9ページ目 『取り戻す物語り』
日曜日。
春風の香りというか、花の香りというか、そんなあたたかい香りがふわっとする朝。
僕は目をこすりながら部屋を出た。床に積み重ねられた本や段ボールにぶつからないように体を横にしながら歩く。キッチンにいくとママがホットケーキを焼いていた。僕の嗅いだにおいはこれだったのかもしれなかった。
「あ、起きたんだね。おはよう」
しかし、キッチンの方から聞こえたのはママとは違う、聴き慣れた声だった。
見慣れない服にエプロンを着た女性がホットケーキをひっくり返しながらこっちを向いて微笑んでいる。
その女性はいつも若草色のトレンチコートを着て、ゴーグルを掛けている姿が印象的な彼女だった。
僕はなぜ彼女がこんなに朝早くからいるのか不思議で仕方がなかった。
「おはよう。ど、どうしたの、おねえちゃん。こんなにあさはやくから……」
「ふふっ。昨日は申し訳ないことをしたからね。今日はお詫びのしるしにホットケーキでもご馳走しようかと思ったの。ホットケーキは嫌いじゃないよね?」
僕は少しの間口が開いたままだった。それは彼女の意外性を見れただけでなく、僕の大好物を作っていたからだ。
「きらいじゃないよ! だいすきなんだ!」
彼女は嬉しそうに微笑み、皿に盛りつけていく。バターがホットケーキの上で熱によって溶けていく。シロップは小さな透明の小瓶に入れられ、テーブルの上に置かれた。そして、銀のナイフとフォークが丁寧に置かれる。
「さぁ、冷めないうちに食べて」
彼女は僕の真向かいに座り、両肘をテーブルに立てて頬杖をつきながら言った。
「うん! いただきます!」
僕は置かれている銀のナイフとフォークを握り、上下に動かして切る。小さく切ってからシロップを掛けて口に運ぶ。中でバターの香りとほのかに甘いシロップが混ざり合う。今まではママの作るホットケーキが一番だと思っていた。けれど、彼女のを食べた瞬間にそれは打ち砕かれた。
……おいしい。同じホットケーキなのにママとこんなに違うんだ。
僕は次々と小さく切っては口に運ぶ。その度に僕の顔は緩んでいき、気がつけば満面の笑みをこぼしていた。
そんな僕を見ながら、彼女は最高の幸せを感じるかのような笑みを浮かべていた。
「おいしいよ! すっごくおいしい!」
当時の僕にはそれしか言えなかった。ただ、それが素直な気持ちだった。
「よかったよ。上手に焼けているのか心配だったの」
「ママのよりもおいしいよ! ……あれ? ママはどこいったのかな?」
僕は彼女の後ろにママがいないのを知りながら覗いたり、首が動く範囲を見回した。もちろん、視界に入る場所にいなかった。
すると彼女が姿勢を伸ばして僕の目をじっと見て口を開いた。
「朝早くにキミのお母様から連絡が来てね、「町の外に買い物があって、でもキミを連れていけない距離だから一緒にお留守番を頼めないかしら」って。だからね、今日はお母様が帰ってくるまでキミと一緒にいるから。よろしくね」
彼女はウインクをして握手を求めてきた。僕はナイフを置いて手を伸ばして握手をする。
今日は一日、彼女と一緒だと思うと自然と笑みが出た。
「それを食べたらどうしようか。何かしてほしいことある? なんでもいいよ。公園で遊ぶのもよし、本を読むのもよし、昼寝でもいいよ」
ホットケーキを口に入れながら考える。まだ朝だ。今から本を読んだらいったい何冊読むことができるだろうか。でもそれじゃあ彼女を疲れさせてしまうし、僕も疲れる。かといって公園で遊ぶのも気分じゃない。
「さんぽしにいこうよ! かえってきたらおやつにして、ほんをよんでほしいな」
彼女は「うん」と首を縦に振ってキッチンに向かう。
「それじゃあ、お昼は公園のベンチに座って食べようか。なにが食べたい?」
今はお腹いっぱいで何も入らない。そして、何も思いつかなかった。とくに食べたいものがあるわけじゃないから彼女に任せることにした。
彼女は何を作るか考えている。思いついたのか何かを作り始めた。僕はその間に残っている冷めかけのホットケーキを食べた。
食べ終わってから皿を片づけ、部屋に戻って服を着替えて戻ってくると、ちょうど彼女はお弁当を作り終わっていた。彼女は僕から皿を受け取って洗う。僕は乾いた布巾を持ち、濡れた皿を拭いてそれを食器棚にしまった。
「それじゃあ行こうか」
彼女に手を引かれてお店を出た。
桜の花がゆっくりと宙を舞う。まだ咲いている木の方が多いが、葉桜になりかけている木もあった。川の上に架かるコンクリートの橋を渡り、いつもは行かない場所へ歩いていく。
――同じ町の中。
それなのに周りの風景は一気に変わった。地形が少し窪んでいて、僕の目線からは一面に草原が広がっているように見える。この町にこんな場所もあるんだ。そこは風の通りがよく、春風が優しく吹いていた。
