風邪と異世界と愛犬と
約9千5百字。恋愛要素ナシのハートフル。
「あ゛ぁー……じんどい」
成瀬日和。27歳、女性。都内で働くしがない会社員。
彼女はその日、布団の中で死人のような声を漏らしていた。頭が重い。喉が痛い。節々までだるい。
さっき測った体温は三十八度一分。どう考えても大人しく寝ているべき体調なのだが、そんな日和の腹の上にはノートパソコンが鎮座している。
「えーっと……ここの数字だけ直して……あと先方に返信して……」
霞む目を細めながら、キーボードを叩く。今日は体調不良ということで在宅勤務に切り替えた。できれば丸一日休みたかったが、今日中に片づけておきたい仕事がいくつか残っている。
普段から仕事中心の生活が続き、食事も睡眠も適当になりがちだった。部屋を見回しても、畳み損ねた洗濯物や空になったペットボトルが目につく。
これで手取り十六万円。
熱のある日に改めて考えると、なかなか泣けてくる。
「これ送ったら寝よ……。今度こそ寝る……」
そう呟いたところで、
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……ん?」
日和は手を止めた。宅配便を頼んだ覚えはない。来客の予定もない。
もう一度、ピンポーン。
「あー……はいはい……」
仕方なく布団から這い出る。立ち上がった瞬間、頭の奥がぐわんと揺れた。
「うぇ……」
壁に手をつきながら玄関へ向かい、インターホンの画面を覗き込む。そこに映っていたのは、見知らぬ少年だった。
銀色の髪に、透き通るような白い肌。年齢は、中学生か高校生くらいに見える。整った顔立ちにも当然ながら見覚えはない。
(誰だろ……)
考えても分からない。日和はチェーンを掛けたまま、玄関の扉を少しだけ開けた。
「……はい?」
少年が顔を上げる。日和を見るなり、その青い瞳が大きく見開かれた。
「あ……」
なぜか、ひどく嬉しそうな顔をした。
「やっと……」
「はい?」
「やっと会えた……!」
今にも泣き出しそうな顔で笑われ、日和はますますわけが分からなくなる。
「あの……どちら様でしょうか」
「あっ、すみません。そうですよね」
少年は慌てたように姿勢を正した。そして日和をまっすぐ見つめる。
「僕、あのとき異世界で助けてもらったフェンリルです」
「…………」
ふぅー。
およそ十秒以上、日和は何も言えなかった。
「……はい?」
「フェンリルです」
「いや、聞こえなかったわけじゃなくて」
むしろ、はっきり聞こえたから困っている。
「異世界……?」
「はい」
「フェンリル……?」
「はい」
「私が助けた?」
「はい!」
少年が嬉しそうに頷く。日和には、そんな記憶は欠片もない。異世界へ行った覚えもなければ、フェンリルを助けた覚えもない。
「えっと……それって、どういう――」
そこまで言ったところで、急に足元が揺れた。
「あれ……」
「大丈夫ですか!?」
日和の身体が傾く。少年が咄嗟に扉越しに腕を伸ばしたものの、チェーンが邪魔をする。
「ちょ、ちょっと待って……」
日和は壁にもたれながらチェーンを外した。途端に少年が扉を開け、ふらつく日和の身体を支える。
「すごく熱いですよ。とにかく横になってください」
「いやでも、まだあなたが誰なのか全然……」
「説明はあとでしますから」
そう言いながら、少年は迷いなく日和を部屋の奥へ連れていく。見知らぬ相手を自宅へ入れている時点で、普段ならもっと警戒しただろう。ただ今は、それを考える余裕すらなかった。
布団へ戻された日和に、少年は矢継ぎ早に尋ねる。
「水分は取ってますか?」
「朝に……ちょっと」
「食事は?」
「昨日の夜にコンビニのおにぎり……」
「昨日?」
「うん……」
少年はしばし日和を見つめたあと、冷蔵庫の方へ視線を向けた。
「冷蔵庫、見てもいいですか?」
「いいけど……大したものないよ」
「台所も使いますね」
「うん……もう好きにして」
「分かりました。とにかく寝ていてください」
日和は布団へ沈み込んだ。
