7ページ目 『またお会いしましょう』
金曜日。
僕はベッドの上で寝込んでいた。
窓から見える外は霧界に包まれて薄暗く、時間感覚を狂わせる。
感覚を狂わせた原因はもう一つあった。風邪だ。
昨日の夜中から寒気が止まらなかった。服を重ね着して毛布に包まり、冷えないようにしていたのに震えが一向に止まない。何度も起きては寝付けず、怖い夢ばかりが頭を駆け巡る。ママに熱を測ってもらったがあまり高くはなかった。微熱程度だ。
それでも寒気は治まらない。その理由はあの彼女の後ろ姿にあると思った。どうしても頭から離れずにいる。いまでも鮮明に浮かび上がる。夕暮れだった。僕には彼女の書いたお話より切ないと思った。その感情が切ないというものなのかは分からないが、切なかった。
僕が彼女を励ますには幼すぎるのだ。言葉が出ない。あんなときにどんな言葉が彼女を救うのか分からない。涙で視界はぼやけ、喉の奥に留まる想いを口にできず、彼女と繋いだ手はいまだに震えている。
言葉を知っていれば彼女を救えたのにと考えてばかりだ。
天井がいつもより高く見える。上から文字が降ってきた。どれもこれも読めないものばかり。幾つもの文字や言葉が落ちてくる。手を伸ばして掴んでみるがするりと零れ落ちていく。きっと彼女なら簡単に掴み取ってすんなり読んでしまうに違いない。
僕は自分の無知さに心が痛んだ。知らないことが恥ずかしくなった。幼い頃の僕にとって知らないことは不幸そのものだった。
彼女を悲しませないための知識がほしい。彼女の涙を見ないように僕が支える。
僕はもう一度天井に向かって手を伸ばした。いくつか零れ落ちていく中、ひとつだけ掴むことができた。そのままぐっと力を込めて握り、胸まで引き寄せる。拳の中から微かに光りが見えた。そっと力を緩め中を覗く。
〝希望〝
この文字も僕には読めなかった。だが、これだけが掴むことができた。どうして掴めたのか、どうしてこの文字なのか分からない。
ただ、それは、僕の中の恐怖や不安や震えを消し去った。そして、どこまでも澄み渡る青空のような無限に広がる晴れやかな気持ちになった。
外を見ると霧界は消えて雲間から光りが射している。あの文字と同じあたたかい光り。
僕は体を起こした。さっきまでの寒気が嘘の様に消えている。ママを呼んで熱を測ってもらう。微熱も下がっていた。
神様が僕に彼女を救ってあげてと言っているように感じた。
ママが部屋のドアを開けるのと同時にお店の扉が開く音がした。
「すみませーん。今日もお邪魔していいですか?」
彼女が来た。僕はベッドから飛び起き、彼女の元まで走る。途中本がたくさん詰められたダンボールに躓いたが気にはしなかった。
彼女はいつもの若草色のトレンチコートに身を包んでゴーグルを掛け、手に大きな紙袋をぶら下げている。
「おねえちゃんきてくれたんだね!」
僕にとって、今日彼女が来るのか来ないのかずっと気になっていた。もしもあのまま姿を消してしまったら、僕は心に一生消えない傷を刻むことになったに違いない。
「おっ! 今日もキミは元気だな。今日はあまり時間はないが、短い本なら読んであげれるよ」
彼女はいつものように笑いかける。一転の曇りもない澄んだ瞳。昨日の彼女が夢や幻のように感じる。昨日の彼女はどこにも感じなかった。
「よいしょっと……。さて、どの本を読もうか」
彼女は床に座り、後ろにある本棚から適当に一冊の本を手に取る。
『またお会いしましょう』
「ちょうどいいお手軽な本だよ。これなら読んであげれる」
彼女はその白く細い指で撫でるようにページをめくる。本も気持ちがいいのか、はらりとめくられる。そして彼女は笑顔になった。
「それじゃあ読むよ。
花火の上がる夏の終わり。華やかに空を彩る光に照らされる二人がいました。
大きな楠木の下で花火を見上げています。
青年は夏の終わりを告げる秋風に流されてゆく煙をみつめていました。
