石像のようにぴくりとも動かなくなっていた。

「失礼致しました。こちらは、あたしを宮殿まで案内して…」

「紅獅子騎士団第2大隊第1中隊所属セイラ・ブローニングと申ししゅ!」

 

 あ、かんだ。


 紹介しようとした香澄の後を奪い取って名乗りを上げたセイラだったが、ぼんっと音がなるほど顔を真っ赤にして、動かなくなってしまった。

「さすがですわね、カスミさん。王都でもうお友達ができるなんて」

 レティシアは何故か嬉しそうに小さく手を叩く。香澄は苦笑いを返す。今度会うときには決闘しなくてはいけないお友達だが…。

「実は、そんな香澄さんに、お願いがあります」

 香澄はレティシアの真剣な声に、姿勢を正した。

「あなたを見込んでのお願いなのだけれど」

 レティシアはそこで微笑んだ。まるで午後のお茶に誘うように。

「その前に、私と戦っていただけませんか?」

「はっ………ななな?」

 香澄はぎょっとして思わず後ずさるが、レティシアは上品な微笑みを浮かべたまま、中庭の中央に進み出た。助けを求めるように辺りを見回すが、王女殿下は「期待している」と力強く頷き掛けてくれ、セイラは下を向いて沈黙したままだった。

「今日着いたばかりで疲れているでしょう。ごめんなさいね」

 レティシアは頬に手を当てて優しく語りかけてくれるが、その言葉とは裏腹に片手にはすでに剣が握られていた。


 いつ抜剣したのだろう…。


 こうなってはもう後に退くことはできないようだ。

 香澄は大きくため息をつき、旅装を解き始めた。

 グリフォンといい、セイラといい、何かと戦いに巻き込まれる一日だ。

 でも、天騎士との手合せを楽しみにしている自分もいる。リーズベル王国全騎士の頂点に立つ存在。セイラ曰く全ての騎士の憧れ。アルフェネアに来る前から、香澄だってその顔を知っている有名人だ。不意とはいえ、自分の様な一介の新人騎士が稽古してもらえる相手ではない。

 香澄は気持ちを切り替え、刀を抜き放つと、レティシアに対するように中庭中央に進み出た。

 やるからには真剣に全力で挑む。騎士の名誉にかけた。

 お互い戦闘モードを起動する。レティシアの鎧と剣は輝く姿は、文字通り神々しくさえあった。

「よろしくお願いします」

「ふふふ、よろしくね」

 香澄は一礼して刀を正眼に構える。

 考える。

 攻め方。返された方。さらに反撃の仕方。何合かの打ち合いと、その攻防の結果。その中から最良と思えるものを選択し、シュミレートしていく。

 そして。

 全力でレティシアの間合いに飛び込む。

 剣を持った右手を前に半身で構えていたレティシアに一気に詰め寄り、フェイントを混ぜながら無防備な左半身を狙う。複雑な軌道を描き高速で襲い掛かる刃を、しかし振り上げられたレティシアの剣が弾き飛ばす。

 重い!