しばらくすると、台所から物音が聞こえ始める。異世界から来たフェンリルを名乗る見知らぬ少年が、自宅で料理をしている。どう考えても異常な状況だった。
けれど、頭がぼんやりしているせいもあって、今はただ任せてしまいたかった。
ほどなくして、湯気の立つお粥が運ばれてくる。
「食べられそうですか?」
「うん……ありがと」
身体を起こし、一口食べる。胃に優しい温かさが染みた。
「……おいしい」
「よかったです」
少年がほっとしたように笑う。
その顔を眺めながら、日和は改めて思った。
やっぱり知らない。こんな整った顔、一度会っていたらさすがに覚えていそうなものだ。もっとも、相手の主張では当時はフェンリルだったらしいが。
食べられるだけ食べ、薬を飲み、水分も取る。そのまましばらく横になっているうちに、少しだけ頭がはっきりしてきた。
そこでようやく、日和は基本的なことに気づく。
「……そういえば」
「はい?」
「名前、なんていうの?」
少年がぱちりと瞬きをした。
「あ、そうでした。まだ名乗ってませんでしたね」
「うん。フェンリルとしか聞いてない」
「アイクです」
「アイクくん」
日和がそう呼ぶと、アイクはすぐに首を横へ振った。
「アイクでいいです。向こうでもそうだったので」
「……向こうでも」
さらっと言われる。日和自身にはまったく覚えのない、自分と彼の過去。どうにも妙な感じだった。
ふと見ると、今度はアイクの方が何か聞きたそうにこちらを見ている。口を開こうとして、少し迷う。その様子を見て、日和は察した。
「ああ。私の今の名前?」
「……はい」
「私は成瀬日和。日和が名前ね」
その瞬間、アイクの顔がぱっと明るくなった。
「すごい! あっちとおんなじなんですね!」
「……そうなんだ」
「はい!」
本当に嬉しそうだ。一方の日和には、その「あっち」がまったく分からない。
(おんなじって言われてもなぁ……)
なんとも言えない気持ちで苦笑する。アイクは改めて日和を見ると、嬉しそうに口にした。
「ヒヨリさん」
「うん」
そのとき。
ピコン。
枕元のノートパソコンから通知音が鳴った。
「あ」
日和は反射的にそちらへ手を伸ばす。
「ヒヨリさん?」
「ごめん。ちょっとだけ仕事」
「まだやるんですか?」
「今日中に片づけなきゃいけないのがあるから……」
パソコンを開く。案の定、追加の連絡が来ていた。
「あー……増えてる……」
画面を睨んでいると、アイクが横から覗き込む。
「何をする仕事なんですか?」
「ん?」
日和は大まかに説明した。資料をまとめて、数字を確認して、取引先への返信を作る。細かな作業が多く、体調の悪い頭には地味につらい。
「これは何ですか?」
「表計算ソフト」
「こちらは?」
「メール」
「この数字は、ここの資料から拾ってるんですか?」
「そうそう。それで、こっちと突き合わせて――」
説明しながら、日和は少しずつ違和感を覚えた。質問はする。しかし一度答えれば、同じことを二度聞かない。
「……やってみてもいいですか?」
「え?」
「僕が」
「いやいやいや」
日和は思わず身体を起こした。
「パソコン触ったことある?」
「ないです」
「メールは?」
「初めて見ました」
「無理でしょ」
「たぶん大丈夫です」
「その自信どこから来るの」
それでもアイクは真顔だった。日和は半信半疑のまま、一つだけ作業を見せる。
「この数字をここに入れて、元の資料と合ってるか確認して……」
「なるほど」
アイクは日和が操作した画面を見たあと、すぐ別の資料を開いた。
「じゃあ、こっちはこの数字を参照すればいいんですね」
「え」
「あと、ここ一つずれてます」
「え?」
確認すると、本当にずれていた。
「……マジで?」
「この返信文は、さっきヒヨリさんが作ったものと同じ形式で大丈夫ですか?」
「う、うん……」
その後も、分からないところだけ日和に尋ねながら、アイクは次々と作業を進めていった。日和は最初こそ横から画面を見ていたが、やがて身体がもたなくなり、再び布団へ横になった。