窪地を出て先に進んで歩く。その先に小さな公園が見えた。
「あの公園で少し遊ぼうか」
その公園に入り、辺りにあるのはベンチとブランコだけだった。木の素材を生かした二人掛けようのベンチに、鉄製の緑色に着色されたブランコ。彼女に連れられてブランコに乗る。ゆっくりと僕の背中を押して徐々に加速していく。ある程度のスピードになると僕は怖くなって「止めて!」と半泣きになりながら言って止めてもらった。彼女は焦って僕に「大丈夫?」と背中を擦りながら謝る。
ブランコに座ったまま、落ち着くのを待ってベンチに座った。彼女はカバンから作ってきたお弁当を取り出す。中にはサンドウィッチが入っていた。ハムのピンクにレタスの緑、卵の黄色が鮮やかだ。
彼女は濡れたタオルで僕の両手を丁寧に拭いた。
「ウイルスがついてると大変だからね」
そして僕はその中のひとつを手に取る。それを大きく開いた口に入れる。さすがに一度では入りきらなかった。膨らんだ頬を動かして飲み込む。
「そんなに慌ててお口に運んだら喉に詰まらせるよ?」
「おねえちゃん! すっごくおいしいよ!」
彼女は微笑みながら僕の口の周りを優しく拭いてくれた。
「たくさん食べるんだよ。まだまだあるんだから」
僕は頷いてもくもくと食べた。4つ食べ始めたところでお腹はいっぱいになった。彼女から紅茶をもらって4つ目を流し込んだ。
食べ終わるとまぶたが落ちてきた。うつらうつらと前後に頭が揺れ、そして彼女の肩にもたれた。
目を覚ますと知っている天井が見えた。
僕の部屋だ。
彼女は眠った僕を家まで運んでくれたようだ。
「あっ、起きたんだね。でも、今日はもう遅いからそのまま寝た方がいいよ。そうだ、本読んであげるよ」
そういいながら彼女は僕の頭を優しく撫でる。
「今日のお話は――『取り戻す物語り』。
「僕は旅に出る」そう言って少年は冥土行きの舟に乗ったまま帰って来なかった。
しかし、少年はある少女に約束をしていた。
――きっと戻ってくる。いつになるかわからないけれど。カロンに着いたら戻ってくるから。そして一緒に旅をしよう。
――ずっと待ってる。一緒に行きたいから。
2人はまた再び出会えるのを信じて……。
少年の周りに広がる宙を走る光。有限の光は刹那に消えていく。視界が暗闇に覆われていく。……ここは何処なの?
土星はとうに過ぎた。少女と別れてからいくつの年が過ぎただろう。少年にはもうわからない。
少女はそのころ地上から少年の足跡を探していた。軌道なんてありはしない。空を見上げても少年は何も応えてくれない。だから少女は夕凪へ溶けていく誓いを今はただ1人で佇んで待っている。
少年の声は息は音は消えていく……。
少年の夢は愛は約束は崩れてゆく……。
「あぁ……記憶はもう遥か底に沈んでしまったのか……」
少年は空虚に向かって手を伸ばす。
少年は掠れてゆく意識の中で思う。
「そうだ、世界にひとつだけ残すとしたら何がいいかな?」」
「さて、少年は何を残したと思う?」
僕は彼女の話を最後まで聞かないうちに寝てしまっていた。
「キミにまた会えることを信じて、私はこの本を残すよ……。キミがこの本を完成させるんだ。たくさんの人と触れ合って成長して、このお話の続きを書いて。それが、私の望みだよ」
翌朝。
僕は長い眠りから覚めたように体が重たかった。
部屋には彼女の姿はなく、枕元に昨日読んでくれていた本、『取り戻す物語り』が置かれていた。
ベッドから降りて重たい体を引きずるようにして歩く。
お店に出るとママがいて、おじいちゃんもいた。
「ママ、おねえちゃんどこにいったかしらない?」
「昨日ママが帰ってきたときに帰っていったわよ」
彼女はママの帰宅と同時に帰ったらしい。
でも、僕はなにかが引っかかっていた。口の中で砂を噛んだような嫌な感じ。
僕は部屋に戻り、彼女の置いていった本を手に取って開いた。
そこには一通の手紙が挿まれていた。
「これをキミが読んだころには私はこの町にはいないだろう。
でも心配しなくていいよ。
いつになるかわからないけれど、きっと帰ってくる。
その時にこの本の質問の答えと、前回の質問の答えを聞くことにするよ。
キミに本を読んであげられないのは寂しんだけど、私は旅に出る。
キミなら、きっとすごい人になれる。
キミの素直な気持ちが、この世界を変えるんだ。
何を言っているかキミにはわからないだろうね。
でも、それでいいんだ。
勝手に町を出ていく私を許してほしい。
それではまたね――」
彼女は僕の目の前から、町から、消えた。
――――そう、僕の物語はここから始まるんだ。
最終話を読んでいただきありがとうございました。
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