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昼下がりの米屋は、穏やかだった。精米するために玄米を米屋まで運んできた豊は、バンの荷台から30キロもある米袋を店先に降ろしていた。まだ寒い日が続いているが、この作業をするだけで額にうっすらと汗をかく。全て降ろし終わったところで、豊は一息つく。シャッター半分開きの入口から、街のざわめきがほどよく流れ込んでいる。
――結衣は、いない。
今日はバイトの日だ。
店番は、兄の豊ひとり。
「……」
豊はレジの奥で伝票を整理しながら、どこか落ち着かなかった。
結衣が帳簿をつけるようになってから、この店の「ズレ」が少しずつ見えるようになってきた。
見えるようになってしまったからこそ、怖い。
――そして。
「こんにちはぁ、豊くん」
その声が聞こえた瞬間、豊の肩がわずかに強張った。
商店街でも顔なじみの、少し遠い親戚筋。
いつからか、「いつものね」と言えば米がもらえると学習してしまった人。
「悪いわねぇ、今日も。ほら、いつもの」
当然のように差し出される空の手。
「あ、えっと……」
豊は言葉に詰まりながら、視線を泳がせた。
断らなきゃ、と思う。結衣にも強く釘を刺されていたし、お店の存続のためには無駄なお金は1円だってない。けれど、いざ断ろうと口に出して言うことが豊にはできなかった。
・・・波風を立てたくない。
ここで揉めたら、それはそれで結衣が気を揉むんじゃないか。
結局、棚の方へ手が伸びる。
その瞬間。
「――豊」
足元で声がした。
「っ!?」
思わず肩を跳ねさせる。
戸棚の中から、真紅の瞳がこちらを見つめていた。米袋の陰に隠れていた小さな魔王だった。
「このままで、本当にいいのか?」
ささやき声なのに、妙に重い。
「……え?」
「お前が今渡そうとしているそれは、米ではない。
妹とお前の時間と体力と未来だ」
豊の指が、米袋の縁で止まった。
「おそらく、お前も結衣も数字にはめっぽう弱いのだろう。しかし、お前は見ていただろう?帳簿に向かう結衣の顔を。」
「……」
「問おう、豊」
魔王の声が、わずかに鋭くなる。
「この城が、シロアリに食い尽くされるのを、黙って見ているつもりか?」
豊は、ぐっと歯を食いしばった。
「……嫌だ」
「なんだ?」
「そんなの、嫌に決まってる!」
取引先の農家さんが、どれだけ丹精込めて作った米かは、豊にはよく分かっている。高校を卒業してからはずっと米屋の仕事を手伝ってきた。結衣とは違い、体力しか取り柄のなかった自分にはがむしゃらに、ただ誠実に人と付き合っていくしか能がなかった。父親と同じように人をすぐに信じてしまう性格だし、人と争いをするのも嫌だった。それでも、父親のことは尊敬していたし、一緒に米について語る時はとにかく楽しくて。けれど、その父親はもういない。大学を辞めてまで家の手伝いをすると言った結衣。不甲斐ない兄で申し訳ない、そう言えば、結衣はなんでもないことのように言ったのだ。
“お兄ちゃんと一緒だったら、楽しそうじゃん”
「結衣は……俺の、たった一人の家族なんだ!」
その言葉を聞いて、魔王はわずかに口角を上げた。
「ならば、プライドを捨てろ」
「……プライド?」
「世間体、体裁、大人の見栄だ」
赤い瞳が、にやりと光る。
「それらを捨てられるなら、私が策を授ける。
この国で最も強力な呪文――『世間体』を、逆に利用するのだ」
豊に迷いはなかった。だって、プライドなんて元からほとんどないに等しいし、結衣と店を守れるなら、豊にできることはなんだってする。
「……結衣と、この店を守れるなら」
深く、息を吸う。
「そんなもの、ちっとも平気だ」
魔王は満足そうに頷いた。
「よろしい。では――演じろ」
店先。
人通りが増え始めた、ちょうどその時だった。
豊は目を閉じた。
——守る。
それだけだ。
「申し訳ありませんんんん!!」
突然、豊が叫んだ。
そして次の瞬間――
地面に膝をつき、額が石畳にぶつかるほどの、全力の土下座。
「えっ!?」
周囲がざわめく。
「これ以上は無理なんです!!
店が潰れて、妹が路頭に迷うんです!!
どうか! どうか、もう勘弁してください!!」
響き渡る声。
足を止める通行人。
スマホを向ける人。
一瞬で、空気がひっくり返った。
「ち、ちょっと豊くん!?」
タダ米をもらいに来た相手の顔が、みるみる赤くなる。
「い、いいから! 今日はもう帰るから! 立ってよ!」
「いえ!!」
豊は顔を上げない。
「せめて!今回は半分の金額でもいいです!
ですが次回からは!次回からは正規の価格で!
どうか、どうかお願いします!!」
周囲の視線が、針のように相手に突き刺さる。
「……」
沈黙のあと。
「……わ、わかったわよ!!」
相手は叫ぶように言った。
「買うわよ!
ちゃんと買えばいいんでしょ!!」
代金を置き、逃げるように立ち去っていく背中。
残されたのは――
拍手にも似た、安堵の空気だった。
「豊くん……頑張ってるねぇ」
「妹さん、大変なんだって?」
「無理しないでね」
同情と共感。
そして、確かに支払われた金。
魔王が満足そうに頷いた。
豊が、ゆっくりと立ち上がる。
「……膝、痛ぇ」
「見事だ、豊。
貴様の妹への想いは、なかなかに重い」
「当たり前だ!たった一人の妹だぞ?」
その日の夕方。
バイトから戻った結衣は、なぜか商店街の人々に次々と声をかけられた。
「結衣ちゃん、お兄ちゃんを支えてあげてね」
「本当に、いいお兄さんだよ」
「大変だろうけど、応援してるから」
「……?」
首を傾げる結衣の足元で、魔王が小さく胸を張る。
「兵站の確保において、士気――つまりメンツの活用は基本だ」
魔王は満足げに鼻を鳴らし、短い手で自分の胸を叩いた。
「フン、日本人の『同調圧力』という名の魔術……。想定以上の威力だったな」
「何・・・?私がいない間に何か合ったの?」
結衣が困惑した表情を見せるが、豊はにっこりと笑って言う。
「漢と漢の秘密だ!」
魔王が豊の声に頷く。
結衣はまだ知らない。
今日、兄と魔王が、どんな戦を繰り広げたのかを。