「そこだけ、送る前に見せて……」
「分かりました」
目を閉じる。
次に起きたとき、水が新しくなっていた。また眠る。
目を覚ますと、食べ終えた食器が片づいていた。
「ヒヨリさん、ここだけ確認お願いします」
「あ……うん。それで大丈夫」
「分かりました」
また眠る。
そうして次に起きたとき。
「今日やる分、終わりました」
「……へ?」
日和は寝ぼけ眼でパソコンを見る。画面を確認する。
本当に終わっている。
「何か間違ってましたか?」
「いや……」
日和はしばらく画面を眺めた。
「怖いくらい合ってる」
「よかったです」
アイクは嬉しそうに笑った。
それから日和は、ほとんど何もしなかった。
目を覚ませば、水がある。食べられそうなものも用意されている。仕事のことを気にしてパソコンを開く必要もない。
最初のうちは、何かしなければと落ち着かなかった。寝ているだけでいいと言われても、つい次にやるべきことを探してしまう。
けれど、目を閉じても何も困らない。起きても、やらなければならないことが増えていない。
また眠っていい。
そう分かってくると、ようやく身体から力が抜けた。
(何もしなくていい日って……いつ以来だろ)
思い出せない。
少し離れたところで、アイクが静かに何かを片づけている。日和はその姿をぼんやり見つめた。
(こんな人がずっといてくれたら……楽だろうなぁ)
ほんの少しだけ、そんなことを思った。
夜になる頃には、熱も朝より下がっていた。日和は布団の中で身体を起こし、近くに座っているアイクを見る。
「そういえばさ」
「はい」
「アイク、このあとどうするの? いつまでこっちにいるつもりとか」
「……」
そこでアイクは、わずかに視線を落とした。
「そのことなんですけど」
「? うん」
少しだけ間を置いてから、アイクは口を開く。
「ここ数年、少しずつ魔力が衰えていて……。僕もずいぶん長く生きましたから、もう寿命なのだと思います」
「…………え?」
寿命……それってつまり。
日和はしばらく黙ったあと、ようやく口を開いた。
「ずいぶん長くって、どれくらい?」
「約一万二千年です」
「い、いいいいいいい一万二千年!?」
思わず声が裏返った。
「はい」
「一万二千!? 一万二千年!?」
「あ、正確には一万二千五百年だったかもしれません」
「いやあんまり変わんないよ!?」
冷静に考えたらそんなことはない。並の人間だったらその間に五回は死ねる。
ただまあ、あくまで問題はそこじゃなく。
「そっか……一万二千歳かぁ……」
それはさすがに、寿命を迎えるには充分すぎる時間かもしれない。
日和が納得していると、アイクは静かに続ける。
「だから魔力が残っているうちに、どうしても一度ヒヨリさんに会いたかったんです」
「私に?」
「はい」
アイクは頷いた。
「ヒヨリさんがどこへ生まれ変わったのか探しました。世界が違うことまでは分かったんですけど、そこへ行く方法がなかったので」
「……なかったので?」
「作りました」
「何を?」
「世界を越える魔法を」
日和はまた少し固まった。
「……作れるものなの、それ」
「大変でしたけど」
「だ、だろうね」
さらっと話しているが、どう考えてもさらっと済ませていい話ではない。
「でも、最後に一度だけでもヒヨリさんの顔を見られれば、それでよかったので」
そう言って、アイクは少し笑う。
「けど、それでやっと会えたと思ったら……今度はヒヨリさんが急にふらふらと倒れそうになっていたので」
「……あー」
「すごくびっくりしました」
「ごめん」
「顔を見るだけのつもりだったのに、それどころじゃなくなりました」
思い返せば、玄関先では再会したことをあれほど喜んでいた。それが日和の様子を見た瞬間、何もかも後回しにして看病を始めたのだ。
けれどそこまで聞いても、日和の中に異世界の記憶が蘇ることはなかった。
どこで出会ったのか。どんなふうに暮らしていたのか。どんな別れ方をしたのか。
何一つ覚えていない。
それでも。
