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1-7

 昼下がりの米屋は、穏やかだった。精米するために玄米を米屋まで運んできた豊は、バンの荷台から30キロもある米袋を店先に降ろしていた。まだ寒い日が続いているが、この作業をするだけで額にうっすらと汗をかく。全て降ろし終わったところで、豊は一息つく。シャッター半分開きの入口から、街のざわめきがほどよく流れ込んでいる。


 ――結衣は、いない。

 今日はバイトの日だ。

 店番は、兄の豊ひとり。


「……」


 豊はレジの奥で伝票を整理しながら、どこか落ち着かなかった。

 結衣が帳簿をつけるようになってから、この店の「ズレ」が少しずつ見えるようになってきた。

 見えるようになってしまったからこそ、怖い。


 ――そして。


「こんにちはぁ、豊くん」


 その声が聞こえた瞬間、豊の肩がわずかに強張った。

 商店街でも顔なじみの、少し遠い親戚筋。

 いつからか、「いつものね」と言えば米がもらえると学習してしまった人。


「悪いわねぇ、今日も。ほら、いつもの」


 当然のように差し出される空の手。


「あ、えっと……」


 豊は言葉に詰まりながら、視線を泳がせた。

 断らなきゃ、と思う。結衣にも強く釘を刺されていたし、お店の存続のためには無駄なお金は1円だってない。けれど、いざ断ろうと口に出して言うことが豊にはできなかった。


 ・・・波風を立てたくない。

 ここで揉めたら、それはそれで結衣が気を揉むんじゃないか。


 結局、棚の方へ手が伸びる。


 その瞬間。


「――豊」


 足元で声がした。


「っ!?」


 思わず肩を跳ねさせる。

 戸棚の中から、真紅の瞳がこちらを見つめていた。米袋の陰に隠れていた小さな魔王だった。


「このままで、本当にいいのか?」


 ささやき声なのに、妙に重い。


「……え?」


「お前が今渡そうとしているそれは、米ではない。

 妹とお前の時間と体力と未来だ」


 豊の指が、米袋の縁で止まった。


「おそらく、お前も結衣も数字にはめっぽう弱いのだろう。しかし、お前は見ていただろう?帳簿に向かう結衣の顔を。」


「……」


「問おう、豊」


 魔王の声が、わずかに鋭くなる。


「この城が、シロアリに食い尽くされるのを、黙って見ているつもりか?」


 豊は、ぐっと歯を食いしばった。


「……嫌だ」


「なんだ?」


「そんなの、嫌に決まってる!」


 取引先の農家さんが、どれだけ丹精込めて作った米かは、豊にはよく分かっている。高校を卒業してからはずっと米屋の仕事を手伝ってきた。結衣とは違い、体力しか取り柄のなかった自分にはがむしゃらに、ただ誠実に人と付き合っていくしか能がなかった。父親と同じように人をすぐに信じてしまう性格だし、人と争いをするのも嫌だった。それでも、父親のことは尊敬していたし、一緒に米について語る時はとにかく楽しくて。けれど、その父親はもういない。大学を辞めてまで家の手伝いをすると言った結衣。不甲斐ない兄で申し訳ない、そう言えば、結衣はなんでもないことのように言ったのだ。


“お兄ちゃんと一緒だったら、楽しそうじゃん”


「結衣は……俺の、たった一人の家族なんだ!」


 その言葉を聞いて、魔王はわずかに口角を上げた。


「ならば、プライドを捨てろ」


「……プライド?」


「世間体、体裁、大人の見栄だ」


 赤い瞳が、にやりと光る。


「それらを捨てられるなら、私が策を授ける。

 この国で最も強力な呪文――『世間体』を、逆に利用するのだ」


 豊に迷いはなかった。だって、プライドなんて元からほとんどないに等しいし、結衣と店を守れるなら、豊にできることはなんだってする。


「……結衣と、この店を守れるなら」


 深く、息を吸う。


「そんなもの、ちっとも平気だ」


 魔王は満足そうに頷いた。


「よろしい。では――演じろ」


 店先。

 人通りが増え始めた、ちょうどその時だった。


 豊は目を閉じた。


 ——守る。

 それだけだ。


「申し訳ありませんんんん!!」


 突然、豊が叫んだ。

 そして次の瞬間――


 地面に膝をつき、額が石畳にぶつかるほどの、全力の土下座。


「えっ!?」


 周囲がざわめく。


「これ以上は無理なんです!!

 店が潰れて、妹が路頭に迷うんです!!

 どうか! どうか、もう勘弁してください!!」


 響き渡る声。

 足を止める通行人。

 スマホを向ける人。


 一瞬で、空気がひっくり返った。


「ち、ちょっと豊くん!?」


 タダ米をもらいに来た相手の顔が、みるみる赤くなる。


「い、いいから! 今日はもう帰るから! 立ってよ!」


「いえ!!」


 豊は顔を上げない。


「せめて!今回は半分の金額でもいいです!

 ですが次回からは!次回からは正規の価格で!

 どうか、どうかお願いします!!」


 周囲の視線が、針のように相手に突き刺さる。


「……」


 沈黙のあと。


「……わ、わかったわよ!!」


 相手は叫ぶように言った。


「買うわよ!

 ちゃんと買えばいいんでしょ!!」


 代金を置き、逃げるように立ち去っていく背中。


 残されたのは――

 拍手にも似た、安堵の空気だった。


「豊くん……頑張ってるねぇ」

「妹さん、大変なんだって?」

「無理しないでね」


 同情と共感。

 そして、確かに支払われた金。


 魔王が満足そうに頷いた。

 豊が、ゆっくりと立ち上がる。


「……膝、痛ぇ」


「見事だ、豊。

 貴様の妹への想いは、なかなかに重い」


「当たり前だ!たった一人の妹だぞ?」


 その日の夕方。


 バイトから戻った結衣は、なぜか商店街の人々に次々と声をかけられた。


「結衣ちゃん、お兄ちゃんを支えてあげてね」

「本当に、いいお兄さんだよ」

「大変だろうけど、応援してるから」


「……?」


 首を傾げる結衣の足元で、魔王が小さく胸を張る。


「兵站の確保において、士気――つまりメンツの活用は基本だ」


 魔王は満足げに鼻を鳴らし、短い手で自分の胸を叩いた。


「フン、日本人の『同調圧力』という名の魔術……。想定以上の威力だったな」


「何・・・?私がいない間に何か合ったの?」


 結衣が困惑した表情を見せるが、豊はにっこりと笑って言う。


「漢と漢の秘密だ!」


 魔王が豊の声に頷く。


 結衣はまだ知らない。

 今日、兄と魔王が、どんな戦を繰り広げたのかを。

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