 速い上に重い一撃だ。気を抜いたら刀が弾き飛ばされる。

 即座に繰り出される剣を、左半身を捌いて躱す。速いが、見えないスピードではない。

 ならば、こちらは全力の速さで挑む。スピードに乗せて、無数の斬撃を叩きこむ。刀身がまるでしなっているかの様な軌跡を描く。

 しかしそのほとんどが的確に迎撃されてしまう。鋼と鋼が激突する音が幾度となる響き渡った。

 迎撃は予測済みだ。

 幾合かの後、迎撃に来たレティシアの剣を弾き返すのではなく、いなす。刀身を傾け、レティシアの刃を滑らせる。

 その腕が伸びきった瞬間に、全身のバネを利用して渾身の突きを放つ。

 瞬間、香澄が驚愕する。

 レティシアが微笑を浮かべていた。

 眼前に迫る刃を目の前にして。

 そして、手品のように一瞬にして伸びあがってきた剣が、香澄の刀を弾いた。

 香澄は戦慄する。

 理屈はなく、全力で後退する。

 一瞬前まで香澄の胴があった空間を、風切り音を上げて剣先が切り裂く。

 一旦体制を立て直すために、そのまま一気に間合いをあける。

 しかし、レティシアの姿が掻き消えたかの様に見えた。

 コマ落としの様に、消えたレティシアは次の瞬間に香澄の眼前で結像する。

 何とか刀を掲げて防御するが、不完全な体制ではレティシアの勢いは殺せない。防御した刀ごと、香澄は数メートル吹き飛ばされた。

 一瞬の浮遊感のあと、気が付くと中庭の芝生が眼前に迫っていた。

 衝撃。

 何とか勢いを殺すためにごろごろと地面を転がるが、素早く立ち上がり再び刀を構えた。激しく打ちつけてしまった肩がズキズキ痛む。鎧の衝撃置換フィールドが全てのダメージを防いでくれるわけではないのだ。

 痛みに思考が鈍くなる。何が起こったのかわからない。捉えていたはずのレティシアのスピードがさらに加速した様に思えた。

 香澄は頭を降って集中する。

 いけない。冷静にならなければ。

 間合いが開いたのは、しかし好都合だ。

 香澄は刀を鞘に戻すと、腰を落とし、居合い抜き構えを取った。

 すっと呼吸を整え。

 ゼロから一気にトップスピードへ。

 今自分のできる全てをかけて加速する。

 レティシアは動かない。

 そして互いの間合いに入った瞬間、突撃の勢いを残したまま一気に屈み込む。

 胴目掛けて突貫したのもフェイント、姿勢を低くしたのも足元を狙うと見せかけたフェイント、そして、そこから本命の一撃を放つ。

 推進力に使っていた力全てを跳躍力に転化する。そして対空の高速抜刀。霞む刀身が真下からレティシアの顎部を襲う。

 しかし。

 香澄は凍りついた。今の今までそこにいたターゲットが…いない?!

 しかし全力で打ち込むモーメントは急には消えない。刀は狙い定めた空間を薙払う。

 同時に背後に悪寒を感じる。

 いる。

 確かに背後に。

 とてつもない強大な存在が。そして、今にも襲いかかって来る…!

 伸びきった腕は間に合わない。振り向くことも回避も間に合わない。

 ならば…!