「……ありがとう」
気づけば、そう言っていた。
アイクが少し目を見開く。
「私のために、そこまでして来てくれたんでしょ?」
「はい」
「なら……ありがとう」
今の日和に言えるのは、それくらいだった。
ただ、そこで別の思いが胸に引っかかった。
「でも、ごめんね」
「え?」
「最後の思い出を作りに来たのに、何もしてあげられなくて」
アイクが目を瞬く。
「私、アイクとのこと何にも覚えてないし。せっかくこっちまで来たのに、来て早々看病させて、仕事までやってもらって……。どこか連れていってあげることもできなかったし」
「ヒヨリさん」
「何か一つくらい、こっちの世界で楽しい思い出作ってあげたかったなって」
アイクは少し驚いた顔をした。それから、ゆっくり首を横に振る。
「僕は、ヒヨリさんのそばにいられただけで嬉しかったです」
「でも」
「ずっと、もう一度会いたかったから。今日は一日ずっと一緒にいられました。それだけで十分です」
「……そっか」
「はい」
本当にいい子だな、と日和は思う。
するとアイクが「あ」と小さく声を漏らした。
「どうしたの?」
「あ、そうだ。でもそういえば、できればもう一つやりたいことがありました」
「なに?」
日和も何かしてあげたいと思っていたところだ。よしきた、と少し身構える。
アイクは少しだけ気恥ずかしそうに口を開いた。
「いっしょに寝たいです」
「…………」
「ヒヨリさんと」
「……それだけ?」
「はい」
日和は拍子抜けした。
「そんなことでいいの?」
「はい。向こうにいた頃、ヒヨリさんは僕の毛が好きだったんです」
「毛?」
「よく僕を抱き枕にして寝てました」
「フェンリルを?」
「僕、大きかったので」
「まあ、そうだろうね」
アイクは懐かしそうに笑う。
「僕も大好きでした。ヒヨリさんといっしょに寝るの。だから最後に、あの頃みたいに眠りたいです」
「……なるほどね」
それなら確かに、彼にとっては大事な思い出なのだろう。
「いいよ。それくらいならお安い御用」
「本当ですか?」
「うん」
ぱっと顔を明るくしたアイクが、そこでふと自分の身体を見る。
「あ、でも……」
「なに?」
「今の僕、あの頃みたいなモフモフじゃないんですけど」
「……そこ気にしてたの?」
「昔と全然違うので」
日和は思わず笑った。
「そんなの気にしなくていいよ。看病してくれたお礼だし」
「ありがとうございます」
そこで日和は改めてアイクを見る。銀髪に、整った幼い顔立ち。どう見ても年下の少年である。
(……成人女性が中高生くらいに見える美少年と同じ布団に入るって、絵面だけならかなり危ないな)
とはいえ中身は約一万二千歳のフェンリルだ。しかも本人の希望である。
深く考えるのはやめた。
日和は布団の端を持ち上げる。
「おいで」
「はい!」
アイクが布団へ入ってくる。その様子は本当に嬉しそうで、それこそもし尻尾があれば今頃ぶんぶん振っていそうだなと思えるくらいだった。
「……そういえばすっごく今更だけど、どうして人型なの?」
「ああ」
アイクは自分の手を見る。
「実はその辺りについては、僕も正確には分からないんです」
「分かんないの?」
「こっちの世界にはフェンリルがいないみたいなので。それに本来の僕、かなり大きいですし」
「まあ、フェンリルだもんね」
「察するにおそらく世界を越えたとき、この世界に合わせて何か制限がかかったんじゃないかと思います」
「へぇ……」
そういうものか。まあでも、そう言われたら日和もそう受け止めるしかない。そもそも世界を越える魔法なんて代物自体、今日初めて存在を知ったくらいなのだ。
「ま、とりあえずいっか」
それから二人は、同じ布団に横になった。
電気を消す。
すぐ隣にアイクの体温がある。
日和は目を閉じた。異世界の景色が浮かぶこともない。巨大なフェンリルと暮らしていた自分の姿も、何一つ思い出せない。
それなのに。
(……なんだろ)
すぐ近くにある匂いも、身体から伝わる温かさも、不思議と初めてではないような気がした。
