第1話 白い花(2)
予定よりも長くなりそうです。2話完結の予定でしたが…
実際に書いてみるとコンパクトにまとまらなくと難しいですね。
まだまだ精進したいと思います。
ぜひご一読下さいませ。
隣を歩く小柄な騎士は、キョロキョロと興味深げに当たりを見回していた。それに合わせてゆらゆら揺れる黒髪がまるで忙しなく木々を飛び回る小鳥のようで、気がついた時ジュリアはその頭をぐわしと鷲掴みにしていた。
「ふ、ふぁ、なんですか、ジュリア先輩。」
昨日着任したばかりの後輩騎士香澄は、驚いたように後ずさる。困ったようにこちらを見上げてくる大きな瞳。道端を歩いていた子猫を突然驚かした様な感じだ。嗜虐心がふつふつと刺激されてしまう。
かわいい…。
「いやぁ、ついつい…。ごめん…。ガントレット、大丈夫だった?」
もちろんジュリアも騎士、鎧装備中だ。その手は無骨な手甲で被われている。
「大丈夫ですけど…」
「じゃあ、今度は素手でやるね」
「せ、先輩…」
困ったように頭にてをやる香澄。今の職場ではジュリアにとって初めての後輩だった。それがこんなに可愛らしい子だったら、文句をつけるところがない。自然に浮かんでくる笑みを、悪戯っぽい笑顔で誤魔化す。
女騎士二人は、ずんずんと林の中の坂道を登って行く。町を北に抜けて進んでいくと、道は雑木林の林を経て段々とヴィランド高原へと登って行く。しかし町に近いこのあたりは、まだそれ程厳しい斜度ではない。
爽やかな風が走り抜けていく。広葉樹の葉がさざ波のようにざわめく。熱を持ち始めた体には心地いい風。季節は春、新緑の季節だ。
「緑の匂いがしますねー」
そよ風に髪を触られながら、香澄が静かに呟く。
「んー、そうだねー」
ジュリアも静かに返す。
先程までわいわいがやがや賑やかにふざけあっていたのとは一転、沈黙した二人の間を風の音が通り過ぎていく。木の葉の動きに合わせて木漏れ日がゆらゆら揺れる。道の上に落とされた複雑な影が、まるで生きているかのように姿を変えていく。木々の間から見上げる空は青。そこに幾つか浮かぶ白い雲の塊。
雲はゆっくり流れて行く。
坂道はうねうね傾斜しながら続いていく。
しばらくして木立の間を抜けると、眩しいほど降り注ぐ光の下に出る。思わず目を細め、光に目が馴染むのを待つ。日向は少し暑いくらいかもしれない。
香澄はそんな日の光を楽しむように上を向くと、顔一杯に太陽を感じて、「はぁ」とか「へぇ」とか感心の声を上げている。
日光浴もいいけれど、ちゃんと仕事もしなければ。先輩らしいところも見せなくてはならない。
「カスミ、この先は崖が道のすぐそこまで迫ってる。崩れたところがないか、ぐらついてる手すりはないか、確認しながら行くよ。」
「はい!」
キリッと真面目な顔をするカスミ。やっぱり、可愛いなあと思わずにはいられない。
町を一望できる場所に設えられた簡易展望台で小休止後、二人は街を西側の森に回り込むルートに入った。再び木々のトンネルの中に入りしばらく進むと、前方から良く見知った二人組が歩いてくるのが見えた。二人とも町で良く見かける老夫婦だ。彼らもジュリア達と同じアクターだった。
アルフェネアはリアルな社会を作り出す為に、常に様々な年齢層からも採用を行っている。普通の会社人をドロップアウトし自然に囲まれて生活するためにやってくる人もいれば、外の世界で定年退職を迎えてから田舎に憧れてやって来る人達も多い。
「山菜採りですか?」
挨拶を交わした後ジュリアが尋ねると、老人は背負った籠を見せてくれた。
「いやあ、いつもより森の奥まで足をのばしたらな、ご覧の通り大量大量」
老人はほっほっと笑う。ちらりと後ろを見ると、香澄が彼の妻である老婆と何やら親しげに話し込んでいた。
「ところで、最近この辺りで森トカゲが目撃されてるみたいです。念のためにご注意下さい」