 香澄はとっさに左手で保持していた鞘を、跳ね上げた。

 その瞬間、とてつもない衝撃が背を襲った。

 かろうじて鞘に当てることで、直撃は防いだ。しかしそんなもので防げる天騎士の一撃ではない。香澄は盛大に吹き飛ぶと、ごろごろ地面を転がった。


「ふむ、凄いものだな」

 中庭隅のベンチに腰掛けて決闘を観戦していたアンネリーゼは、目の前まで吹き飛んで来た香澄の前にかがみ込み顔を覗き込んだ。

 まだあどけなさの残る黒髪の少女騎士は、目を回してすっかり気を失っていた。

「これは、やりすぎではないか、レティ?」

 アンネリーゼが軽く頬を叩いてやると、香澄はうーんと声を上げる。どうやら大丈夫そうだ。

「いえいえ、さすがはおじ様の秘蔵っ子。私も少々本気でやらねば、危のうございました」

「嘘つけ」

 アンネリーゼは唇を尖らせる。

 言葉とは裏腹に、レティシアは息も乱れていなければ、汗一つかいていない。

「まあ、いい。カスミを早く医務室に連れて行ってやろう。これで合格、というわけだろう?」

 アンネリーゼはカスミの頬に張り付いた毛を払ってやる。

 この新米騎士は、賞賛に値する。

 初めは、王女たる自分を好奇の目で見る凡百かと思えた。

 しかし戦闘に臨む際の凛々しい顔、最強たるレティシアを前にしても全力で挑んでいく姿勢。そんな彼女の変化が好ましく思えた。そして、同時に僅かばかりかの憧憬も抱く。

 彼女のように一心不乱に強敵に挑める心が、自分にはあるだろうか。

「はい。その前に、騎士セイラ・ブローニング」

「はっ!」

 途中から復活し、アンネリーゼと香澄たちの戦いに目を見張っていたセイラは、レティシアの呼びかけに再び硬直する。

「この場の事は、他言無用でお願いします。それと、カスミさんにまた協力してあげて下さい」

「はっ!」

「では、任務ご苦労様。原隊に復帰しなさい」

「はっ!」

 セイラは、まるでぎしぎしという音が聞こえてきそうな動きで回れ右をすると、姿勢よく中庭を出て行った。あれもなかなか面白い娘だ。緊張でかちこちになった表情が可愛らしい。

「では殿下、明日よりこのカスミを伺わせます」

「ふむ、お前の思うようになるのは、正直癪だがな。私もこの娘と話してみたくなった。よしなにな」

「はい、殿下」

 レティシアは優雅に腰を折る。

 アンネリーゼはさっと踵を返した。翻る髪と衣服の裾が柔らかな弧を描いてそれに追随する。

 歩み去りながら、アンネリーゼは小さくため息をついた。

 明日か。気の重いことだ。



 翌朝。

 見知らぬ部屋で目が覚めた香澄は、肩の痛みに顔を顰めた。

 ベッドの上で上半身を起こしながら、湿布薬が張られた肩を動かしてみる。痛い。が、腕が動かせないほどではない。


 そうだ。自分は昨日レティシアと戦い、ぼこぼこにされて、そのまま…。


 近くに自分の荷物を見つけ、取りあえず身支度をすると、荷物と一緒に新たな命令書が置かれているのに気が付いた。本日からの式典の練習タイムテーブルだ。その脇に、手書きで練習終了後にレティシアのもとに出頭すること、この部屋は自由に使って構わないことが添え書きされていた。

 昨日の無様な敗退を思うと気が重いが、しょうがない。とりあえず式典の練習会場に向かうことにした。

 午前中の式典練習は散々だった。

 香澄と同じように招集された黒狼騎士団の同期達との再会を喜んだのも束の間、実際の動きや立ち位置の確認が始まると、監督役の銀竜騎士の激しい叱責に一同戦々恐々となった

 午後は自由行動が認められていたが、香澄には呼び出しがかかっている。同期達の誘いを断り、銀竜騎士団本部最上階のレティシアの執務室に向かった。

 リーズベル騎士団統括の部屋は、信じられないほど広かった。

 くるぶしまで沈むのではないかと思える絨毯に、高級そうな調度品。壁の一面が全てガラス窓で、午後の陽光が眩しく室内を照らしていた。その一番奥に、巨大な執務机で書類を眺めていたレティシアが微笑んで立ち上がる。

「体の方はいかがかしら?」

「はい、ご迷惑をおかけ致しました。肩が少し痛みますが…」

「そう、ごめんなさいね。殿下のところに案内するわ。こちらへ」

 レティシアに誘われるまま、銀竜騎士団本部を出、内宮内部を進む。

 精緻な彫刻が施された行政府庁舎の脇を抜け、城壁沿いの緑地帯に入る。

 警戒配置中の騎士達がすれ違う度に頭を下げていく。男性騎士も女性騎士も畏敬と憧れの表情を見せながら。レティシアは軽く挨拶を返しながら通り過ぎていく。当たり前だが、なれた感じだ。しかし香澄には訝しげな視線が飛んでくる。どうして黒狼の小娘がここにいるのだと言わんばかりだ。

 気まずさを感じながら、香澄はレティシアの後をついて行った。

「あの、すみません、レティシア様。あたしは具体的に何をすればよいのでしょうか?」

 質問をぶつけると、レティシアは香澄を一瞥する。

「あなた達を招集した式典では、アンネリーゼ殿下の演説があります。これは、殿下にとって初めての公式行事参加となるのだけれど、殿下は少しナーバスになっているところがあってね」