理由は分からない。
ただ、妙に落ち着く。
日和が隣へ顔を向ける。
「……早っ」
アイクはもう眠っていた。規則正しい寝息を立てている。
昼間、何でも器用にこなし、初めて触るパソコンまであっという間に使いこなしていた姿からは想像できないくらい、安心しきった寝顔だった。
「……そっか」
この子にとっても、ここは知らない世界だったのだ。実際はずっと緊張していたのかもしれない。
「もしそうなら、気づいてあげられなくてごめんね」
小さく呟き、日和はそっと銀髪へ手を伸ばす。さらさらとした髪を撫でると、自然と口元が緩んだ。
ほんの半日程度しか一緒に過ごしていない。それでも、この子が自分を慕ってくれていることはよく分かった。
相変わらず記憶はない。
けれど。
(こんな子がずっと傍にいてくれたなら……きっと、異世界の私はすごく幸せだったんだろうな)
そう思えた。
……でも、それと同時に考えてしまう。
この子はいったい、どんな気持ちで自分を看取ったのだろうか。
一万二千年近く経っても忘れず、次元を越えて会いに来るほど大切だった相手を失う。それがどんなものなのか、日和には想像もできない。
できることならこのままずっと……でも、それはきっと世界にとって許されないことで。
なぜならすべての生物にとって、命とは有限なものだから。
日和は眠っているアイクの髪を、もう一度そっと撫でた。
「……今までありがとう」
気づけば、自然とそう口にしていた。
アイクは静かに寝息を立てたままだ。
日和も目を閉じる。
両腕から伝わってくる、どこか懐かしい温かさに身を任せながら、そのまま眠りについた。
翌朝。
「……ん」
目を覚ました日和は、ぼんやりと天井を見上げた。昨日より身体が軽い。熱もかなり下がっている気がする。
「アイク?」
隣を見る。
誰もいない。
「……アイク?」
身体を起こす。部屋にもいない。台所にも、玄関にも。
代わりに、テーブルの上へ一枚のメモが置かれていた。
日和はそれを手に取る。
『ヒヨリさんへ』
その書き出しだけで、胸がきゅっと縮んだ。
『最後にもう一度会えて、とても嬉しかったです。昨日はずっと一緒にいられて、昔みたいに眠ることもできて、僕には十分すぎるくらい幸せな一日でした。向こうの世界でのことも、僕にとってはすべてが心からのかけがえのない思い出です。本当に本当にありがとうございました』
読み終えてからも、しばらく紙から目を離せなかった。
「……そっか」
帰ったんだ。
もう、向こうの世界へ。
そして昨日聞いた話が本当なら、たぶんもう二度と会えない。
「……っ」
視界が滲んだ。
日和にとっては、たった一日の出来事。それでも、昨夜腕の中で眠っていたアイクの姿を思い出すと、胸の奥が痛くなる。
しばらくして、日和は鼻を啜り、メモを折り畳もうとした。
「あれ?」
裏にも何か書かれている。ひっくり返す。
「…………なにこれ」
そこには会社名がいくつも並んでいた。給与や勤務時間、業務内容、待遇。日和の経験なら応募できそうな職種まで、簡潔にまとめられている。
「これって、転職先の候補……?」
昨日一日、仕事を代わっただけで、アイクは日和がどんな仕事をして、どれくらいの業務を抱えているのかまで把握していたらしい。
ちなみに、恐ろしいことにメモにある各社の説明には、口コミサイトなどに記されていた転職時の採用試験の内容や、日和の職務内容的に面接で伝えた方がいいアピールポイントなどまで補足されていた。
そして、一番下。
最後に一言だけ添えられていた。
『どうかカラダに気をつけて。いつまでも元気でいてください』
「…………」
日和はしばらく、その文字を見つめた。
「……本当にすごいなぁ」
最後まで、自分の心配ばかりしている。
もしまた同じように身体を壊したら、きっとアイクは心配するだろう。もう会えないとしても、最後まで自分を大切にしてくれた相手に、いつまでも心配されるような生活を続けるのは嫌だった。
日和は涙を拭うと、メモの裏に並んだ会社名へもう一度目を落とした。
