1-9
閉店後の店内は、昼間のざわめきが嘘のように引いている。
シャッターを下ろす音が、最後の区切りのように店の奥へ響き、空気がゆっくりと落ち着いていく。
ダイニングテーブルの上には、広げられた模造紙や厚紙。
色とりどりのマジックペンが、使われるのを待つように無造作に転がっている。
結衣は湯のみを配りながら、ふと、その光景を見渡した。
(……変な感じ)
数週間前まで、ここはただの“家の一角”だった。帳簿を広げて、疲れた顔で兄と向き合う場所。それが今は、作戦会議の場になっている。
「……なんか、文化祭みたいだね」
思わず漏れた独り言に、向かい側で腕を組んでいた魔王が、鼻で小さく息を鳴らした。
「祭り、か。……戦の準備に、儀式はつきものだ」
「いや、そんな大げさな……」
「大げさではない。相手は“無自覚な誤解”だ。最も厄介な敵だぞ」
そう言って、魔王は結衣のスマホを手に取る。
画面に映し出される、あの★1レビュー。
結衣の胸が、きゅっと小さく縮む。――何度見ても、慣れない。
(また、これか……)
「原因は明白だ」
魔王は淡々と告げた。
「この店の価値が、外から見えん」
「……見えない?」
「霧に包まれた城だな。中に入れば分かるが、門の外では何も伝わらん」
城、という言葉に、結衣は一瞬だけ現実感が揺らぐ。
けれど、魔王の視線の先にあるのは、見慣れた米袋と計量台で。
「じゃあ……霧を晴らす、ってこと?」
「理解が早い。まずは“何の店か”を、ひと目で示す」
その瞬間。
「それなら!」
豊が勢いよく身を乗り出した。
「俺、やるよ。看板」
「え?」
「昔、親父に頼まれて、値札とか書いてたし……たぶん、いける」
“たぶん”に、結衣は小さく眉を下げたが、止める前に、豊はもうペンを握っていた。
マジックが走る音。
紙に力が込められる感触。
数分後。
「……」
結衣は、言葉を探して口を開きかけ――閉じた。
丸い。
白い。
生命体のようで、そうでない何か。
……雪だるまを三日間放置したような形状だった。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「これ……なに?」
「米」
即答だった。
魔王が、珍しく真剣な顔で首を傾げる。
「……呪詛ではないのか?」
「ちがう!!」
空気が、ふっと緩む。
だが、落ち込む豊の横で、魔王の視線が、別の場所に留まった。
「……待て」
絵の横に添えられた、二文字。
『お米』
結衣は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「……すごい」
「え?」
「お兄ちゃん、この字……なんか上手く言えないんだけど、あったかい感じがしてすごくいい!」
魔王も、ゆっくりと頷く。
「飾り気はない。だが、誠実だ」
「誠実?」
「嘘がない字だ。この“不格好な正直さ”は、武器になる」
その言葉に、豊は耳まで赤くした。
そこから先は、夢中だった。
「豊、次はこれだ」
「ちょ、待て待て!」
「『一粒一粒、命懸けで精米中』」
「怖いってば!」
「では、『お待たせしたら、すみません』を添えよ」
「それはいい!」
豊は少し考え込んでから、もう一度ペンを走らせた。
さっきよりも、力を抜くように。
文字が、ほんの少し丸くなる。
『今日のご飯、迷ったら相談してください。
あなた専用のブレンド、作ります。』
「……いい」
結衣が、思わず声を漏らす。
「これ、すごくいい。お米屋さんっぽい」
「だろ?」
豊は照れたように頭をかいた。
だが、魔王は腕を組んだまま、むむ、と唸った。
「待て。“相談してください”では弱い」
「え?」
「城に入るのに、ためらう者もいる。ここは――」
「『勇気を持って踏み込め』?」
「そうだ」
「違う気がする!」
結衣は即座に被せた。
「それ、どこかの城に攻め入る感じになってる!」
「何故だ。誠実だろう」
「誠実すぎるの! 初めて来る人のこと考えないと!」
しばし睨み合い。
やがて、結衣は指を一本立てた。
「じゃあ、こうしよ。
“お気軽に”を、最初につける」
「……お気軽に?」
「うん。“迷ったら”より先に。お気軽にってつけたほうが、なんだか入りやすそうじゃない?」
魔王は一拍置き、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。民の心理、というやつか」
「でしょ?」
ペンが、また走る。
「……よし、これで完璧だね」
結衣が満足げに頷いた、その時だった。
看板の右下の、ぽっかりと空いた余白に、豊が「あ」と声を上げた。
「……ここ、寂しくないか?」
「え? いや、十分だと思うけど――」
止める間もなかった。豊は、先ほどの『謎の白い生命体』を、看板の隅っこに小さく描き足してしまったのだ。
しかも今度は、その横に『……美味しいよ』という小さな吹き出しまで添えて。
「「…………」」
結衣と魔王の間に、再び沈黙が流れる。力強く温かい豊の文字。その横に鎮座する、正体不明の白い岩のような何か。あまりのアンバランスさに、結衣は噴き出しそうになるのを必死でこらえた。
「……豊。まさか、確信犯か?」
「えっ、いや、お米の精霊的な……ほら、可愛いかなって」
「……精霊というよりは、米の怨念に見えるが」
魔王は呆れたように鼻を鳴らした。だが、その瞳にはどこか面白がっているような光がある。
「……まあ、いい。完璧すぎる城門は、時に民を萎縮させる。この『得体の知れない愛嬌』もまた、隙という名の誘客魔術になるだろう」
「……いいの!? これ、採用でいいのね!?」
結衣のツッコミが響く中、こうして『稲宮米店』の新しい看板は完成した。
翌朝。
新しい看板が、店先に掲げられていた。
風に揺れるのぼり。
朝の光を受けて浮かび上がる、豊の文字。
「……止まってる」
結衣の声は、思ったより小さかった。
今まで通り過ぎていた人が、立ち止まっている。
文字を読み、少しだけ口元を緩めて。
「精米に命懸け、ですって」
「ふふ……ちょっと気になるわね」
結衣は、胸の奥が温かく満たされるのを感じながら、店頭に立った。
「よかったら……少しだけ、見ていきませんか?」
頷く人影。
高い位置から、それを見下ろしていた魔王が、小さく息をつく。
「……外壁の修復は、ひとまず完了だな」
「ねぇ――」
すぐにお客さんが増えたわけではないけれど、確実に足を止めてくれる人が増えて嬉しくなった結衣は、魔王に声をかけようとして言葉に詰まった。
(……あれ?)
名前が、浮かばない。
(そういえば……)
(魔王の名前、知らない)
胸の奥に、小さな空白が生まれる。
でも、それは不安じゃない。
ただ――
ちゃんと呼びたい、という気持ち。
「……どうした?」
「ううん、なんでもない」
結衣は、笑って首を振った。
(……でも)
(いつか、ちゃんと聞こう)
その“いつか”が、
もうすぐそこまで来ていることを、結衣はまだ知らなかった。