朝ブリーフィングでジェガンが注意していた事を思い出しながら、一応老人にも伝えおく。
「森トカゲというのはモンスターか?」
「そうですよ。大きいものだと3メートルを越えるのもいるらしいですよ」
「ほう、そりゃすごいな。ここに来てからまだモンスターっちゅうもんは遠目にしか見たことがなくてな。一遍良く見てみたいもんだ」
老人はまたほっほっと笑う。ジェガンはやんわりともう一度注意を促すと、胸に手を当てて腰を折る黒狼騎士団式敬礼で老夫婦達を見送った。少し後ろで香澄もジュリアに習っている。
「今の方々はアクターですよね?」
老夫婦の姿が見えなくなると、再び森の奥に進みながら、香澄が訊いてきた。
「ん、そうだよ。おばあちゃんと親しげに何話してたの?」
「あ、はい。この辺りには食べられる野草が沢山あって、あたしが日本人だとお話したら、お浸しとか天ぷらとか色々できると教えていただきました。その辺りに生えてる物がそのまま料理して食べられるなんて、ちょっとびっくりしてしまって…」
「そうだねー。今時店で売ってる生鮮食品なんて、管理された屋内プラント産が当たり前だしね。今度農場にも行ってみるといいよ。普段私たちが食べるもんがこうして作られるんだっーて驚きがあるからさ。」
「はい、行ってみます、是非!」
香澄は目を輝かして頷くが、何かを思い出したように小さく頭を振る。
「えっと、そうじゃなくて…どうしてアクターの方々にもモンスターの注意をするんですか?アクターなら、モンスター達が実際は襲って来ないって知ってると思うんですが…。」
香澄が首をかしげる。
アルフェネアに生息するモンスター達は、ファンタジー世界を演出するために科学的に生み出された言わば生体機械だ。ゴブリンといったお馴染みの小型亜人から、ドラゴン種のようなファンタジー世界の花形たる巨大種まで様々なモンスター達がこの世界を徘徊している。彼らは、人を見かけると襲いかかるように獰猛に設定されているが、安全管理上もちろん本当に攻撃してくる訳ではない。威嚇して、正に襲われている様なシーンを演出をするのである。そういう意味では、彼らもジュリアや香澄達と同じアクターといえるかもしれない。
「確かにそうだね」ジュリアは横目で隣を歩く香澄を見る。「でも、実際生でモンスターを見たことないって人も多いんだ。さっきのおじいちゃん達みたいにね。そんな人達の前に巨大スライムやらスケルトンやらが急に現れたら…どうする?」
香澄が真面目な顔でジュリアを見返す。
「…びっくりすると思います」
ジュリアは正解というように人差し指を立てる。
「そう。驚いて腰抜かしちゃうかも。転んじゃうかもね」
香澄は一瞬目を大きくした後、納得したようにうなずいた。
「あー、あ、なるほど。不慮の事故を防ぐためなんですね。それも騎士の仕事なんだ…」
アイドル的に取り扱われることもある騎士職だが、ビジターに見てもらうような派手な戦闘を日常的に行っているわけではない。実際には地道な注意喚起の声かけ、安全運動が職務の大半を占める。
香澄が小さくなるほどを繰り返しながら手帳を取り出すと、何やらメモし始める。習った事を書き留めているのだろうか、真面目な奴だなあと思わず笑みがこぼれるジュリア。
その時、突然香澄が顔を上げた。訝しげな表情だ。
「どうしたんー」
ジュリアが問おうとした時、森の中に甲高い悲鳴が響く。
瞬間、香澄が猛然と走り出す。
少し出遅れたジュリアも後を追う。
一歩遊歩道を外れると、森の中は歩きにくい。倒木が進路を邪魔しているし、長い下草に覆い隠された地形に足を取られる。普通に歩くのも困難なところ、香澄はその中を疾風の如く駆け抜けていく。
その小さな背中がだんだん小さくなる。
追いつけない…?