「……やるか」
今度は、ちゃんと自分のために。
そう決めた。
◇ ◇ ◇
それから日和は、実際に転職活動を始めた。アイクが残してくれた候補も参考にしながら求人を調べ、応募し、面接を受ける。
やがて今までより自分に合った職場へ移った。働き方が変われば、生活も少しずつ変わった。
以前よりきちんと眠れるようになった。食事も取るようになった。仕事から帰って、そのまま何もできず倒れ込むような日は減っていった。
気づけば、いつも身体のどこかにまとわりついていた重さもなくなっていた。
そうして、しばらく経ったある日。
日和は自宅の窓を開けた。以前より少し片づいた部屋へ、柔らかな風が入ってくる。窓の外には青い空が広がっていた。
「みんな……アイクのおかげだなぁ」
ぽつりと呟く。
あの日、アイクが来なかったら、きっと今も体調を崩しながら同じように働き続けていた。
「ありがとね」
もう会えない彼へ向けるように、空を見上げる。
そのとき。
ピンポーン。
「ん?」
インターホンが鳴った。
今日もやはり来客の予定はない。
日和は玄関へ向かう。
「はーい」
扉を開けた日和は、「……え」とその場で固まった。
そこにいたのは、何か月経っても忘れられなかった銀髪の美少年だった。
「ヒヨリさん」
「な、なんで……」
最後に会いに来たと言っていた。
もう長くないと言っていた。
それなのに、アイクは少し気恥ずかしそうに笑っていた。
「あの……実はですね」
「う、うん」
「向こうに戻ったあと、死ななかったんです」
「…………うん?」
「それどころか、しばらくしたら少しずつ魔力が戻ってきまして。身体もどんどん元気になりました」
日和は呆然とアイクを見る。
「どういうこと?」
「僕もおかしいと思って、改めて調べたんです。そしたら、昔ヒヨリさんと結んだ主従契約が、まだ残ってるみたいで」
「主従契約?」
「はい。ヒヨリさんがこの世界に生まれ変わったあとも、契約自体は切れてなかったみたいです」
当然ながら、そんな契約の記憶も日和にはない。
「その契約で、僕とヒヨリさんの魔力は今もつながってました。世界が違ってもです」
「……へ?」
「だから、こっちの世界でヒヨリさんがずっと弱っていた影響を、僕も受けてたみたいなんです」
「私が?」
「はい」
アイクは頷く。
「ヒヨリさんが仕事を変えて、ちゃんと寝たり食べたりして、元気になっていくにつれて……僕も元気になりました」
「…………」
日和は何度か瞬きをした。
「え……じゃ、じゃあ、寿命がどうのっていうのは?」
アイクは少し気まずそうに視線を逸らした。
「僕の勘違いだったみたいです、あはは。結構長く生きてたので、さすがにそろそろ僕にもお迎えが来たんだとつい思っちゃって……」
「…………」
「…………」
「な、なんだぁ……」
一気に力が抜けた。日和は玄関の壁へ手をつく。
「ヒヨリさん?」
「いや……」
あれだけ最後のつもりで送り出したのに。人騒がせにもほどがある。
でも。
「……よかったぁ」
死なずにいてくれた。
今は、それだけで十分だった。
そこで日和は、はっとする。
「え、ちょっと待って。それじゃあさ、もうすっかり元気になったってことは……」
「はい。これからはいつでも会いに来れます。というか魔力も潤沢にあるので、ずっとこっちにいられます」
「マジか」
日和が目を丸くする。
アイクはそんな彼女の反応を窺うように、少しだけ視線を揺らした。
そして、遠慮するように口を開く。
「あの……これからも傍にいても、いいですか?」
どこか不安そうな顔。
その表情があまりにいじらしくて、それでいて可愛くて、日和は思わず顔をほころばせた。
「そうね――」
そんなの、答えならもちろん決まっているとも。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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