 香澄には少し意外だった。

 昨日初めってあったアンネリーゼ王女は、人の前に立ったり人に注目されることには、泰然と構えられるような人に思えたからだ。自分とは違って。 

「だから、貴女には殿下のお相手をして欲しいのよ。王都詰めの紅獅子でも近衛でもなく、地方から来た貴女と触れ合えば、殿下のお気も紛れるかと思ったのよ」

「しかし具体的に何すれば…。あたしにはスピーチの才能なんて無いですし…」

 レティシアは一瞬目を丸くしてから、可笑しそうにふふふと笑った。

「技術的な事を求めているのでは無いわ。貴女にはただ殿下と一緒に時間を過ごして欲しいのよ。具体的には、お話をするのでも、剣の稽古をするのでもいいわ。貴女に任せます。」

「はぁ…」

「城外に出ても構わないわ。ただ」

 レティシアはすっと目を細めて香澄を見る。香澄は背筋が冷たくなるような気がした。

「王女殿下という立場、そしてあのお姿に惹かれて近づく不逞の輩がいるかもしれません。その場合は、貴女が全力でお守りしなさい。制圧執行モードも許可します。黒狼とはいえ、それが騎士たる貴女の本分と知りなさい」

「はい…!」

「よろしくね。期待しているわ」

 一転、レティシアはふわりと柔らかな笑みを浮かべる。



 色とりどりの花々が咲き乱れる緑の間道を通り抜けると、広い庭園と向こうに王宮を望む馬場に出た。今も数騎の姿があったが、そのうち唯一の白馬がこちらに気がついて近づくいて来た。

 騎乗していたのは、騎士の正装たる燕尾の騎士服を纏い、輝くストロベリーブロンドをポニーテールにまとめたアンネリーゼ王女殿下だった。

 香澄は思わず感嘆の吐息を漏らす。

 美しいのはもちろん、白馬に跨って颯爽と駆けてくる姿は、まるで物語の中の王子様だ。

 アンネリーゼは見事な腕前で香澄とレティシアの前に止まった。

「馬上から許せ、レティ、カスミ。カスミ、体は大丈夫か?」

 優雅に一礼するレティシアを真似て、香澄も慌てて頭を下げる。

「お、お陰様で問題ございません」

 アンネリーゼは爽やかに笑う。

「そう畏まるな。私は王女だが、ただ現国王の娘というだけだ」

「殿下!」

 はははと笑うアンネリーゼに、レティシアの鋭い声が飛ぶ。

「それが事実だよ、レティ」

 アンネリーゼが自嘲気味に肩をすくめると、レティシアは沈んだ顔で何も言わなかった。

「ところでカスミ、午後は自由なのだろう?良ければ私が城下を案内してやろう」

 アンネリーゼは同性にも関わらずドキリとさせられる笑みを浮かべ、手を差し伸べた。

 香澄は困ったようにレティシアを伺うが、レティシアは黙ってで頷く。

「騎士カスミ。殿下を良くお守りしなさい」

 その言葉に頷くと、香澄はアンネリーゼに手を取られ、彼女の後ろに跨った。

 アンネリーゼの驚くほど細い腰に捕まると、鞭が入り白馬が駆け出す。

 これでは騎士と王女の立場が逆なのではないかという香澄の一抹の不安を抱えて。



 二人の少女が走り去ったのを見届け、レティシアは来た道を戻り始めた。

 自分が初めてアルフェネアに着任した頃はまだほんの小さな女の子だったアンネリーゼが、あの様に凛々しく成長してくれた事には母親のような幸せを感じる。

 しかし今は殿下にとってもリーズベルにとっても岐路と言える瞬間なのだ。

 レティシアの願いはある。父王の願いもある。そして多くのリーズベルの民の願いも。それは皆同じもの様に見えたが、多感な時期であるアンネリーゼにとって、周囲の期待をそのまま飲み込み、自分の願いと向き合わせるということを恐れているように思えた。

