役立たずと追放された針子は、三通の注文書で三年分の給金を取り戻し暖炉の食卓へ帰ります
「ふふっ」
笑ってしまった。仕方がない。ベンノ様の礼装外套は、右肩から裾まで見事に裂けていたのだ。
初雪まで、あと九日。
雪待ちの朝に壊れた冬支度を着て現れるなんて、ずいぶん体を張ったご挨拶である。
「何がおかしい、ゲルダ」
「失礼いたしました。あまりに立派な裂け目でしたので。二十七針で仮留め、裏打ちに半反。九日あれば仕立て直せます。ただし、うちの職人はもっと大切な仕事で手いっぱいです」
私は継ぎだらけの古い外套の前を合わせた。ベンノ様の背後で、ヒルデ様が私の袖口を見て、すぐ目を逸らす。
「家の恩を忘れたのですか。あなたを住まわせ、針仕事まで教えてあげたでしょう」
住まい。納戸の隅。
教え。失敗すれば食事抜き。
恩。便利な言葉だ。給金を払わない雇い主ほど、よく口になじんでいる。
「冬布を寄越せ。領内が困っている」
ベンノ様の声は、後ろに控えた元使用人には太く、帳場にいるハンスへ向くと半分になった。商人組合の監査役、職人、領民代表まで揃っているからには、礼儀も寒さで縮むらしい。
「冬布でしたらございます。一反、二反、三反。ええ、恩返しより先に未払いを数えましょう」
工房の中央に三便分の反物を並べた。灰色、焦茶、濃紺。きらびやかさはないが、雪と風には勝てる布だ。
窓の外では、空の荷台が一台戻ってくる。その向こうには反物を積んだ跡だけが残っていた。ハンスが窓を見て、小さくうなずく。
私は帳場の三枚を指でそろえた。
「一便につき一枚。注文書を皆様の前で読み、記載内容を確認し、署名してください。拒まれた場合、ベンノ様とヒルデ様を含む当主一族には一寸もお渡ししません」
「我が家を脅すのか」
「取引条件です。商売は明るく、数字は正しく。北窓仕立工房の家訓でございます」
「そんな家訓はないよ」
リアムが柔らかく訂正した。
今、できた。私の中で。
私は工房住居へ続く扉の内鍵に触れ、すぐ手を離した。
「では、一枚目をどうぞ」
* * *
ベンノ様は注文書を持つなり、署名欄だけを親指で隠した。残念。そこは最後まで取っておくお楽しみである。
「祭礼用外套、八着。濃紺の厚織り、銀糸飾り。製作者——当主家名」
「続けてくださいませ」
「直し責任者、ゲルダ、グレーテ」
職人たちがざわめいた。グレーテは隣の仲間の肩を抱き、顎を上げる。
ハンスが旧家の控えへ、自分の控えを重ねた。
「納品日は同じ。品数も八着。こちらには作業者ゲルダ、グレーテ。作業十二日、総針目二千四百とある」
私は外套の銀飾りを思い出した。二千三百九十九までは褒められず、最後の一針が曲がった時だけ名前を呼ばれた仕事だ。
「これは誰の針目ですか」
ベンノ様の口元が歪む。
「家の針子に名など要らん。完成品は家のものだ」
「ありがとうございます。では、直しの責任だけ私どもの名なのは?」
「失敗した者の責任を記しただけだ!」
はい、満点。ご自分で全部お読みになった。
私は第一枚目を返した。ベンノ様は乱暴に署名する。私が見たのは署名欄だけだった。
領民代表が受領票へ印を押すと、第一便の反物は旧家の荷車ではなく、その人の荷車へ積み替えられた。
「待て。それは我が家の倉へ運ぶ品だ」
「いいえ。注文書どおり、必要な方へ直接お渡しします。一枚、完了です」
* * *
二枚目を渡すと、ヒルデ様は慈母の微笑みを貼り直した。端が浮いておりますよ、と教えるほど私は親切ではない。
「冬用寝具。作業者六名。作業期間、四十二夜」
グレーテ。私。向かいに立つ老いた裁ち手。
三人分を読んだところで、グレーテが私の肩に掛かっていた採寸紐をするりと抜き、背へ隠した。何をするのかしら。返してほしい。あれは使いやすいのに。
「食費、住居費を給金から控除。支払額——」
ヒルデ様の声が止まった。
「最後まで、どうぞ」
「ゼロ」
四十二夜。六人。寝具十二組。支払額は、きれいにゼロです。
「住まわせてあげた礼でしょう。食事も与えました」
「寝床は作業台の下でした」
元使用人が一人。
「薪は釜用だけ。私らの部屋には一本も」
もう一人。
「食事は三人で黒パン一枚でした」
グレーテが仲間の肩を抱き直す。