ジュリアがその事に焦りを感じ始めた瞬間、森が途切れた。
目の前に広がっているのは、色とりどりの野花が咲き乱れる小ぢんまりとした花畑だった。花畑の向こうにはウルサズの町の建物の屋根が見える。
その中央、異形がこちらに背を向けて鎮座していた。
「森トカゲ…」
ジュリアは思わず呟く。
しかしその姿は人型と言ってもよく、ただの大きいだけのトカゲではない。発達した後肢は地面を踏みしめ、短いが丸太のような腕には、鉈のような粗末な武器が握られている。背丈は2メートルを超えるだろうか。人ひとり分はあろうかという太い尾が、不気味に蠢いている。
「リザードマン……森林適応種?」
シューという威嚇音が鳴る。
ジュリアもリザードマンは見たことがあったが、いずれも水場の近くでだ。爬虫類独特のぬめったような鱗が特徴的だが、眼前のそれは、苔むしたような鱗で全身を覆われている。それにこの個体は、今まで見たことのあるどれより大きい。
香澄は、森を駆け抜けてきたスピードそのままに抜剣する。その鎧と剣が戦闘モードの起動を告げるように淡く輝く。戦闘の開始を告げるように、網膜ディスプレイにリザードマンと香澄の耐久値が表示される。
草花を巻き上げて香澄が疾走する。低い姿勢で一気に接近する。
白刃が煌めく。
陽光に輝く残像を残し、十分にスピードと体重を乗せた一撃がリザードマンの背を襲う。
「カスミ!」
いきなり攻撃を仕掛けた香澄を諫めようとした瞬間、リザードマンの前に悲鳴の主がうずくまっているのを認める。
子供!
なんでこんなとこに…!
ジュリアも抜剣すると、恐怖で顔を強ばらせたその女の子の元に駆け寄る。
リザードマンは攻撃を受けたことで、標的を香澄に変えた様だ。
のっそりとした動きで香澄の方に頭を向ける。世界を揺るがすような重低音の咆哮が響く。普通の獣なら、その一声で逃げ出してしまうだろう。
凶悪な顎が大きく開かれる。ぞっとするような牙がぎっしり並び、垂れる唾液が生理的な嫌悪感を引き起こす。
香澄は、女の子と森リザードマンの間に体を滑り込ませながなら、その巨大な顎にすくい上げるような一撃を加える。強烈な一撃はクリーンヒット、たまらすリザードマンが数歩後ずさる。
お返しとばかりに巨腕から繰り出される一撃を香澄は剣で弾く。その威力が彼女の姿勢を崩す。そこに、狙い澄ましたかのようにしなる尾が襲い掛かる。香澄はロングソードを地面に突き刺すように強引に姿勢を戻すと、迫りくる尾に合わせたカウンターの一撃を放つ。
刃に向かって尾を差し出したことになったリザードマンは、苦痛の呻きを挙げながらまた数歩後退した。
香澄の身軽さならば、リザードマンの攻撃を避けるのは容易いだろう。だが、今彼女の背には女の子がいる。
「先輩、その子を…!」
香澄が叫ぶ。
ジュリアは、盾を構えながら女の子の顔を覗き込む。
「君、大丈夫か」
見たところ小学校くらいか。栗色の髪の可愛い女の子だ。しかしその顔は恐怖を通り越して無表情となり、ジュリアの問いかけにも放心したように小さく頷くだけだった。大きな目はリザードマンと対峙する香澄の背から動かない。
今は、取りあえずこの場から離さなくてはならない。
ジュリアは女の子の手を取り立たせると、リザードマンと香澄から距離を取った。
香澄は女の子を一瞥すると、猛然とリザードマンに襲いかかった。
黒い旋風が吹き荒れる。
体重の軽い香澄の一撃一撃は浅い。背後からの初撃も、網膜ディスプレイに表示されたリザードマンの耐久値からすれば大したダメージではなかった。
しかし、その攻撃の軽さを手数が凌駕する。
リザードマンの鈍重な攻撃は彼女に掠りもしない。繰り出される鉈、爪、尻尾、そして咢。どれもが威圧感を覚えてしまう一撃だが、カスミは臆することなく懐に飛び込んでいく。
縦横無尽な剣尖。
見事だった。
ジェガンの様な歴戦の兵には一歩譲ってしまうが、香澄も十二分に強い。
その暴風の様な圧に押され、リザードマンが後退し始める。
もちろん両者とも衝撃置換フィールドに守られているため、本当に血が飛び散ったりはしない。しかしそれが、この激しい攻撃をある種の剣舞のように見せる。醜悪な怪物と優雅な女騎士の繰り広げる剣の舞だ。ジュリアも思わず目を奪われる。
剣の重さなど全く意に介さないように、女騎士は軽やかに舞う。
首筋を狙った横薙の一撃から始まった七連撃。
休みなく繰り出される斬撃。
そして、とうとう森リザードマンの耐久値が…なくなる!