 たまたま見つけた香澄という騎士をぶつけたのも、その逼塞したアンネリーゼの思考に新しい風を呼び込めたらという思いがあったればこそだ。そして、大人気なくもアンネリーゼの眼前で香澄を打ちのめしたのも、香澄の姿勢から何か得るものがあるかと思ったからこそだったのだが。

 しかし、結果がたとえ望まぬものになったとしても。

 アンネリーゼ様が幸せと感じれる結末になりますように、とレティシアは小さく呟いた。


 宮殿前広場で、アンネリーゼと香澄は乗合馬車に乗り換えた。白馬に跨ったままでは、あまりにも目立ったからだ。すれ違うアクターや騎士達は逐次礼を送ってくれるし、アンネリーゼの顔を知っているビジター達は歓声を上げなが集まりだし、ちょっとした騒ぎになりそうだったからだ。

 アンネリーゼは自分がいささか有名人であることは承知していた。今まで雑誌やテレビの取材を受けたこともあるし、ポートエレハイムで配布されているアルフェネアの紹介冊子に自分が掲載されているからだ。

 アンネリーゼには賞賛の黄色い声が飛んで来るが、後ろの香澄にはやっかみの声がかかる。王女様の後ろのあの地味な子は誰なんだ、と。ちらりと香澄を覗うと、困ったような顔でしょうがありませんと小さく呟いた。

 そういうわけで二人はいそいそと馬車の中に逃げ込んだのだ。

「どこか見たい場所はあるか」

 アンネリーゼが尋ねると、香澄は首を傾ける。

 幸い他の客は誰も居なかった。

「申し訳ありません、殿下。あたしは任官時に訪れた以来なので、どこにどんなものがあるのか、よく分からないんです」

「ふむ、そうか。では、とりあえず教会前で降りよう。あそこは土産物の店などが集まっているし、な。その後は新市街か。水路の景観は素晴らしいものだ。ところで、カスミ。君はいくつだ?」

「18歳ですが」

「そうか。では私よりお姉さんだな。私は今年16だ。年下の友人に敬語は使うな」

 香澄は少し驚いたよな表情をする。自分より年上と思っていたのかもしれない。実年齢より上に見られることはよくあることなので、アンネリーゼは馴れっこだったが。

 野次馬達の視線に、アンネリーゼは気にせず、香澄はびくびくしながら教会を一通り回ると、再び乗合馬車で新市街に向かった。

 新市街に付くと、香澄を誘って大通りから細い路地に入り込む。

 ブーツが石畳を打つ音が左右の壁に反響してこだまのようだった。

 左右に忙しなく折れる細い路地。たまに中央に噴水がある小さな広場に出たかと思うと、誰かのうちの裏庭の様な場所を通り抜ける。後ろで香澄がへえーだとかふぇーだとか感想を上げている。何かに見とれて立ち止まったかと思うと、慌てて後をついてくる姿は、黒い子猫のようだ。