私は注文書を受け取り、尋ねた。
「これは誰の仕事でしたか」
「私たちの仕事です」
六人の声が重なった。
ヒルデ様の署名の横へ、ベンノ様も名を書かされた。二枚目。ハンスの控えとずれはない。第二便が領民代表へ渡ると、今まで黙っていた彼は帽子を胸へ押しつけ、私へ深く頭を下げた。
私はまた内鍵へ触れた。
今度も、持ち上げずに指を離した。
「残るは一枚でございます」
* * *
三枚目は、他の二枚より重かった。
紙一枚の重さなど同じだと言う人は、未払いの名前を四十三人分載せてみるといい。帳場が少し傾く。
「お読みになるのは、ベンノ様です」
「もう十分だ。冬布を渡せ」
「あと一便ございます。一枚、二枚、三枚。三まで数えるのは、幼い頃にベンノ様から教わりました。ぜひ教育の成果をご覧くださいませ」
リアムが咳払いで笑いを隠した。隠せていない。グレーテは最初から隠す気がない。
ベンノ様は紙を奪った。
「当主用礼装外套。黒のビロード、黒貂の襟。名義、ベンノ。夫人用外套、真珠色の厚絹、白狐の縁飾り。名義、ヒルデ」
黒貂。白狐。厚絹。銀留め。刺繍入りの手袋。室内靴にまで毛皮。
冬とは実に恐ろしい。足の甲が冷えるだけで、使用人三人分の食費が飛んでいく。
ベンノ様が読み進めるたび、夫婦の冬衣装が帳場の上に積み上がっていった。赤葡萄色の晩餐服、深緑の乗馬外套、青灰色の朝用上着。朝と夜で外套を替えなければ、旧家の威厳は凍死するらしい。
次の欄で、ベンノ様の声が引っかかった。
「製作従事者への冬衣装配給。四十三名」
「お名前もございますね」
「読む必要はない」
「全員、ここにおります。自分の名が消えていないか、確かめる権利がございます」
ハンスは自分の控えを開いた。職人たちは動かない。
ベンノ様は四十三人の名を読んだ。
呼ばれるたび、一人が「おります」と返す。
裁ち手。
「おります」
染め手。
「おります」
釦職人。
「おります」
針子。
「おります」
声は工房の壁にぶつかり、暖炉の奥まで届いた。私は数えた。一人、二人、三人。十人。二十人。三十人。
四十二人。
最後に、私。
「配給品、厚織りの冬外套。使用予定布、四十三人分」
ベンノ様の指が紙をめくろうとした。三枚目の裏は白い。
「続きがございます」
「ない」
「ございます。完成数を」
「四十二着」
私の中で数字が、ぴたりと整った。
「四十三人分の冬着がありました。最後に、私の一着です。——その一着だけが、どこにもありません」
「布が不足したのよ」
ヒルデ様が割って入った。
「だから完成しなかった者の欄に、あなたの名があるのでしょう。仕事が遅かったのはあなたです。自分の外套すら仕立てられなかった」
成功品の名義はベンノ様とヒルデ様。
不足した一着だけ、ゲルダ。
一枚目の小さな違和感が、三枚目で美しく一列に並んだ。手柄は上へ、失敗は下へ。なんと几帳面な泥棒だろう。針箱に入れたら、針まで盗みそう。
「交渉は終わりです」
ヒルデ様が声を張った。相手が私に戻った途端、よく響く。
「冬布を渡さないなら、村の者が凍えるのですよ! あなたは自分の恨みのために領民を見殺しにするのですか」
工房の窓を、幌付きの荷車が横切った。
灰色の反物。焦茶の毛織。子ども用に裁った小さな布束。
御者は手綱を握ったまま、ハンスへ帽子を振った。ハンスが小さくうなずく。
領民代表が窓辺へ駆け寄った。
「あれは、北の村へ?」
「こちらのお二人との交渉に含まれない便です」
リアムが値札を読むように答えた。
「最低限の冬布は、旧家を通さず各村へ届きます」
「いつの間に」
「反物は朝から減っておりましたよ」
私は笑った。
「村の方を人質にするには、在庫の確認が足りませんでしたね」
ああ、すっきりした! 胸の奥に詰まっていた黒い糸が、一本するりと抜けた気分である。
ヒルデ様の慈母の顔から、微笑みだけが落ちた。
「その外套も」
彼女は私を指した。
「本人が好んだ質素です。昔からゲルダは、華美なものを嫌って——」
私は襟元の留め具へ手を掛けた。
リアムの手がわずかに動き、止まる。
古い外套は、私の肩の形に曲がっていた。灰色だったはずの布は、袖が焦茶、背が青黒く、裾だけ薄緑。穴が開くたび、裁ち落としを拾って塞いだ。右肘に七枚。左脇に四枚。背中に九枚。