全てが終わったような一瞬の静寂。そして地響きを立ててリザードマンの巨大な体躯が崩れ落ちる。押し潰された草花がふわっと舞い上がるのと、キンっと香澄が納刀したのは、ほぼ同時だった。
もちろんこれで森リザードマンが死んだ訳ではない。規定耐久値をゼロにされたモンスターは、デスペナルティとして今後48時間はこの場で活動を停止する。
その後は再び徘徊を始めるのだが…。
名前を尋ねると、女の子はアルジェル・シュリーマンと名乗った。母親と一緒に、三日前にこのアルフェネアを訪れたらしい。ジュリアと香澄はとりあえず彼女を町の騎士団宿舎まで連れて帰ったが、道中聞き出せたのはそれだけだった。
アルジェルは、もともと色素の薄そうな顔をより蒼白にしながら、ずっと香澄の手を握って離さなかった。
無理もないだろう。いきなりあんな怪物に襲われたのだ。
宿舎に戻り、暖かいミルクティーを入れてやると、幾分その表情も和らいだかのように見えた。
「で、カスミはこの子と知り合いなの?」
騎士団宿舎の食堂に腰を落ち着かせながらジュリアが尋ねる。
町に戻った後、レイドンとボッシュには合流し事情は説明した。今レイドンが彼女の母親を探しに行っている。ボッシュは厨房で何か食べるものを準備してくれている。ボッシュは元料理人らしいのだ。任せても大丈夫だろう。隊長とミアはまだ帰還していない様だった。
「えーと、朝、散歩した時にちょっとご挨拶しただけで…名前も先ほど初めて聞きました」
「そうなんだ。ねぇ、アルジェルちゃん、あんな森に一人で入ったら危ないよ。お母さんも心配するしね」
ジュリアはアルジェルに話しかけてみるが、彼女はミルクティーの入ったマグカップを握りしめ、小さな唇をギュッと噛み締めながら下を向いたままだった。
ジュリアが香澄を見て肩を竦める。
食堂を沈黙が支配する。
表の街路の賑わいだけが、遠く聞こえて来る。
「花を…」不意にアルジェルが口を開いた。消え入りそうな小さな小さな声だ。「花を探しています…」
彼女は香澄を見る。その瞳には、何かに縋るような必死さが伺えた。
「どんな花なの?」
香澄が優しい声音で先を促した。
アルジェルはごそごそとワンピースのポケットを探ると、折りたたまれてくしゃくしゃになった紙を取り出した。広げると、一輪の白い花の画像だった。
「テミスの花。どうしてもこれが必要なんです。騎士さま、どうかこの花を探すのを手伝ってもらえませんか…。あたしどうしてもこの花が…」
アルジェルは、感情があふれ出したように一気に話すと、また下を向いてしまった。
香澄とジュリアは顔を見合わせ、香澄が何か言おうと口を開いた瞬間、扉が開いて数名が食堂に入って来た。
レイドンと見知らぬ女性、それにジェガン隊長とミアだ。
見知らぬ女性は、長い黒髪に白いロングスカートとワインレッドのストールを羽織っている。顔の雰囲気からしてアルジェルの母親だろう。ずっと娘を探していたのか、娘同様蒼白な顔をしていた。
「話はレイドンから聞いたぜ。ご苦労だったたな、ジュリア、カスミ」
ジェガンがどかっと椅子に腰かける。今帰還したばかりか、後ろでミアが荷物を詰めたザックを下している。
母親らしき女性は、アルジェルの姿を認めると、ほっと破顔した。
「ああ、アルジェル、怪我はないの?ちゃんと皆様にはお礼したの?だからいつも…」
母親はアルジェルに駆け寄ると、娘を抱きしめたが、不意に言葉を切っせき込み始めた。
慌ててジュリアが背中をさすってやる。もちろん手甲は外してある。
「大丈夫ですか?」
「…申し訳ありませ」母親は立ち上がると、改めて頭を下げた。「皆様、ご迷惑をおかけいたしました。本当にありがとうございました」
「お母様」そこで、香澄がおずおずと手を挙げた。「アルジェルちゃんはこの花を探していたらしいんですが…」
机の上に置かれた花の写真を見て、母親の顔がわずかに曇る。
「やはりそうでしたか…」
会話が途切れたのを察してか、厨房からボッシュが現れると、増えたメンバーそれぞれの前にお茶を用意し始めた。ボッシュはこういうタイミングを察するのが上手い。ジュリアでは到底まね出来ない芸当だ。