青年に寄り添っている女性はじっと彼の顔をみつめているわ。
女性は突然こんなことを口にしたの。
「わたし、この町を出るの」
彼はなにも口にしないまま彼女の顔をみつめた。
「わたしね、この町が大好き。みんな優しくて、あたたかくて、きれいで。でもね決めたの。わたしはもっとたくさんのことを知りたいの!」
彼は口を開かない。
「だからね、今日で会うのは最後。ううん、実際は最後じゃないけれどお別れ。そうね、5年後にまたこの楠木の下で会いましょう」
彼女の曖昧な口約束に頷く。
彼は彼女の頭を優しく撫で、何も言わず空を見上げた。
そして最後の花火が打ちあがるのを見て彼はこう言いったの。
さて、なんて言ったでしょう?」
僕の頭の中には初めからひとつのセリフが浮かんでいた。まるでこの本を一度読んでいて、答えがわかっているような感覚。僕は即答した。
「またあいましょう!」
「すごい! 正解だよ! この本読んだことあったの?」
「ううん。なんとなく!」
彼女は関心していた。「キミも成長しているね」と笑い、嬉しそうだ。
彼女のその笑顔が僕にとっての幸せだった。
「そう、彼は言いました。
「また会いましょう」
「えぇ、またお会いしましょう」
彼女は秋風に誘われるように彼のもとから去っていきました。
どうだったかな? すごく短くていいお話でしょ!」
「うん! でも、すこし気になったところがあるよ!」
「なにかな?」
「どうして去っていったの?」
彼女は僕の髪をくしゃくしゃにして笑った。
「キミは本当にすごいね! 面白いところに気が付くんだね。そう、このお話を書いた作家さんはちょっと変わっているの。キミが言いたいのは、「どうして一緒に帰らなかったの?」ってことだよね」
「うん!」
「この作家さんの特徴でね、掴まえさせてくれないの。青年と女性が出てくるけれど容姿が書かれていないし、花火は上がっているけれど詳しく書かれていない。この人の作品はその時の気分によって見え方が違うの。
2人の心の中を書けるのに書いていないよね。それはその時の気分を読者に想像させるの。実は彼が、何か話したいのに言葉が見つからないから話していないとか、彼女がどうしてなにも言ってくれないのかと思ったりとか。この本は読み返すたびに違った味わいがあるの。
そして、キミが気になっている問題。「どうして一緒に帰らないのか」というと、一緒に帰ってしまったら2人は結ばれるかもしれないと、ほとんどの人が思うわ。だから彼女を遠ざけたの。そうすることによって読者に想像を膨らませてもらう。キミは5年後の彼らをどう想像する?」
情報の少ない短い話を想像で補うには幼すぎる。僕は正しい答えを出せなかった。
「ふたりはけっこんした!」
また彼女は笑う。
「その発想は私にはなかったよ! 結婚するのも面白いね。適当に最後を決めるのも可笑しくて楽しい。ほかには何か思い浮かんだ?」
何も思い浮かんではいなかったが、彼女の笑う顔が見たくて適当に答えた。
「うーん、かえってこなかったとか」
「そうそう。そんな風にしてこの本を読むんだよ。きっとキミなら作者の思い浮かべた本当の答えを見つけられるかもしれないね」
彼女は本当に嬉しそうだ。いろいろ思い浮かべて僕に「どうかな?」と聞いてくる。
僕はその質問になるべく近い答えを探した。その度に彼女が幸せそうにするから、僕は彼女の顔から瞳を放すことができなかった。
「あ、もうこんな時間! ちょっと長居し過ぎた! じゃ、またくるね。お邪魔しましたー」
彼女はすぐに立ち上がって出て行った。その彼女の後姿は幸せそうだった。
僕は今日の本がとても好きになった。世の中にはたくさんの本がある。自分で結末を考える本があるのを初めて知った。僕の無知さは不幸であると同時に、新たな発見を生み出す幸せでもあったのだ。
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