裏地を外へ返す。
色あせた配給印が、首の下に残っていた。
四十三番。
工房から音が消えた。
「これは、配給された外套ではございません」
私は帳場へ広げた。
「倉の廃布をつないで、夜に自分で縫ったものです。配給印の押された裏地だけ、捨て場から拾いました。不足した一着が誰のものだったか、これでご確認いただけますね」
グレーテが裏地へ指を当てた。
「この印は私が押しました。四十三着分、確かに布を裁った。親方の分を最後に置いて、その翌朝には消えていた」
「夫人用の室内靴へ回したのでは」
老いた裁ち手が言った。
「白狐の裏に、同じ織り傷があった」
「証拠もなく!」
ヒルデ様が怒鳴る。
ハンスは二枚の控えを重ねた。
「布の入荷量、裁断量、完成数、織り傷の位置。ずれはない」
彼はそこで初めて眼鏡を外した。
「証拠は、あなた方が今読み上げた」
ベンノ様の顔から色が引いた。礼装外套の裂け目ばかりが元気いっぱいに開いている。
「署名などせん」
「では、第三便は当主一族へ渡りません」
「旧家との取引を失うぞ」
リアムが帳場の端へ指を置いた。
「あなた方は今朝、組合に救援を申し込んだ側です」
短い。柔らかさもない。
「値札の付かない脅しは、商品になりません」
リアムの本日一番。品よく刺して、抜かない。婚約者ながら惚れ直す。あとで褒めよう。たぶん本人は照れるので二回褒めよう。
ベンノ様は監査役を見た。監査役は印章台を見ている。ヒルデ様を見る。彼女は窓の外を見ている。もう盾にできる村人はいない。
「家名を守るためだ」
ベンノ様はそう言って、署名した。
ざり、とペン先が紙を削った。
三枚目。
監査役が受領印を押す。
「署名により、冬衣装用布の横領、作業名義の改変、給金不払い、および職人への配給品転用を当主本人が確認したものとします」
「何を——」
「ベンノおよびヒルデ、ならびに当主一族を商人組合の取引圏から除外します」
監査役はベンノ様の組合証を受け取り、中央へ大きく失効印を押した。
乾いた音だった。
工房の扉を守っていた職人が一歩前へ出る。
「北窓仕立工房への立入りをお断りします」
もう一人が、住居側の扉へ立つ。
「職人住居にも」
グレーテが腕を組んだ。
「食卓は、なおさら」
「この無礼者が!」
ベンノ様の声が戻った。職人へ向いた時だけ。だが監査役が三枚の注文書を持ち上げると、その声は裂けた襟の中へ引っ込んだ。
「旧家の管理権は、本日より中立の管財人へ移されます。差押え資産から未払い給金を支払い、冬布代を精算する。当主夫妻の衣装や食卓へ回る金はありません。領民への供給は、組合が直接続けます」
「ゲルダ。あなたからも言いなさい」
ヒルデ様が私を睨んだ。
「家族でしょう」
私は古い外套の上へ、証拠札を置いた。
「交渉は終わりました、ヒルデ様」
そして、ベンノ様の署名をもう一度確かめる。
「お引き取りください、ベンノさん」
工房の扉が開いた。
夫妻は、裂けた礼装外套と真珠色の裾を引きずって外へ出た。扉が閉まり、内側から閂が落ちる。
古い外套だけが帳場に残った。
ハンスがそれを証拠箱へ収めた。四十三番の印が見えなくなっても、私は腕で体を隠さなかった。
窓の外では三便目が動き出していた。旧家の倉ではない。待っている人のところへ、まっすぐ行く。
「ゲルダ」
リアムが私を呼んだ。
伸ばしかけた手は、まだ私に触れていない。
「君の工房へ帰ろう」
「ここにおりますけれど」
「帳場は工房の入口だよ」
彼が奥の扉を見る。
「帰る場所は、その先にある」
グレーテが、隠していた採寸紐を取り出した。
「やっぱりぴったりですね」
「何がです?」
「こちらです」
職人たちが左右へ分かれた。
暖炉の前に、一着の外套が立っていた。
人が着ているのではない。木型に掛けられ、火を受けて、誰かを待っていた。
濃紺の厚織り。雪を弾く蜜蝋仕上げ。襟は首筋を包む高さで、袖口は針を持つ邪魔にならない。大きな内ポケットが二つ。帳面用と、焼き菓子用。用途が明らかに偏っている。私のことをよく分かっている人間の犯行だ。
裾には、細い色糸が並んでいた。
青。