見習わなければ。女性として…。
ハーブティーの香しい芳香が食堂にふわっと広がる。
「奥さん、事情をお聞きしてもいいですか」
お茶を一口のんでふぃーとおやじくさい声を上げたジェガンが母親に話を促した。
「実は…」
「チーコが死んだん…です」
母親の言葉を奪って、アルジェルが小さいがはっきりとした声をで語りだした。
チーコは、アルジェルが生まれた時から一緒にいたボーダー・コリーだった。
白黒の体はもちろん小さなアルジェルより大きく、牙が並ぶ口は少し怖いとこもあったけれど、いつも優しくぺろぺろなめてくれた、お姉ちゃんのような存在だった。
一緒に公園を走り回ったし、アルジェルがこけてしまった時には、戻ってきてその長い鼻で助けようともしてくれた。寒い日には、温かな抱き枕になってくれた。一緒にカーペットの上で眠ってしまい、一緒にお母さんに怒られたこともあった。アルジェルが幼稚園に入ってからは、毎日お母さんと園まで見送ってくれて、帰りは校門まで迎えに来てくれた。園の庭でお母さんと一緒にアルジェルを待っている時、普段はほとんど無駄吠えしないチーコが、アルジェルの姿が見えた瞬間だけよく響く声で大きく「ワンっ!」と吠えた。
ふさふさの尻尾はいつも期限よさそうにパタパタ揺れていた。
大きなくりくりの目は、いつも優しげにアルジェルを見ていた。
大きな体で立ち上がって、アルジェルの頬をぺろぺろなめてくれた。
いつも清潔で、いい匂いがした毛並。
いつも一緒にいてくれた姉妹。友達。
でも、元気に動き回っていたチーコは、アルジェルが小学校に入った年から、だんだんに鈍くなってきた。
一日寝ている日が増えた。
大好きなごはんも、あまり食べなくなった。
大好きなウサギのぬいぐるみにも見向きもしなくなった。
お気に入りの毛布に包まれて、話しかけても尻尾がぱたぱた揺れるだけという事も多くなった。
微かな予感はあった。
お父さんとお母さんから、チーコはアルジェルが生まれるずっと前からうちにいて、もうおばあちゃんなんだというお話は聞いていた。
でも、昔の全然変わらない綺麗な瞳。綺麗な毛並。少しやせたけど、まだまだ大きな体。
とてもおばあちゃんなんて信じられなかった。
二年生になる頃から、学校への見送りもお迎えも来てくれなくなった。
ほとんど動かなくなったチーコ。
どんどん痩せて、尻尾と目だけが、アルジェルを見ていた。
鼻先にご飯を持って行っても、少し尻尾が動くだけで、全然食べない。
お父さんとお母さんはお医者さんにも診てもらったけれど、何も変わらなかった。
チーコの時間は、もう残り少ないんだよ。
お父さんが悲しそうな声で話してくれた。
お母さんも体があまり強くないのに、チーコの世話を必死にしてくれた。
もちろんアルジェルも一生懸命世話をしたし、学校の時間以外はいつも一緒にいた。
そして、クリスマスが迫ってきた12月の初め、真夜中に、お母さんに起こされた。
いつも早く寝なさいとうるさいお母さんが、優しげに悲しそうに起こしてくれた。
ああ、その時がきたんだな。
起きた瞬間、そのことが分かった。
リビングにお父さんも来ていた。
お気に入りのクッションに乗って、チーコが横たわっていた。
その体が微かに震えていた。
チーコ…。
アルジェルが呟く。
どれくらいたったのだろう。
チーコが大きく震え、大きく顔をあげて、アルジェルを見た。
大きな瞳。黒い瞳。
最期に家族を目に焼き付けて。
それきり、チーコは動かなくなった。
マグカップを持ったまま、アルジェルが静かに泣き出した。
しんと静まり返った食堂に、アルジェルの嗚咽が響く。
「チーコがいなくなってからのこの子の落ち込み様は酷いものでした。しばらく学校もお休みしました。何を話しかけても、反応がなかったこともありました」
アルジェルの後を継いで、母親が話し始める。
