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きっかけは、配達の合間の、ほんの出来心のような好奇心だった。
店頭精米機の前で次の配達分の精米をするべく、結衣が設定パネルの数値を一つひとつ確認している、そのわずかな時間。背後のカウンターで、魔王は結衣から借りたスマートフォンを、まるで長年使い慣れてきた道具のように指先で操っていた。
画面を覗き込む赤い瞳は、好奇心にきらきらと輝いている。
「……結衣。“くちこみ”……これは何だ?」
不意に投げかけられた問いに、結衣は精米機から顔だけ振り返った。
「え? ああ、Googleマップとかのレビューだよ。お店を使った人が、感想を書き込むやつ。……まあ、見てもいいけど、あんまり気分よくなるものじゃないかもね」
そう言いながら、結衣の胸の奥には、うっすらとした不安が広がっていた。もともと、町の小さな米屋に口コミをしてくれる人なんて、そうそういないから、もともとの評価件数も少なかったはずだ。
正直なところ――「魔王にネットの機微なんて分からないだろう」と、どこかで高を括っていたのだ。
しかし、その油断は一瞬で打ち砕かれる。
「……★1。『愛想が悪い。話しかけても反応が薄い。いつも忙しそうで怖い』」
一瞬、結衣の心臓が小さく軋むのを感じる。誰だって、悪評を聞くのは心がざわめいて落ち着かない。
その瞬間だった。
ぴたり、と。
先ほどまで機嫌よく左右に揺れていた尻尾が、完全に止まる。
「……は?」
結衣の喉から、思わず間の抜けた声がこぼれた。
店内の空気が、目に見えない何かに押し潰されるように張り詰める。
背中をなぞる、冷たい圧、本物の威圧感。
「理不尽だな」
魔王の声は、静かだった。
だがその静けさこそが、怒りの深さを物語っていた。
「忙しいのは、米を粗末に扱わぬためだ。一袋ずつ状態を確かめ、手を抜かずに仕事をしている証だろう」
指先が、スマホの画面を強く押さえる。
「話しかけづらい? ならば、待て。己の都合だけで踏み込み、応じられなければ不満を撒き散らす――それは客の振る舞いではない」
結衣は、思わず息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと……落ち着いて。ネットって、そういう場所だから。
色んな人がいるし、全部真に受けない方が――」
「気にするべきだ」
被せるように、魔王が言い切った。
真紅の瞳が、結衣をまっすぐに射抜く。
そこには、これまで見たことのないほどの真剣さが宿っていた。
「問おう、結衣。この店は、誰かを欺いているか?」
「……してない」
結衣は、迷いなく答えた。
「米を偽っているか? 手を抜き、不当に金を取っているか?」
「……そんなこと、一度もない」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かる。
魔王はその答えを聞くと、ゆっくりと首を横に振った。
「ならばだ。それを知らずに投げつけられる言葉は、評価ではない。ただの“害”だ。……城を蝕む“虫”と同じだ」
スマホから視線を外し、店内をぐるりと見渡す。
米袋が整然と並ぶ棚。磨かれた床。長年使い込まれた計量台。年季の入った店ではあるけれど、せっかく来てもらったお客様が不快に思わないように、清潔さだけは心掛けているのが伝わってくる。
「ここは、お前たちが守ってきた場所だ。
正しく積み重ねてきた営みが、軽々しく踏みにじられるのを――私は見過ごせん」
結衣は、言葉を失った。
魔王は結衣を慰めようとしているわけではない。
同情でも、気遣いでもない。
この「稲宮米店」という場所を、結衣と同じ重さで、同じ目線で、守るべきものとして怒っている。
「……私より、怒ってるね……なんで、そんなに」
そう言うと、魔王は鼻で小さく息を鳴らした。
「当然だ。大切に手入れされてきた城が、理由もなく傷つけられて平気な者などおらん」
城、という言葉に一瞬だけ現実感が揺らぐ。けれど、魔王の視線の先にあるのは、見慣れた米袋と計量台で。
――ああ、この人には、ここがちゃんと“城”に見えているんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
魔王の一言が、胸の奥に、じんわりと沁み込んでくる。父が亡くなってから、ただガムシャラにやってきた。いつものお得意先の情報は全て父と兄の頭の中に入っていて、誰がどの米をどれくらい頼んでいるのか、住所はどこになるのか、1件1件兄に聞いてはノートにまとめて、少しでも次に繋げられるように自分なりに努力してきた数ヶ月だった。
……だから、これまで悪い評価は全部「自分の責任」だと飲み込んできた。上手くできないのは、自分の努力が足りないからなのだと。
誰にも愚痴れず、誰にも共有できず、一人で抱えるしかなかった。
でも、今は。
「……ありがと。
この店のこと、私と同じ目線で考えてくれてるの、分かる」
魔王は一瞬、視線を逸らした。
「……フン。分かっているなら、それでいい」
照れ隠しのように、尻尾が小さく揺れる。
再び画面へと目を落とし、魔王は低く呟いた。
「だが、民の声は無視できん。
★1がつくということは、そこに“誤解を生む隙”があるということだ」
「隙……?」
「そうだ。忙しい理由、米へのこだわり、そして――今、話しかけてよい時かどうか。
それが分からぬから、不満になる。情報が、足りていない」
結衣は、はっとした。
「……じゃあ、どうすればいい?」
恐る恐る聞くと、魔王は口角をわずかに上げた。
「戦略的改善、というやつだな」
その言葉に、結衣は小さく笑った。魔王が使う言葉はいつも小難しい表現をするけれど、なぜか自然と前向きに考えてみようと思えるのだから不思議なものだ。
「……一緒に、考えてくれる?」
「当たり前だ」
魔王は、愚問だと言わんばかりに鼻をならしながら迷いなく答えた。
「この城を、より良くするためなら――私は、お前と並んで考える」
その言葉に、結衣の胸が、静かに温かく満たされていくのを感じる。
さっきまで感じていた胸のざわめきはなくなっていて、気づけばほんの少し、店の中が広く感じられた。