 すれ違う住民たちが挨拶してくれる。

 アンネリーゼはそれに手を上げて答える。

 複雑な路地の中には、ビジターの姿はほとんどない。

「殿下、息災ですかな」

「ああ、マイク。腰の調子はどうだ?」

「ははは、おかげ様で、ですかな」

 建物の陰に椅子を引っ張りだしていた老人が声を掛けてくる。

「こら、ウィリアム。急に飛び出してくると危ないぞ」

「あ、王女さま。ごめんなさーい!」

 ボールを追いかけて脇道から飛び出してきた子供をひらりと避ける。

「アンネリーゼ様、うちの旦那はちゃんと仕事してすかね」

「ミラーか。そういえば昨日、庭園のバラを切り過ぎたとぼやいていたな」

「まったく…。バカ亭主ですみませんねぇ」

 建物の二階から洗濯物を干していた年配の女性が、豪快に話しかけてきた。

「アンネリーゼは知り合いが多いね」

 関心したという風に、香澄が呟く。

「アンネ、で構わないよ。私は生まれも育ちもこの街だからな。それに、王女なんかしているとみんな声を掛けてくれるものだ」

「好かれてるんだねぇ」

 香澄がやはり感心した、というように、うんうんと頷く。

 アンネリーゼは少し気恥ずかしくなって、少し歩調を速めた。

「アンネ、そんなにずんずん行かないで。一応あたしが護衛なんだから!」

 香澄が慌てて駆け寄ってくる。

「心配はいらないよ。実際私が襲われることなんてないから」

「でも王女様だし…」

 アンネリーゼはふんっと笑う。自分でも嫌な笑い方だと思う。

「王女、という立場にいるだけだよ。ホンモノじゃない」

 香澄は不思議そうに、まっすぐこちらの瞳を見つめてくる。その真っ黒な目が自分の押し隠しているものを全て見通している様に思えて、アンネリーゼは視線を外した。

「それより見ろ。湖に出るぞ」

 背の高い建物に挟まれて暗い路地から出ると、眩しい日差しとさざ波の音が二人を包み込んだ。

 石畳の街路にはパラソルを立てたカフェや様々な露店が連なり、湖岸には座って談笑する人や散歩する人で賑わっていた。その先は階段状に下り、もうそこまでルシェンバー湖が迫っていた。湖は穏やかで、遠くに小型船の白帆が揺れている。その先には、微かに対岸が霞んで見えた。

「カスミ、どこかカフェで落ち着こうか」

 空いている席がないか辺りを見回す。

「アンネ」しかし香澄は真っ直ぐにアンネリーゼを見てくる。「アンネは王女が嫌なの?」

 その真っ直ぐな言葉に、一瞬呆気にとられる。

 嫌、か。

 嫌、ではないのだ。

「まだ少しだけだけど、アンネは騎士からも街の人達からもビジター達も、みんなから好かれている様に思えたけど…」

「うん…」

 アンネリーゼはゆっくりと歩きだす。香澄もその後をついてくる。

「ここが本物の王が治める本物の国なら、それで良かったんだ。でも違う。所詮アルフェネアは、リーズベルは王国という体を取っているただの会社だ。騎士だって、ここに住む住民だって、アルフェネアを構成する社員に過ぎない。そうだろ?」

 香澄は何も言わない。

 アンネリーゼは言葉を重ねる。

「ならば、王も王女もただ記号として存在すればいい。現国王の娘たる私が、世襲で王位を継ぐなどナンセンスだ。適切な人材を選び、王や王女にでも王子にでも就ければいい」

 アンネリーゼはくるりと振り返り、香澄の様子をうかがう。

 レティシアに漏らすと嫌な顔をされるのだ。王女殿下がそのような考えでは困る、と。

 しかし香澄はあー、とかうーといかころころ表情を変えながらしばらく考えたあと、すたすたと湖岸に歩み寄った。アンネリーゼもその後に続く。

 香澄は振り返り、湖に背を向けた。

「わぁ、凄いですねぇ。ここからだと王都の高台も宮殿も一望できます」

 振り返ると、家々の屋根の向こうにせりあがった断崖。その先に宮殿の尖塔が陽光を受けて輝いていた。

「ニセモノ、なのかな」

 香澄が呟く。

「この光景も街の人たちの思いも、ニセモノ、なのかな。あたしには、会社だとか世襲だとか難しいことはよく分からない…あまり考えた事はないけど、この街もこの国もここにこうしてあるがまま、だと思う。アンネがリーズベルが好きで、国の人々もアンネの事が好きなら」

 そうだ、それでいいのだ。

 それは、アンネリーゼにもよく分かっている。難しく考える事はない。

 でも。

 それでも。

「怖いのだ」

 アンネリーゼは小さく呟く。

 香澄の大きな瞳が先を促すように見つめてくる。

「私は、怖い。みんなの大好きなこの街を、この国を率いる立場になるのが、な」

 だんだんと暑くなってきました。

 水辺の話を想像すると、ちょっとだけ涼しくなります。

 ロイヤルブライドは次の話で完結予定です。

 また是非おつきあい下さい。

 ありがとうございました。

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