「しばらく部屋に閉じこもっていたアルジェがある日突然、この花の写真を持ってきました。それで、しきりにアルフェネアに行きたいとせがむ様になりました。私も夫も、それでアルジェが元気になってくれるのならと、旅行の計画を立てました。でもこの花が何を意味するのか、偶然に知ってしまったんです」
「伝説のクエストか、それりや」
「はい。アルフェネアのクエスト、その中にある報酬アイテム、それがこのテミスの花らしいのです。その効力は、死者の復活…だそうです。この子がはこれでチーコを生き返らせたいと…」
「え、そんな事が本当に…」
そこまで呟いて、香澄はしまったというようにアルジェルを見た。
「新米のカスミにもわかるように説明してやるとだな」
ジェガンはポケットから煙草を取り出して咥えた。流石に子供前で火はつけない。
「アルフェネアにはクエストと呼ばれるイベントが色々と設定されている。あるアイテムを採取してきたら豪華景品と交換とか、特定のモンスターを討伐したら伝説の武器進呈とかな。クエストはその難易度でクラスに分かれているが、その最上級、伝説級クエストとなると、ほぼ達成は不可能なんじゃないかと言われている。もちろんその分景品もすごい、らしい、だ。」
「どこにいるかもわかんないドラゴンロード討伐だの、魔王の封印だのってやつよね。本当にあるのかしら」
ジュリアが頭の後ろで手を組みながら呟いた。
「へっ、あの社長ならどんなえげつない条件でも設定してそうだがな」
ジェガンは社長を知っているかのように口を歪める。
「まあ、そんな眉唾なクエストも存在しているんだが、そのうちにネット上で実際は存在しない様々なクエストの噂が飛び交うようになった。もともとがアクターでも眉唾なもんだ、それが噂が噂を呼び、尾ひれがついて、というやつさ。曰く億万長者になれる埋蔵金とか…」ジェガンはそこでお茶を啜る。「死者も甦らせる復活のアイテム、とかな。だが、いくらアルフェネアでも死者の蘇生までできるはずはない…」
香澄はアルジェルの表情を伺う。彼女は涙を拭いながら、口を固く結び、床をじっと見つめていた。
「それでも、探すのか、お嬢ちゃん?」
ジェガンはニッと笑いながら、アルジェルに問いかける。
アルジェルははっとしたように顔を上げた。
「本当にあるかもわからん。あったとしても望んだ効果なんてないかもしれない。いや、淡い希望を持たせないために言っとくが、多分そんな花はない」
「隊長!」
香澄が慌てて立ち上がる。
「黙ってろ、新人。今その嬢ちゃんに訊いている」ジェガンを香澄を一瞥する「どちらにしろ探し回ることになるだろうな。今日みたいな怖い思いをするかもしれない。どうする?」
「申し訳ありません、私は体が弱くて、あちこち回ることができないんです。主人は仕事でこれなかったもので…」
「お母さん、この子が行くというのなら、我々黒狼騎士団が責任をもってお守りします」
「しかし…」
「行きます!」
アルジェルが勢いよく立ち上がる。その目は、睨みつけるようにまっすぐジェガンに向けられていた。
一瞬の静寂の後、ジェガンがふんっと笑顔を浮かべる。
「きついぞ。大丈夫か?」
「大丈夫です!体育の成績はいいんです!」
「なら決まりだな。メンツは俺とジュリア、カスミで行く。明朝から出発だ。各自準備はしっかりしておけ。ビギナーが実質二人だからな。質問はあるか?」
母親がため息をついた後、お願いしますと頭を下げた。
アルジェルが静かに、力強く頷く。
香澄は少し不安そうな表情を浮かべていた。
「でも隊長、どうして急に…」
ジェガンはふんっと鼻を鳴らす。
「お母さんが諌めても、俺がそんな花はないといっても、嬢ちゃんは納得しないだろうよ。そいう目だ。じゃあ、好きなだけ探せばいい。探して努力して、結果はどうあれ、その時初めてこの嬢ちゃんは自分を納得させられるだろう。俺たちは騎士として、こうして目の前で困っている人の力になる。それだけだよ?質問は以上かな、カスミ隊員?」
カスミは目を大きくして大きく一つ息をつくと、はっきりと「はいっ!」と返事を返した。
明日からまた大変になりそうだなーとジュリアはぼんやりと思うのだった。
白い花編は今度こそ次話で完結予定です。
頑張ります!