深緑。
蜜色。
葡萄色。
ほかにも三十八色。どれも一針だけで、形を作らない。飾りとしては不揃いで、だからこそ、誰の針目も消えていなかった。
グレーテが木型から外套を外す。
「一人一針です。縫い目を見れば、誰がどこを縫ったか分かります」
「四十二人分……」
「四十三人分ですよ」
彼女は針を差し出した。
濃紺の糸が通してある。
「親方の一針が、まだです」
私は針を受け取った。
指貫をはめる。布へ針を入れ、裏へ抜き、もう一度表へ戻す。いつもなら一息の仕事なのに、糸を引く指がうまく動かなかった。
結び目を作る。
これで四十三針。
誰のものも奪わず、誰の名も失敗だけに残さない外套になった。
「腕を」
グレーテが言う。
私は右腕を通した。
内布がするりと肌を滑る。左腕。肩。背。どこにも継ぎ目が当たらない。襟が首筋へ沿い、冷えていた場所を隙間なく包んだ。
リアムが一歩近づく。
けれど襟を直したのは、グレーテだった。
「うちの親方を寒いまま帰せません」
職人たちが口々に言う。
「右袖は私です」
「内ポケットは俺だ」
「菓子を入れても底が抜けないよう、二重にしました」
「そこまで食べません!」
反論したら、全員が私を見た。
ええ。食べます。冬の焼き菓子は別腹という名の保管庫へ入ります。なぜ外套にまで私の食い意地が縫い込まれているのか。恥ずかしい。でも、このポケット、丸パンも入る大きさだ。
ハンスが工房住居の扉の前に立った。
「ゲルダ」
彼の掌に、一本の鍵があった。
見慣れた内鍵。
毎朝、触れては離していた鍵。
「これは客用ではない。共同経営者が帳場を閉め、自分の住居へ帰るための鍵だ」
「わたくしが持てば、皆様は困りませんか」
「困るな」
ハンスは日付を確認するように、きっぱり言った。
「これからは君を待たずに戸締まりできん。夕食が冷める」
「そこですか?」
「非常に重大だ。温め直したスープは芋が崩れる」
実務家は、芋の形まで省かない。
それでも私は手を出せなかった。
古い外套は証拠箱にある。もう着られない。扉の外に出れば、私を包むのは皆の針目だ。
借りた外套なら返せる。
客の椅子なら立てる。
守られているだけなら、いつか礼を払い終えて出ていける。
ハンスは鍵を引っ込めなかった。
リアムも代わりに受け取らなかった。
グレーテは待っている。
工房の全員が、私の手が動くのを待っていた。
私は掌を上へ向けた。
鍵が置かれる。
硬い。冷たい。重い。
指を閉じると、歯の尖った部分が皮膚へ食い込んだ。
今度は、離さなかった。
「使い方は分かるね」
「毎日、見ておりましたから」
「なら、自分で開けなさい」
私は鍵穴へ差し込み、回した。
かちり。
扉が内側へ開く。
暖炉の火が見えた。大鍋から白い湯気が上がっている。茸と芋と鶏肉のスープ。卓上には丸パン。蜂蜜。焼き林檎。私の分だけ小皿がない、などということもない。
椅子が一脚、暖炉の正面に置かれていた。
厚い座布団つき。背に濃紺の布。肘掛けの片側には、針箱を置くための小さな台まである。
「リアム」
「うん」
「これは、どなたのお客様用ですか」
「客には良すぎるね」
彼は椅子を引いた。
「共同経営者用だ」
私は工房のみんなを見た。
「ここは誰の席ですか」
「ゲルダの席です」
四十二人と、リアムと、ハンス。
工房全員の声が重なった。
けれど、まだ誰も私を座らせない。
選ぶのは私だから。
私は外套の裾を整え、椅子の前へ立った。鍵を卓上へ置きかけ、やめる。内ポケットへ入れた。帳面用ではなく、いちばん深い方へ。
それから、自分で椅子を引き直した。
腰を下ろす。
背を預ける。
火が、靴先から膝へ、膝から胸へ上がってくる。誰かの許可を待たず、針箱を肘掛けの台へ置いた。丸パンを一つ取り、私の皿の横へ置く。
私の仕事。
私の食事。
私の鍵。
私の席。
「おかえり、ゲルダ」
グレーテが言った。
「おかえり」
リアムが続く。
ハンスがうなずき、職人たちも声を揃えた。
「おかえり、親方」
新しい外套の四十三の針目が、暖炉の光を拾った。
私は内ポケットの鍵を握る。
「ただいま」
椅子が一脚。スープが一皿。内鍵が一本。
困りました。
帰る理由が、三つもあります。




