5ページ目 『ある初恋のおはなし』(1)
木曜日。
この古びた本屋は気まぐれなお店だ。
本当なら開店して営業している時間だが、その日はシャッターも上げずに朝から大掃除をしている。
窓を全て開放し、春の心地よい暖かな風が入ってきた。
舞い上がるほこりと本がめくれる音が心地よいリズムを刻む。
晴れ渡る青空には一本の飛行機雲が浮かんでいる。
窓越しの空は、それだけで一枚の写真や絵になっていた。
そんな中、僕はあの人が来るのをうずうずして待っている。
彼女に逢いたくて、本を読んでもらいたくて待ちきれずにいた。ママに雑巾を持ってきてと言われたばかりなのに、頭の中は彼女のことばかりで忘れてしまっていた。
「すみませーん! 今日はお休みですかぁー?」
シャッターの向こうで彼女の声が聞こえた。
僕は駆け足で、裏口から外に出ようとしたがママに止められた。
「こら。1人でお外に出ちゃいけないって言ったでしょ。いまあけるから、バケツと雑巾持ってきて」
「うん、わかった!」
ママがシャッターを空けている間に僕は洗面所に向かった。床に置いてあるバケツと、適当にほつれていたタオルを手にして入り口に走る。
本棚に足の小指をぶつけたが痛みを感じなかった。彼女に会いたいの一心が痛みを感じさせなかったのだ。
ちょうどシャッターが上がり、彼女は珍しくフリルの付いた洋服を着ていた。
「あの、お母さま? この子を一緒に町で行われる演劇に連れて行っていいですか?」
「あら、演劇に連れて行ってくださるの? 私も行きたいけれどお掃除があるので仕方がありませんね。どうぞ、この子も暇をしているのでよろしくお願いします」
「いってきていいの?」
「いいわよ。でも、1人になっちゃダメよ? しっかりお姉さんといるのよ」
「うん! それじゃあいってきます!」
僕は彼女と手を繋いで町の中心へと向かった。
演劇会場がある所に着くと、たくさんの人が列になっている。皆ここで行われる演劇を見に来たのだろう。片手にチケットが握られていた。
僕にとって多くの人を見るのは初めてだった。買い物の時や公園ではあまり人を見ない。だからこのとき、心臓の鼓動は高鳴っていた。
「私たちは列には並ばないよ。さあ、こっち――」
彼女は会場の裏口に回り、鍵を開けて中に入る。そこは暗くて、下に置いてある物に気付かず何度か蹴ってしまった。彼女は僕を抱っこして何にもぶつからずに歩く。少し歩いていくと光りが漏れている扉が現れた。彼女はその扉を開く。
扉の向こうはカーペットが敷かれた狭い部屋だった。人が入って6人くらいだ。その中の片壁は鏡が一面に張られている。反対側には帽子や紙が張ってある。ここは舞台の裏側、役者たちの待合室だった。
「今日はね、私の初めて書いた小説を演劇にして公演するの」
「おねえちゃんはさっかさんなの!?」
「名前もまだ売れていないアマチュアだよ。だから本を読んで勉強しているの。それでも、あれだけのお客さんが来てくれるなんて感激だよ。そうだ、君にも特別に台本をあげるね」
彼女から手渡された台本には『ある初恋のおはなし』と書かれている。僕は簡単な漢字を読めるようになっていた。
「さあ! 今日の演劇に参加してくれる主人公とヒロインの紹介をするね」
彼女は、奥に座って鏡の前で化粧をしている男の人から紹介を始めた。
「彼はクラウディア。主人公の少年を務めてくれるわ。そしてこちらの女性はフィオナ。王女様役をやってくれるわ」
「はじめまして、クラウディアです。君が彼女が毎日通ってるお店の子だね。今日は彼女の作品を精一杯演じさせてもらうよ」
「はじめまして、フィオナです。わたし彼女の作品に心惹かれたの。だから今回この演劇に参加させてもらったの。よろしくね」
彼らに握手と簡単に自己紹介をして挨拶した。
「この2人は同じ学校の友達なの。ちなみに私はナレーションをするの。楽しみにしててね」
彼女は台本を広げて何度かリハーサルをした。その間に2人は化粧や小道具、洋服の準備をしている。
公演まであと5分になった。
彼女たちの緊張と観客の張り詰めた空気が舞台の裏側に漂う。
彼女に連れられて僕は、様々な機械が置かれている2階の部屋に上がる。そこから窓越しに客席を見た。空いている席がひとつも無い、満席だ。
「宣伝した甲斐があったね」
彼女はこの日のために町中にポスターや宣伝をしていたようだ。まだ名が売れていない作家の作品を、これだけの人が楽しみにしているのは僕にとっても嬉しいことだった。
そして、ブザーの音と共に幕はゆっくりと開く。
『これはとある一つの恋愛劇』
彼女のナレーションから劇は始まった。
『中心にいるのは1人の少年と少女。そう、例えるのならば夜空に輝く星々の儚い光……』
舞台に照明が当たり、少年役のクラウディアが出てきた。
『少年は旅をしていました。そしてある国に着きました。国の名前は聖王国。建物は真っ白く、汚れなんて見当たらない。埃も舞っていない清潔な国。少年はその国のを探索していました』
「なんて国だ。ここが聖王国か……。何もかもがきれい過ぎて……とても人が住む処には見えない……」
彼の声は静かに、しかし遠くまで聞こえる声が響く。
「ちょっとー! そこの少年! どいてぇー!」
舞台の裏側から走りながら出てきた王女役のフィオナが彼とぶつかった。
「…………」
「どいてと言っただろうが! 怪我をしたらどうする!」
「あなたこそ! それに、急で回避なんて不可能だ!」
ナレーションをこなしながら彼女は機械のボタンを押す。
「王女様ー! いたぞ、あそこだ! 近くに不審者がいる! 急げ!」
テープにはじめから録音しておいた音声を流したのだ。
「仕方がない! 少年、私と一緒に逃げるのだ!」
「え、なにを!」
王女様に手を引かれ、少年は幕の裏に消え、照明が落とされた。




